七部 近代日本高等教育史における拓殖大学の教学(1)
問題の整理
1節 主題への接近において隠れている意図
本稿は,前稿『占領下における教職“追放”(教職員適格審査)』で扱った敗戦後の占領中における文部行政を把握するための前史である。主権喪失下にあって,文部行政も革命的な変質を強制された。強制と見るか矯正と見るかは,GHQ・CIEの存在を「敗北を抱きしめて」共生する存在と看做すかどうかにかかっている。その問題性については後節で考えてみたい。
行政技術の観点から,占領中の教職員適格審査を見ると,そこに装置としての文部省が浮かび上がって来るだろう。前稿は,GHQ・CIEの存在を共生と信じた新生文部官僚が,どのような「信念」(?)に基づいて民主化と言われた教育「制度改革」に臨んでいたのかを,大学内に残された資料から明らかにし,その過程を通して問題性を推理したものであった。
文部省の置かれた大環境は敗戦によって激変したものの,システムなり装置なりや,そこに蓄積されていたノウハウそのものは,少しも変わっていなかった。その問題性については後述するが,そうした認識を拙稿の実証から理解し受け止めてくれれば,所期の目的は成功したことになる。
当該時代の文部省による学生思想対策は,実際の軌跡で既に明らかにしたように,学生だけでなく教職員を含めた全体として括った方がいい。
日本の敗戦を挟んでの昭和の2つの時代における文部省の「思想管理」を把握することは,その行政行為の形態が共通していることを明らかにすることでもある。その視点の及ぶ範囲からは,近現代とくに昭和史における文部行政の手法にある弱点を浮上させることになる。
それは,引いては行政を担った人々の知性らしきものの限界を示すことになろう。同時に,その手法に従った側の態度も問題である。距離をおく見識と姿勢があれば,そのような手法は生き続けるはずがないからだ。それらの全体を明らかにすることを通して,初めて次の段階に進むことができる。
2節 「思想管理」への拓大による対応
(1) 右傾の営為
前節で提起したこの視点を固定して軌跡を観ていくと,拓大の適応過程からは,意図すると意図しないに関わらず,独自の見識を保持していた態様を覗うことが出来る。もし保持しているとしたら,そうした見識は何に由来しているかを尋ねると,これからの日本の高等教育の再建を考える際の糧のあることもわかる。
そこまで急ぐ前に,個々の事例を見ていこう。思想問題が大学など高等教育機関で問題視され始めた頃,すでに学内では思想団体というか「修養団体」が生まれていた。それも発端は前掲の文部省による調査を記した『思想局要項』に明らかのように,大正時代からであった(注1)。
勿論,本稿で扱った右傾だけでなく左傾もあった。あっても不思議ではない。それは,国内はもとより,上述の日本の影響地には,知識人に対してコミンテルンの浸透は着実なものがあったからである。さらに,世界恐慌以後は,マルキシズムによる経済分析から見ると,わかりやすい現象が目前にあった。
左傾を選択した学生による動静の詳細はわからない。ここでは不鮮明な分野に強いて入るのは止めて,学校側の文部省に対する応接の経緯にある特徴的な事例を,現存する資料から見ていきたい。
(2) 右傾行為の報告
まず,「魂の会」はなぜ報告されなかったのか(三部3章1節(4)を参照)。魂の会は,その位相を見るとき,大正時代後半に東京帝国大学日の会など多くの官学私学の大学と高等学校に起きた,革命を選択しなかった学生運動として著名であったことは先に触れた。尤も,学生部や思想局の作製した『日本改造運動』の接近方法には,そうした前向きの見地を覗うことはできない(同書については三部5章2節を参照)。
次いで,救国埼玉挺身隊事件(川越事件)である。事件は未遂であれ,国事犯罪として裁判になった。今更,隠しようもない現実になった。にもかかわらず,文部省の問い合わせに対する大学の報告は,明らかに公然と手心が加えられている(5章1節(3)を参照)。
昭和11年に起きた2・26事件の場合も,多くの学生が検挙されてしまっている(四部7章1節を参照)。そこで,いわゆる反省や恭順の意が大学側や学生側から当局に意思表示されたのかどうか。
