昭和史における文部行政への政策評価

2008年7月10日

文部省による思想管理の実態<6>
〜昭和5(1930)年から16(41)年の拓殖大学史から〜

池田 憲彦
元・拓殖大学日本文化研究所教授
同研究所附属近現代研究センター長
高等教育情報センター(KKJ)客員



六部 準戦時体制下での修学環境

11章 中国や蒙疆への国策協力/昭和15(40)年

 1節 禁止される図書と推薦される図書/2月〜

(1) 発売頒布禁止処分の図書
 禁止処分された図書は徐々に増えていった。2月29日付発企九号にて,「発売頒布禁止処分図書の取り扱いに関する件」で,津田左右吉の下記の4冊が通牒された。国体上差し支えあり,となったのである。「神代史の研究」,「古事記及び日本書紀の研究」,「日本上代史の研究」,「上代日本の社会及び思想」である。五部10章2節(3)で引用した拓大図書館における閲覧図書調査の中には,津田の著作は入っていない。
 内務省は,出版法第19条により7月10日に左傾出版物を発売頒布の禁止処分にした。それを受けて,文部省は教学局長官名によって,7月19日付初企二三号により,「発売頒布禁止処分図書の取り扱い方に関する件」を学長宛に通牒した。
 添付されている一覧表に掲載されている図書は,「差し押さえ処分に付せられたるについては貴学(校)において該当のものこれあらば図書館に備え付けあるものは勿論その他学生生徒の閲覧しうるべき場所にあるものは直ちに閲覧,貸し出しを禁止しこれが保管の場所,方法等について適当なる処置を講じ以て学生生徒の指導上遺憾なきを期せられたく」。
 追記として,「右処置相成りたるときは図書名並びに処置したる方法等につき報告これありたく念のため申し添う」。
 一覧を見ると,大正8(1919)年8月に三田書房から刊行された堺利彦「唯物史観の立場」から始まり,昭和12年12月に白揚社から刊行された早川二郎「日本歴史論」にいたる百数十冊の,おそらくこの期間に日本で刊行されたマルキシズム関連の刊行物の全てが網羅されているのではないか。
 拓大から前掲通牒の追記部分について,どのように回答したのかの記録はない。そこで,大学図書館にある当該文献を学生生徒が閲覧しようとした場合に,どのような対抗措置を執ったかもわからない。

(2) この時期における推薦図書の概要
 教学局主催の学会,講習会の口述記録や国民精神文化研究所の所員による成果をまとめた著作の,学校宛への陸続とした送付と共に,教学局推薦の一般図書の連絡も多かった。
 前項の禁止処分にされた図書と比較していくと,教学局の存念も浮かんでくる。7月17日付発指一四号にて,指導部長名によって「推薦紹介図書の通知方に関する件」で,出版社から刊行された5冊を推薦している。柳田國男「国語の招来」,武内義雄「論語の研究」,山田孝雄「五十音図の歴史」,大西克礼「風雅論」,金倉円照「印度古代精神史」。
 10月21日付発指一四号にて,3冊を推薦している。山田孝雄「国語の中における漢語の研究」,山口諭助「空と弁証法」,橋田邦彦「正法眼蔵釈意 第一巻」。
 11月14日付では4冊。武田祐吉「神と神を祭る者との文学」,波田(まま)野精一「宗教哲学序論」,金子大栄「日本仏教史観」,維新史料編纂事務局「概観維新史」。
 同月22日付では,5冊。五十嵐力「戦記文学」,岩生成一「南洋日本人町の研究」,冨成喜為平「日本科学史要」,西堀一三「日本茶道史」,橋田邦彦「正法眼蔵釈意 第二巻」。
 さらに11月27日付発指六号によって,「選奨図書内容梗概送付に関する件」を送った。同文書の説明文によると,こうした梗概はすでに第12回になっている。推薦図書の要旨を提供することによる簡易な解釈までお仕着せにしようとしているのか。今回のそれは,諸橋轍次「支那の家族制」,植田壽蔵「日本美術」,高木市之助「日本文学の環境」。
 帝国学士院編「帝室制度史 第四巻」については,文部省編『国体の本義』の参考資料だと記している。大学側は受理した文書の空白部分にメモ書きで「図書館に送る」としている。

