昭和史における文部行政への政策評価

2008年12月15日

文部省による思想管理の実態<8>
〜昭和5(1930)年から16(41)年の拓殖大学史から〜

池田 憲彦
元・拓殖大学日本文化研究所教授
同研究所附属近現代研究センター長
高等教育情報センター(KKJ)客員



八部 昭和という時代から現在に引きずっているもの(1)

はじめに/昭和時代を貫いて継承しているもの

 本稿で扱った【綴り】は,六部12章4節(2)に紹介した昭和16(41)年5月29日付の大学側による長官宛の回答,「発売頒布禁止処分左翼図書の取り扱い方に関する件回答」で終わっている。その後も教学局の活動は止むことはなかったが,【思想問題関係綴り】としては残されていない。
 大東亜戦争に突入したことによって,文部省も大学も臨戦態勢に入り学内組織の変化があったかどうか。他の綴りに関連資料があるにはある。だが,錯綜している。六部13章で扱った諸資料も,そこで【綴り】には残されていない。
 ともあれ,現在判明中の資料に基づく追求は,これ以上はできない。そこで,以下で取り上げる諸点は,多少の制約の下における提起になることを踏まえておかなくてはならない。
 この半世紀における近代史では,大正デモクラシーが肯定的な面からだけ取り上げられている。風俗では大正ロマンという表現まである。しかし,その背景には失敗に終わったシベリア出兵の始まった直後の米騒動の全国化(18年8月),第1次大戦後の戦後恐慌(20年)と,社会不安の台頭は否定しようもなかった。漠然とした不安を理由に芥川龍之介は,大正が終わると自殺した。
 この半世紀における近代史研究の主流では,ロシア革命後のコミンテルン日本支部の活動が活発になって以後の動静を,どのように把握していたのか。専ら日本政府の対処措置を負の側面からしか論議していなかった。自明化されていたのは,思想の自由への弾圧という視点であった。
 思想弾圧という負の見方に傾斜するところから,反コミンテルンの立場を持しての体制革正を求めて始まった運動の評価も,不十分になってくる。例えば満川龜太郎『三国干渉以後』にも記された大正維新運動への当事者による妥当な評価は,当時の官憲や文部省の文献でも前述のように無かった(注1)。足りなかったのではない。
 そこで,そうした論議の仕方が妥当であるかどうかの評価に進む前に,受け手の政府や選良(エリート)が,新しい事態に対してどのような問題意識で臨んでいたかを明らかにする必要があろう。それらを明らかにすると,現在から見ればそこから当時の行政における施策の限界も観えて来る。限界とは「管理」する上で見落とされた面である。
 限界ではなくて,「成果」(?)も観えて来る。その成果とは,行政上の技術面といえるか,または管理・経営手法とでも形容できるものか。当然に,この分野は敗戦後の占領中に継承されて生きていた面を見落とすことはできないと思う。個人も組織も,一度修得したり刷り込まれたりした手法から離脱することは簡単ではないからである。すると成果といっても負の成果になる。
 さらに,管理する側の問題だけでなく,管理される側との双方向関係における力学も問題として出てくる。その問題を明らかにすることは,管理される側の有している弱点をも明らかにすることを意味している。これらの問題群を明らかにしないと,不適切な行政行為に対して今後も求められる耐性も免疫力も蓄積されてこない。経緯とそれに表示される意味を明らかにする過程に,免疫力は作られると思うからだ。


1章 革命か維新かの争点

 1節 文部省が思想管理に躍起になった理由

(1) 革命は既存の体制を倒すこと
 ロシア革命の肯定的な評価の浸透と同調者の増大する背景にあるコミンテルンに指導された国際共産主義運動に対抗しての法の制定は治安維持法(大正14/25年4月)であった。そこで,前述のように(一部 前提二(3)),同法は結社を対象にした。同法の所掌は後に新設された特高警察になった。この半世紀では,同法と特高警察は蛇蝎のように嫌われて,近代日本史の恥部のような扱いである。天皇制国家を存立させる暴力装置そのものであった,としている。
 そこで評価は,いまだに負の面からの断罪しかない。だが,法制上は治安維持法とそれを所掌する特高警察のドラマは,本稿の前置きである「前提二」(一部)の視座から見る必要があることは略述した。その前提を自明としたら,革命は現体制の転覆を意図するものである以上は,元来から官憲がそうした動きに理解を示すはずがない。革命結社から見た暴力装置を担う側が革命に理解を示したら,体制はひっくり返ってしまう。
 革命派から見れば,既成権力としての官憲は現体制を存続させるところに主力を注ぐ以上,反革命であった。たとえ法治に基づく手続きを経ていても,である。革命側から見れば,法は現体制を守るための規制にしか過ぎない。コミンテルンによる革命は,既成の体制だけでなく,既存の価値観を転倒し破壊するところに目的があった。

(2) 国家日本は忠誠対象にならない
 すると,忠誠対象も根本的に違うことになる。当時の日本の指導層が,学生層や労働者階層とりわけ高等教育機関である大学と高専に就学している若年世代に浸透してきたコミンテルン流儀の造反有理の革命思潮に対して,不安と不信を高めたのは自然である。指令は外国からやってくる。忠誠の対象が日本にはない。しかも,彼らは次代の選良候補である。
 それだけではない。革命思想の蔓延の厄介なところは,関心が既存にはなく,夢想する未来にだけ主軸を置くところにある。既存の全てに責任はない。むしろ既存は制約でしかなく,破壊の対象にすることが革命者の責任になる。忠誠対象は未来である。未来を現在化している唯一の前衛としての党である。
 こうした事態は,日本の近代史において初めての出来事であった。内務省が欧州や中国に係官を派遣して,各国政府の対応を調査したのは,主権国家として当然の自衛手段であった。中国に対しては政府というより状況がどうなっていたのかの調査であったが,欧州では各国政府のソ連からの浸透への対応調査に主力が注がれたのは,容易に想像できる。派遣されたキャリアは後に初代の警視庁特高部長になった。
 コミンテルンに指導されたコミュニズム運動に見る左傾革命の思潮は,反革命派にも波及した。その典型が陸軍における下克上の台頭であった。ここでも,忠誠対象は天皇にありながら,天皇を象徴的な中核にした既存の体制に対しては,腐敗しているとして拒むという心理メカニズムになった(注2)。
 そこを内務省警保局が見極めたところから,思想局は,左右両派の運動に対し,合法非合法という表現を用いてはいるものの,「思想管理」の見地から同等に扱うようになったのは,昭和10年2月の局長通牒(発学一六号)に明らかである(四部6章3節)。ここに見られる均衡感覚は法治という近代日本国家の原則が生きていたことを示している。


