わたしは、この著作の書評を依頼されたことを感謝する。それは、日本文明の素晴らしさを「和」をキーワードにして、古代から近現代の日本史上の人物を取り上げ、解析を試みた意図に敬服したからである。同時に近現代では著者の個人史をも兼ねている。
この二つの視点を通しての追求は、グローバリゼーションの只中に棲む現代とこれ以降の日本人によるアイデンティティの模索にとって、貴重な糧を提供しているのを意味している。という多義性を孕んでいる著作、と評者は受け止めたのである(第一章 なぜ今「和」の思想なのか)。
著者の学識はあまりに広範なために、読者は、さらりと触れられる件に思わず読み流してしまう。が、そのさりげない件に著者の長年の思索を深めたところから来る多くの示唆が背景にある。そこに気づくと、不学な書評子であるわたしは、著者の真意を測りかねて行きつ戻りつ、を繰り返さねばならなかった。この仕掛けは意図したものではないにかかわらず、だが読者に多くの思考のヒントをもたらしてくれるのである。
著者は選んだ人物の軌跡に、「和」がどのように活きているかを執拗に追求する。それは同時に、日本文明に育った著者自身の我が身に潜んでいる知の探求でもある。その知は論理的に検証できる面だけに終わらず、「和」という漢字ではあっても和語になっている表現によって、情の側面も含んでいるのを見落とせない。例えば、惻隠の情とか。中国語や欧米語への翻訳が難しい。
取り上げられた人物は、まず聖徳太子。太子の公人としての苦悩が佛教によって癒されつつ「和」に結晶化されていった経緯を追う(第二章 聖徳太子に現われた「和」)。
その営為と志向は、法然と親鸞に受け継がれた、と観ている。
古代から一挙に日本の宗教ルネサンスの有力な一翼を担った浄土宗と浄土真宗に継承された「和」の深層水脈は、次に藤原惺窩と角倉了以に繋がる(第三章 藤原惺窩と角倉了以・素庵)。
近代日本の儒学者狩野直喜は、徳川時代になって儒学は日本儒学になった、と説いた(同『御進講録』のうち、「我国に於ける儒学の変遷」三、徳川時代)。が、狩野は一般論を述べるだけで、惺窩に特段の関心を寄せてはいない。
儒学は惺窩によって日本化したとみなしていいのは、著者の観点から明らかになる。それは論語に在る仁義礼智忠信孝悌から、仁義礼智信を取り上げて五常の徳としていた儒学から、「信」を最上位に置いたから。
著者は、それを惺窩の作成した、徳川政権も認知していた御朱印船第二号の角倉船団が携行した外交文書である「致書安南国」にある文節から明らかにしている。著者の見識はその意味するものを見抜いた。この評価は日本文明の根幹に秘められている在り方に関わってくる。
惺窩の家康とのやりとりから、孟子の一節にある、「威武も屈するあたわず」を地で生きている人となりを評価する。そして惺窩の希求したのは、和に基づいた経世済民であった。それを直江兼続とのやりとりからも明らかにする。両者の見識が噛みあわなかったのは、どの目線で自分の在る時代に対処していたかの違いからくる。立ち位置の違いであって、已むを得ないのだ。
著者は、メリハリの利いた惺窩の出処進退の振る舞いから、近世における日本知識人の理想型を見出しているようだ。
惺窩の経済倫理を活かして事業化したのが京の豪商である角倉親子である。
欧化日本になる直前の幕末に、一介の農民でありながら庶政一新を農村から図り、着手した事業は悉く成功させた二宮尊徳。その経営の根幹は「和」であったと著者は観た(第四章 二宮尊徳――「分度」に見る和)。
明治維新によって政体や行政も様変わりして、尊徳流の改革は下火になる。だが、後継者が西郷南洲に会って説くと、尊徳の仕法を理解して評価し、大蔵、内務省に働きかけたが、欧化に目を向けて関心をよせなかったという。近代日本の国政に見る失敗面は、すでにこのあたりに萌芽していたようでもある。
わたしは尊徳と南洲の接点を知らなかった。南洲が共鳴したという件は、彼が征韓論で下野して鹿児島に戻ってからの周囲に述べた治政観から頷ける(『西郷南洲遺訓』)。
著者は尊徳だけでなく、幕末に多く出た個性的な思想家を取り上げてもいる。安藤昌益、大原幽学、大塩平八郎。後者の二人には尊徳も意識していたのが日記からわかると、これも興味深い例証を提示している。
章の冒頭に出てくる、日本文明を評価し、日本の経営者や読者にも好かれたP・ドラッカー教授と著者の尊徳思想を巡るやりとりは、この章の白眉である。それは両者が尊徳の軌跡を通して同次元で意見交換をしているからだ。両者の志向が共通していることを互いが確認しているからこそ起きた対話でもある。
この対話は、東西文明の識者が相手の文明のこれからの可能性を模索するやりとりでもある。ここには、著者たちによる新たな国際大学である世界平和大学を米国に創設する構想があった。
近代の欧化日本では、クリスチャンで友愛の実際行動を神戸のスラム街で展開した賀川豊彦を取り上げる(第五章 賀川豊彦の友愛と和)。賀川に接した最初が病床にいた母上の示唆であったという機縁も記されている。そこには、父上は味噌と醤油を商いにしながら神官でもあったという背景がある(序章)。こういう父母の下で育った著者の人格は、幅のある実り豊かなものにならざるを得ない。