また,昭和13年4月に『国家総動員法』が施行された直後の学生生徒の思想調査に対する大学側の報告も興味深い。辛らつに言えば,不服従の気配を濃厚に漂わせている(五部9章2節を参照)。
(3) 思想管理への自立した反応
学監中村進午の著作に対する注意に名を借りた文部省図書局の異議に対しての大学の対応もそうである(五部10章1節(1)を参照)。回答があったのかどうか。但し,状況から推理すると,もし回答していたら控えを残しているはずである。だから,回答していないと見てもいいのか。もし,この仮説が当たっていれば,大学の対応は黙殺であった,と言える。
もし文部省の注意に大学が恐れ入っていたら,7ヵ月後の11月上旬に開催された日本諸学振興委員会第1回法学会に中村を参加させると回答してもいい。非常時である。いかにも謹慎している様を大学という機関として示してもいいのではないかとも,後知恵で思う。だが,そういう素振りは見られない。
指示された「日本文化講義」の実施状況についての報告内容にも,自由闊達な対応を見せている。教学局の意図する同講義とは,かなりの距離があるようだ。それは昭和14年度の報告に見られる(前掲章1節(2)を参照)。
講師3人のうち,藤山愛一郎は大学顧問藤山雷太の長男で,経済人である。下村宏は後藤人脈の一人で,敗戦直後に短期間であれ6代学長に就任した。白眉は本間俊平であろう。近代日本後半でのキリスト者として賀川豊彦と双璧をなした存在であった。大学の教学に関する懐の深さを垣間見せている。
同年9月に求められた「『半島人,台湾本島人』など列島外学生の調査」に対しての回答も,明快である。文部省は,要注意として内地人外の日本国籍を有している者もそうでない留学生も同じように括っている。その態度に対して,大学側の回答文書は超然としている(同章4節(3))。回答内容を見るだけで,文部省の行政感覚というか治安感覚による対応に,大学当局は違和感を有していることが覗える。
(4) 教育の成果・2例
以上の事例でも見事であるが,後世にとって実り豊かなものは,昭和14年11月に行われた「独ソ不可侵条約締結に伴う反応調査」(同章5節(2)を参照)に対しての在学生の知的な対応であろう。
こうした瑞々しい見識は,昭和16年5月の学内出版物についての回答に露わにされている。戦時体制による資源配分により,紙の支給に制約が生じた。学問,調査研究の発表媒体への制約である。大学は,学生の調査研究の成果を発表する機会を優先する判断を下している(六部12章4節(1)を参照)。
3節 拓大関係者による文部行政への距離感
(1) 距離を保つ見識の生まれた背景
前節で見たような文部行政への拓大当局の距離感覚は,どういうところから来るものであろうか。それは,1節で触れたように,近代日本の高等教育機関における拓大の独特の「位地」が関係しているのかもしれない。おそらく上海にあった東亜同文書院にも共通していた側面もある。
独特の「位地」とは,海外から来る情報量の多寡と情報内容の受容,そして吸収能力から来るのではないか。その情報も生身ではない単に欧米文物のようなものではなく,生きた情報が多い。あるいは生臭いとも言えるし,今風に言えばホットなとも形容できる。その受容の姿勢では,内地で舶来を待っている受身ではない。
建学当初は,情報の収集と咀嚼は台湾とその周辺であった。周辺とは対岸にある現在の南中国(南清地方)の地域情報であった。流入する情報の範囲は,4年後の日露戦争を境にして激変した。多くの学生が従軍通訳として前線に出かけた体験は,膨大な情報として蓄積されたことを意味している。
台湾協会から東洋協会に名称変更したのは,視野の拡大である。建学10年たたずして,経営母体が拡大改組された。それは,活動対象が台湾と対岸の南支(南中国)はそのままに,朝鮮半島から満洲さらにシナ大陸に広がったことを意味していた。
上部団体であった協会の業務範囲の拡大は,いきおい学内の教育にも変質をもたらした。台湾語,清国語と英語という語学から,多言語と多地域の事情研究と教育内容は拡大した。流入する情報量の拡大と,教育による蓄積,さらに関係者と卒業生による産出は,そこに独特の見識を構築し集団として共有していったものと思われる。