 2節 不文法を実感する世代と希薄なロシア革命後の世代

(1) 国体と不文の法が危機に曝されている意識
 統帥権干犯から国体明徴に至る過程で展開された背景にあるものは何だったのであろう。それは祖宗の継承による日本の国体に基づいた不文の法があると信じられた世代や,それになんとなく同調する無告の民の大多数には,到底許容できない事態が起きていた。
 日本経済とそれに基づく財政規模から見れば,第1次大戦後の軍縮気運は,前述のようにむしろ望ましいものであった。だが,統帥権干犯という争点が提起されたときに,予算問題として政策科学的な問題意識から事態を省察するよりも,君側の奸によって不文の法が犯されているのではないかとの心情が台頭した。事態を政争の文脈の中で捉えたときに,そうした感情に訴える戦術は効果があった。
 そうした受け止め方は,現象を対象化する理よりは,現象に憤慨する情に傾斜し過ぎている。その下地の延長線上に生じたのが,天皇機関説批判から国体明徴運動に至る経緯である。天皇機関説という学説が瞬く間に非難すべき対象として問題化したのは,その語感による部分が多いからである。
 そこから,国体と不文の法が,文明開化により欧州から流入した思惟方法によって危機に曝されているとの意識が生じた。この見解は全く見当はずれではなかったところが厄介であった。そうした開化としての欧化による錯誤の最後に出てくるのが,反国体を不可避とするコミュニズム革命の信奉者の台頭である,と判断された。

(2) 不文法などは幻想と思う世代の台頭
 一方で,資本主義段階は歴史的な必然による経済恐慌で崩壊し,社会主義への革命に至ると確信する共産主義者の予備軍は,いくらでもいた。高等教育になればなるだけ,文明開化としての近代教育である欧化思潮によって,そうした発想を受け入れやすい心理環境が作られていた。生徒学生は主に活字情報,次いで映画などによる欧化の洗礼を直接受けていたからである。
 予備軍は,伝来によると看做された,例えば「教育勅語」に代表される旧態よりは,舶来の発想に親近感を抱いていた。彼らにすれば,観念的な分野でしかない国体に基づく不文法などは旧態そのものであり,負の「共同幻想」であった。それも,いずれは消えてゆく運命にある時代遅れの反動であり錯覚でしかないという,世俗的な進化論に染まっていた。
 双方には越えがたい落差が出来ていた。双方を結ぶ橋も回路も細いものになり脆くなっていた。それは両者の因って立つ基盤があまりに違っていたからである。まるで「文明の断層線」が世代間に実在しているようだった。日本を守ろうとする体制側と,そうした日本そのものを全面的に変えなくては日本が救われないとする革命の確信者あるいはその予備軍の双方での戦い,という図式である。
 その戦いの開始が文部行政の制度上で現れたのは,昭和3(28)年10月に文部省における学生課の設置と,直轄学校での学生主事,同主事補制度の新設であろう。文部行政は,対峙する開化世代に対しては,その基盤そのものを否定するだけでなく殲滅しなくてはならなかった。
 その制度的な表現が,学生部から思想局さらに教学局への拡充であった。だが,文部省自体を構成する要員も開化世代である。彼らによる事態把握の知的な水準がどの程度かは,前掲の『日本改造運動』を解明するための接近方法に,端的に示されている(三部5章2節)。
 いわば,全体がすでに文化から見ればアノミー現象を呈していたと言っても不自然ではない。夏目漱石が冷静に開化による文化変容を見たように,「日本の現代の開化は外発的である」ところから,「皮相上滑りの開化」なので,「上滑りに滑っていかなければならない」状況が現出していた(和歌山での講演『現代日本の開化』。明治44(11)年8月)。
 指導層である国政選良から見れば,コミュニズムの浸透によりさらに拍車の掛かった開化の思潮の進展は,体制や国体の精神的な基盤の融解が始まっているのと同じだと見たのである。だが,こうした危機感は指導層だけでなく,日本文化に根拠をおく人々にあっても同様であった。危機として事態を受け止めていても,その内容に違いがあったのは,次項で明らかにしたい。


 3節 「日本改造運動」派の有した制約条件

(1) 階級対立よりも東西文明の対立を基軸にする
 ロシア革命の成立とコミンテルン支部である日本共産党とその同調者の活動が活発になるに従って,現状への危機感から現体制批判はあっても,その方式に違和感を有した人々が台頭した。高等教育機関で就学している若年世代にもそうした気運が波及したのも当然であった。
 拓大生や教員の有していた危機感は魂の会に始まり,象徴的に行地社に結集した。ロシア革命後に言われ始めた大正維新運動に表出している。指導者の大川周明は,ロシア革命の指導者レーニンを一部で評価していた。しかし,階級闘争による世界革命よりも,興亜を目指した東西文明の対立と闘争に力点があったところから,同意までにはいかない(注3)。また日本には日本の国体に基づく変革(維新)原理があるとして,それを追求する見地を持していた。
 昭和に入ると,変革意図は昭和維新運動になった。従って,コミンテルン指導の革命とは,明白に一線を画していた。大川だけでなく,満川龜太郎,安岡正篤や,その教学を是とした学生や出身者には,現代風の表現を用いると,日本文化にIdentityの危機が招来しているとの警世的な認識があったからだ。
 彼らには,左翼だけでなく指導層にも不文の祖法の認識が十分でなく希薄になっているとの確信があった。そこから退嬰的と見られた指導層への批判は激しく,救国埼玉挺身隊事件のように直接行動を選ぶ者も生じたのである(三部5章1節(3))。
 この立場にある人々は,前述した「改造」という表現に集約されているように,反左傾革命の立場が,反動としての後ろ向きではない(5章2節を参照)。内容の当否はさておいて,それなりの変革の見取り図を有していた。その因って立つ根拠が日本にあった点が,左傾とは決定的に違う。