(3) 学内刊行物の調査/4月
 図書については,禁止されているにせよ推薦されているにせよ,読み手側の問題である。いわば知識のインプットである。だが,高等教育機関であれば,一方で調査研究と思索成果のアウトプットも求められている。
 4月18日付発企一六号で,企画部長は「学(校)内刊行物に関する件」を通牒した。「貴学(校)において学生(生徒)又は教職員により発行せらるる新聞,雑誌,パンフレットその他の出版物にして定期に若しくは継続して発行せらるるものの全般にわたり(編集,発行名義人は第三者なるも貴学(校)における教職員,または学生(生徒)の団体において実際編集せらるるものはすべて含む)詳細承知いたしたくにつき別紙様式により四月末日現在をもってご調査の上 来る五月二十日までご報告あいなりたし」。
 例の如く,同通牒には様式とは別に,(備考)が添付されている。「記入上の注意事項」が克明に記されており,9項目に及んでいる。最後には,「『事変以降における処分の有無』欄」がある。
 この項では,「支那事変以降現在までの間において思想的理由により又は防諜その他時局に関連せる問題により学校当局において刊行物に対して処分をなし,あるいは同様理由により発禁,削除その他の行政処分又は司法処分を受けたることある場合は,当該号数及び記事標題並びに処分の種類,年月日,理由を記入すること」,とある。

 大学の報告内容
 大学は5月10日付で回答した。3つの刊行物である。その1は,紀要『拓殖大学論集』。発行部数は千二百部,年2回発行で発行元は,学術研究会。内容は,「経済学商業学殖民政策,政治学法律学社会学文学及び哲学に関する論文資料を収録す」。
 「事変以降における処分の有無」と「その他参考事項」は斜線を引いて書き込みはない。
 その2は,『拓殖文化』。三千部発行で,年2回発行。発行元は拓殖研究会。内容は,「殖民,経済,商業,政治,社会等に関する論説,調査,翻訳紹介等」。執筆者の範囲は,「拓殖大学学生」。指導監督の状況は,「編集人兼発行人及び本学教授並びに講師之が指導す」。「事変以降における処分の有無」と「その他参考事項」は,紀要と同じであった。
 その3は,『拓殖大学新聞』。毎月1回。ただし,2月と8月は休刊。発行部数六千八百部。発行元は,新聞学会。内容は,「学内事業記事,経済学,商業学,政治学,法律学,社会学,文学及び哲学に関する論文資料を収録す」。執筆者の範囲は,「拓殖大学教授助教授講師学生とす」。「事変以降における処分の有無」と「その他参考事項」は,紀要と同じであった。


 2節 集団勤労と海外派遣の重層的な強化策

(1) 講習協議会という練成と訓練/3月,10月
 2月29日付発調一〇号にて教育調査部長より学長宛に,『集団勤労作業指導者講習協議会』の開催に関する通牒が出た。要項によれば,趣旨は「集団勤労作業の趣旨を徹底しその運用を適切有効ならしむるため,高等諸学校教職員に対し集団勤労作業の趣旨,作業指導法を体得せしむるを以て目的とし,兼ねて之が実施方法に関し協議を行うものとす」となっている。
 期間は,3月18日から21日の4日間で場所は身延山久遠寺,宿舎は信行道場。参加資格は,「高等諸学校の教授または生徒主事等(女子の学校にありても男子とす)」
 講習内容は,1,集団勤労作業の趣旨,2,集団作業指揮法,3,修養法及び講話。演習は,作業指揮演習。「なお期間中は道場において宿泊し修養を行う」。講師は,「本省員,陸軍視学委員及び名士宗教家」。
 日程を見ると,朝6時起床。食事と入浴以外,夜9時まで授業がある。10時消灯。集団勤労作業趣旨,実施状況聴取,作業指揮法及び演習。修養講話,講演などである。
 大学は専門部開拓科助手の河原林孟夫を派遣すると,3月7日付で回報した。出張報告書は他の場合と同様にない。こうした講習会も,前掲(5章5節)の家庭講習会の背景を思い出してしまう。