(2) 「事物を有りのままに観察」する姿勢
それは一言でいうならば「複眼的な状況認識と思考の日常化」である。相手としての他者が明らかに存在している。自己流の把握を押し付けても通じない,という当たり前といえば当たり前の認識が,極めて重要なのである。しかし,この当たり前のことが,現在でも国際間では常に問題になっている。異文明・文化間における古くて新しい課題である。
4代学長の永田秀次郎は,昭和8年に至誠会による全国の大学・高専学生千名の満洲への研修派遣の際に,日比谷公会堂における発会式で団長としての挨拶し,明確に指摘した。「余は第一に諸君が事物を有りのままに観察せんことを望む。日本民族の尺度をもって測定するは,往々にしてその認識を謬ること多し」と述べた(注2)。ここからは複眼的な観察と思考力の意味するものの大事さを端的に述べていることが分かる。
こうした認識方法は永田が初めてではない。永田の先達であった3代学長後藤新平は,有名な喩えである「鯛とヒラメ」の目の付き方で平易に述べた。鯛はヒラメにはならない。逆も同じである(注3)。すると,事物の認識において複眼的な接近は習いとなる。複眼的な思考力の習性化が教育のあり方の特徴になる。
複眼的な認識が官の世界で常態化していれば,欧化としての開化優先から転じた文部行政の日本化への傾斜は,いかにも急ごしらえにしか見えなかったはずである。とくに国家総動員法が制定されて以後の文部省など行政機関の役割は,妥当に認識する必要がある。
法理的には,総力戦を展開するために,戦力としての人的資源をどのように活用し配分するかを定める軍に奉仕するしか,その役割はなかったからである。 別の表現をすれば, すでに文部省そのものが戦争遂行という大きい動きの中で,手段化され管理される存在になっていた。
そうした事態にあって,教学局のように鯛が鯛がと主張していても,別の海域にはヒラメが生息しているのをどのように受け止めるのか。専ら「我国独自の学問文化」に基づく違いを主張しているだけに過ぎない。次いで,此処での主張の違いは,他者の存在を許容してのものなのかどうかが問題として残っている。当方の視野に入るだけの他者なら,仮想現実の産物であって,他者そのものは消えてしまう。または視野から去ってしまう,というべきか。
文部行政そのものになった思想管理に対する前2節に見られる拓大の態度には,他者を許容しているのかどうかの面で,行政は複眼的ではないと感じていたのではないか。そこから,和して同ぜずで,ともすると我関せずの気配が濃厚になったのではないか,という印象が生じる。
以上は,本稿の二部から六部にかけて追求した軌跡に浮上した一私学拓大の対応に見られる姿勢の特徴を整理してみた結果である。
問題の提起/複眼的な思考力の習性化
1900年に開校した台湾協会学校としての建学の由来から,拓大はその学統が成立する環境条件に特異性があった。他に近代日本で同様の事例はない。その特徴は,小難しい表現をすれば,「日本内的な存在であると共に日本外的な存在」であったところである。ここは,「日本外的な存在」の上海にあった東亜同文書院とは異にしている。
そうした拓大の学統の特徴は,どこにあったのか。「問題の整理」の3節で述べたように,なぜ当時の拓大関係者が文部省の思想管理に距離感を有したのかの理由を,私見では学校の成立環境から「複眼的な思考力の習性化」にあるところに求めた。
その複眼的な思考も,開化教育としての舶来欧化思想による世界認識ではない。欧化思潮から見れば,遅れた亜細亜,あるいは旧態の東洋という認識に同調する弊を拒むところに発していたのを強調する必要がある。ここでの「弊」は,多くの欧化同調者から見れば,むしろ拓大側の姿勢や思想が,反動としての弊風そのものであった。
しかし,この「弊風」は興亜と直接していた。興亜は近代日本の近隣諸国と諸地域への国際貢献の別名であったからである。そのための諸学の根幹を植民政策と言った。ここでの学としての植民政策は日本の膨張政策の方法ではなく,日本と近隣世界の安全保障にもつながってくる開化政策の一環でもあった。興亜と脱亜が一体になっていたのである。