(2) 開化官僚による右傾理解の限界
 現体制批判では右傾も左傾と同じであるところから,官憲とは友好関係ではあり得なくなる。法治国家である以上は,法に違反していると見られると,処断されるのは当然である。場合によっては下獄することにもなる。
 だが,左傾革命を信じる同世代の者たちから見れば,所詮,日本主義を主張するのは反動としての反革命でしかない。一時は官憲との対立があっても,局面での政治的な利害対立でしかないと見ている。同じ穴のムジナでしかない。左傾の見方では,どこまで行っても右傾は権力の走狗を越え得ないのである。
 では,右傾とはそうしたものなのか。大方は,現象では概して間違っていなかった。労働争議に介入し,合法権力のできない部分を代行した集団はいたからである。こうした変態が権力の周辺に必ず付随して生じるのは,支配のもつ生態学的な現象である。そこには思想性とは関係ない権力の有する不可避な負の有様がある。
 非合法手段を辞さない国家改造を選択した者たちは,場合によっては同世代の左傾を選択した者たちとの戦いと同時に,非合法性に至るのを疑う官憲からの監視という,前後からの圧力を受けて運動を展開しなければならなかった。それは動機の純粋性を保持すればするだけ,きつい生き方になったのは,戦争中でも同様である(注4)。
 こうした行為を選択した当事者の心理背景には,制度や秩序よりも,義か不義かを最優先した判断基準がある。そうした指向は,行き過ぎると,見方によっては法を越え制度を無視した直接行動の容認ということになる。取り締まる側にとっては力学的に同質になる。
 しかも,治安上から取り締まり監視する側である官僚の右傾理解に限界があるのは,「日本改造運動」を解明する方法からすでに明らかにしている(前出,三部5章2節を参照)。日本回帰に基づく変革という意図が,淘汰されるべき旧来の日本からの脱却という開化意識によって曇るために,よく見えていないのである。ありていには,胡散臭く見ていた気配がある。
 にもかかわらず,一方では思想管理の根拠を,急ごしらえの「我国独自の文化学問」に置こうとする分裂症的な対応であった。そこで,評価として泥縄という表現を用いたのだ。
 高等教育の基調は帝国大学令に記されている目的を実現するための欧化である。官に瀰漫していたこの進歩意識に基づく現実認識は,占領中の適格審査に露骨に表出したのは,後に触れる。


2章 教学方針が観念化に傾斜する系譜

 1節 『非常時と国民の覚悟』/昭和8(33)年6月

 これまで上述した経緯を背景において,危機意識に基づいた文部省の教学方針が当該期間で最初に対外的に公表されたのは,昭和8(33)年6月に刊行された『非常時と国民の覚悟』であった(三部4章(2)を参照)。国家としての日本が国際的に孤立したのは異常事態との認識があったから,その作成では外務省と陸海軍省とのすり合わせがされたのであろう。前年5月に5・15事件が起きている。
 国際連盟脱退の詔書(3月27日)の読み方について,内閣告諭第一号(同日)が発せられており,同小冊子に収録されている。さらに文部大臣名による地方長官である知事と学校長に向けた「文部省訓令第三号」(3月30日),同日の神仏各派管長あての第四号,次いで,文部次官名で知事と学校長宛に指導要綱と実施要項が通牒(4月1日)された。
 冒頭は,「我が帝国は今や正に非常の時難に直面している」と記し,非常時という意味について以下のように述べている。「最も重大なるものとして,内には中正を逸したる過激思想の伝播,公私の経済の窮迫があり,之に加えて外には外交上の困難を招来している」。この順序付けが興味深い。官による危機の受け止め方が示されているからだ。事態に対する当事者としての責任からの回避が露骨に見える。


 2節 『国体の本義』/昭和12(37)年5月

 4年後の昭和12(37)年5月に,今度は文部省独自で『国体の本義』を発表した(四部8章1節を参照)。前年2月に2・26事件が起きている。
 緒言の冒頭は,「我が国は,今や国運頗る盛んに,海外発展のいきほひ著しく,前途弥々多望な時に際会してゐる。産業は隆盛に,国防は威力を加へ,生活は豊富となり,文化の発展は諸方面に著しいものがある。」
 4年前の表現と変わり,どこか景気のよさを感じさせる内容である。それは満洲建国以降の就業の場の増大による「公私の経済の窮迫が」見えなくなり,一見は事態がよくなった世相を反映している。一種の戦争景気であった。そこから,それなりの余裕が見られる。明治以降の欧化思潮にも是々非々で臨み,それなりの効果はあったと評価しているからである。
 だが,本文の第一「大日本国体」一,肇国,の最初は,国体明徴の決まり文句である。「大日本帝国は,万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ,我が万古不易の国体である」と。


 3節 『臣民の道』/昭和16(41)年7月

 その4年後の昭和16(41)年7月には,『臣民の道』の刊行になった。
 序言に言う。「皇國臣民の道は,國體に淵源し,天壤無窮の皇運を扶翼し奉るにある。それは抽象的規範にあらずして,歴史的なる日常實踐の道であり,國民のあらゆる生活・活動は,すべてこれ偏に皇基を振起し奉ることに歸するのである。」
 次いで,「歐米文化の流入に伴なひ,個人主義・自由主義・功利主義・唯物主義等の影響を受け,ややもすれば我が古來の國風に悖り,父祖傳來の美風を損なふの弊を免れ得なかつた」との認識を示した。
 対米戦争開始直前に出た『臣民の道』には,末尾に「おまけ三」として参考文献が100冊も提示されている。思想局が設置された頃には危険視されていた大川周明の著作,変わり種では3ヶ月後の10月にゾルゲの盟友スパイとして捕縛される内閣嘱託の尾崎秀実の著作もある。
 昨日の危険・不穏思想家は推奨され,日本軍の大陸進出を新秩序のためと嗾けて我が世の春を謳歌した中国通尾崎秀実は10月になって一転して国賊になった。東京大学にいるクリスチャンを反国体だと執拗に批判し続けて辞職に追い込む役割をし,敗戦後に自殺した蓑田胸喜の『日本世界觀・國防哲學』も推薦されている。
 思想的な脈絡では教学局を含めた文部官僚が,知的(?)にいかに混乱していたかのわかる書物の列記である。その脈略の混迷を跡付けるだけでも「思想管理」の浅薄さが明らかになるだろう。因みに,つい数年前まで良書推薦書の執筆者の一人であった安岡正篤の著作は一冊も紹介されていない。すでに普及されて強いて取り上げるまでもなかったのか。


 4節 昭和8年から16年までの8年間の思想的・政策的な営為

 この三冊はいずれも世界の趨勢の解明を行ってはいるものの,国民への要請では徐々に観念化への傾斜を早めている。それは最後の小冊子の名称が国民から「臣民」になっているところにも端的に表示されている。
 国体,国民精神,日本精神などという言語表現への使用頻度の多さによる異様な傾斜は,理由があったはずである。その理由の解明は様々に行われる必要があるものの,文部省によるその思想的,政策的な取り組みがどの程度のものであったかは,すでに行政資料から跡付けた。
 そして,官僚やその指導を受ける高等教育機関の当事者が果たしてどこまで使用する概念や修辞に没入していたかは,ここで紹介した良書推奨や講習会など実際の資料からおおよそはわかるものであろう。
 決して充実していたとは思えない。行政官僚としての焦燥感があるのはわかる。しかし,いくら焦燥しても充実するものではない。文脈が未完であるだけでなく,そのとっかかりが不鮮明なのである。そこで並べるだけになる。あとは,名称がついていれば何かあるのではないか,になる。皇道経済学など。
 そして,国民精神総動員と名づけて取り組めば取り組むだけ,外交関係での現実は袋小路に追い詰められていった。その落差の生じた背景に何があったのか,内面と国際環境の二つの側面からの考察が求められている。


