田中文部科学大臣の大学新設不認可騒動をきっかけに、大学への社会の関心が俄かに高まった。そして、大学設置基準の見直しが行われることになった。
テレビや新聞等のマスコミで、田中大臣が取り上げた大学の数と教育の質、あるいは定員割れや私大の赤字経営などについての解説や議論を見聞きすることが多くなったが、その多くが古い時代の大学のイメージを元にした論評に止まっていて、今日の社会が抱えている大学教育の問題、大学経営の問題の本質を迫るものは少ない。
現実から遊離したピントはずれの議論が、一つの方向を目指して、ここ10年以上にわたって進められてきた大学改革の動きに有害無益の混乱をもたらすことのないように、とくに大学教育関係者は注意深く対処すべきである。以下は私が理解している大学教育の問題の基本構造である。
【大学の数の問題】
大学の数の増加はすでに多くの識者が説明しているように、大学進学率が上がったことに直接の原因がある。30年前に比べて、進学率は25%から50%を越え、少子化の中でも大学生の数は1.6倍になった。短大から4年制大学への改組転換が増えたのも、短大進学が減り、大学志願者が増えたから。大学の増加は需要の増大に対応して供給が増えた結果である。
アメリカの教育学者マーチン・トロウは1970年代、「社会の発展・成熟と共に大学進学が増え、エリート段階(進学率15%以下)、マス段階(15〜50%)ユニバーサル・アクセス(50%以上、大学大衆化)へと進むに伴って、大学進学に対する意識と大学のあり方を劇的に変えていく」と予言した。そして、その予言どおり、アメリカ、北欧諸国は軒並み70%前後に達し、韓国も70%を越えている。日本はその後を追っているのである。
日本で進学率が上昇した裏には、企業等の採用側の変化が直接影響している。高校卒業者の就職が難しくなる一方で、大学卒業者の採用が増えてきた。正規雇用も高卒は大学卒よりもはるかに低い。仕事の現場が高卒よりも能力(学力ではない)の高い大学卒人材をたくさん求めるようになったことを示している。つまり、大学と大学生の増加は社会の人材ニーズの高度化に、大学側が柔軟に対応してきた結果なのである。
日本では、ユニバーサル・アクセスに向かうこの20年ほど、国立大学の新設が抑えられたのに対して、設置基準の緩和(91年、大学審議会答申)によって公立と私立の拡大を促す政策が採られたとみることができる。そして、規制緩和の結果、質の悪い大学が増えるとすれば、それは市場原理によって淘汰されることを前提としていた。小泉政権よりも前からの流れだったのである。この辺にも議論の杜撰さが現れている。
【教育の質の問題】
進学率の上昇は必然的に大学生の平均的な学力レベルを押し下げることになる。学力のレベルを表す代表指標は偏差値。学力の高い順に大学に入るとすれば、進学率50%の状況で、理論的には偏差値分布の真ん中の50前後まで入学することになる。入学定員は現時点で、ほぼ大学進学希望者の数に見合っているから、大学を選ばなければほぼ全員が大学生になれる。実際には、専門学校や短大への進学も相当数あるので、偏差値40台の下の方でも大学生になることが可能である。
ユニバーサル・アクセスは大学生の学力格差を大きく広げた。そのためもあって、大学には学力の違い、学生の意識の違い、大学教育に対する社会ニーズの違い等を前提にした教育の多様化、個性化が求められるようになったのである(98年大学審議会答申)。
ここで改めて大学教育の目的はなにかが問われることになる。エリート段階の大学は学者・研究者、高級官僚、高度な知的専門家等の育成を使命としていた。ユニバーサル段階では、製造、販売、サービスの現場を支える平均的人材の育成も対象になる。今、産業界が大学に強く要求していることは、社会人基礎力(考え抜く力、前に踏み出す力、チームで働く力)、つまり、逞しい職業人の育成である。採用に当って、そのような能力を最優先で評価する。最近とくに重視されるのが「論理的思考力」といわれる。「論理思考力」の弱い政治家が目立つわが国の現実を見れば、本当の意味での教育の質の問題の深厚さが理解できよう。
実社会が大学卒業者に求めているものは決して偏差値で代表されるような学力ではない。大学の偏差値は就職率とまったく相関はない。Fクラスの大学の就職率も95%を超えるのである。