(2) 報国隊活動の戦略的な展開/4月〜9月
 「興亜学生勤労報国隊の歌」懸賞募集
 国内での勤労奉仕の一方で,前年の昭和14年度より始まった海外での体験学習である報国隊活動を文部省が行政上で戦略的に展開しようとしていたのではないか。と思われるフシは,この年の経緯に覗うことができる。
 その手始めは,4月10日付発企一五号にて,教学局長官名によって学長宛に送付された「『興亜学生勤労報国隊の歌』懸賞募集に関する件」からであろう。添付されている「懸賞募集」によると,その趣旨を高らかに謳っている。
 「東亜新秩序の建設は青年学徒の熾烈な実践的奉公の精神と東亜に対する深き認識とにまつことけだし大である。昨夏興亜青年勤労報国隊が満洲及び支那各地において集団的勤労に参加し以て開拓,軍の後方勤務,文化工作等に協力した意義もここにある。而して本年もまた報国隊を結成し現地に送ることとなったが,その志気を鼓舞し,興亜精神の昂揚を図るため興亜学生勤労報国隊の歌を作ることとなり,次の規定によってその歌詞を募集する」。
 応募資格は,報国隊経験者と学生生徒。審査員は,文部省関係者以外は,NHK教養部長,北原白秋,土岐善麿,東京音楽学校長乗杉嘉壽,同学校教授橋本国彦,東京帝国大学教授穂積重遠。締め切りは,5月15日であった。
 同企画の所管課である企画部企画課長名により大学学生課長宛に,5月1日付で,募集案内が掲示されていないのではないか,締め切りが切迫しているので配慮されたい,との催促状が来ている。そこから応募者が少ない気配を感じる。
 教学局名により学長宛に,6月28日付発企一五号で,「『興亜学生勤労報国隊の歌』楽譜配布に関する件」が通牒された。レコードは日本ビクター蓄音機株式会社から近く販売されるとも記されている。肝心の楽譜は保存されていないので歌詞も不明。

 随行指導教官の事前研修での携行品目
6月10日付同号で指導部長は,同隊「北支及び蒙疆派遣隊指導教官選考方依頼の件」を通牒し,45歳以下の学生主事または教授助教授の推薦を要請している(SW二八九)。手当ては200円程度で支度料は30円。6月12日,大学は学生主事金指玉司を推薦した(同上二九一)。
 さらに,同隊の「中隊本部付及び小隊付として配属将校にあらざる教練教官を置くことと致したるにつき左記ご参照の上至急候補者をご推薦あい成りたく」(同上二九〇)。支給条件は前掲と同様であった。選考条件は2つあり,イ,身体強健にして指導能力ある者,ロ,年齢はおよそ50歳以下のこと。
 大学は,6月14日付で,38歳の上海,北支に従軍経験のある陸軍歩兵中尉を推薦した(同上二九二)。その結果がどうなったかの記録はない。
 6月19日付同号で,教学局長官名によって学長宛に,6月21日に文部省第1会議室での同隊「派遣に関する懇談会開催の件」を通牒した。同文書余白にメモ書きで,「予科学生主事金指玉司氏に出張するよう」とある。
 同月25日付同号にて,長官より学長宛に同隊「北支派遣隊隊付き及び小隊長に関する件」を通牒した(同上二九三)。「記」によれば,事前研修というか事前練成というのか,7月12日に習志野練習場に集合となっている。服装は,指定を見る限り軍服と同様である。携行品には,薬品類の事例の上に,「梅肉エキス わかもと(エビオス)」との鉛筆による書き込みがある。その他,の上には,「氷砂糖」と書かれてある。学内経験者が金指に伝えたのであろう。
 注意の項には,「小隊長は指揮刀を帯ぶるものとす。(略)一般にありては拳銃,双眼鏡(以下略)刀剣類は持参せざること 但し武官の拳銃(弾薬を含む)双眼鏡,軍刀はこの限りにあらず。(略)(前略)種痘チフス,パラチフスAB・コレラの予防接種,身体検査を完了し種痘並びに予防接種証明書(チフス・コレラ)身体検査書及び身体証明書を持参すること。税関その他において必要に付き携行品目録5通持参すること」。こうした但し書きからは,戦地とまで言わなくても,準戦地に赴く気配が濃厚である。