3章 国体明徴は文化的な一体性の深化か

 1節 「我国独自の学問文化」・「東洋教学,東洋文化」への回帰

(1) 回帰現象は事態への後追い
 昭和6年1月の「私大学主事・学生監第2回会議での議了事項」にあった今後の方針として提示された,「欧米の思想に対する心酔の弊を矯め」た「我国独自の立場」や「東洋の学問的研究」の振興(二部2章1節)と,文部行政としての着手には時間差があった。
 それを「遅滞」(lag)と呼べるかどうかは,接近する立場によって変わってくる。しかし,年を経ていくに従い,急速に「我国独自の学問的研究」や「東洋教学」の振興に,それなりに工夫を凝らすことになった。
 一例を挙げれば,「東洋教学講習会」の試みは昭和13年6月のことである(五部9章5節(3)を参照)。『国体の本義』刊行の一年後のことだ。後世からから見れば,問題提起から6年後である。おそらく,こうした企画は時勢から来る圧迫の産物であろう。その内容は,すでに本稿で年を追って明らかにした。
 後世から見れば,それは泥縄になる。『非常時と国民の覚悟』や『国体の本義』の文脈には,明治以後,短時間に営々と接木してきた近代国家の創設における諸般が,国際情勢の悪化に伴って変質してきた現実が示されている。その感覚は「名誉の孤立」から来る副産物ではあったが,やがて副産物に教育社会全体が振り回される事態になったといえる。

(2) 文部官僚の世界認識と拓大の「文装的武備」
 近代日本の知的世界で見ると,我国文化への回帰の試みは,文部省から突如として始まったものではない。上述のように(3節を参照)「回帰」という働きは,すでに大正時代から拓大内でも「大正維新」としても着手されていた。
 ただし,そうした営為が文部省のそれと目指すものが同質であったのかは,一つの問題として残されている。どうやら両者の内容は違う。その違いは,拓大という教育の場が,台湾から満洲にかけての経営主体であった東洋協会や会長後藤新平の軌跡,それに連なる人材群の思索とそれに基づく行為に密接に関係していたからである。
 しかも後藤の発想は,北東アジアの国際環境が激変したロシア革命以後では,当時の国政選良間で主流になっていなかった。むしろ警戒されていたのは,ソ連接近という外交上の選択肢の提起によるとして,若干触れた(七部3章5節)。
 日本列島と列島外との関係認識で,後藤学長に代表される世界認識や後藤の推挙で拓大教学に関わった上述の教授たちは,内向きであるよりは開かれており,包括的であったからだ。立脚点としては日本重視であっても,それだけに終わっていない。「東洋の学問文化」世界との相互関係から「我国独自の学問文化」を把握していたからである。
 そこでの思索は,ここで扱った文部行政の接近とは肌合いを異にしている。それは日本と東洋世界との関わりが,歴史的なものあるいは古典からのものだけで終わっていないからだ。
 欧米世界に対峙する存在としての日本では等値関係にならない。だが,東洋世界を踏まえると,「西洋と東洋」という図式が成立する(注5)。ただし,実体ではなく要請としてであった。それは物理的に西欧文明が非欧米世界に衝撃をもたらし圧倒していたからであった。この衝撃は友好的なものではなく,支配・被支配の図式であった。そうした力学の中で日本を把握することを自明としていた。
 従って,日本文化の独自性を追求しても,それは偏狭なものではなく,東洋世界に開かれていた。産業革命を経て近代技術により武装した欧米世界に対して,東洋世界としての共有する範囲をいかに拡大するかに腐心していた(注6)。後藤は,それを「文装的武備」といった。その対語は「武装的文弱」である。後者はこの半世紀余の日本では軍国主義というのが通称であった。
 「文装的武備」はなぜ必要であったか。それは旧弊からの脱亜を通しての興亜が在り方として求められていたからである。その一端を現象面から眺めたのが,前掲の「問題の整理」(七部)でもあった。「思想管理」側への,さほど意識した上でのものではない距離を置いた対応に露わにされている。資料から見ても,応接に微妙なずれを感じ取ることができる。このずれに見識の差が暗示されている。


 2節 「上滑りの開化」への彌縫策あるいは糊塗策

(1) 欧化は文明の不可避の道とする知性の浸透
 日本近代の道を指し示した福澤諭吉は「脱亜論」(1885年)という小文で,中国と朝鮮は文明とは程遠い野蛮な世界だと痛烈に難じた。その修辞は単純ではないものの,開化は不可避と見たのは妥当である。それは日本文明を否定する欧化を是認したものではない。
 だが,欧化による近代の高等教育の浸透は,欧化の徹底こそ日本の近代化と確信する世代の登場となった。それは戦前戦後に関わりなく,大正デモクラシーを経た昭和時代を通して見られる現象である。その延長線上に最初はキリスト教,それもプロテスタンティズム,そしてマルキシズムが出てきた。プロテスタンティズムとマルクス主義の触媒になったのがドイツ観念論であり,とりわけカント,それも新カント派の影響であった。共に進歩を信じていた。それが個人を優先するか社会を優先するかの力点の置き方の違いとも言える。
 そのような西欧衝撃によりもたらされた近代を,それ以前の「我国独自の学問文化」・「東洋の学問文化」をもって対抗し乗り越えようとしたのが,ここで扱った思想管理の基調であり傾向である。後から見ると政策とはとうていいえる代物でないのは,敗戦後の破産に見られる。霧散したからだ。
 欧化を是認する近代派にとっては,そうした思想管理は,近代以前の古典を最優先するところに見られるように,後ろ向きの一種の反動にしか見えなかった。かれらから見れば,前掲の文部省による三部作(2章を参照)は,その程度はともかくとして,反動の部類に入るのであろう。
 突き放して言えば,結局は文弱をもたらしただけに終わった。自己肥大の視野狭窄そのものと理解していたのが白日の下に晒されるのは,日本の敗戦による占領時代である。GHQが主導した近代日本を否定する歴史認識の公認まで待たなくてはならない。