占領中から現在に至るも,こうした解釈は,植民地主義と侵略主義を具現したとして,一顧だにされない。しかも興亜の志向とて,日本軍国主義の展開した侵略の美名であったと断罪されている。
戦勝国である連合国のそうした断定の背後に何が潜んでいるか,あるいはどういう思考上の巧妙な罠が仕掛けられていたかにまでは,此処で深く触れない。単純に言って,負ければ賊,であった。日本は,天に代わって正義を抱いた連合国によって,不義として討たれてしまったのである。
だから連合国群の継承組織になった国連の憲章には,実質上では形式化しているとは言っても,いまだに旧敵国条項が存続している。その対象は日本である。敗戦後に東京大学総長をしていた南原繁も,正義は連合国にありと断言している(注4)。
そうした仕組みやそれを存続させている発想を相対化する思考こそが,これからの高等教育機関で求められる基礎的な思考訓練である。それは「複眼的な思考力の習性化」を通して,はじめて可能になる。
1章 読書人・新渡戸稲造と安岡正篤の生き方
1節 新渡戸稲造の生き方/「個人として強かれ」
(1) 三代学監に就任した史実は抹消
最も一般的な事例として,学監に就任していたことのある新渡戸稲造の行き方と生き方を考えてみよう。彼は典型的な開化知識人であった。しかもクリスチャンでもあった。にもかかわらず,文明としての日本に根ざしていた。
日本に根ざしていたために,日本外の他者への配慮を常に意識していた。それは例えば,台湾での職務遂行時に現れている(注5)。そうした共生の発想は,クリスチャンのミッション意識から来るというよりは,藩武士としての彼の家の風儀に根ざしていたと思われる。先祖に藩命により十和田湖畔の開拓を果たし,実績を残している者がいる。
戦後の半世紀において,新渡戸と拓大の関係は抹殺された。官にあるいわゆる弟子筋は,明らかに拓大と新渡戸の関係を意図して消去するようにした。その意図は忖度するしかない。
戦前,新渡戸の死後に出た全集には,拓大関係の刊行物に出た彼の稿は,「台湾糖業に関する改良意見」以外にない。しかも,戦後に彼の全集が再刊されたおりに付録として加えられた略年表にさえ,東洋協会植民専門学校から拓大にかけて学監に就任していた記録は無い。
こうした史実の抹消というか意図した無視の枚挙には,占領中からいとまが無い。とは言っても,この半世紀における所作は,敗戦後に突如として出てきたと判断するのは甘いであろう。上滑りな適応から来る「変わり身」の早さから来ているのか。自らが座標軸を持ち歩いていると見ていいか。
上記の現象は,確信犯的に新渡戸稲造を一定の枠にはめて,それに収まらないものは切って捨ててもいいとする情報操作によったようである。変節よりも,こうした確信者が自分の信念に拘ることによって,史実解釈を歪曲したり一面だけを異様なまでに肥大化させたりする弊害は,この半世紀まだ継続している。史実を隠蔽して操作できると臆断するのは,人類史への冒涜である。
(2) 物事の是非判断は複眼的思考から可能になる
こうした生き方と新渡戸の生き方は無縁であった。彼は,虚心坦懐に己の正しいとした道を,難儀を承知で歩んだ。前述のように上海事変直後の日本を憂えた発言を,事あれかしの「地方」新聞記者によって真意を歪曲して報道され,問題になったのは昭和7年の松山事件である(三部3章1節(2))。
現在から見れば,事実を直視していれば当然出て来る言い分であった。軍閥と共産党を等しく見た上での批判は,彼の常識から不自然ではなかった。一方に思考を偏していない。あの当時に「軍閥」と形容して軍部を批判した勇気には感嘆させられる。こうした愚直でしかも剛毅な姿勢は,変わり身の早さとは無縁である。彼は自分を欺けないところから,時勢への妥協ができなかった。
