昭和史における文部行政への政策評価

2008年12月15日

文部省による思想管理の実態<総括>
〜昭和5(1930)年から16(41)年の拓殖大学史から〜

池田 憲彦
元・拓殖大学日本文化研究所教授
同研究所附属近現代研究センター長
高等教育情報センター(KKJ)客員



総括/昭和の遺制から脱却し21世紀に求められる大学像

はじめに/近現代日本史を三つの段階で大掴みに捉える

 三つの段階の分け方
 本稿で追ってきた近現代日本史認識は,これまでの常識らしきものから見ると,かなりの抵抗が起きるだろう。実証的とはいえ,いかにも挑発的な文脈の追い方をしてきたからだ。その評価を求める前に,筆者の近現代日本の大掴みな捉え方を提示しておきたい。それを基底において,以下の総括も読んでもらいたいからだ。
 近代日本の始まりは定説通り,明治維新からとする。1868年。本稿で評価する最初の国是である「五か条のご誓文」が公布された。以後の近代日本は,文明開化を旗印に欧化に邁進した。主に英国,フランスから。そして普仏戦争に勝ったプロシャ(ドイツ)に傾斜した。第一段階である。
 1905年に前年から始まった日露戦争に勝利する。戦勝の主な理由は日英同盟であり,その賜物だった。海軍は当時世界最強の英国海軍を範とした。維新以来37年での偉業であった。日本は欧米列強の先進国に仲間入りをしたと,ほぼ錯覚した。実際は,無理に無理を重ねた挙げ句のもので,その自覚すら徐々に消えたところに,いかに有頂天になっていたかがわかる。不平等条約など屈従を余儀なくされた第一段階への反動もあった。
 自負には偏頗なものでも裏づけがあった。大正後半には帝国海軍は太平洋での制海権を保持するまでになっている。米国海軍を凌駕していた。ペリーの米太平洋艦隊が浦賀に来航したのが1853年。ワシントンでの海軍軍縮は1922年。70年後のことだ。この軍縮は急速に成長した日本への牽制であった。
 陸軍は,ドイツへの傾斜が昭和に入り禍根になった。欧米世界を除くと,グローバル・パワーではないアジア・太平洋という地域的なものでも,軍事力で欧米に伍していた。突出していたのが禍根になる。当事者は近代での欧米列強が当然とした軍事を不可避にする国作りを求め,その達成が同時に欧米の勢力下に置かれている非欧米世界の復興にも作用するとの気概もあった。
 日露戦争の勝利から40年後の1945年には,焦土になって敗戦を迎える。海外の影響地や領土を一切失った。第二次世界大戦での敗戦国である。日露戦争以後,敗戦を迎えるための40年は,欧米世界を範としての国作りの試行である。余りに短時日の試みだったためか,数百万の死者と営々と築いた国富を失った。第二段階である。
 降伏調印してから7年,日本は主力を太平洋戦争で戦った米国の占領下に置かれた。占領した側の意向に忠実に適応する側面と,日清・日露戦争以降の半世紀に及ぶ近代での戦争に次ぐ戦争に倦んだ側面が相乗して,その間に,俗な言い方をすれば食うことやそのための物つくりを最優先する行動パターンができた。主権回復後も,生活第一の体制で半世紀余を経てきたのは,占領中に付与された憲法を護持しているところに表出している。第三段階。