 北支及び蒙疆派遣隊の出発と帰国,そして報告会
 6月28日付で長官名により学長宛に同隊「北支及び蒙疆派遣隊に関する件」が通牒された。6月24日付で出来上がった同隊の編制割当表が添付されている。拓大への割り当ては,第1方面隊第1中隊第2小隊第3分隊10名であった。
 7月4日付で同じく長官名により,同隊の派遣隊隊長及び隊付きを決定した通知を出した。別紙にある名簿には,拓大が推薦した歩兵中尉はその一覧には見られない。同月10日付で同隊出発日程が学長宛に指導部長から通牒された。
 9月18日付同号で,学長宛に長官名による同隊「協議会並びに現地報告大会に関する件」を通牒した(同上二九五)。今般同隊「無事任務を終了し帰還解隊致したるについては」,参加教官と参加学生生徒各隊代表1名宛派遣されたいとなっている。また,協議会とは別に同隊現地報告大会を行うとの連絡である。
 協議会は9月25日に午前は教官の部,午後は学生生徒によって行われた。報告大会は,教学局と国民精神総動員本部が主催し,翌日の26日に神田一ツ橋の共立講堂で行われた。挨拶は,文相橋田邦彦,総動員本部理事長堀切善次郎が行い,現地報告は1人12分以内で9名が行う予定になっている。
 2部は,ベルリン・オリンピックの記録映画『民族の祭典』が上映される次第になっている。
 拓大の報告者は,メモ書きで学三伊藤と記してあるが,「学2の鈴木竹雄に変更」となっている。金指主事は韓国出張のために不参加とも記してある。

(3) 教員練成講習会の開催/11月
 11月21日付発企二五号にて長官名による学長宛,「高等専門学校教員練成講習会開催に関する件」が通牒された。前文によれば,「今般本局において高等専門学校教員に対し新体制に即し学徒教導上遺憾なからしむるため左記により練成講習会を開催」するので,学生主事を1名,もし主事に支障ある場合は兼任主事を参加させるように,と記してある。
 趣旨は,現在から見ればかなり大仰に感じるものの,それが当時の風潮だったのであろう。「非常の時局を克服し興亜の学風を作興するは師弟一体となり倶学倶進するにあり これに鑑み高等専門学校教員をして共同生活を営み心身の修練を図り教学の本義に徹せしむると共に 時局に対する認識を深からしめ 以て学徒教導上に遺憾なからしめんとす」。
 期間は,11月18日から23日まで6日間。これまでとは大幅に日数が増えている。場所は麻布にあった東京府養正館であった。
 講習科目は,教学,哲学,経済,科学,新体制,国際関係,物価問題,大陸政策,礼法,指揮法,座禅。合宿訓練の項では,「講習期間中合宿せしめ学問的修養とあいまって心身の修練に資す」。
 講習費は食費として「約10円」。この数字の出し方が不明である。携帯品には,イ,和服,袴。ロ,作業服,戦闘帽,巻脚絆。
 拓大は,専門部教授兼学生主事高馬進を派遣すると,11月5日付で報告した。
 11月13日付同号で,指導部長は学長宛に日課について通牒した。講師及び題目は以下の通りである。冒頭は,紀平正美の「日本的」。次が物価局第1総務課長による「物価問題について」。東京商大教授による「新経済体制と財政生活」というのもある。大陸政策は興亜院の陸軍大佐。
 大政翼賛会文化部長になっていた岸田国士は,「新日本文化の建設」。礼法は,なんと侯爵徳川義親。彼は大川周明の有力な支援者であった。指揮法は,体育研究所員。座禅は,曹洞宗の師家として知る人ぞ知る澤木興道が駒澤大学教授の肩書で講師になっている。
 日課を見ると,6時に起床して6時半には集合,宮城遥拝,神詞三拝。18日の開講式には,宮城参拝,明治神宮,靖国神社参拝があった。朝食後に「写経」ではない謹写というのがある。詔勅であろうか。
 家庭教育指導者講習会や東洋教学講習会と同様に,個々の講師や題目には光るものがあるとはいえ,全体を有機的に関連させる枠組みなり発想がはっきりとしない。これで趣旨にある「興亜の学風を作興する」ことが可能なのか。主催者側が時流を状況認識としてしっかりと目配りしているのは覗える。