生き方としてのこうした愚直さは,事実を見据えて,その認識から逃げない姿勢から生まれてくる。事実を見据えるとは,対象としたそれだけを見ることではない。それを複眼的に観察するのである。見たい一方を見るが,見たくない一方は見ない態度とは無縁である。そこから対象を批判的にも見る余地も生じる。そうした姿勢は,生きている自分の存在を大事にすれば,自らそうなるものなのである。
(3) 思索は個人の営為である
拓大の前身である東洋協会植民専門学校時代に,新渡戸は学監として大正7(18)年の卒業式で訓示した。「我輩が諸君に望むことは個人として強かれということを言いたい」(注6)。この実に短い一節に彼の本質は凝縮されているのではないか(注7)。ここには衆を頼んだ勢いへの戒めがある。
あらゆる思想は,その一点に成立する。教学は,そこを伝えることができれば十分なのである。ここで言う「強かれ」とは,肉体的生理的なものも含まれているだろうが,ミッション意識に根ざす自立した思考力の強さを意味していると思う。
2節 安岡正篤における敗戦(休戦)の受け止め方
(1) 終戦の詔書と『休戦に際する告辞』
学生部,思想局,教学局を経ての思想管理において,安岡の著作は啓蒙的な意味において重要な役割を課せられていた。本文で紹介した思想問題や思想指導に関する良書選奨の箇所を開くと,最初に出て来る推薦書が彼の『日本精神の研究』である。
推薦した側がどれだけ彼の思索を自家のものにしていたかは,敗戦後の占領中における文部省の教職適格審査制度の推進に端的に示されている。安岡の著作はすべて抹殺される対象になった。同時に,安岡は,こうした状況では当然に公職追放された。
安岡は,敗戦直前後に拓大の評議員をしていた。占領行政の方針が鮮明になり,辞任している。彼がこうした危機に際会して言挙げしたのは,日本農士学校の生徒に向けた『休戦に際する告辞』である。小石川にある金鶏学院から伝達使が持参した告辞は,昭和20(45)年8月10日に埼玉県菅谷にある学校講堂で読み上げられた。
彼は終戦の詔書の刪修で知る人ぞ知るものの,この告辞を知る者は少ない。筆者も安岡著作集を編集するために,平成15年夏に菅谷の跡地にある安岡正篤記念館に参上して,ガラス・ケースに収められている自筆の告辞を見て初めてその存在を知った。全文は,同記念館等編『菅谷之荘七十年史』にある。
筆者の所懐は,編纂室で編集した安岡の前掲書の編集後記に記しているので,ここでは繰り返さない(同「死地における『休戦に際する告辞』からの連想」の項。389〜392頁)。
ただ,彼が「休戦」と記した姿勢の気高さを想う。こうした境地にはどうしたら至れるのであろうか。安岡は敗戦という冷厳な事実に直面して,そこで一歩も引かないことが,惨たる日本を再び燦たる祖国にする最初の一歩であるとの自信があった。この自信こそ,本来の「我国独自の学問文化」に基づいた修養から来ていた。新渡戸はそれを自己の内面も観つつ,武士道とした。文部行政が時勢に追われて「上滑り」に推奨したものではない。
(2) 『休戦に際する告辞』は日本文化継承の宣言
そのおりの安岡の心境は,官の立場にあった文部官僚やその意を受けた職員による占領中のGHQと共同歩調をとることが日本の進歩とする,例えば教職員適格審査に見られるそれとは全く無縁なものであった。一歩も引かないのは,日本と東洋文明への信に裏付けられた安岡という個としての1人が生きていることを示している。
彼の信の核を真っ向から否定したのは東京帝国大学総長の南原繁であった。敗戦に続く占領の翌年である1946年の紀元節式典での演題「新日本文化の創造」で,南原は,ナチスは真正のドイツ精神にとって異質なものを含んでいるので,それを清算してルッターやカントの精神に戻ることにより再生できると述べた。
では,日本はどうか。今回の敗戦によって「固有の伝統と精神を賭けて戦った」ものの,「その精神自体が壊滅した今」,祖国の復興は「過去の歴史において求め得ないとすれば,将来において創り出さねばならぬ」。過去は敗れるべくして敗れ,壊滅して無くなったと,安岡と正反対の立場を強調した(注8)。その認識から,日本の将来を創り出す改革勢力としてのGHQを評価することになる。米軍の空襲で更地にした場所に構築されるものを創造としたのである。