 各段階に継承されたものと弱点
 教育もそれぞれの段階のニーズに応えていた,と見るのが不自然ではないだろう。明治維新以来の140年,三つの段階を経て,現在に至っている。この三つの段階で継承されてきたもの,あるいはそれぞれの段階での弱点を浮上させると,これからのあるべき姿も浮かんでくる。
 第一段階は,少年の感受性の発揮にも似た舶来のヨーロッパ文明への憧憬である。その反動で,従来の日本文明は開化の邪魔なもので,いずれは淘汰されると思い込んだのが,留学組の一握りの欧化知識人による自信に満ちた心情であり信条になった。そこをロンドンに留学中にノイローゼになった漱石は,「上滑り」と韜晦してみせた。この基調は,敗戦後から現在にも至っている。
 第二段階は,日露戦争の辛勝を辛勝としないところでの一等国意識の圧倒的な自負の台頭である。国民に辛勝意識がなかったのは,有司専制の政府エリートが妥当な情報を提供していなかったからだ。一種の愚民政策の産物であったといえよう。
 第一次世界大戦の戦後不況から暗黒の木曜日による世界恐慌により,国際環境や国内の経済環境が悪化してくると,一等国意識は傷つく結果になる。被害者意識に富んだ過剰な反応が昭和史の特徴である。国民主義による自立性を重んじる余り,最初は日本,大陸への過剰介入が始まると「東洋」の重視が叫ばれる。それは文化意識の深化というよりは,これまでの欧化教育に取って替わろうとする「上滑り」な作業であったのは,本稿で実証的に扱ったところだ。
 第三段階は,占領中は民主化という美辞により,第一段階に見られた旧体制の訣別が叫ばれた。そこで,近代と近代以前はすべて暗黒の軍国主義の温床視されることになった。第一段階での,徳川時代を否定した思考パターンを再来したわけだ。
 これからも継承したい共通しているものは,好奇心に満ちた向上心。共通している弱点は,蓄積している文化の潜在力の軽視による,切り替えが可能とする行き方である。この両面は無縁でもない。
 高等教育を受けた知識人であるはずの人々ほど共通して見られる,漱石の言う「上滑り」な振る舞いなり仕草なりである。そうした生き方になるのは,結局は現在の自分に至る文化の軽視と繋がっている。それは,素直な感受性を喚起するよりは,むしろ押し殺す働きをしてきた高等教育に起因している。


1章 何を学んだと実感すれば総括になる?

 1節 当事者意識の内容が違う

 自分たちの歩んだ軌跡から何を学ぶのか?それは別の言い方をすれば,7章1節で扱った南原の,好意的に見れば素朴で初々しい使命感にある,幼稚さに満ちたロマンチズムとセンチメンタリズムからの脱却をいかに図るか,である。なぜなら,彼の当事者意識の内容に疑問を感じるからだ。東京大空襲にある種の天啓を受け止めた気配がある。
 正常な常識人であるなら,戦争法規を無視して焼夷弾でじゅうたん爆撃をして数十万も殺戮するような米国のやり方に,憤慨しないだろうか。違和感をもたない南原の知性に胡散臭いものを感じる方が正常だと思う。彼の考える人間の解放なり,人間意識の確立をすると,米国のやり方を容認できるようになるのか。
 当然に,こうした解釈なら,廣島,長崎の原爆投下も肯定する論理になる。悪いのは,そうした事態を引き寄せた日本の軍国主義者と考えているからだ。2007年8月にその発言が問題になって防衛相を辞任した久間章生とは文脈が違うものの,結論は「しょうがない」で同じになる。
 こうした解釈の延長線上から,後に日本の再独立を意味する講和問題で,「全面講和か単独講和か」という修辞を提起し,永世中立を求めて全面講和を主張することになる。旧連合国の二強・米国とソ連による東西対立の緊迫という現実の国際政治を識る吉田首相が,南原を指して「曲学阿世の徒」と批判した(50年5月3日)。吉田は学者が土俵の違う理屈で政治に容喙する態度を曲学阿世と批判したのは当然である。
 夢見る信念家南原は,満洲事変を引き合いに出して,吉田を批判した(同年5月6日)。どちらが妥当かは,すでに歴史の軌跡が明らかにしている。全面講和論の修辞は美しいものの,およそ現実性のない政策論であった(注1)。東西対立という現実政治の中では,一方の側に利用されてしまう結果になった。
 だが,その当時は占領下にあった知識人の大半は南原の全面講和論を支持した。10年後の昭和35(60)年になると,その弟子たちは,今度は日米安保条約の改訂反対運動に連なっている。10年経っても何も学んでいない。
 つまり状況がどうなっているかの事実認識を優先するよりも,自分のもっている観念を優先している。肉眼の薄弱な心眼からしか現実を観ていない。そうした意味では,使命感をもって日本の国体を守るという観念を最優先して,状況についての事実認識を二次にした人々と,程度の差はあれ相似していると見ていい。後者は本土決戦・一億玉砕を主張していた。
 両者はちょっと見では違うようだが,外界の現実に留意するよりも内向きの観念や情動に支配されやすいという面では同質である。共に始末が悪い。


