七部 近代日本高等教育史における拓殖大学の教学(2)
3章 学長永田秀次郎の歴史・世界認識
1節 学長永田の軌跡
(1) 後藤新平が後事を託した人
昭和4(29)年春に3代学長後藤新平は逝去したのに伴い,4代学長に就任したのは永田秀次郎であった。永田は,逝去する昭和18(43)年9月まで,14年間その地位にあった。
昭和5年5月30日には東京市長に就任し,3年半ほど続けている。同11年3月には,2・26事件の直後にできた広田弘毅内閣で拓務大臣に就任している。14年11月には,後藤も就任したことのある鉄道大臣に就任した。
本稿で扱った期間の拓大の学長は永田であった。しかも,満洲への移民政策との関係でも,態勢を整える段階では拓務大臣として所掌している。国策という観点から見ると,永田は影の主役の1人と言えるかもしれない。永田を挙げれば,もう1人の隠れた主役は児玉秀雄である(注13)。
永田が拓大関係の役職に就いた最初は,大正8(19)年の東洋協会理事就任であった。就任して4日後には専務理事に昇格した。と同時に拓大幹事も兼任した。3年後の大正11年6月には拓大理事に就任した。昭和3(28)年には学監も兼務している。この経緯から,学長後藤新平が実務上で後事を託しているのがわかる。
永田について,大学関係者の寄稿はそれほど多くない。その大半は追悼集のもので,永田自身の考え方について体系的に解明したものはない。
永田は啓蒙書を多く刊行している。そうした平易さを心がけた節は,新渡戸と共通しているかもしれない。青嵐という俳号を有し,句集も令息の亮一が刊行した。俳人として心境を吐露する性格であったところも,自分の所信の伝え方に関係しているかも知れない(注14)。俳号からは,その名づけに抑制は見られるものの,気象の激しさを秘めているのが仄見える。
生来,後藤新平のように散文的な性質ではなかったのであろう。にもかかわらずか,それだからこそか,後述するように,後藤の衣鉢を忠実に継いだことがわかる。「士は己を知る者のために死ぬ」をそのままに往った。
このあたりの人の縁のもつ不可思議さは玄妙としか言えない。その真摯な生き方は,よほど新平の大志そのものに信を置いており,継承に誇りをもっていたことが推察される。
(2) 東洋風な人徳の持主
現在,永田の存在はすっかり忘れられている。だが,宰相の印綬を帯びるだけの条件を有していた存在であった。下俗に見ると,宮中で後藤との縁が負に働いたのであろう。加えて,本人にその気がなかった。永田の後に学長職を継いだ宇垣一成とは性格的に反極に位置していたと思われる。
永田が学長を勤めていた時代は,前半世紀の後半である。近代日本は最も苦しい段階にあった。それも,国際関係で自らの至らない行為もあって孤立を余儀なくされた。最後には戦争という非常な渦中に飛び込む事態になった。
永田は,国難打開に基づく国策の最前線に大学を置いて,時代に翻弄される拓大の最高責任者として,学校全体を治めた稀有な人格の持ち主であった。しかも,ほとんど直接にあれこれと関与しなかった模様である。
学長が永田であったために,実際上は学長代行であった専務理事大蔵公望は存分に自分の立てた方針である日本の生き残りを目指しての満洲開発に賭けた構想を,多くの制約の中で提起することができたと思われる。その具体化には実に様々な隘路があったものの(注15)。
永田は自分が前面に出なくとも,相手に信をおいて仕事をさせることのできる懐の深さを有していた。自然体で統率のできた人徳の持ち主であったようだ。大学にはほとんど顔を出さなかったらしい。節目に姿を見せればいいという行き方だった。そうした振る舞いで,学校という教職員と学生の集団が治まるとは,どう理解したらいいのか。人品の風韻で周囲を生かし治めていくことのできる東洋的な人格そのものの故であったと思われる。
後藤亡き後は,永田が後任に就いたことによって,宮原も安岡も,引き続いて伸び伸びと学生に自己の本懐に従って教学を進められたのではないか。満川亀太郎も永雄策郎も,そして大川周明も同様であった,と見て間違いではない。
その人品にある諧謔には,市長時代に表敬したC・チャップリンが折り紙つきで評価しているくらいである(注16)。