(2) 昭和期の文部官僚による「思想管理」は彌縫策?
 戦時色が濃厚になるに従い,文明開化への反省がしきりに言われて,「我国独自の学問文化」・「東洋の学問文化」への傾斜になって表われたのが,今回の本稿で扱った期間であった。それは家庭の基盤,それも懐石料理の推奨にまで及ぶ広範囲なものであったのは,関連通牒に現れている。
 そうした試行の全てが敗戦後に軍国主義として批判されることになった。文部省教学局に代わり,GHQ・CIEという新しい強力な「思想管理」機関やその構成者が現れた。一転して占領中の教育方針は,教育勅語を否定した旧教育基本法に基づいた「平和と民主主義」による文化国家建設になった。
 それに呼応する強力な同調者が出現した。CIEの方針を徹底することは,近代で微温的であった開化政策を徹底して推進することと理解する人々である(後述7章)。その担い手は,戦前に時局に合わないと帝国大学を追われていた「自由主義者」である。彼らは,CIEの指示によって復職した。
 45年10月から11月にかけて軍令部と参謀本部が廃止されて日本軍の解体が終了した。GHQが実質上で活殺権を握った46年以降から,これまでの歴史ある文化的な土壌は軍国主義の温床であるとの意見が堂々と開陳されることになった。適格審査を推進する思想的な根拠である。
 しかも,そうした評価が今度は新しい外来の権力であるGHQにより公認された。明治政府による外発的とはいえ自分たちの決断による開化とは違い,占領下における剥き出しの外発による変化の圧力である。それを奇貨として取り組んだ欧化知識人は文部官僚だけでなく大学・高専にもいた。ここに見られるのは,なんと切ない近現代日本の「精神的状況」である。
 「我国独自の学問文化」・「東洋の学問文化」対「平和と民主主義の文化国家建設」の間には,どのような関連性があるのか。2つの時代を生きて,文部行政に従事した人たちから,そこの文脈を明らかにした解説に接したことがない。「あれかこれか」で一方を肯定し一方を否定する所説はある。だが,それは個人や任意の小集団による印象批評としての言い分であり,機関としての歴史解釈とは言い切れない(注7)。

(3) 欺瞞と倒錯を意味する「状況追従」?
 結局のところ,近現代を通して文部行政に一貫して有力なのは,この節の小見出しである,「上滑りの開化」への彌縫策あるいは糊塗策の継続ではなかったのか。それを,西欧衝撃から始まるのを余儀なくされた外発的の開化に起因するものと思われる。内発よりも外発の側面が強かったからである。
 明治維新の国是であった「五か条のご誓文」やそれに基づいた「教学大旨」(明治12/1879年夏)に見られる文化的な一体性に基づこうと心がけた初心は,欧化の圧力に負けて見失われてしまったのであろう。そこから「状況適応」というよりは「状況追従」の早さも生じて来るものと思われる。そこを漱石は「上滑りの開化」と見たのである。
 外発的で上滑りの文明開化としたら,個々の内面は常に先進であるはずの欧米文明に追いつこうとする心理的な飢餓感に襲われることになる。そこに自我の分裂が生じるのは不自然ではない。しかし,生身の一人一人はそれを内面にあるのを認めたくない。認めたくない心理は,それだけでは据わりの悪いところから,自己欺瞞をもって均衡を保とうとする。
 何を欺瞞するのか。少なくとも自分たちは開化の先端にあるとする錯覚である。その他の民衆は遅れており蒙昧に近いと優越している。そうした心理が集合するところに編み出される政策や措置は,彌縫策や糊塗策しか有り得ないことになる。取り組みの動機が内発というより常に外発に由来しているからだ。
 欺瞞心理とは何か。どのような事態になっても,外界の変化を許容する仕方に問題がある。欺瞞とは事態をありのままに受容していないからである。受け入れに欺瞞という心理が媒介するとは,屈折した受け止め方になる。屈折した心理は,現実の認識に歪みをもたらしてしまう。敗戦を終戦と命名したことにより,占領軍が進駐軍になったように。認識の世界で表現を変えても,現実としての事態そのものに変化はないにもかかわらず。


4章 戦前と占領を繋いだのは行政上の管理手法

 1節 占領中にも継承された管理の手法

 占領中の教職適格審査を推進した力学に示されているものは何か。その時代の文部行政は,第一稿で明らかにしたが,その示唆するものは実に興味深い。敗戦とともに,急遽,教職適格審査の作業に,文部官僚がすぐに取り組め得たのはなぜか。その背景条件を徹底してあぶり出す努力を惜しんではならない。それは過去の問題ではなく,情けないことにこれからの課題でもあるからだ。
 たしかに公職追放によって高級スタッフの入れ替わりはあった。あったものの,かくも速やかにGHQ・CIEの指示と言うよりは命令に取り組め得たのは,これも国家非常時への即応の折と同じく,内容ではなく外的な適応を優先する「糊塗」心理が属僚の習性になっていたからか。
 そこには「行政の一貫性」は見られない。見えるのは,変わらない適応力の発揮だけである,とだけ事態を見ていても,真相はわからないと思われる。中枢が内容を決める。その決められた内容である通牒や実施要項に沿って,属僚は物事を忠実に進めていく。
 本来,知性とは内容の構成に働くものである。だが,教職員適格審査や敗戦以前の思想善導に名を借りた「思想管理」は,180度の転換を果たしても,収拾できない混乱には至らなかったのはなぜかを考えて見る必要がある。2章で触れた前掲の三部作もさほど深刻に受けとめていなかったのであろう。
 おそらく15年に及ぶ戦闘と戦争開始後の数年,とくに敗戦末期の空襲に,人心は倦いていたものと思われる。勝利者が燦然と乗り込んできたように見えた。空襲により家を失いバラックに棲む空腹を抱えた都市の日本人の前に,頑丈で機動性に富んだジープからチョコレートやガムが撒かれた。勝利者の与えたマニュアルに従えば,当面を凌ぐことはできる,と多くの人々は感じたのであろう。そこには我国独自の文化など考える余裕はない。


 2節 戦前と占領中の文教行政に共通しているもの

(1) 超法規的な法治の時代
 管理というシステムの完成度が高いために,そこに新たな「思想」を流し込むだけでいい。官僚も属僚も新しい外来の支配者であるGHQの指示に唯々諾々と従ったのは,すでに解明した通りである。この現象は,逆説的に言えば,表面上では法治が徹底したとも言える。だが,それはイスラエルでのアイヒマンの弁明である,「命令」に従っただけだという責任遂行による回避の仕方が,日本にも見られたのか。
 本稿の課題を踏まえて,法制環境から2つの時代を比較すると,そこに共通するものを発見できる。公布された国家総動員法は,帝国憲法下にあって非常大権法的な性質を帯びたいわば超法規的な存在であった(五部9章の1,2節を参照)。占領中にGHQから付与された現行憲法があっても,GHQの指示通達は超法規的なものであったのと相似している。
 前者は,昭和14年2月になると「国民精神総動員」体制が作られている。2つの時代に共通しているのは,官側から付与されるプログラムは有無を言わせない強権的なものである。従わなければ,前者は非国民と呼ばれ,後者では非民主的な軍国主義者と言われた。こうした環境は共に高等教育機関の本来の有様ではなかった。