 2節 南原の歴史認識と永田の世界認識の違い

 ここでの基本的な問題は,自分の文化的一体性をどこに根ざすのか,である。南原のように,敗戦と占領を「理性の審判」(注2)の結果による革命として受け止め新日本が始まるとするか,それとも,確かに衝撃であり大変であったものの,日本列島の長い歴史から見れば一過性のものであったとするか,である。
 永田秀次郎は,近代日本における西欧衝撃の一つの事例としてのマルキシズムに対して,「これが対症療法を尽くすべきである」(前掲七部3章5節(5)を参照)と述べた。
 近代日本の余儀なくされた欧化により惹起された思想的な混迷は一過性のもので,いずれ咀嚼してしまうという自信が永田にはあったからだ。だから,革命論理に対して深刻にならずに,一定の時間が経てば軟着陸に吸収できるとの見地を提起したのである。
 永田の予断は,現在を見ると間違っていない。いまだに共産党が僅かとはいえ一定の支持を得て存在しうる日本の政治社会は,むしろ日本という文明の懐の深さを示しているからだ。思想的な多様性を容認している証明であろう。暗黒性とは無縁であることがわかる。
 南原の見地は永田の「俳句的人世観」(巻末資料(4)を参照)の世界像に対峙した際に,理解できるのかと,訝しく思う(注3)。もし二人が面談したとしたら,おそらく,永田はゆったりとした表情で,二三の暗示的な示唆に止めるのであろうか。または,過去の日本を暗黒の世界とする見方に厳しさを見せるのかは,なんとも言えない。
 二人の日本や世界認識の違いは修学した教養の違いから生じているようである。南原や横田,田中あるいは宮沢は,それまでの日本の古典を形成していた漢学の素養と無縁な最初の世代だと断定したのは,中西である(注4)。永田の前掲文の末尾にある「哲学者も社会主義者も俳句を稽古せねば駄目である」に,南原,横田,田中らの大正教養主義に基づくプロテスタントとしてのキリスト教徒も入れるべきであろう。
 この断層の後世に与えた負の側面は大きかった。現在にも様々に引きずっているのは,すでに明らかにされた。未来に懸想するのは個人の態度では許される。だが,そうした生き方が教育の場で制度化されると,過去の蓄積を「育む,培う,養う」ところから生じる感謝する姿勢は失われていく。


 3節 複眼を必要としない二者択一思考

(1) 近現代を通しての,「あれかこれか」
 近現代の主に官立を主流とした高等教育の弊害は,文部官僚の知的水準に関わっている。開化や欧化であろうと近代化と言おうと,または敗戦後の占領中に喧伝された非軍国主義化のための民主化であろうと,目標なり課題なりを設定した際の共通している思考形態を明らかにしないでは,それからの離脱ができない。
 それは簡略にいえば,「あれかこれか」で物事を決める二者択一思考の瀰漫である。本稿で扱ったうちで,第二稿で見るとどうなるのか。欧化の先端思想として流入してきたマルキシズムに対して,「我国独自の立場よりする有力なる学問の建設を図り」(SW.456頁),「東洋教学」により対峙し,乗り越えようとした。文化としての日本と東洋の推奨に,どこまで説得力があったのかは,大いに疑問である。そして,問題の設定は,あれかこれか,である。
 マルキシズムの発生母体である産業社会が成立する以前の社会に通用していた思想をもってして,経済恐慌の「必然性」を預言し処方箋としての革命をしめしたマルキシズムに新鮮さを見出している側に対して,説得力のある論証が可能であったろうか。
 その一つの回路が,転向声明であった(九部 資料(3))。この声明には論理的にかなり苦しい文脈を見ることができる。思索としては過渡期の産物なのであろう。ここに提起されている内容は,思想よりも政治性を前面に出して,手っ取り早く,日本かソ連か,であった(注5)。
 だが,マルキシズム移入前の高等教育は,欧化を当然のこととして開化による日本を肯定していた。欧化以前の文化としての日本は過去のものとして,やがては消滅することにあまり疑問を抱かなかったのが大勢であった。それが,逆転しただけである。
 第一稿の主題を指揮し命令した者は,占領されて以後の統治者であるGHQの教育面での日本改造に取り組んだCIEである。彼らは,近代日本の教育そのものに異議をもち,全面的な改造を意図した。かれらの意欲は,日本文化に根ざさずに離れて,高みからの「あれかこれか」であった。過去は軍国主義,民主化される未来はばら色である。観念としては,そのばらに囲まれている。
 「我国体国民性を明らかにして我国独自の」「学問の建設」という,これまで軽視してきた過去の偏重に,「欧米思想に対する心酔」していた開化知識人は苦々しく思っていたようだ。敗戦を迎えて,たとえ日本の「敗北を抱きしめて」も,いや,だからこそ二度と繰り返さないために,原則としてCIEの意図に異存はないことになった。
 ここで,その指揮命令に共鳴し共棲した日本側の人士は,南原のように紀元元年を確信して勇躍,学生と世間に「あれかこれか」を求めた。これまでの日本を捨てて,新しい日本の創造を訴えた。