2節 永田の世界認識
(1) 世界史の転換期をどう受け止めるか/著作『日本の前進』
この節では,永田の行き方の根底にあった思想のうちで,とくにその歴史認識を,本稿の主題を念頭に置きつつ,乏しい資料から明らかにすることを試みる。歴史認識は思想形成と不可分の関係にあるからだ。
昭和14年10月に新潮社から刊行された『日本の前進』という著作がある。本そのものは228頁の活字も大きい小ぶりの作りである。
この著作は,翌年に迎える紀元(皇紀)二六〇〇年を記念し期して記述されたもので,意図しないでも永田の最期の決意表明の意図もあったように覗える。結果的に,彼は戦時にシンガポール(昭南)に公務(陸軍軍政顧問)で行き,病を得て帰り亡くなった。戦病死として扱われた。
時代は,日本にとってだけでなく世界史の転換期,それも未曾有の転換期と見た。「これは偶然であるにせよ,天意であるにせよ,疑いもなく世界は我国の紀元二千六百年を一大転機として世界の歴史に未曾有の大変化を来たすことは最早明白なる帰結である」(同書6頁)。
日本文化には世界史の舞台で独自の存在理由があるとの信を持った近代日本人のうちで,日本を担う先端に在った人々の有した予感から来るある種の感激がある。こうした記述に込められた感激を共有できなくなったところに,この半世紀の日本人の近代史だけでない歴史認識の動揺があるのかも知れない。
そうした半面で,世界情勢への目配りの範囲は広い。それは,当時破竹の勢いであったヒトラーの行動への懐疑を,『ニヒリズム革命』の著者として戦後に日本でも知られたヘルマン・ラウシュニングのヒトラー評をも視野に入れて記しているところに見られる(35〜36頁)。
一度は同志関係にありながら袂を分かったダンチッヒの元市長ラウシュニングの「ヒトラーとの対話」の内容は,日本では戦後になって数冊が邦訳刊行されて,いまさらにヒトラーの本音の凄さを印象付けたものだった。三国同盟への傾斜の頃に,彼の経験と亡命後の意見が国内で翻訳刊行されていれば,ヒトラー熱は下がったかも知れない。
(2) 白人優先による有色差別の旧体制を解体する
永田の書は2部に分かれており,第1編は書名である「日本の前進」,第2編は「弥栄の日本」である。その1は,世界認識をどのようにするかを明らかにして,その2では,日本文化と日本史を併せた日本論を展開している。両編相俟って,転換する世界史における日本の進み方についての啓蒙書になっている。
永田は,全世界が「紀元二千六百年を限界として一大転換をするであろうと信ずる」(同上)とした。この判断は,その経緯への評価は別にして,今日から振り返れば,妥当な見方であった。では転換され解体されるべき旧体制とは何なのか。白人優先の世界である。
「欧州人は有色人種に対し,常に優越感を抱いている。それゆえに日本人に対しても日清戦争までは『珍しい変わり種の人種』と考えていた。然るに日露戦争時代となっては『驚くべき不思議な感心な人種』と考えるようになった。そして満洲事変以後は『生意気な僭越な人種』と考えるようになった」(第三章 東洋における和平工作。26頁)。
こうした欧米列強により支配されていた近代世界での白人種により作られた心理構造にあって,日本人はどのように対応していたのか。
「実を言えば,私自身は明治の初期に生まれてその青年時代を西洋崇拝の雰囲気の中で過ごしたから,西洋の事と言えば,何でも彼でも有り難がる習慣が中々に取れない」(第六章 歴史は変化す。49頁)。この下りには,他の高等教育世代と同様に受けた欧化であった開化による洗礼から来る心理が,正直に記されている。
永田がこの著作を執筆した段階では,日本人を除く「世界各地の有色人種を大観して,その文化において,その素質において,その精神力において,白人種と平等に平行して歩みうる者は絶無といってよい」(第九章 有色人種の反省。74頁)。
産業革命を経た近代文明に対抗しうるだけの武力を含めた政治と経済など全てを意味する文化的な背景を,当時の有色人種のエスニクックなそれぞれの集団は,永田が慨嘆するように,残念ながら有してはいなかった。