賀川の活動は日本でよりも欧米で影響力をもった理由を、賀川の業績から明らかにする。この側面では、従来の賀川の印象とは相当に違う国際的な問題意識、当時にあっては資本主義経済と社会主義乃至はソ連共産主義をも視野に入れての生協など様々な共済活動の背景に、「和」があると観ている。
その思想の実際面を開陳した著作『友愛の政治経済学』(初版1937年。ロンドン)が昨年になってやっと邦訳されたところに、賀川をなかなか受け入れなかった近現代日本の問題点があると著者は慨嘆する。この批判は、同時に、尊徳思想が近代で孝行・質素倹約でしか用いられなかった側面への批判とも通底している。
著者による近代日本の在り方への批判は、昭和天皇の戦後の軌跡を評価するところからも鮮明になる。その昭和天皇自身は、ご自分の生き方や考え方に戦前と戦後に違いはないと言われている。その一貫性を著者は評価するのである(第六章 昭和天皇が蘇らせた日本の和)。
著者の昭和天皇論は、上述のように独特のものだが、和というキーワードからその軌跡を追えば、なんら不思議ではない。昭和天皇が捨て身で戦後の復興に捧げたという見方を御製から解き明かしている。著者の御製に感応するこの感受性には「和」が息づいている。おそらく、こういう感性を保有しているから、その説く「和」について、ドラッカーも我がこととして耳を傾けたのであろう。
だが、日本史にとっての占領時代をどう評価するかについては、著者の見方に異論が生じる向きもあると思う。それはパイサ(対日占領政策を推進したGHQへの日本知識人による影の協力者)の存在をどう評するかに懸っているからだ。著者は日本の民主化にとってパイサは有効に働いたという見地に立つ。だが、第5列であったという見方もある。
昭和天皇が訪米中に、かつての占領軍司令官マッカーサーの記念館の近く、車で小一時間の距離のところに休養で滞在した。元帥の未亡人も書簡で訪問を願ったが、陛下は行かなかった、と著者は記す。この挿話の暗示するものは、わたしにはパイサの評価とも関わっているように思う。微妙である。
そういう点でも、著者の感性は個性的かもしれない。
最後に、東京電力社長で経済同友会代表幹事を長らく務めた木川田一隆を取り上げて、「和」の経営理念が木川田の公人としての生き方でどのように展開したかを、節目節目から明らかにする(第七章 木川田一隆に見る和の経営)。
著者が木川田と会う機会を作ったのは、既知の同友会事務局長であった山下静一ではなく、小島玄之(記憶ミスか誤植か玄至になっている)であったところに、著者の交際範囲の広さを覗うことができる。著者と同じく岐阜県人としての縁であったのか。小島を知る者は、現在はほとんどいない。左翼から転じた俗に理論右翼と言われる存在であった。
木川田は河合栄次郎に私淑し、河合によって触発された協調主義を終生変えなかった。三菱鉱業への就職に際しての面接で、労組問題で見解が対立し入社できなくなった。そこで、東電の前身であった東京電灯に入社した。
経営トップになってからの経営理念と企業の社会的な責任論は、むしろ欧州の経済人に評価されていたという。木川田を世に押し出した存在として松永安左ヱ門を無視できない。松永の半生はおよそ和とは反極の生き方であった。その上での晩年は違う。電力業界の環境も仕組みも変わった。だから木川田を前面に出したのかも知れない。これは本書から見れば余談。
著者にとって木川田は敬愛しつつも、本音では同志的な存在であったろう。著者の「和」から見ると、それを実際に社会化していたからである。その木川田に比して負の意味で反極にあった存在が、著者の職域で後年に妨害する役回りになる中山素平である(あとがき)。
世評とかなり違う中山がそこにいる。晩節を汚したのか、元来がそうで晩年になって表面化したのかは、あとがきでは読みとれない。およそ国際的ではない私事的な動き方には情けないものを感じた。少なくとも他称自称の鞍馬天狗とは似ても似つかない振る舞いである。老醜しか無い。著者がここまで記すのは、いまだに腹に据えかねているからだろう。両者の品格の違いを想わざるを得ない。
今の世相にあって、この著作は奇書に入るかもしれない。従って、どこまで受け入れられるのか。まだ機が熟していないのかも知れない。もっと犠牲が必要なのだろうか。著者の蘇生を願う「和」を一顧だにしない風潮が、現在の経済界だけに止まらず日本社会に蔓延しているからだ。
グローバリゼーションの荒波への処し方を、父祖の知恵に仰ごうとする気運の生じない限り、無明の闇は続くだろう。本書は本来のサバイバルは何に寄って可能になるかをさりげなく読者に伝えている。気づけば日本のサバイバルは実現する。そうした意味では時宜に叶っているのではあるが。
私は、この著作はむしろ英訳化とアラビア語化するのが望ましいと考える。仮題として、『世界を救う日本文明の原理「和」』とか。(2010/8/2)
□ 武藤 信夫(むとう のぶお)氏 □
昭和3(1928)年8月、岐阜県生まれ。
専門は日本倫理思想史、経済思想史、企業者史学。
国際日本協会、世界経済研究協会等を経て、国際大学の創設に携わる。
日本企業者史研究センター代表・主任研究員を経て、
現在、日本精神文化研究所上席研究員。
日本民俗経済学会理事、比較思想学会・日本経営倫理学会会員。
□ 発行 アートヴィレッジ
□ 定価 1,680円(税込)