(2) 二者択一思考から複眼認識は生まれない
 ここでの二者択一とは,未来と過去は対立していると解釈し,双方を対比した関係で提示して,未来によって過去を否定する思考である。こうした思考形態に複眼認識は生まれてこない。単眼思考でしかない。現象を一定の観念としての心眼から眺めているところから,肉眼認識はない。
 だが,現象は一定の目的意識があるのであれ,「あれかこれか」で分けられるものではない。修辞を用いれば,「あれもこれも」あるのが実際である。あれもこれもある現象を理解するには肉眼認識を徹底するしかない。そこに複眼思考が働いて,現象の理解が深まっていく。当然,心眼も洗練されてくる。すると,選択の幅も拡がって選択肢も増えてくるものである。単眼だと,思索も表層的で選択肢も少なく,やがて袋小路に入り込むことになる。
 近現代を通して高等教育はキャッチアップが習いになっていたところから,彼我の関係についての知識と情報を入手できる立場にいる知識人にとって,二者択一は単純明快なところから,傾斜し易かったと思われる。そうした未来にだけ懸想する見方に反発して,過去を重視する立場を選択した者たちにとっても。いずれも「武装的文弱」の体制に育った徒輩とでも形容できるか。
 結局は,認識を通しての思索に,様々な意味での余裕が足りなかったのであろう。視野が広く練達な思索者でもあった永田が到達した『俳句的人世観』の境地には至っていなかった。または,「あれかこれか」で切り捨てられる領域への知識不足もあったと思われる。そうした高等教育になってしまっていた。そこから,むしろ,切り捨てることに年齢的な意味ではなく青年期特有の爽快さと軽薄さがあったかも知れない。
 現象を理解するには「あれもこれも」視野に入れなければならない。政策的な認識では,最終的に優先順位をつけるために,「あれかこれか」にならざるを得ない。問題は全体像を把握するさいに,「あれかこれか」になるところの軽さにある。最初から性急に「あれかこれか」では,徒に選択肢を狭める結果になるのだ。

