昭和史における文部行政への政策評価

2008年12月15日

文部省による思想管理の実態<8>
〜昭和5(1930)年から16(41)年の拓殖大学史から〜

池田 憲彦
元・拓殖大学日本文化研究所教授
同研究所附属近現代研究センター長
高等教育情報センター(KKJ)客員



八部 昭和という時代から現在に引きずっているもの(2)

7章 GHQと共棲していた知的選良の存在

 1節 東京帝国大学総長・南原繁の歴史認識

(1) 敬虔なキリスト教徒の日本認識
 ここで扱った教職員適格審査の範囲に限定して,GHQの日本改造がここまで成功したのは,GHQと政策的な問題意識の半面を共有し全面的に協力していた日本人の知的選良がいたからである。啓蒙的な意味で占領下に日本社会に多大の影響力を有したのは,昭和20年3月に法学部長になり,敗戦後の昭和20年12月に総長に就任した南原であった。
 キリスト教徒であった南原は,信仰上から啓示という事象に思いを深めていたものと思われる。法学部長を引き受けたのは東京大空襲の前日であった。その翌日には東京区内はほとんど焼け野原になった。敗戦後に日本文化の敗北を確信するに至る貴重な経験であったと思われる。
 総長就任から日を置かないで21年元旦に,昭和天皇は俗称では人間宣言といわれている『新日本建設に関する詔書』を出された。GHQの意向であったのは,様々な秘史や回顧録に明らかにされている。陛下の軫念もあった(注9)。
 それを受けて,南原は,2月11日の紀元節(現在は建国記念日といわれている)に日章旗を掲げた式典を,東大の安田講堂で挙行した。その際の演説の内容が問題である。
 南原は,天皇が人間宣言をしたのは日本の宗教改革であると位置づけた。それまでの日本の「国民自身の主観に誤りがあった」。「独立した人間性の発展,人間意識の確立がなかったためにただ黙々として盲従して来たのである」。ヨーロッパ史を敷衍して眺めるから,敗戦までの日本は中世の暗黒時代という啓蒙主義風の見方になっている。
 人間意識の確立のない近代以前であるから,蒙昧な軍国主義が支配したと南原は考えたわけである。かれの主観は,ポツダム宣言の対日認識と論理をそのままに自家のものにしている。

(2) 昭和21(1946)年は紀元元年という歴史認識
 南原は敗戦以前の日本はヨーロッパのルネッサンスと宗教改革以前にあったという説を大真面目に提起した(注10)。そうした認識から「新しい歴史を創造してゆくより途がない」。「日本の歴史は今後の歴史の創造にあるのだ」と。この歴史認識に基づいて,「新日本文化の創造」を訴えた。
 紀元節は2606年ではなく,元年になった(注11)。すると,南原風の紀元節では,天皇の人間宣言以前の日本は紀元前の暗黒時代であり,日本のポツダム宣言受諾を詔書で公表した8月15日は,その準備の助走になる。それ以前の日本という存在には意味のある歴史はない。マイナスの時代になる。Before ChristならないBefore Humanityなのである。
 この演説に魂の震えるような感激を覚えた復員してきた学生は多かったという。敗戦という戦闘の締めくくり,それも圧倒的な物量による現実の前に,文部省の思想管理は敗北した。そして,その虚脱した跡に,この半世紀の日本を壟断した新しい神学が,観念そのものの南原の心眼に映る幻影から登場したのである。
 だが,英語に翻訳した南原の演説要旨を読んだGHQの係官の薄ら笑いをした表情が浮かんでくるのを抑えることができない。バーンズ米国務長官が述べた占領政策の方針「精神的な武装解除」を推進する側からの反応である(注12)。ダワーのような主観的な係官なら素直に喜んだであろう。
 最近,ダンディな本物の国際人として有名になっている白洲次郎(終戦連絡中央事務局参与)が日本の立場を守るために戦った相手は,そうした薄ら笑いをするGHQ幹部である。GHQにとって,南原と白洲の二種類の日本人がいた。この半世紀余の軌跡を見ていくと,大勢は南原に向かったようだ。


 2節 占領を奇貨として協力した面々

 こうした歴史認識は南原だけの突出したものではない。そうした見方を基本的に共有する知的な集団は,どうやら敗戦前に戦後に備えた活動を始めていた。それを実証的に最近明らかにしたのは,立花隆の前掲書『天皇と東大』(文藝春秋)である。直接には東京大空襲の惨状から,陸軍に任せておくと掛け声だけでなく,ずるずると本土決戦になり一億玉砕になりかねないという憂慮から始まった終戦工作の試みであった。
 同著の第六十六章「天皇に達した東大七教授の終戦工作」には,南原以外で高木八尺,田中耕太郎,末延三次,我妻栄,岡義武,鈴木竹雄が登場する。敗戦後のGHQの意図した占領政策に深く関与した人々は,高木八尺,田中耕太郎,我妻栄である。
 中西輝政は,占領中に形作られた戦後日本の法制を構築した三人を挙げている。国際法の横田喜三郎,民法改正の我妻栄,憲法学の宮澤俊義である(注13)。横田はA級戦犯を裁いた極東国際軍事裁判をニュールンベルグ裁判の正当性を敷衍して是認した。さらに現行憲法も,その結果として容認している。不戦の誓いの前文と9条の戦争放棄は,極東裁判の正当性と表裏の関係にある。
 我妻栄は軍国主義の温床としての日本の家族制度の解体を民法改訂によって実現した。宮澤俊義については,「8月革命説」によって占領軍の付与した「憲法」の正当性理論を編み出したと,すでに触れている。
 いずれにも共通しているのは,日本の敗戦をあたかも神の恩寵のように受け止める態度である。占領軍による日本改造の諸政策は,彼ら知的選良の有する対日認識にある日本の暗黒性を払拭するものとの理解である。文化の断絶を図る革命性を有していても肯定できるという認識である。
 治安維持法による入獄していた日本共産党の面々が占領軍によって解放された際に,委員長徳田球一は,占領軍を解放軍と呼び,万歳を叫んでいる。論理的には,彼らは同質と看做しても無理ではない。
 この信念は,敗戦後に生じた向きのある宮澤のような場合もあるが,大勢としては日本敗戦以前から保有していた模様である。いわば確信犯といってよい。大方に見られる大勢順応と時流便乗とは異質であり,分けて考えた方がいい。だからこそ,問題としてはむしろ深刻である。


