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大学沿革史 ― その刊行にはどんな意味があるのか


寺 ア 昌 男
東京大学名誉教授




 「いったいどうして『50年史』とか『100年史』とかを出さねばならないのだろうか」。
 勤務大学が創立記念祭や何十周年式を迎えるときにそう自問した人は少なくないだろう。そのうちどこかで企画が立てられ、歴史畑の教員の人たちが編集員を割り当てられ、数年間資料集めに追いまくられているらしい。そして皆が忘れたころに一巻あるいは数巻の、誰が読むのか分からない沿革史が出る。学部や研究所にワンセット配られて来たようだが、それでおしまい。こういうシーンが普通に見られた。

 だが今は違う。年史の編纂という事業は、決してお祭りやお化粧づくりの活動ではなくなった。あえて言えばそれぞれの大学の死活に連なる活動になってきた。大学が変わったからではない。大学の内部状況と大学に対する外からの要求とが変わって来たからである。
 外からの要求を見ると、大学改革と水準保障という要求がある。当大学固有の資料を保存し、それを基礎に学問的に質の高い沿革史を出すことは、「教育・研究の質保証」を示す不可欠の条件と見られるようになって来た。公益財団法人大学基準協会は、認証評価の説明の際にこのことを強調するようになった。

 他方、行政からの要求を見ると、90年代の初めに自己点検評価が導入され、やがて義務化されてからは、沿革史の編纂刊行は一定の長さの時間軸の上に行われる「自己点検・評価」作業と見られるようになった。これを受けて、50年100年という長さではなく、10年ごとに沿革史を出されている大学もある。短かすぎるようにも見えるが、10年ごとの立派な自己点検作業となっている。

 大学にとってさらに切実なのは、「建学の理念」を明らかにせよ、という要求である。
 文科省への申請書にもそれを書くことが求められるし、受験生や保護者が進学先をえらぶときにも、参照される。その「理念」を明らかにするのは確かに沿革史の大切な使命である。だがこの要求にこたえることが出来るのは、学問的な基礎に立って正確に作られた沿革史だけである。なぜなら答えは多くの人が考えるほど単純なものではないからである。
 先ず建学の理念は言葉だけではない。著名な思想家や宗教家が創設した大学なら、そしてその創立者や宗祖の言葉が確かに残っているなら、少なくとも創設者の期待や考えは分かる。だが、大学の中には、複数の識者が集まってできたもの、創設者が言葉を残すのを潔しとしなかったもの、企業・団体が出資してつくったもの、さらにはそもそも誰が創設したかはっきりしないもの等々があり、実にさまざまな「創設事情」がある。ほとんどの国立大学では全学統一の建学理念など見当たらず、強いて言えば国家の理念が見つかるだけ、というのが普通である。筆者が勤務し『百年史』作成の責任者の一人になった東京大学は、その典型であった。

 このような場合、建学の理念はどのように確認すればいいのか。経験から言えば、発足から今日までその大学が取って来た「選択」の流れを確かめることである。東京大学の例では大学人たちが取った第一の選択は「国家の須要に応ずる」ことであり、第二の選択は「各科を全備する」ことだった。いつでも国家の要求に応じます、そのためにもあらゆる学問の研究教育の場を完備します ―― 100年間のうち前半の戦前期を導いたのは、この二つの理念であった。自信をもってこう言えるのは、沿革を実証的・学問的に確かめたからである。言語の系ではなく歴史における選択の系で沿革を整理したからである。建学の精神が求められる日は今後も続くだろう。沿革史の責任は軽くない。

 最後に残る疑問は、沿革を明らかにするのはいいが、なぜそれを本の形で公にしなければならないのかということである。もっとも、今後の動向としては紙製本のかたちでなくデジタルの形や映像で残そう、という向きも生まれるだろう。形はともかく、多くの人が共通に認識できる方法で沿革を記すことがなぜ大切か。

 これまで述べたことを別の観点からいいかえれば、沿革史の編纂と刊行は各大学が自らのアイデンティティーを確認する作業である。そしてその沿革史を刊行することは、確認されたアイデンティティーを大学の全構成員が共有することに連なる。「われわれの大学は何を目指して作られたか。今日までの歩みにはほかの大学にないどのような特徴があったか」。こうしたことを経営主体、教員はもちろん、職員も学生も、また同窓会メンバーも保護者たちも共通に認識し、今後を考えて行く、その土壌を作ること。それはまさに共通材としての沿革史あってこその作業である。それがあれば、関係者だけでなく一般社会人にも受験者やその親たちにも、さらには大学評価機関にも文科省にも大学の存在意義と成果を示すことができよう。

 あえて経営学的な言い方をすれば、沿革史は大学の計算書、アカウンタビリティー・ブックになる。
 多くの大学が浮沈の境に置かれる日が、いずれやってくる。沿革史を出すことなど、かつては無用の引出物を用意する事業だと思われていた。だがそれは大学の体面にこだわる活動ではなく、今や未来に関わる事業である。このことが認識されるよう祈りたい。

2020年8月30日



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