(3) 二重基準を見えにくくする「あれかこれか」思考
 認識における性急さは,青年期特有の爽快さと表裏にある。そして,一見するとそれは美しい。しかし,深みはない。老練な判断の求められる分野では,そうした感性はむしろ危ういと見るのが普通である。それは個人生活の範囲でも当然に求められる判断である以上,国家や社会の問題,または歴史認識の分野になるとなおさらのことであるからだ。
 ここで扱った分野である昭和史において,知識人が染まっていた「あれかこれか」思考の弊害は,戦前もさることながら,むしろ敗戦後の占領中に発揮されたと見たらいいだろう。
 様々な節目や局面で見てきたように,「あれかこれか」で事態に臨んでいる場合には落とし穴がある。それは,相手側のダブル・スタンダードな態度が見えにくくなるところだ。
 第一稿で扱った占領時代の教職員適格審査を推進した文部官僚や,その象徴的な人物として取り上げた南原繁や田中耕太郎らは,「あれかこれか」で事態に臨んでいたために,GHQ・CIEの政策を違和感なく受け入れていた。相手側の二重基準を知る白洲次郎は,折衝に際して徹底して懐疑的な視線を働かして臨んでいた。だから白洲はGHQの進めた占領下での主権のない日本に対する新憲法付与に抵抗したのである。
 1945年の敗戦から60余年が過ぎている。占領が終わった1952年からは55年を経ている。敗戦後のGHQ主導で展開された教育「制度変革」を全面的に賛成し推進した人々に悪意があったとは思われない。南原の多くの講演記録にも見られるように,むしろ善意そのものである。
 だが,その善意は相手の一方しか見ていない判断に基づいている。すると,結果的に受け入れ側に多くの錯誤が生まれることになった。主権回復後にも適格審査の理由の継承を求めた77号通達は,その一つである。
 それと180度違う見地にあるのは,現行憲法の争点である第9条の一節にある。2項の冒頭には,最初の英語原文にない「前項の目的を達するため」がある。この節は,元首相芦田均の加筆挿入になると言われている。このさりげない節に,主権のない事態を前提にした老練な知恵が生きている。
 旧教育基本法の裏付けであった現行憲法を支持してきた側は,練達な外交官であった芦田がなぜそうした一節を入れたのかの真意をわかる余地をもちえていない。それは,GHQによる二重基準のわかる知的な背景がないからだ。知的な背景とは複眼思考を意味している。
 平面的な視野に拘束される「あれかこれか」思考に安住している限り,相手の思考にある二重基準は見えない。進歩だけを盲目的に信じるこうした幼い判断力(?)をもたらす高等教育は,過去のものにしなくてはならない。知力の強化には,百害あって一利もないからだ。


2章 近現代の負の遺産を未来への資産にする方法
      ――いわゆるグローバリゼーションを凌駕する大学像とは

 1節 肥大化する観念の継続

(1) 善意による視野狭窄の土壌
 南原に代表されるカッコ付きの理想主義は,知性の幼さから来る退廃と見切るよりは,日本人の素直さの現れと見てもいい面もある。こうした素直さが,現在の日本共産党の存在し得る余地と繋がってもいるからだ。とは言いながら,このロマンチズムとセンチメンタリズムは,よほど見極めて上手に距離をおいておかないと,すぐに腐食度を高めていく。湿り気を含んだ風土だから。
 昭和という時代に入ってからの統帥権干犯問題に始まり国家総動員法の制定に至る一連の動きには,常に裏面に張り付いていたからだ。対米戦争に突入して,追い詰められると,出てきたのは政策にも戦略にも価しない本土決戦・一億玉砕であった。
 「御聖断」によって無条件降伏(?)(注6)の敗戦を迎え占領になると,虚脱状態もあったものの,一億総懺悔というすり替えが出てくる。それに反発した南原は,そうした発想をもたらす過去と無縁になるために「新日本文化の創造」を求めた。
 だが,この前向きの提示は,過去を暗黒と見る総否定の心理衝動と不可分であった。すると戦死者や戦災者はすべて暗黒の日本史から離脱するための生け贄であったとなる。なぜなら,「真理と正義はわれらの上にはなく,米英の上にとどまったからだ」(注7)。
 学徒出陣をただ見送った非力な自分を責めた南原は,その死をどう自分の中で意義づけるかで苦慮したのであろう。そうした意味では教育者として誠実な人柄であることを仄見せている。
 だが,個人としての自分の贖罪意識が肥大し過ぎている。いくら自己肥大しても,比喩的にいってだが,2606年の日本人の歩みを否定するまでに至るのは,行き過ぎと見るのがまともな平衡感覚であろう。ここには先端(前衛)意識に基づく幼いロマンチズムとセンチメンタリズムから来る気負いがある。