 3節 日本諸学の学会強化

 4月23日付発指一九号にて,長官名により学長宛に「日本文化講義実施に関する件」が通牒された。前文末に,なお書きで「本年度は紀元二千六百年に因み特に肇国精神を明らかにし之に基づく我が国文化の創造発展に重点を置き実施あいなるよう致したく」とある。
 「記」にある同講義の要旨では前年と同じく3項がある。1,3項は,前年度と同様だが,2項の講師選定が簡略になり,「講師は上記の目的に最も適合する人を選ぶこと」とある。実施状況の問い合わせと報告は保存されていない。
 一方で,日本諸学の諸学会も開催は多かった。5月15日付発企三号にて長官名により学長宛に,「第二回哲学会並びに同公開講演会開催に関する件」を通牒した。6月27日より3日間。5月9日付官報に告示してあると通牒には記してある。格式が高くなったのか。回答文書の控えもメモ書きもないので,参加不参加は不明。
 5月31日付同号では,同じく第2回経済学会並びに同公開講演会開催の通牒である。この開催も,5月31日付の官報に告示してあると記している。
 大学は教授川西正鑑を派遣した。回答控えは,6月13日付である。川西教授の紹介は,担任が経済史,経済地理,海運論,景気変動論,経済演習となっている。
 8月16日付同号で,長官名により学長宛に「第二回教育学会並びに公開講演会及び第二回歴史学会並びに同公開講演会に関する件」について通牒した。教育学会は10月3日より,歴史学会は11月7日より,それぞれ3日間であった。要項がないので内容は不明である。従って,大学から誰が参加したかもわからない。
 9月16日付で長官藤野恵名により,第2回教育学会と歴史学会及び同公開講演会に関して大学からの回答がないので,「至急報告あいなりたし」と催促された。大学の回答は,控えではなく手書きの案文が残っている。9月20日付で起案した模様だ。教育学会には学生主事宇賀神哲次,歴史学会には社会学を担任している教授兼学生主事黒川純一である。
 10月14日には,長官藤野名で学長宛に前掲の公開講演会のポスター5部を送付し,学内での掲示を要請している。さらに受領印が同月15日なので同じ頃と思われるが,同じく長官藤野名により学長宛に,前述の両学会についての丁重な挨拶状が届いている。


 4節 中国関係の諸学と地域研究者の調査/9月

 中国大陸への過剰介入が日を追うに従って進んでいくのに対して,9月9日付発企一〇号で長官名によって学長宛に,表題についての講義を担当している氏名,著書,論文を同月末日までに報告されたいと通牒した。
 記載様式の次に,(注意)として4項ある。「一,国語国文学,法学及び芸術に関係ある諸学は各別に記載すること。二,法学は政治学,外交史等を含む。三,芸術に関する諸学は美学,美術,文芸,音楽,演劇,建築等を含む。四,論文は昭和十三年以降のものを記載すること」。
 長官の公印の押されていない同形態の文書もある。ここでは,報告対象に医師が入っている。公印のある正式文書から医師が削除された理由はわからない。
 大学は9月28日付で報告した。該当する教職員に回答を直接書かせた。
 綴られている順序に列記すると,外交史,国際経済担任の教授三枝茂智,国際私法の兼任教授久保岩太郎,国語講師の吉田精一,親族相続の講師内田護文,民法の黒川真前,刑法の講師吉田常次郎,国語講師の岸谷誠一,民法の講師大平善梧,憲法の澤田五郎,商法の講師椎津盛一,法学通論,商法の教授豊田悌助,民法の岩田新,国際法の細野軍治,民法の講師江村高行。
 回答されていても控えから抜け落ちたのか,支那語の大家である宮原民平や土屋申一のものはない。満鉄に関する専門家の1人であった永雄策郎の名前も挙げてない。意図して外していたのであろう。