「過去四五百年間の白人の努力奮闘を見れば,神は必ずしも白人に私するものとは言われない。ただ自ら助くる者を助けたものと認めざるを得ないのである」(〜76頁)。白人支配の当時の国際状況は,努力の結果として不自然ではないとの認識である。しかし,「世界の歴史は変化する」(同上,49頁)。
(3) 日本の世界政策/グローバル・コモンへの注視
現在の世界は,鼎立の情勢にある。第1は欧州の勢力,第2は米国,第3は日本。「三つの勢力が鼎の三本脚のごとくに立って,世界が初めて安定する」(第十三章 世界鼎立論。119頁)。この示唆は,現在から将来にかけても,日本人の覚悟次第で通用し得るかも知れない。
日本の対外政策は何か。「我々の希望は必ずしも領土的野心を持つのではない。之を普く開放せよと言うのである。すなわち人類のために資源を開発せよと言うのである。即ち人類のために資源を開発せよというのである」(第十四章 経済ブロック。129頁)。資源問題で現在言われるグローバル・コモン(地球公共財)の概念を提示している。
この発想は先達である後藤にも新渡戸にもあった。後藤は沿海州やシベリアを考えた。現在から見れば当然のことだが,人類を肌の色で差別せずに平等に観ていたからだ。欧化の浸透にからくも一体性を保ち屈しなかった国際化日本人の所懐と主張は,先進者である欧米列強にどのように受け止められていたのか。非西欧世界に先行して占拠し植民地帝國を築いている欧州各国や米国に,受け入れるところとならなかった。
(4) 世界に臨む日本人の在り方
日本の国内でも,こうした地球再編の構想が主流になるだけの背景条件も十分ではなかった。それは,後藤のソ連接近を警戒視した大正末期から昭和にかけての国政選良の大勢に見られる。にもかかわらず,欧米列強支配の大勢下にあって,有色人種で実質上の独立を保全して欧米に対峙していたのは,国家として日本しかなかった。
では地球社会の正常化に取り組む日本人は,どういう姿勢で行くべきと永田は考えていたのか。「日本人として今日の世界を判断する第一の心得は,誇大妄想でなく,神経衰弱でなく,今までのように欧米人を崇拝することなく,またいたずらに人種的僻見をもって彼らを敵視することなく,偉大なる国民の態度をもって,十二分の度胸を定めて置くことである」(56頁)。
引用したこの部分に永田の考える,世界に処する日本人のあるべき姿勢が簡潔に示されている。自然体の平常心で一視同仁をもって臨めと言っているのである。現在から見れば,当たり前のことを言っているに過ぎない。しかし,言うは易くであった。こうした自信はどこから生まれていたのであろうか。それには,彼の日本論を明らかにする必要がある(注17)。
3節 「思想管理」の受け止め方/後藤新平観から推理する
(1) 後藤,そして水野錬太郎
永田は警保局長に大正5(1916)年に任命されている。三重県知事からの移動であった。栄転と見るのが妥当であろう。内務大臣後藤新平に永田を推挙したのは後藤の後の内相に就任し,その後も度々内相を務め,さらに文相にも就任したこともある水野錬太郎だった(注18)。後藤との関係はここから極めて深いものになった。
永田には,後藤について,その死後に書いたものと追悼講演会で話されたものと2編が遺されている。その内容にはさほどの違いはないが,後世の読み手にとっては紙面に記されたものと,肉声の速記の違いから来る感興はある。後藤の志業を語ることを通して,いずれも永田自身をも述べている。
(2) 革命ソ連との国交開始は好機
後藤は,大正11(22)年にソ連政権の北東アジア担当である極東駐在大使ヨッフェを日本に招請することを考えた。英米との国際協調に基づくシベリア出兵が無名の師に終わり,前年5月にハバロフスクから撤兵し,最終の部隊が翌年10月にウラジオストックから帰国した。
参謀本部を始めとして存在していた多くの思惑は霧散することになった。結果,モスクワにあるソ連政権との外交は行き詰まっていた。後藤の案は,その打開を求めてのものであった。内相としてシベリア出兵に反対しなかった後藤の,失敗意識からの打開策であった。
