著者のD・ベーミングハウス博士は、西ドイツ・アーヘンにある環境造形研究所の幹部で、“歩行者の科学”の分野で、数々の著作を出している。また、アーヘンという街自身が、数ある西ドイツの「歩行者の街」の中でも、成功例のひとつといえる素晴しい環境を、誇っている。
ベルギーとオランダ国境に近い温泉の街アーヘンは、ローマ文化とキリスト教文化とが落とした影を、いまも街のたたずまいに複雑に残す歴史的な都市である。自動車時代を迎えて、狭く、かつ入り組んだ道しかないこの街にも、周囲の地方から自動車は入り込んできた。アーヘンの市民は、この街の味わいの深い環境が損なわれることを恐れた。しかし、他にアクセスの方法のないアーヘンが、自動車を全面的に拒否すれば、かえって街の繁栄は脅かされることになりかねない。
アーヘンは、この難問を、規模の大きな、しかもキメのこまかな歩行者街路網と、空き駐車場への独特な誘導システムを使って解決しようとしたのだ。駐車問題は、まだ完全に成功したとはいえないが、ローマ軍が作った温泉場を中心に、くねくねと展開する歩行者街路網と、そのあちこちに工夫された水のドラマチックな演出とは、人々に、時間と距離とを忘れさせる魅力を持っている。
本書の今回の翻訳に使用した最新版には出ていないが、初版の序文で、著者はこんなことを書いている。「私たちのつくる環境が、いかに人間的なものであるかを強く印象づけるためには、街のデザインに当って、単に視覚的な印象から始めるべきではない。人々が五官への刺激から、その街でどんな行動に出るかという観点から、デザインを考えるべきである」。そして、街の中のそれぞれの一画ごとに、人々の行動を配慮したキメこまかなデザインをつめて行くことが、人々に新鮮な刺激を与えることになると、指摘している。
ところで、この本は、街の総合的な生活環境を向上するために、各地に増えつつある歩行者街路の作られ方が、本当に、市民の五官を満足させるものになっているのか、という著者の疑問から、書かれている。
「(歩行者街路の計画者の間には)計画者と利用者とに共通する目標設定のための基本的な問題は解決されているという思い込みや、事業費の確保などだけが、計画実行の際の残された問題だといった考え方が横行している」と著者は書いている。
そして、こんなことをいっている。市民が歩行者街路を利用する際に、その空間に満足するかどうかは、その空間が、市民の欲求に応えることができるかどうかにかかっている。この欲求としては、たとえば、目的地へさっと行けるとか、買いたいものを買えるとか、いろいろな種類のサービスが受けられることなどがあるが、それ以上に、人々は、そこでくつろいだ時を過すことに大きな関心を持っている。くつろげる状態のとき、人々はあたりの環境に興味を持ち、あちこちを眺めながら、絶えず自分の五官を通して、その環境を吸収している。この行為は、ぶらぶら歩いているときも、コーヒーを飲んだり、人と話をしている間も、絶え間なく行われる。これは、よくデザインされた環境が、人々に適当な刺激を与えているからだ、というのである。
食欲などの基本的な欲求に加えて、人間は、環境からの絶え間ない刺激を求めていて、その刺激は精神的な滋養ともいうべきものだ、と著者はいう。良い歩行者街路というのはどんな刺激を、どれだけ供給できるかにかかっているというわけだ。
本来、視覚に限らず人間の五官というものは、原始的な自然環境の中で、人間が生き残るために外的刺激をとらえるために発達してきた。だから、都市環境も原理的には、自然環境が与えてくれたさまざまな五官への刺激を、量的にも、質的にも、再び都市の中に創造する必要がある、というのが著者のいい分である。
緑や水が、都市の中に組み込まれなければならない理由も、そこにあるといえるだろうし、また、著者は触れていないが、緑や水のほとりに、食欲を満す施設を忘れてはなるまい。なぜなら、緑や水は祖先たちにとって食物の宝庫でもあったからだ。
著者は、西ドイツの歩行者街路のうち300例以上を調査した結果、その多くの例で、計画の初期の段階で、計画者と利用者との間に、構想に対する見解の相違があったという印象を受けたという。そして、計画者のあまりにも貧弱な思想と知識から、それらの多くは似たような計画ばかりで、何の構想も感じられなかったという。
この本は、その過ちをくりかえさずにすむようにと、五官への刺激という観点から、質の高い歩行者街路のデザインに必要なエレメントを、客観的に分析し、それを今後の歩行者街路のデザインに役立つように整理したという。
まず、アーヘン、マンハイム、オルテンブルグといった中小の9都市の歩行者街路を、続いて歩行者の街を演出するさまざまな要素を、西ドイツをはじめとするヨーロッパ各地の実例をひいて紹介している。街灯、路面、ベンチなど29の項目ごとに整理し、それぞれの例には、全景からディテールに至る4枚以上の写真と設計図が添えられている。
これまでの、歩行者街路のデザインに関する本は、工学的な次元で書かれたものが多かった。それに慣れた目には、人間の五官という定量的には割りきれない分野に切り込んでいるこの本は、頼りなげに思えるかもしれない。しかし、人間の環境をとり扱う以上は、この観点を避けては通れないはずである。
質の高い歩行者の街を作るためには、形ではなく考え方が何より大事である。形にとらわれたら、それは形骸化する。しかし、また、考え方だけでは具体化しない。形を通して考え方を深めることも重要であろう。この本は、その確かな手がかりとなるであろう。