GHQ権力を頭上において,占領軍の「平和と民主主義」を創造と説いた者たちからすれば,休戦を説いた安岡の姿勢は反動そのものであろう。軍事的に敗北して半世紀を経た現在になって,まだGHQの敷いた路線を基本で守っている者は多い。それは何をもって信としているかの違いなのである。すでに在るものに秘められている精華に基づくか,そうしたものは敗北したのだと処断して,全く新たに創られると信じるかである(注9)。
3節 2人の姿勢に共通しているもの
(1) 本来の自前のインテリジェンスが生きている
それにつけても,占領中における文部省役人やそれに追従した知識人(?)の振る舞いを,後世にある筆者が資料から見るにつけ,戦前の昭和時代の文部行政の知的な程度も知れていたと言わざるを得ない。そこを南原は見誤り,ルビコンを渡った文部官僚は「固有の伝統と精神を賭けた」と錯覚したのである。それは文化としての日本についての知識や理解が,いかに貧困であったかを示唆している。
思想局とか教学局と名づけた知性の水準がどの程度のものであったかは,占領中におけるGHQの指示を実現しようとした文部官僚の取り組みが端的に示している。占領下にあったためにカッコつきの官に在職しながら,占領中のレジスタンスの追憶とその記録を1つでも主権回復後に発表した者がいるだろうか。しかも,その半面で戦前戦時での軍国主義への抵抗と称する記録や,南原のように後からの批判は,山ほどあっても。
新渡戸や安岡の生きる姿勢とその文脈から覗えるものは,「変わり身」の早さや欧化への適応を最優先する行き方とは全く異質な風姿である。そうした姿勢は一体,どこから生まれて来るものなのであろう。そこにこそ,英語で言うなら本来の自前のインテリジェンスが生きている。
(2) 西洋と東洋,日本を複眼的に凝視し続けた
2人は西欧衝撃(Western impact)による近代文明の吸収に国家としての日本が先頭に立って進んでいる真只中にあって,物理的な力関係では圧倒されていた文物の修学でも貪欲であった。優等生として貪欲であっても,しかし自分を失わなかった。丸呑みするのではなく,咀嚼する力があった。独立自尊において,矜持が勁かったからである。
近代とは,世界が初めて地球化した時代である。地球儀を見ることによって,実感することもできる時代に入った。日本近代における高等教育で外国語として必須なものは,英語とドイツ語であった。2人は,その2語をよくした。
一方で,2人は文明開化以前の日本における古典であった四書五経に象徴されるシナ学や仏教を修得していた。しかも,その東洋古典を背景において,いささかも西欧学に対して怯んでいないのである。そこで自分を開化に適応させて欺く必要もなかった。そこには彌縫あるいは糊塗のような軽薄さを見つけることは出来ない。西洋と東洋,日本を複眼的に凝視し続けた。
こうした自立した咀嚼力からは,近代日本の高等教育では一般になっていた欧化を無原則に受容するような教養とは異質の,プラクティスを必要とする修養が生理化していたことを覗わせている。そこで,文部官僚が機関として思い巡らせ展開した思想善導に名を借りた「思想管理」の是認する気配を感じることは出来ない。その程度で「善導」されれば苦労はないからだ。
教養では収まりきれない修養とは何かを明らかにすることが求められている。それは過去のことではなく現在から今後においても,教育一般の環境条件の在り方を示唆している。修養を培う要因群は,むしろ自分たちの経験知で占領軍が知っていたといえる(注10)。
2章 学監宮原民平の思索と姿勢
1節 シナ学の蓄積から来た見識
宮原民平は,台湾協会学校に明治35(1902)年に給費生として入学し,4年後に卒業したものの,9月から支那語の講師として採用された。大正3(14)年には東洋協会専門学校学生監に就任した。2年後には主事を兼任。6年には新渡戸が学監に就任している。
大正8(19)年の創立20周年記念に制定された現在の校歌の歌詞を作成した。ヴェルサイユ講和会議から設立された国際連盟の創立会議に日本外交団が提示した人種平等案は欧米各国に拒まれた。そうした不義の既成秩序に憤り憂慮した心境が,校歌の一節に反映されている(校歌3節冒頭「人種の色と地の境 我が立つ前に差別なし」)。