ソ連と見るか露西亜と見るかで,その取り組みは決定的に違ってくる。後藤にとっては対ソ交渉というより,対露交渉であり,自分を除いて他の適任者はいないという自負もあった。国内の当時の要路の大方は,ロマノフ王朝を転覆し,さらに王室一家を虐殺した以後は,ソ連としか見えなくなっていた。恐赤化症候群である(注19)。こうした認識の素朴さを,日露両国以外の政治力によって,日本は後日に利用されてしまうことになる。
後藤の提案を聞いて,永田は,「日本が列国に先んじて露国と商議する事を危ぶんだ」と,正直に書いている(注20)。しかし,後藤の感覚は違った。後藤は永田に言った。「欧米が無暗と露国を怖がって躊躇して居る時が最も好い機会である」(同上)。当時の後藤の立場は,拓大学長ではあるが,一方で東京市長であり,永田はその助役であった。
(3) ソ連を承認すれば日本は共産化するのか
後藤にとっては,対露交渉は3度目の正直でもあった。最初は,元老伊藤博文をハルビンまで連れていって,安重根による狙撃で結果的に殺してしまったと思っている。次は宰相桂太郎とモスクワに訪問する途中で,明治天皇が崩御されて帰国している。すでに,対露キャリアとして昭和日本には後藤しか残っていなかった。
しかし,日本の要路は前年までの革命干渉の失敗に懲りて,後藤の動きに揣摩憶測が飛び交った。国内での誤解を危惧する永田は市井人の生活感を持っている。選良社会を構成する大多数の許容範囲を見定めている。
後藤は永田に向かい,「露国と交通すれば我国が赤化するなどというのは全く肝玉の小さな話である。米国と交通して共和国とならないならば露国と交通して赤化せママないのは明白なことだ。そんな意気地のない日本ならば三千年の歴史を見ない遠い昔に滅んでいるはずだ。ここが度胸の要る時である」(注21)。
おそらく後藤の言い分を納得しつつも,永田は「一晩考えさせて下さい」と応接した。翌日に,永田は3つの条件を出した。その1は,東京市長は外交に関係ないので,市長を辞めるか,対ソの交渉を止めるか。その2は,この問題は世間の誤解を招きやすい,「もしやり損なえば第一は政治上の地位を失い,又罷り違えば国を賊う者として殺害されるかも知れない,その覚悟がありますか」。その3は,「実行に先立ってまづ加藤総理(海軍大将)と手を握らなくてはだめですよ」と(同上)。
(4) ソ連は孫文を選び後藤の経綸は実現せず
前学長後藤を追悼する学内での講演会が,命日は4月13日なので49日の5月31日に恩賜記念講堂で開催された。そこで,永田は学長の立場で,学生を主とする参加者に同様のことを述べている。拓大としては,学生に向かって学長として述べているところが大事の箇所である。
後藤は,「露西亜と交際しても赤化することはない。若い者にはそんなことがあるかもしれないが,そんなことは大局から見て,日本がどうなるものではない。それが出来ない位の日本であれば,今まで日本は立ってはいない。今日まで日本が立っているというのは抵抗力があるから立っているので,そんなことはちっとも怖ろしくはない」と述べた,と永田は聴衆に聞かせている(注22)。
引き続いて,「よく世間では後藤が赤化したと随分いい,後藤伯爵が殺されようとしたこともあります」。永田が命がけですよと言うと,「殺されようが,殺されまいが,国家のためになるのであれば,そんなことは問題ではない」(同上)といって,取り合わなかった,と伝えている。後藤は殺されてもいい,と決めていたことが見える。
様々な曲折があったものの,ヨッフェは来日して,大正12(23)年2月に後藤との非公式の会見は行われた。4月には両国の実務関係者によって日ソ漁業条約が調印された。前年4月にスターリンがソ連共産党書記長に就任し,7月には日本共産党が非合法に結成されている。11月には,コミンテルン第4回大会で日本支部を承認した。国内には,対ソではない対露を重視する後藤の発想を支える要路も要人も,さらに有力な政治勢力も無かった(注23)。
ソ連は,東アジアでの連携対象を,日本ではなく中国にした。後藤ではなく孫文を選んだのである。1924年1月に中国国民党は,連ソ・容共路線と第一次国共合作を発表した。以後の日本の第2次世界大戦に至る国際関係史を見れば,後藤の経綸が挫折したことの意味するものは,いかに大きかったか分かるはずである。