12章 教学局編『臣民の道』の刊行/昭和16(41)年

 1節 経済学関係の講義に関する調査/1月〜3月

 1月15日付発企六号にて教学局企画部長と専門学務局長連名による学長宛に,小見出しの調査通牒があった(SW二一五)。教学の刷新に基づいて,経済学関係の担当者と教科書は何を用いているか,教学局の参考資料としたいので2月15日までと,期限を切った報告要請である。
 拓大は,まず担当教員に1月24日付で,文部省からの要請があるのでと,文部省の通牒をそのままに伝えた。次いで,教員に講義内容と教科書や教材に関して,2月10日までに回答を求めた(同上二一六)。
 企画部長宛の大学の回報は,3月28日付で,1ヵ月以上も遅れている(同上二一七)そこには,4名の教員,山内正瞭,川西正鑑,鈴木憲久,平尾彌五郎が挙げられている(同上二一七)。講義内容は別紙にあるとのことだが,その控えはない。
 しかし,次節での報告と同様な内容のものであったと思われる。報告の日付が次節に記してあるように,一日違いの29日であるからだ。それにしても,文部省の同じ下部機関である教学局による,こうした2重の調査要請は理解に苦しむ。その背景に何があるのかの説明はない。


 2節 教職員の著書と論文の調査/2月〜3月

 経済学関係だけでなく,2月25日付発企19号では,教学局長官名により学長宛に,「学校教職員の著書並びに論文の報告に関する件」を依命通牒した。
 「貴学(校)の教職員(教授,助教授,助手,副手,講師,その他の職員)にして著書または論文を発表したる場合は」,「その都度遅滞なく報告あいなりたし」とした。「本通牒以前のものにつきては昭和15年1月以降の分を取りまとめ3月31日までにご報告あいなりたし」。
 3月29日付で大学は調査報告した。
 3月10日付発企6号にて企画部長は学長宛に,「大学,高等,専門学校における経済学関係の講義内容照会に関する件」を問い合わせてきた。1月15日付で表題について問い合わせていたが,回報しなかったのである。最初の通牒は綴られていない。前掲1節で記したように,3月28日付で回報した。


 3節 日本文化講義の拡大解釈/4月

 恒例化した「日本文化講義実施に関する件」は,4月5日付発指一五号にて長官名により当年度について通牒された。前文前半は例年通りでも,後半は内容が違う。「同本年度は時局並びに皇国の使命に鑑み一層国体観念の徹底を期すること共に新体制の諸問題,国土計画,人口問題,食糧問題,大陸政策,太平洋問題等に関する講義をも加え以て十分成果を挙ぐるようご配慮あいなりたし」。
 「記」は3項あり,1項は前年と同様だが,前掲の前文後半の影響からか,2項は,「講師は上記の目的達成に最も適当なる学者実際家を選ぶこと」。事態の緊迫度に応じてか,講師は「実際家」でも良いとしているところが注目に値する。
 そうした認識が深刻化している一方で,推薦図書は日本文化に専ら焦点を当てて益々観念化してくるように見える。あるいは文化的な香りが多い。つまり,最新の日本文化講義で求められている実際性あるいは実用性からは遠く,逆行する展開なのである。
 1月31日付発指7号の「推薦紹介図書の通知方に関する件」では,5冊の書籍を挙げている。題名を紹介すると,『法隆寺』,『日本国民教育史』,『芭蕉俳句の解釈と鑑賞』,『美の伝統』,『禅と日本文化』。2月27日付での通牒では,『人間と言葉』,『古事記概説』,『日本の言葉』,『能楽研究』。5月9日付では,『国語学史』,『平田篤胤』,『興亜国民東洋史』,『宗祗』。いずれの書籍も,戦時色な世相とは異なり,なんと雅びなものか。
 今年度における日本文化講義実施の通牒にある「国土計画,人口問題,食糧問題,大陸政策,太平洋問題等」が,推薦図書にどこまで反映されているかは一目瞭然ではないか。
 時勢は,推薦図書の範囲をはるかに超えて進んでいる。同時に,こうした現実から見えるものを理解する必要がある。新たな主題に応える実際家を講師として求めても,元来そうした指向性を日本の知識人は有していなかった。八紘一宇を実現する世界侵略の意志に基づいた共同謀議などはどこにも存在せず,あるのは泥縄による糊塗の積み重ねである。


