久しぶりに伊勢に行った。内宮・宇治橋のすぐきわ、まで続く旧街道沿いの800メートルが、町並み保全条例で『内宮おはらい町』として甦り、その中ほどに『おかげ横丁』と呼ばれる7千平方メートルの新しい界隈が生まれていた。土曜日の昼だった。ことにおかげ横丁では、迷路のように作られた30軒近い商店や飲食店の間の道に、笑顔が溢れ、名物の串焼きの蛤や薩摩揚げを頬ばっている人もいた。
伊勢神宮は、明治維新のあと、皇室の祖先を祭る宮として神格化されてしまったが、それ以前の庶民の参宮の歴史は、神宮の有り難さに加えて、門前町の狼雑な楽しみが、お伊勢参りに庶民を駆り立てていたことを物語っている。
室町時代中期1498年には、「伊勢、参宮者で賑わう」の記録があるし、江戸初期1650年春には、箱根の関所を通過した伊勢参りの民衆、毎日2万5,600人、という報告もある。
この時代、まだヨーロッパでは庶民の旅行は始まっていなかった。日本では、すでに貧しい農民や町民が、お伊勢参りのために、積立貯金のような『伊勢講』を作っていた。
伊勢講は、すでに室町初期の1407年には結成されていた。もし伊勢参りが、単にお伊勢さんへの参拝だけだったら、庶民は講に参加してまで出かけようとしただろうか。
内宮の近く、旧伊勢街道にいまも地名が残る古市は、当時日本で屈指の遊郭街だったし、門前町には、庶民がふだん口に出来ない珍味を出す料亭も並んでいたという。
それが、維新後、次第に全国からの生徒、学生などの集団参拝のまちへと体質が変わり、戦後は、その集団参拝も占領軍の指令で禁止されて、伊勢は次第に賑わいを失ってきた。
この衰退を憂えて、1979年に始まったのが、昔の伊勢の建築様式で町並みを整え直し、賑わいを取り戻そうとする住民の運動だった。運動は10年後に、伊勢市町並み保全条例として実り、内宮おはらい町は保全地区に指定された。
条例による保全整備基準は、建物の外観をはっきりと次のように、伝統の建築様式にすることを決めている。
道路に面する外壁は木造。階高は3階以下。屋根は切り妻もしくは入母屋で、妻(棟と直角の壁面)を道路に向ける。1階の軒を支える雁木は、見えないように板で隠す。2階には、壁の外側を、張り出し壁で囲う。2階の窓には出格子をつける。
おはらい町は、まだすべてがこの様式で統一されているわけではないが、おかげ横丁はさら地に作ったまちなので、統一がとれている。
おかげ横丁のざわめきを眺めながら、この街を演出したまちの人々は、神宮の静かな威厳と、門前町の賑わいとの江戸時代までの微妙な組み合わせを、取り戻そうと考えているのではないかと思った。そしてアメリカ・テキサス州のサンアントニオのまちを思い出した。サンアントニオの都心の川べりには、街の知恵で、公園の静寂と、レストランやバーの一角が醸すざわめきとが、見事に組み合わされ、世界から観光客を惹きつける雰囲気を作り出している。
「人間は何を好んで、何を嫌うか」。それを本音のところで掴むことが、行きたくなる街を育てるポイントの一つになると思う。私たちはこれまで、「年をとったら静かな自然がいいんだ」と思いこみすぎていたのではないか。
私の家の近くに、90を超えた婦人がいた。桜の木々の見事な川沿いの公園と、繁華街とのちょうど中間に、婦人の家はあった。婦人は毎日散歩に出かける。足は必ず繁華街に向かう。お嫁さんが「きょうは桜がきれいだと思いますよ。公園にいらしたら」と勧めても、婦人は街に出かけた。
私は、都市へ出かけるのを楽しみにしています。忙しい時でも一泊して昼と夜の街を体験することにしているからです。特に夜の街(都心)には、置かれている環境や活力が如実に表われていて、時には2時間近くも歩き回ります。そして、もう一度訪れたくなる街は、夜遅くまで人通りがあり、にぎわっています。
その活気のある街には、これまでのヨーロッパやアメリカの街歩きをした経験から、共通したものがあることが分かりました。それは、おいしそうな香りを漂わせているレストラン(食堂)と、つい立ち寄ってみたくなる飲み屋があることです。徒歩や自転車、公共交通(主にバス)で帰れる場所に住んでいる人がたくさんいるということが言えると思います。
一方、日帰りしたくなる街には、その反対の現象があります。そこでは、市民の感性や二一ズに応えているとは思えない開発・整備計画が、都心再生をめざして進められていることが、めずらしくありません。ドイツのミュンヘン市では、都心居住への回帰が始まっているという報告がありますし、東京の都心3区にもその兆候が表われています。しかし、そのことは地方都市でも同じと言えると思うのです。戸建住宅とマイカーといった価値観を選択しない市民がどの都市にもいるはずだからです。でも、そのような市民の二一ズを調査し、計画に反映させるというシステムが確立していないため、経済社会の基本フレームが変わっても、これまでのような定量的手法を用いた調査に基づいているのです。都心が衰退しきってしまう前に、対策を考えなければならない時期にあるのではないでしょうか。
都市(心)は決して観光客のためにあるのではありません。そこに住む人々に愛され、親しまれることこそが大切です。観光を「光を観る」と読むとすると、その光は暮らしであり文化であると言えるのではないでしょうか。私が再訪したくなる街には、その光があります。ヨーロッパのような歴史的街並みがなくても、光を発することはできるはずです。
交通計画のみで都心が蘇るとは思えないのです。都市政策や産業政策、都市計画と交通計画が一体となってこその都心再生ではないでしょうか。本巻には、そのための考え方やアイデアをたくさん盛込むようにしたつもりです。編集委員、著者の熱意が読者に伝わることを願いつつ、刊行できましたことに御礼申し上げます。