日本の国家中枢は後藤の経綸を活かさなかったことにより,選択の幅を狭くした。その付けを敗戦直前後に,とくに満洲で支払うことになる。ソ連軍参戦による開拓団の逃避行での虐殺や,敗戦後はシベリア抑留などの付けを支払ったのは無辜の民であった。
(5) マルキシズム浸透への自信
永田が対露問題で後藤に懸念を表明したのは,その姿勢や思想と政策ではない。世間の誤解を招く,それは後藤の政治生命にも直結すると,国内の政治環境を形作る人々の程度を問題視している。時代は昭和に入ったものの,グローバルに日本の運命を考える経験を積んだ要人は減少しており,後継者は育っていなかったのである。しかも,後藤には,伊藤も,桂も,児玉源太郎も居なかった。1人の孤軍である。
後藤の「露西亜と交際しても赤化することはない」は,野卑な言い方をすれば,「豚肉を食ったら豚になるか」である。もっとも,「若い者にはそんなことがあるかもしれないが」との危惧も間違っていなかったのは,すでに本稿に明らかである。
とは言え,永田と後藤の考えに基本面で食い違いはない。そこを率直に永田は学生に向けて話しているところが実にいい。対露問題が日本の存亡と不可避な関係にあると考える後藤の政策上の発想への永田の対処と,明言しないものの覗える後藤の日本文化への自信に対する彼の共感から見えてくるものがある。
永田が後藤の対露交渉の発意に事寄せて当該分野に関する所信を述べた前年の昭和3(28)年の3月に,3・15事件が起きた。共産党員の大量検挙事件である。さらに,この既成事実を前提にして,6月29日に死刑を導入した改定治安維持法が公布された。この流れに内務官僚であった永田は危機感を有したようである(注24)。
3・15事件の直後に記したと思われるのが,『共産党事件と国民の信念』である(注25)。日本史における他文明の受容を古代から見て,その「渡来に当たっては種々の衝動を蒙ったことは明らかである」(100頁)と省察し,「今回の共産党事件のごときも畢竟この過激思想の我国に及ぼせる一現象に過ぎない」(同上)。
当時,世界に流行したスペイン風邪と比較して,同じとして「これが対症療法を尽くすべきである」。それは「経済上の分配問題は毫も我が国体に関係なきものであるということを強調したい」(103頁)。この部分は,明らかに治安維持法の第1条に加えられた私有財産制についての条文に対する批判である。
共産主義思想の蔓延を一時的なものとして,対症療法の必要性を言う永田の考えと,前述の宮原の所説「思想善導」に表出している考えは,どのような関係になるのか。同質な文脈のもとに把握することができる。二人の見識は官憲による神経症的な過剰防衛への懸念を表明している。
4節 思想としての他者の容認
(1) 日本民族の尺度をもって異民族を測定するな
教育者である永田は,同時に豊富な知恵に基づく常識人であった。それは,「問題の整理」(3節(2))で引用した昭和8年7月14日の式辞に端的に現れている。国際関係における日本人の弱点を,見事に抉って指摘しているからだ。
彼は,学生に向けて,団長の希望とするところを3つに絞って述べた。
その1は,「余は第一に諸君が事物をありのままに観察せんことを望む。日本民族の尺度をもって異民族を測定するは,往々にしてその認識を謬ること多し(注26)。
第二に新興国の青年に対し常に至誠をもってこれに臨み,断じて優越的態度を戒むべし。
第三に祖国を離れて祖国の姿を顧みよ」(前掲93頁)。
前掲3節に明らかにされている永田の日本論は,こうした海外の別の文化文明に接した折の接し方と,認識の在り方に基づいていた。永田は,日本以外に他者がいることを実感し容認しろと言っているのである。後藤の「鯛の目とヒラメの目は違う」という考えを共有している。当たり前のことを言っているに過ぎない。
だが,開国した近代以後の日本人が列島から外地に着いてから,それを意識して身を処することは,国家や企業集団に帰属している人々には極めて難しかった。組織に帰属する個々人が外地の就業の場で,他者と遭遇した場合の軋轢では,現在も引きずっている。