(2) 「古い上着よ さようなら」だけだったのか?
 「時代が変わった」との理由で,ただ状況に追従するだけの適応に終わっていたのか。施行する側は,いつもの通り多少の新しい理由をつけて適応を言い募るだけである。占領中の新しい理由は平和と民主主義であった。映画『青い山脈』の主題歌の1節を引けば,長い戦時体制で疲れていた庶民の生活感情では,それ以前は「古い上着よ さようなら」なのだ。
 肉体や皮膚ではなく,上着なのである。外発的な開化とは借り着を意味してもいる。すると捨てるだけでいい。与えられた新しいデザインの服を着込んだのである。寸法は合っていたのかどうか。
 丈の詰めや肩幅を縮めたりする占領中での調整が,生徒に対しては,新しいデザインから見て不都合な教科書の中身のうち一定部分を墨で塗りつぶした。占領政策にとっての有害図書を集めて焼却した。次いで,教職員適格審査である。本稿の扱った期間で見るならば,善導に名を借りた「思想管理」である。
 国家非常時を認識して国体明徴を叫んだ場合と,時代が変わり占領側から与えられた民主主義を叫ぶ間にある距離を,どのように測ればいいのか。そこには,前述とは全く意味が異なるものの,「行政の一貫性」が見られることになった。権限を盾にしての指示であり,そこでの管理システムと運用には,変化がなかったようである。行政側だけでなく,指示に追従した側にも問題がある。


5章 事態の受け止め方に政策科学思考が働いていない

 1節 感情論の前に外圧による被害者意識

 属僚に習性として管理技術だけが継承される結果になった,知的な貧困の由来を考えたい。敗戦の結果,占領された後,文部省教学局が意図した試みは泡沫のように消えた。それほど皮相なものでしかなかった。結果として見れば,当たらずとも遠からず。それは,事態の受け止め方に偏りがあったからである。
 一部の前提一から三にかけて取り上げた課題は,全て外圧であった。そして外圧は危機として受け止められた。その後の展開は,たとえ後世から見て惨澹たるものであっても,危機管理の試行錯誤の過程であった。果たして,そこに包括的なマネジメントがあったのかどうかの評価はさておこう。むしろ,どのような環境把握の下に「管理」をしたかを見極める必要があろう。
 時系列で見るならば,最初は,「前提二」で取り上げたコミンテルン日本支部の革命を求めての動きであろう。次いで,「前提一」のニューヨーク株式市場での大暴落である。そうした背景があったところでの,「前提三」のロンドン海軍軍縮である。
 その影響するところは政策科学思考による危機管理を必要とする。しかもそれぞれ問題の性質が違うところから,管理の仕方は同質ではありえない領域である。くどく言えば,それぞれ政策科学の問題として処理できたはずである。そうと見るのは,後知恵である。だが,精神や倫理上の解釈が優先してしまったのはなぜかの問題は,いまだに解決しているとはいえない。
 この3つの課題が外圧であったところからか,その受け止められ方に感情的な側面が強く働いた。事態を対象化して把握する働きは少なかったようだ。感情化への傾斜の促進を,結果的とはいえ果たしたのは,海軍軍縮条約の調印を統帥権干犯として議会で政争の具にした動きであった。次いで,その遠因があっての,天皇機関説問題に触発された国体明徴騒動への展開であった。感情化とは国家としての日本へ反発する外部世界への被害者意識の優位である。


 2節 感情や精神で糊塗しようとする心理

 事態の受け止め方で,政策科学とは離れた精神論あるいは観念論が先行している。冷たく言えば,そうした「空気」の圧力から生じた集団ヒステリー状態に徐々になっているように見える。状況が作られて,事あれかしと跳梁した人々もいたであろう。その結果,作為ではなくても,そこに問題のすり替えが集団錯覚か催眠によって行われていく展開になっているように思える。
 国民の大多数は,生活に直接している経済不安が最大の問題であった。経済恐慌による雇用機会の減少が,社会不安に直結するのは自然である。そこに,コミンテルンの指導下にある結社とその影響下にある集団の活躍する余地が拡大した。学生は卒業しても就職先がほとんどなかった。
 問題を政策科学の分野ではなく精神論的な分野で受け止めると,国民精神文化研究所の研究生指導科を全国民化しようとすることが政策目標になってしまう(三部3章注7を参照)。だから,文部省は文教行政を時勢に即して直截に,そして当事者たちは重々しく,思想局から教学局に展開させていったのであろう。その意図は名称変更に赤露々に表出している。


 3節 問題が生じるのは国民個々の精神に問題があるとする

(1) 建前としての精神偏重による袋小路
 なぜ精神論に集中していく結果になったのか。昭和5年4月に締結したロンドン海軍軍縮に始まり,翌年9月の満洲事変以後に,米国を主にした国際的な包囲網が徐々に狭まっていると思い込んだ。先に触れた『非常時と国民の覚悟』(2章1節)の編集の仕方に如実に現れている。こうした認識は,日本共産党員の転向理由にも反映している(後掲九部 資料(3))。
 当時の欧米列強諸国の国際関係は,その是非はともかくとして,現状維持が基本であった。それに挑戦する以上は,対日批判の圧力が増大するのは当然であった。包囲されているとの感情は,自立意識を喚起する表れを意味している。だが,そこでの彼我の関係への関心は,どの程度のものであったのか。関係よりも内向きになっていなかったか。
 管理する側は,経済不安に乗じたコミンテルン支部の活躍が生じるのは,国民個々の精神面の自覚の不徹底から生まれると考える倒錯した陥穽に嵌った。そうした解釈をした方が分かりやすいし,そうした理解に安住すれば楽である。実態から離れた過剰な誇りは,そうした心理操作をもたらしやすい。
 時勢は統帥権問題から国体明徴へと展開していく。政策としての外交問題は,国際関係における彼我の力関係を評価するところから始まる,はずであった。しかし,その常識の生きる余地が狭まった。
 国賊としてのコミンテルンの走狗や左傾分子が跳梁するから事態が悪くなるとの転倒した解釈が横行し,あげくに納得してしまう者も出てくる。国内に敵がいるのだ。専制体制は意図して国内に敵を創出するのは,スターリンのソ連やヒトラーのナチス,そして現在の北朝鮮を見ればいい。それは強制収容所の存在に端的に現れる。
 しかし,1945年以前の昭和日本は,そうした動きには至っていない。提案もなかった。日本の体制は国家総動員法の制定で軍国化しても,全体主義でもなければファッシズムにまでは至っていなかった。軍部が国政を壟断するようになっても,天皇主権が抑止力としてからくも生きていたからである。