昭和3(27)年には大学幹事兼学生主事,昭和14(39)年には7代学監に就任し,昭和19年に逝去するまで学監であった。この経歴に見られるように,拓大の前半半世紀の歩みと共にその生涯を終えている。その思索と研鑽,教学の歩みは,拓大の学風をもたらした学統を構築した有力な1人であった。
これまで見てきた疾風怒涛の時代に,宮原が学校なり大学の教学なりをどのように考えていたかの一端を明らかにすることは,七部の題にある「拓殖大学の教学」を明らかにする大事な一助になるであろう。
宮原民平の思索が大学関係の媒体で活字になったほぼ全体は,前掲の『6代学監宮原民平 拓大風支那学の開祖』に収録した。ここでは,本稿の標題に沿って,宮原の思索と姿勢を明らかにすることを試みたい。その手がかりはいくつもあるものの,3つの文から考えていきたい。
2節 『拓殖文化』創刊言/1919年
宮原は,教員と学生の研究紀要『拓殖文化』創刊言を記した。これは一種の檄文である。校歌で詞によって,学校のあるべき方向への思念を明示した宮原は,創刊言によって散文の形で学校の姿勢と輪郭を明らかにした。校歌はいわば学是を象徴的に示し,創刊言は学統を構築する意志を示した。校歌の詞と創刊言は表裏一体になっている(注11)。
冒頭に「人類の歴史はまさに大転換の機に臨んでいる。 従来の世界史は, 一言もってこれを蔽えば, 白人が有色人種を使役した歴史であった」 に始まる堂々とした宣言である。 「実に白人をして油断のならぬ思いを抱かせたのは日本であった。 まことに黄禍説は日本に対する恐怖の幻覚である」 と, 独立を保守したことが非西洋世界の代表にならざるを得なかった近代日本の負った運命を書いている。
続いて,世界の現勢が白人の放恣になっている状況を分析する。米国の排日法案による対日移民抑圧や,白豪主義の一方で,シナ大陸に対する門戸開放という使い分けの二重基準政策の欺瞞を批判する。
しかし,宮原は決していたずらな人種対立を煽っているのではない。近代での白人が妄想したカラード蔑視の人種主義者の裏返しの立場を取るものではまったくない。「吾人は白人を敵とするものではない。白人の擅恣を非認するのである,その不条理なる行動を傍観しないのである。人類共存の正道をまっしぐらに進んで,門戸開放と機会均等とを (略) 全世界に向かってこれが施行を要求する」と。英語で言えば要するに本来の意味でのフェアーにしろと言っているに過ぎない。
「人を覚醒せしむるには,その前提として自己の覚醒を必要とする。自己の真の覚醒,これは細密なる研究によって始めて実現するので,研究なきところ覚醒はあるべきはずがない。しかも研究は創見の手段であり,創見は文化発展の端緒である,吾らはここの見地において,東亜開発のため研究に従事せんとする」。海外事情に日本人はうといので有色人種に啓発もできないと,当時の実状を端的に示している。
「吾等の研究は遊び事ではない,最も真剣である,最も有意義である,吾等はここにかくのごとく思惟することによって創刊第一号を世に出す」。率直明快である。
3節 小文『思想善導』/1924年
5年後の大正13(1924)年に東洋協会機関月刊誌『東洋』(27巻4号)4月号に,「思想善導」と題する小文(コラム「同人語」の欄)を発表している。
彼がこの小文を発表した頃は,ロシア十月革命によって帝政が崩壊した後の革命干渉と言われたシベリア出兵が18(大正7)年に行われた。同時に生活の困窮から米騒動が起き,全国に波及した。出兵は22(大正11)年秋に完了したものの,革命の余波は着実に日本社会にも浸透してきていた。それが,識者には見え始めていた頃であった。
思想の混乱が「恐るべきことであるか否か。優れたる哲学,優れたる思想は,混乱に因って生まれるのではなかろうか」。のっけから,ある種の立場,つまり思想を管理する,あるいは管理できると考える立場にある側から見れば,挑発的な言い方である。さらに,「悪思想といい善思想というも,その思想の持ち主から言えば,すべて善思想である」。思想とは,そのある環境に即して見れば,相対的にならざるを得ないと言っている。