但し,こうした行為はあくまで集団の中においてであり,個々人による私的な生活行為での他者への接し振りでは,素朴に適応力があったようだ。それは多くの挿話に現れた事例がある。「その他」(the Rest)の世界に勝者であり続けた欧米人と比較すれば,制度としての近代の適応に,国家や機関などの集団としては,不慣れだったのではないか。学習の時間の足りなさによって経験知の蓄積に至らなかったのであろう。
(2) 「世界は人間の為に造られたるものでは無い」
団長永田の述べた在り方には,「我が仏尊し」で宗教上の優越を自明視してきたキリスト教や,ゲルマン民族の優越を誇示したナチス,階級上で自らを至上とする必然論の共産主義とは異なり,多元的な価値の共存を願う包容力ある姿勢が自ずから現れている。
草木虫介にも仏性を見つけた仏教の受容は,元来有する日本列島に棲む人々の感性に合致したからである(注27)。その自覚を短文にしたのが,永田の『俳句的人世観』である(巻末資料(4)を参照)。この随想には彼の経験と実感に基づく思想というか哲学の本質が集約して示されている。
その1節にある,「世界は人間の為に造られたるものでは無い,世界を人間の為に造られたるものであると思うのは,世界を白晢人種の為に造られたるものと思うと同一の独断である」の基底には,日本人が考えた非西洋的な存在観が示されていないか。
永田の発想は彼だけの独創ではないのは略述した。拓大におけるこうした世界認識の系譜は,国際関係観の側面で考えると,欧米列強によって作られた近代世界の常識と真っ向から対峙していた。
当時の国際常識では,白人世界以外を容認する余地は極めて薄かった。正確に言えば,非白人世界の存在は白人に奉仕するところに意味があるだけで,それ以外の意味は,ほとんど無いに等しかったからである。S・ハンチントンは現代になっても,欧米はthe West でも,日本などは,その他(the Rest)である。
結び 永田の在り方とは
永田の前学長後藤新平追悼講演会での講話から,近代日本で,拓大は欧米の諸大学になんら遜色のない大学(ユニバーシティ)であったことが分かる。その世界認識ではthe West よりはるかに深い境地にあった。
ここで言う大学とは,その知的な行為を伴った営為に責任を負っていることを意味している。責任とは監督官庁である文部省に対しての行政上のものではない。大学の存在している国家社会と,ユニバーシティである以上は同時代の世界に対してである。
そして永田は,やわではなく頑丈で骨太の気性なのである。1つには,教育者として信を学生に置いているからできたのであろう(注28)。入学式や卒業式での学生に向けた告辞には,多くの実際的な常識に満ちた内容であり,確かな生活者であることがわかる。日常への目配りと同時に,『日本の前進』に記してあるように,「進歩主義」と「青年的気力」のある日本文化と日本人への信が根底に生きていたからであろう。
観念的でなく実際的で,しかも日常の生活という確かな世界を重視する在り方からは,盲目的な日本信仰は生まれて来ない。それは,引用した信念と迷信の分け方や,「神は助くる者を助く」など努力の必要を指摘しているところにも覗える。彼が日本の優越を徒に盲信していないのは,別の引用箇所にも見えるはずである。
永田の死期を早めたのは,戦時に陸軍の軍政顧問として南方軍本部のあったシンガポールに赴任したからであった。死後2年弱での敗戦と占領は,もし存命していたならば,どのような処遇になったのであろう。元内務大臣・文部大臣で東洋協会会長の水野錬太郎と同様に,A級戦犯に指名されていただろう。
敗戦後の占領下において常態化した,欧化「知識人」の占領者との共棲や,神国日本が負けたための自失による自虐と自己欺瞞の横行する阿鼻叫喚を,彼の日本文化認識からどのように眺めたのであろうか。こうした現象は一時の錯乱状態であって,事態が落ち着けば「青年的気力」と「勤勉主義」によって乗り越えていくと思っていただろうか。