(2) 事態認識に精神が先行して生じる隘路
 せっかくの歯止めがありながら,輔弼の臣は,それを生かすところまで至らず,国民に向けて国体へのありがたさを喧伝するばかりであった。国政選良は,国難として抱えている問題群に政策科学の思考により共同で取り組むところまで至っていない。それは精神論を掲げるところから,それぞれの機関の代表が自縄自縛になっていたからだ。
 冷静にデータを出し合って,事態がどうなっているかをクールに検討するよりは,情報の隠蔽に国体という抽象言語を用いて狂奔している。陸軍は海軍を信用せず,海軍は陸軍を信用しない。軍は行政を手段化しようとし,行政は軍の横暴に面従腹背で抵抗する。
 文部官僚は精神論によって国難を打開できると心底思っていたのであろうか。敗戦後の豹変から見ると,どうやら疑わしい。民主化と非軍国主義にきれいに切り替わっている。まるでリセットしたように。
 政策科学思考は事態に距離を置く認識力を不可避とする。そうでないと,解決に至る回路が明らかにならない。そこに精神論が入ってくると,問題の複雑化が際限もなく続く。元来,そうした精神論が最も排除されていなければならない閣議で,天皇機関説から国体明徴問題以来,抽象言語が堂々と横行することになって,日本は破局への道をまっしぐらに進むことになってしまった。

(3) 活性力を失っていた昭和国家の選良
 国体明徴が在郷軍人会を通して国民運動にまでなっていく経緯を見ると,いくら「空気」とはいえ辛くなってくる。運動に拍車がかかればかかるだけ,本来の問題解決は遠のいていくばかりだったからだ。抜本的な政策構築への関心が選良に共有され取り組まれていたのかどうか。
 具体的に何を言っているか,一例を挙げよう。小作農を無くすための農地改革である。あるいは下級労働者の最低賃金ではない最低生活の確保である。こうした政策分野は,軍の望んだ兵の供給基盤の強化にも通じる。
 明治維新で版籍奉還を行い数百年にわたる武士階層を消滅させた革新性は,昭和時代の政府を構成する指導層から失われていた。既得権益を自明としたのである。そうした既得権とて,1868年の明治維新以後の10数年の間に出来たものであったにもかかわらず。そして,この種の多くの課題は,日本が敗戦したことにより,日本軍国主義解体を意図したGHQの蛮勇によってのみ,解決の道筋が着けられたのを見落としてはならない。
 危機の受け止め方での錯誤の生じた背景に何があったのかを,過去のこととして考えてはならない。すぐれて現在性を有しているという視座を堅持する姿勢が求められている。近代における高等教育の欠いた部分がもたらした側面に注視する必要がある。大雑把にいえば,こうした限界は,事態を他と比較できる複眼的な思考が劣化したところから発生したと考えるのが妥当である。


6章 複眼的な思考力の劣化

 1節 比較認識を不可避とする複眼

 本稿で扱った期間は昭和5年から16年にかけての10年余であるが,占領中をも含めると,それでもかなりの期間となる。その間に起きた戦争と敗戦さらに占領という激動において,文部行政の一過性に見られる癖,強いて言えば病癖は,一言で言えば,弱さであろう。比喩で言えば,「考える葦」というよりは,「風にそよぐ葦」であろう。
 しかし,その場面の当事者は,結構,強気に振る舞っているようにも見える場合が多い。それは表層では,法に基づいて所掌し管理する対象である公私立を問わない学校に対して,依命通牒を発する立場から来るものなのであろう。一方で,強面(こわもて)の警視庁あたりから学生管理がよくないと決め付けられたおりの右往左往ぶりは,内面(うちづら)に強く外面(そとづら)に弱い事大主義も感じられる(三部5章4節)。
 いくら知性があると信じていても,強者に徒手空拳で立ち向かうのは例外であろう。もし,普通の人々が横車を押す強者に立ち向かうのが習いであるとしたら,世界はすでに昔から「永遠の平和」(カント)を確立しているはずである。風にそよぐのは,いわば人間性のもつ自然の習いであるからだ。
 行政側,ここでは文部業務を担った近代日本知識人,あるいは知識人らしい知識労働者が,そしてこうした文部行政の管理下にあった大学人の多くが,本稿で見られるようにかくも時勢に唯々諾々と流れていったのはなぜか。
 近代日本の黎明期を担った明治の知識人と比較して,昭和に入り,ここで扱った期間に役職を担った人々の振る舞いに見られるのは,共通している。それは余裕のなさである。国家非常時である。のんびり構えるのは非国民であるとなるからなのであろう。
 すでに多くの通牒などで見てきたように,事態への取り組みが海外留学の抑止にも見られるように,指導者や指導層が視野狭窄になっている。むしろ海外への留学生派遣を増大するくらいの見識が求められていたはずだが,そうした気配を窺うことはできない。明治初期の巨額な経費を用いた岩倉使節団の派遣を決断した政策上の視野とはまったく無縁の,内向きの心理メカニズムに陥っている。最初から事態に負けているのである。


 2節 明治の先駆者は複眼的な思考や認識を日常化

 どうして視野が狭まってしまうのか。それは事態へ複眼的に注視するのが不得手なところから来るのではないか。全て単眼的に眺めてしまう。すると認識対象は単色になりやすいのではないか。しかも内向きに,である。
 対象を複眼的に見るには,政策対象として事態を観るからである。それには,現象を比較して考察する手法を習慣化しておくことが求められるはずである。すると判断に思い込みを許す余地は少なくなる。独自性を明らかにするためには,かくあれとする未来を構想することと表裏にある。そこに至るには,実証に基づく均衡性を伴った複眼による比較思考を抜いてはあり得ないはずである。
 情報は1箇所や一方からだけのもので良しとしていては,複眼的な思考は成立しない。比較を必要としない情報の入手を一箇所に限定すること自体が,すでに思考力の劣化を示している。
 近代日本を作るに際し,先駆者は多くの事物と情報の比較を行い,複眼的な認識を日常化するところに近代化を求めた。全員がそうでないにせよ,指導者の中核は,前述の岩倉使節団に見られるように,当時の先進社会の現場に長期に密着して,各国を比較しつつ,何が日本にとって必要であるかを見極めようと努めた。ここでの比較はあれかこれかではなかった。複数の事例を勘案してのものであった。
 そこには後戻りできない退路を断った上での真摯な覚悟に基づいていた。先進諸国に比して多くの面で劣勢ではあっても,立国という責任を自覚するところに内面では自立した強者であり得たのである。そこで,複眼的な思考は当然のものになった。