「だから政治の当路者が視て悪思想となすもの必ずしも悪思想とは限らない」。時代が変われば善思想になるのは,幕末から維新への転換によるその前後の善悪思想を見ればいい。そして,「危険思想は常に悪思想とは謂はれない」。
こうした歴史を透徹する学識ある見地に立てば,「思想の混乱は,さして憂うべきことではない」との自信が出て来る。なぜなら,「混乱の中からさらに優れた思想は生まれる」からだ。
思想上の混乱とは,解決が見えない,あるいは見つからないと思われて紛糾している状態を示している。そうした混迷の環境を再編成するために,新しい思潮が生まれる準備段階が混乱といえる。つまり,危機は転機である。
こうした見方を見識というのである。宮原から観ると,文部省の思想善導しようとする「思想管理」の文部行政は,当面の自分たちが許容できる範囲の思想を善思想とし,他は悪とするものでしかなかった。おそらく没常識な笑止の沙汰と考えていたのではなかったか(注12)。
(注)
1.三部三章の注1を参照。
2.至誠会本部編『満洲産業建設学徒研究団報告/第1編・団行動』56頁。昭和9年。至誠会の活動については,前掲の拙稿「満洲移住協会と拓殖大学」88〜100頁を参照。
3.前掲拙著一章 後藤新平のエスニック観,「三 複眼思考による多様性の容認/『鯛とヒラメ』の眼」のうち,75〜76頁。
4.南原繁「戦没学徒を弔う――戦没並びに殉職者慰霊祭における告文」。『南原繁著作集』7巻 36頁。岩波書店。昭和48年。
5.台湾総督府の糖業技師として収穫の増量の見込まれる新品種を,台湾人農家に納得させつつ勧める方法。新渡戸稲造「台湾学生のために」『東洋時報』202号。16〜17頁。
6.編纂室編『2代学監 新渡戸稲造 国際開発とその教育の先駆者』に収録。267頁。全文は266〜270頁。
7.平成16年10月4日に,拓殖大学とロシア科学アカデミー東洋学研究所日本研究センターや20世紀史研究協会が共催して,『日露関係の過去と将来 桂太郎,後藤新平,新渡戸稲造の足跡を通して』が,モスクワの外国語図書館で開催された。
そこで筆者は,『李登輝の「新渡戸稲造」観を現代に読む』という短文を提出した。李登輝と新渡戸の2人の境地の近い面を暗示したかったのである。それは個としての1人の徹底した自覚である。新渡戸はあまりに有名な『武士道』という生き方を通して,それをキリスト教徒である欧米人に言いたかったのである。
拓大関係に焦点を当てた新渡戸の軌跡についての概括的な私見は,拙稿「国際開発とその教育の先駆者としての新渡戸稲造」。『拓殖大学百年史研究』4号。「5 学問と修学 (2)台湾協会学校学生への講演から」。52〜55頁を参照。
8.同「新日本文化の創造」。『東京大学百年史 資料一』1150頁。昭和59年。
9.安岡と同質の立場にあったものの,日本は敗北していない風の見方に,負けは負けだと現実認識の優位を問うたのは,明治からの言論人であった徳富蘇峰であった。国家が敗戦して敵国である他国に活殺権を委ねてしまい,何が万世太平か,「余りにも事実と掛け離れている」と,終戦の詔勅の公表された8月15日から4日後の19日の段階で突き放して見ている。徳富は,気概は気概,現実は現実の大事さを説いている。同『終戦後日記――「頑蘇夢物語」』三八頁。講談社。二〇〇六年。
10.要因群の一つとして,文部省は,昭和20(1945)年11月6日付の発体八〇号において,体育局長名で学校宛に「武道の取扱いに関する件」を通牒した。『拓殖大学百年史 資料編二』9頁に収録。
11.同「創刊言」は,前掲『6代学監 宮原民平』に収録されている。編纂室編『地域研究の系譜 拓殖大学の学統V』にも再録した。
12.宮原がこの小文を発表した10年後の昭和8(33)年7月に閣議報告された「教育・宗教に関する具体的方策」には3項目ある。冒頭項には,「日本精神を開明し(中略)国民精神の作興に努むるは思想善導方策なり」とある。統治側の問題意識は少しも深化しなかったのである。この閣議報告の前後については,三部4章を参照。