本稿で追求したように,付け刃としての「思想管理」では,国際化に強い日本人を鍛えることはできないことを痛感したものと思われる。教育とは知識や情報の付与が目的ではない。個々人が生来具有している良い本質を開花させるきっかけを,いかに触発させることが出来るかどうか,にある。だから,この節で度々言った「信」が大切なのである。そこで,学長としての反省があっただろうか。それとも,基本で間違っていないとの確信を得たのか。
獄中にあっても,目前に展開される狂態には,哀しみを秘めつつ,俳句的な人世観によって練られてもたらされた風儀に従って淡々と自然体で処していたものと思われる。軍政顧問をしたおりに,行政官としてよりは1人の日本人として,強者としての日本人の弱点を凝視していたに違いないからである。
(注)
13.伊藤隆,その他編の『近現代日本人物史情報辞典』には,永田は収録されていない。但し,児玉秀雄は収録されている。同辞典169頁。日露戦争を戦った参謀本部参謀副長を務めた児玉源太郎の息である。吉川弘文館。平成16年。
14.元副学長市古尚三「第4代学長俳人永田青嵐先生」『拓殖大学七十年外史』。1971年。『永田青嵐句集』新樹社。昭和33(58)年。
15.大蔵は,永田の亡くなる4日前の昭和18年9月13日に,日記(四巻443〜444頁)に,以下のように記している。「一〇時三〇分,永田秀次郎氏危篤の報を得て其邸に見舞う。永田氏は東洋協会,拓大,拓ム省と,度々余を推挙してくれた人で,人物温厚,調和の材に富み,その点一寸今の日本に珍しい人材なり(下略)」。
16.永田「閉会の辞(第十回海外事情講習会)」。『東洋』第35年8号。昭和7年8月。編纂室編『自然体の伝道者 4代学長 永田秀次郎』95頁。平成17年。
17.永田の日本文化論については,編纂室編前掲書の拙稿解題 一章二節 日本文化の特質,を参照。245〜247頁。
18.同「永田秀次郎君を憶う」。『東洋』46年12号。2〜3頁。昭和18年12月。
19.新平はあちこちで「ソ連を承認すれば日本はボルシェビズム化するのは杞憂」との見方に触れている。学生に向けては,恩賜記念講堂での例年の恩賜記念会で式辞として学生に話している。大正十三年度東洋協会大学恩賜記念館祝典。前掲『告辞編』204頁。
20.永田青嵐「後藤さんと私」。東洋協会編『吾等の知れる後藤新平伯』に収録。39頁。昭和4年7月。
21.前掲 39〜40頁。
22.永田講演「故後藤学長追悼講演会に際して」。『拓殖文化』44号。23〜24頁。昭和4年7月。
23.ヨッフェ訪日のおりの諸勢力の動きのうちで,この半世紀の理解では反共のために反対に決まっていると断定される民間勢力の意外な動静について追求したものに,駄場裕司「後藤・ヨッフェ交渉前後の玄洋社と黒龍会」。『拓殖大学百年史研究』6号。
24.永田が熊本県の警察部長をしていた際,明治43(10)年6月に大逆事件が起きた。時の首相は桂太郎であったが,この事件への永田の憤りは深かった。被告に対してではなく取り締まる側に対してのものである。その遠因から共産党への取り締まりに対しても,普通の感覚ではなかった。
大逆事件の年に刊行した『我が愛する偉人 諸葛孔明』(敬文館)は,永田が34歳の作である。匿名であったのは,警察部長という立場から来るのであろう。序に「時代の風潮に対して満腔の不満を抱いて東京より帰県するや直ちに筆を執り一気呵成に書き流したもの」とある。拙稿解題。前掲書『自然体の伝道者 4代学長 永田秀次郎』288頁。
25.『東洋』31年7号。昭和3年7月号。
26.昭和10年度の入学式での訓示では,「日本人の物差しで外国人を直接に量らないで,言語風俗習慣の異る彼らに対してはよくこの事情を考慮して,事実上の認識に対して誤った判断を下さないやうにすべきである」。前掲『告辞編』207頁。
27.永田の環境認識に見られる包容性は,彼自身の自己認識によれば,淡路島にある家代々の宗旨である空海への帰依からも来ているようだ。前掲拙稿のうち,「三章 俳句的な人世観 二節 その宗教観/空海をどう把握したか」を参照。272〜274頁。
28.本稿で言う教育者の在り方とは,宮原民平が述べたものである。同「教育家としての永田先生」。『東洋』前掲永田追悼号。67〜68頁。