(2) 「何のために」を粗略にした高等教育の退廃
 しかし,こうした肥大化する観念の増殖を許したのは,彼の受けた高等教育の仕組みに問題があったからだ。それは,文部省の管轄する教育機関だけでなく,陸海軍省の管轄する教育機関も無縁でない。ソフトも含めて舶来のテクノロジーの移植を最優先したところから来る,「何のために」を粗略にした面がある。武装的文弱になってしまった。
 実利優先の仕組みとは裏腹に,粗略に扱った精神面からしっぺ反しを受けたのが,戦前,占領,戦後の昭和時代である。第1期を第二稿で扱った昭和戦前としたら,第二稿で扱った第1期を軍国主義教育と括って,それを払拭するのが「新日本文化の創造」に通ずるとした占領時代は第2期になる。
 第2期の特徴は,GHQ・CIEと「共棲」した上での日本改造であった。表面は,現行憲法に基づく教育基本法の制定であり,裏面では教職員適格審査を通しての追放であった。この期は,武装のないところでの文弱を意味するバーンズのいう精神的武装解除であろう。
 こうした武装解除に勇躍取り組んだのが,カント派とマルキストの共闘態勢であった。そこから占領中のGHQが背後から支援したヌエ的なイデオローグが生まれた。リベラルを自称していながら親マルクスという,欧米の知的社会では有り得ない思想家(?)である。
 そうした知的(?)世相を背景に,行政は多少の人事異動と顔ぶれが変わったものの,発想形態は変わっていなかったのである。それを二つの拙稿に出てきた資料を通して明らかにしようと試みた。脱軍国主義の民主化は,肥大化した観念に基づいた官製による「啓蒙」でしかなかったのである。
 それは,法治を無視した二重基準である事務次官通達77号にも象徴的に現れている。自分たちの有する信念を優先して,立法府である議会で通った法制を平気で乗り越えても違和感がないようでは,民意に基づいた公的な約束事が成立しないことを示している。これは有司専制の主権在官であり,昭和戦前に陸軍による軍閥が行った大権私議と同質の振る舞いである。こうした改革意識では,また日本は負けることになる。


 2節 グローバリゼーションを凌駕する大学像

(1) 追いつき追い越せというキャッチアップの近現代
 大学令と教育基本法が共有しているもの,または解釈上で共通しているものを把握する視野こそ,近現代の負の現象を越えるきっかけになるだろう。日本近代における高等教育の目的は,最初の国是であった「五箇条の御誓文」の第五にある「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」の実現にあった。それは,大学令の第一条に直截に現れている。
 ここでの世界とは目標としてのヨーロッパであり後には米国も加わる欧米(the West)であった。法令で最初にそれが明記されたのは明治19(1886)年に制定された勅令・帝国大学令の第一条「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」である。
 大正7(18)年に,私学も大学と認められる大学令になった。一条の条文の前段はそのままで,後段に,「兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養ニ留意スヘキモノトス」が加えられた。人格の陶冶を明文化した背景には,従来の弊について多くの論議があったと思われる。
 現行の憲法前文と結びつけた平成18年12月に改訂される前の旧教育基本法では,それを徹底して前面に出した。前文には「われらは,個人の尊厳を重んじ,真理と平和を希求する人間の育成を期する」と。第一条には,「教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に充ちた」ものであることが期待されている。国家が消された。
 拡大解釈すれば,ここには一応は観念的に想定した欧米を目指したキャッチアップの意欲がある,ともいえよう。近代では自力で,敗戦後の占領中は他力に基づきながら。共通しているのは外圧への適応である。そして当代ではグローバリゼーションから来る外圧への適応時期になるのであろう。キャッチアップという面では流れは変わっていない。
 問題はこうした意欲がもたらす負の側面である。ともすると,事態を一新するための払拭を意図するあまり,革命願望による「浄化」に嵌りやすい。革命の心理は進歩主義と表裏になっている。古代からの舶来崇拝という病の一種であろう。過去を否定すれば明日は良い時代が来るなら世話はない。近代では欧化高等教育がもたらした倒錯した心理であった。模範例は常に海外にあると思い込んでいる。