 3節 GHQに共鳴した保革知識人の親和性

(1) 南原繁と再建日本共産党・徳田球一の近しい距離
 南原繁は,戦後それも主権のない占領中における昭和知識人としては最高峰の立場にあった。日本共産党員・徳田球一は治安維持法違反で刑務所に収監されておりながら,非転向を貫いて占領軍によって解放された。その軌跡から,占領中の日本において南原を越えた象徴的な存在である。いわゆる逆コースが始まって中国に亡命したからだ。
 そして,二人は一つの分野では共闘関係にあった。二人は,一見は距離があるように見える。書斎派の敬虔なプロテスタントと資本主義を打倒しプロレタリア独裁の日本を求める革命家。その二人はどの部分で共闘になるのか。両者は進歩を信じたから,伝来の文化としての日本を否定する立場を共有していた。徳田の場合は当然だが,南原も一,二節で前述した思想的な軌跡に明らかである。日本は野蛮な前近代なので全面的に変えなくてはならないという見地で親和関係にあった。
 問題は,昭和という時代を通して戦前や戦中,戦後に関わりなく,また立場の違いを越えて,こうした思考形態は大半の知識人の意識の深層に底流としてあったことである。立場の違いとは党派的な違いや政治的な違いでいえば,保革である。南原を革命派と思う者はいない。徳田と較べれば一定の条件付きではあるものの保守派になるだろう。だが,南原は文化としての日本に対しては,心情としても論理的にも革命派なのである。
 そうした者たちの棲息した文部行政だから,文部省と日教組は決して対立関係になく,基本で共鳴関係にあった。その有力な事例として,次官通達77号を挙げたのである。主権回復後までは,共にGHQの方針に対しほぼ一体であった。その法制上の理屈というか名分が旧教育基本法である。

(2) 欧化優先への反発だった「我国独自の学問文化」の果て
 この傾向は敗戦後に突如として始まったのではない,保革双方の親和力は何に由来していたのであろうか。そこを明確に理解していけば,事態の本質は単純に明らかになる。では,文部省と日教組の対立はなぜ生じたのか。彼らの描いた進歩という面での速度の違いである。共有する基盤の上に立って,前者は漸進的で後者は急進的といえる。
 その背景は,この第二稿で扱った時期における文部省の思想管理の基準にしようとした「我国独自の学問文化」という営為への評価に関わってくる。比ゆ的な言い方をすれば,この営為は,維新から始まった開化という西欧衝撃による圧倒的な欧化の力学を前に悲鳴をあげていた日本文化による,失地回復を求めての切ないレジスタンスではなかったのか。
 レジスタンスを推進しようとした人々の多くは開化を自明のこととする高等教育を経ていた。開化のもつ毒の側面に気づいたのは遅すぎた,と考えたのであろう。これでは固有の文化は亡びると早読みした。時間が足りない。そこで,時空を越えた傍から見ると,時にヒステリックな狂態も演じることになった。
 最近,再認識の向きもある蓑田胸喜は,その一人である。彼が自分の説に自信を持っていれば,日本の敗戦は織り込み済みであったはずだ。そうした意味では,彼が非難攻撃した対象と同じく観念だけを重視する非リアリズム認識の徒であった。だから,敗戦という事実を受け入れられずに自殺した。彼の生死は,いみじくもこの時期の「我国独自の学問文化」の営為の限界を,象徴的に示している。
 この種の保革による親和性は,最初は絶対的な新たな権力であるGHQを背景にして,あらゆる分野に瀰漫した。最初は非軍国主義化,次いで進歩的。そして,半世紀余を経た。現在はグローバリズムへの適応,である。



(注)

9.拙稿第一稿『占領下における教職“追放”(教職員適格審査)』「二部1章4節(2) 調教の構造と力学」の最初の項「『新日本建設に関する詔書』にある二つの意図」を参照。
10.第一稿二部1章5節で扱った昭和21(1946)年5月21日付の『帝国大学新聞』の視点を参照。南原の認識が共有されていることが見えてくる。
11.前掲「新日本文化の創造」。『東京大学百年史 資料一』全文は1147〜1152頁。元年説の箇所は1150頁を参照。
12.バーンズに代表される米国による占領初期の対日方針については,第一稿1章1節(1)を参照。
13.同『国民の文明史』第六章 昭和の大戦の文明史的意味,3戦後日本を呪縛した三人の法制家。276〜285頁。


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