 3節 比較を必要としない知性(?)の劣化

 複眼的な思考を日常化することは,強靭な神経を必要とする。それは前述のように認識に比較を不可避とするからである。だが,それに比して,単眼的な思考や視野に安住することは楽である。楽に安住したのは思考力の劣化であろう。劣化は,例えば後述の新渡戸稲造に見られるような,「文明の断層線」に跨る知識人としての苦悩を深刻に経なかったところから来ていた。
 だから,敗戦という未曾有の事態に突入し,占領軍の支配下に入ると,大方は時代が変わったとばかり,それまでの定見を180度変えられた。内容は変わっても単眼には変わりはないことになる。その直後には一時は呆然としたかもしれないが,占領という外発的な変化の事態に心理を適応させて,軟着陸してしまった。外発的な開化への適応で自己欺瞞はお手の物であったからか。
 「長いものに巻かれる」の世智もあろうが,そうした自分にさほどの違和感もなかったのが大方のようである。敗戦直後の興奮が,日常生活の中で冷めてくるに従い,それまで確固として日常に実在していた大日本帝国が雲散霧消してしまった実感が内面を占めたからであろう。
 こうした現象は知性の劣化現象と言うのが妥当であろう。劣化というのは,かなり挑発的な言い方である。複眼的な思考の体験がほとんどないところから,占領という現実の受容を余儀なくされた。すると,不本意ながらも自らを欺瞞する心理回路を辿るしかなかった,というのが妥当なところではないか。
 自前の思索がどこまで働いているのか?そして,そうした働きは何から生まれるのか?「事物を有りのままに観察」(七部 問題の整理3節(2))することが第一。それは肉眼による認識に徹すること。すると,それは心眼の鍛えに通じてくるであろう。肉眼を疎かにすると抽象的な観念に傾斜しやすい(注8)。複眼思考はあり得ない。肉眼と心眼は相即関係にあるからだ。



(注)

1.行地社とその周辺が問題である。それは,思想面から問題を明らかにする必要がある。そこで大正14年4月に創刊し昭和8年まで刊行された機関誌『日本』に収録された諸稿を主に扱う必要があろう。
2.元教授永雄策郎は占領中に公職追放になった。死期に近づいた1959(昭和34)年になって,下克上の実態を反省も込めてとも思われるが,北一輝「日本改造法案大綱と大川周明博士」で鋭く解明した。編纂室編『近代日本の拓殖(海外雄飛)政策家 元教授・専門部長 永雄策郎』に収録。400〜415頁。平成16年。
3.モロジャコフ・ワシーリー「大川周明のロシア観 保守革命家の目で見たロシア」『拓殖大学百年史研究』13号。
4.「《聞き書き》戦時下の学生生活と,主事として感じた昭和末期の学生生活 西村清人(学部40期/元学生主事)に聞く」『拓殖大学百年史研究』15号。
5.後藤新平は第一次大戦後の日本が,ドイツの敗北,ロシアでの革命,フランスの疲弊により,英米に次ぐ三大国になったと喧伝されたのを戒めて,「三大強国の中にどうして列して来たかというと,この東洋に居るためである。(中略)東洋において唯一の国であるからということになる」。講演「世界における日本の地位」。編纂室編『背骨のある国際人 後藤新平』156頁。前掲拙著97頁。
 「西洋と東洋」という捉え方は,前出の1章3節(1)を参照。または,七部の各章を参照。
6.これまでの後藤,新渡戸,満川,安岡についての編纂室の刊行物に掲載された資料と研究を参照。後藤については,前掲『3代学長 後藤新平』に収録されている後藤の文章や演説記録など。
 未収録で最近発見された東洋協会大学で大正13(1924)年4月23日に恩賜記念講堂第13回祝典での祝辞では,そこを明快に指摘している。前掲『告辞編』三六−一.
 「現在の東洋の形成如何と考えて見まするというと,東洋協会大学なるものはその歴史に鑑み,既往現在より将来に徴して重大なる責務あることを思わなければならぬことになりました」と,彼なりの覚悟の程を示している(199頁)。その前提には,大陸への進出が「敢て侵略主義ではないが,日本帝国の防衛の為には大陸に対して彼の如き施設を為すの已むを得ざる立場にあった」という複眼認識があった(202頁)。日本国家の進出を一方的に是認しているわけではないところを注目したい。
 後藤のこうした志向は,台湾総督府民政長官に在任時代の台湾協会学校における講演でも述べられており,一貫しているのが分かる。『台湾協会学校学生諸君に告ぐ』明治34(1901)年1月17日。編纂室編の前掲書。40〜48頁,とくに42〜43頁を参照。
7.主権回復後2年たって刊行された文部省編『学制八十年史』(昭和29年)は,占領中の教育を「新しい教育体制」(第7章)としている。その章の31節で「独立後に残された教育の課題」と題して,占領中の変化を基調で認めつつ,是々非々の立場をとってはいる。
 『学制百二十年史』になると,第2編の1章を「戦後の教育改革」として占領中を扱っている。2章は「新教育制度の整備・充実」として,同様の文脈だが,多少は占領中の変革に批判的な側面が強くなっている。40年の時間経過の重さであろうが,それにしても,との所懐を抑えることができない。
 占領中に文部省に入省して,次官までなった木田宏という方が某大学の定期刊行物に定期的に発表されてまとめられた回顧録に近いものがある。その1節に,占領中の文部省での業務で,敗戦の悲哀を感じた風の下りが筆を押さえてさらりと記されていたのを記憶している。
8.永雄策郎「日本人の肉眼」。昭和34(1959)年。前掲拙著五章に資料として収録。327〜337頁。フィヒテの認識論を援用しての永雄による心眼と肉眼に関わりについて,「心眼の育成は肉眼の育成を基本とする。肉眼の育成を無視して心眼の発展はあり得ないことになる」(同上330頁)に到達した見識は,上滑りの知識人の認識にある「あたかも根なし雲の追及」(同上)を指摘して余すところがない。
 ここで永雄が力説したかったのは,観念的な思惟を優先してリアリズム認識を厭う思考に流れている高等教育を受けた大学人や官僚になっている人々への憂慮であった。それらの問題点は後掲の「総括」で扱うことにする。


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