(2) 多元的な価値の共生を実感する場の提供
 以上のように見ていくと,これから求められる大学像は簡単である。
 これまでは唯一でしかなかった欧化路線に連なるthe Westの原理はone of themにすればいい。The Westの原理は,「我国独自の学問文化」・「東洋の学問文化」を非民主化で脱軍国主義と規定した。そこで「新日本文化の創造」がされると思い込んだ近代日本の欧化高等教育を素直に受けた知識人も輩出した。
 一方で,国難至ると考えた統治層は,古典だけを重視した「我国独自の学問文化」・「東洋の学問文化」で対峙しようとしたものの,the West文明を乗り越えられなかった。十分な時間が与えられていなかった面もある。どちらにも無理があったのは,余儀なくされた側面があるのであれ,「あれかこれか」の不自然な決め付けをしたからである。すると倒錯と錯誤が生じてくる。
 欧化の故郷は,文明の一つの到達した内容をもっている。優れた面とそこからくる負の側面もある。グローバリゼーションの衣装をまとって進入して来る西欧衝撃に是々非々で臨むのはいい。だが,今理解されている日本文明をもってあれこれ恣意的に採点をいそいでも,足を取られるばかりである。その前に,日本の外にある欧米(the West)以外の別の文明原理のあることを知る機会を,修学の場に設置することである。
 比較できれば観念化への一方的な傾斜も少なくなる。そこから,事態を事実として認識するための複眼的な視座が徐々に形作られてくる。すると,「『事物のありのままに観察』する姿勢」が鍛えられて来る(七部 問題の整理 3節(2)を参照)。一橋大学の前身であった東京高等商業教授の時代に,ヨーロッパ経済学の移植期に多大の役割を果たした福田徳三は,相反する学説を平行して講義させ,学生は両方の授業に出たという。
 そうしたグローバリゼーションに取り組む試みこそ,ここでの二つの拙稿で扱った,近現代の日本の高等教育が経なければならなかった苦闘の体験を,相対化を通して経験化できる道である。「我国独自の学問文化」・「東洋の学問文化」の重視も「新日本文化の創造」の試行錯誤の繰り返しに露わにされた過程も,この試みによってそれなりに貴重な先行事例として,新たな展開の糧として生きてくる。
 比較を実際の修学生活でできる制度的な工夫をすれば,知的な創意工夫をもたらす自由闊達な場(大学)が作られる。教員の半分近くが外国人,学生も同様なパイロット・プロジェクトの大学があってもいい。
 観念化への傾斜が招来させる一つの働きである内向きの情動を,こうした修学の場では自然に減じさせるだろう。日本文明はそうした環境を制度化した教育の場を作っても,そこで修学する学生は充分に咀嚼する力量をもっている。
 そうした現実条件を策定した上での自信に立脚しないと,the Restの一つでもある日本の思想的な営為への,the Westの側からかなり意図した批評が説得力をもって出てくる。オクシデンタリズム嫌いの源泉はオクシデント(西洋/the West)にあるという,尤もらしい憶説である。
 だが,ここで提起したようなコンセプトにある大学は,過酷な運命を近代で担った日本文明が地球社会に提示する新たな「文装的武備」になり得るだろう。いずれも,他国の知識人も否定し難く,且つ学生からは諸手で賛成される大学である。


(終わり)



(注)

1.南原は負けていない。翌年3月の卒業式でもしつこく全面講和論を主張している。議論が噛み合っていないのではなく。南原には噛み合おうという意志が見受けられない。前掲『東京大学百年史 資料一』1165頁。
2.南原前掲「戦没学徒を弔う――戦没並びに殉職者慰霊祭における告文」。35〜36頁。
3.永田の世界認識は後藤のそれと共有しているが,後藤の表現の仕方は彼の人生観の顕われでもあった。文化,文明の拮抗関係にある世界の姿を,森林における潅木の生長から描いている。同『日本膨張論』。初版は1916年。同『日本植民政策一斑』に収録。日本評論社。1944年。192頁。
4.中西 前掲書278頁。
5.後藤新平は第一次大戦後の日本が,ドイツの敗北,ロシアでの革命,フランスの疲もし鍋山や佐野が獄中にいないでモスクワに居たら,他のコミンテルンの党員と一緒に1934年から始まったスターリンの粛清に遭遇して処刑されていたであろう。チトーは米ソ東西対立があって,裏切りのキャンペーンを張られても生き延びえた。すると鍋山や佐野の政治的な判断は賢明であったことになる。こうした極限状況における「あれかこれか」を経ていない南原らの判断は,観念遊戯の一つでしかないことになる。
6.日本側は,国体護持を条件にしていた。それが許容されたかどうかの評価の真正面にあるのが占領中にGHQより付与された現行憲法なのである。
7.南原前掲文。36頁。


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