人間力、社会人基礎力がクローズアップされるようになった裏には、今の若者の社会的弱者化という問題がある。コミュニケーション能力が低く、積極的な意欲に欠ける内こもり型の弱々しい若者が増えてきた。就職活動で立ちすくみ、大卒者でニート・フリータが増えている。これは現代社会の幼児期から始まる成長・教育過程の大きな問題なのだが、これが顕在化するのは学校教育の終点、大学卒業時の採用のときである。ユニバーサル・アクセスは家庭教育、学校教育と実社会との接続の最終責任を大学に負わせることになったのである。
【教育改革の究極の課題】
わが国の大学教育の改革が始まったのは約20年前。それはユニバーサル・アクセスへの対応、実業界の教育への要求と若者の弱者化への対応を目指している。大学教育の改革の究極の課題は“教育の質の保証体制の確立”である。個々の大学は今、学士力目標を定めること、卒業時にそれを達成していることを保証するシステムを構築することが要求されている。中教審答申(2010年)が示した学士力の構成要素は、@知識・理解(学力)、A汎用的技能(コミュニケーションスキル、論理的思考力、問題解決力など)、B態度・志向性(自己管理力、チームワーク、倫理観など)、C総合的な学習経験と創造的思考力。今の大学教育には、昔の大学のようなエリートの育成ももちろんだが、一人前の社会人を育てる全人的教育が第一に求められているのである。
審議会、文科省は大学教育の改革を競争原理の導入で促進しようとした。98年大学審答申、05年中教審答申はそれを示した。マスコミもこうした大学改革の競い合いを支援している(たとえば、読売新聞社の“大学の実力”調査など)。とくに定員割れを起こしている新設、小規模大学は大学生き残りを教育改革に求めたところが少なくない。社会の変化に対応する大学教育の質の向上は競争原理の下で進んできた。全体として大学の教育はこの10年で大きく変わった。この点はこれから十分に検証、評価されるべきだ。
【定員割れと赤字化の問題】
私学における定員割れは、財務収支の悪化をもたらす経営の重大問題である。定員割れによって、赤字が続いて廃学に追い込まれる大学が増えてきている。これは、競争原理を前提とする政策で、予め織り込み済みのことではあったが、廃学の被害者が、なんら責任のない在学生であることに企業の倒産とは違う問題があり、現実には何らかの政策的な対応が必要になる。
定員割れは新設・小規模大学に集中する傾向がある。これは大学の入学定員が全体として志願者数を上回っているためではない。知名度のある大学が定員を上回って入学させていることによる。定員オーバーはとくに全人的教育では質の低下に繋がる。教育の質を論じるなら、まず、大規模大学でのマスプロ教育の解消から始めるべきではないのか。
【見直しを必要とすることは何か】
人は自分たちが育った大学時代を無意識のうちに前提に、今の大学を見ようとする。これでは今日の大学の問題を理解することはできない。大学は大きく増え、大学生が増えたことが大学生の偏差値的学力レベルを下げたのだが、その大本には社会の変化、すなわち、ユニバーサル・アクセスの時代に入ったという事実がある。学力を無視して入学させる大学の姿勢を批判する人もいるが、彼らはユニバーサル・アクセスを必要とする社会の変化を理解していない。大学を狭き門にすることによって生じる、就職も進学もできない高校卒業者の大量出現にどう対処しようとするのか。
大学が増えたために「大学教育の質が落ちた」「最高学府にあるまじきトンデモナイ大学が出てきた」というのが、よく見かけるロジックのパターンだが、今の社会で「大学教育の質」「大学のあるべき姿」とは何を言うのか。そのこと自体を今、見直さなければならないのである。
見直し議論は、まず、過去20年にわたる、わが国の大学改革に関する大学審議会、中央教育審議会等の一連の提言とそれに対応する文科省の大学政策の評価、そして、これらに対応して個々の大学内で進展した教育改革の中身と進捗状況とその効果の検証から始めるべきである。わが国の未来社会を支えるべき大学のあり方、とくに「質の保証体制」のあるべき姿は見直す良いタイミングでもある。大学設置基準の見直し、厳格化で済むような簡単な問題ではない。
今、大学教育が現実にさまざまな困難な問題を抱えていることは事実である。教育の現場で悩み、そして苦労している大学教員は少なくない。大学教育改革にまじめに取り組んできた大学関係者の努力を広く社会に知ってもらい、一緒に考えてもらう上で、よい機会にすべきなのではないか。 〈了〉