 4節 学内刊行物調査と禁止図書の扱い/4月

(1) 「学校関係出版物の調査に関する件」の意図と拓大の対応
 4月19日付発企三四号で企画部長は学長宛に「学校関係出版物の調査に関する件」を通牒した。前年4月にされた同趣旨の調査と環境が変わっていた(11章1節「(3)学内刊行物の調査/4月」を参照)。
 三四号によると,前年9月2日付発社三三三号にての文部次官通牒で,統廃合と整理が求められていたのである。前年の調査は,そのための布石であったようだ。
 5月10日付で大学は回答した。報告期限の日である。最初は,『拓殖大学研究所論集』である。発行所は大学研究所。編集発行人は,教授川西正鑑。創刊年月日は,昭和16年7月30日(予定)。発行回数は年1回。内容は,「経済学,商業学,殖民学,政治学,法制学,民族学,等拓殖学に関する研究論文を収録す」。執筆者の範囲は,「大学研究所員副所員及び助手とす」。
 その2は,『拓殖文化』である。発行所は,拓殖大学報国会文化局。指導者氏名は,文化局長の川西,雑誌部長の豊田悌助,殖民研究部長の永雄策郎,法律政治研究部長の小野義一,農業研究部長の野尻重雄,商業研究部長の青山楚一が挙げられている。
 内容は,「殖民,経済,商業,政治,社会等に関する論説,調査,翻訳紹介等」。執筆者の範囲は「拓殖大学学生」。
 その3は,『拓殖大学新聞』。発行所は,拓殖大学総務局。指導者氏名は,総務局長青山楚一,情報部長豊田悌助,学生委員河崎兵衛。編集発行人は情報部長豊田。内容は,「学内事業記事,経済学,商業学,政治学,法律学,社会学,文学及び哲学に関する論文資料を収録す」。執筆者の範囲は,拓大「教授助教授講師学生とす」。
 廃刊にすることになったのは,『拓殖大学論集』。「昭和15年3月末日限り廃刊」。廃刊理由は,「右出版物発行団体たる拓殖大学学術研究会の解散に基づく」とある。前掲の『研究所論集』で代替し得ると考えたのであろうか。だが,後日,実際には『研究所報』として1回限り刊行されただけで終わった。
 戦時色濃厚な中で,元来があらゆる物資の貧困にあって,紙も戦略的な資源として優先順位から軍事物資として吸収されてしまった。統制経済は出版物を直撃した。言論の自由という精神性の前に,表現手段としての紙そのものの供給が狭まっていたのである。そうした環境の中で,『新聞』と『拓殖文化』の存続にこだわった拓大当局者の見識を,どのように評価するかは後述したい。

(2) 発禁処分の図書をどう取り扱うか
 推薦図書が増大する半面で発禁処分の範囲は拡大していく。前年7月19日付発企二三号により,「発売頒布禁止処分図書の取り扱い方に関する件」が通牒されていた。年が明けると,4月23日付発企二三号にて,「発売頒布禁止処分左翼図書の取り扱い方に関する件」が通牒された。文書番号は変わらなくても,前年との違いは「左翼図書」と明確に指示しているところであろう。
 この通牒は,加えて末尾で「右処置あいなりたるときは図書名ならびに処置したる方法等につき報告これありたく念のため申し添う」と記した。
 大学はこの通牒に接して,禁止図書の「目録は図書館に送る」と書き込んでいる。また,そのメモ書きをした者とは別の者が筆書きで,「別表目録は多数につき図書館に綴り込み保存す」と空白部分に記してある。閲覧印は幹事青山と主任塚原の2人である。
 大学は,5月29日付で長官宛に回答した。「発売頒布禁止処分左翼図書の取り扱い方に関する件回答」である。「(冒頭前略)頭書の件調査致し候ところ同封別紙目録通り本図書館に蔵置ありたるにつき昭和十五年七月十九日付貴通牒の旨に則りそれぞれ措置致しおき候間この段及び回答候」。閲覧者である学生から隔離してあると答えている。教職員の場合は,この制約に抵触するかどうかはわからない。
 別紙目録は,大学名の印刷されたB5の事務用箋4枚にタイプで印刷されている。27の書籍で,分冊と同じ書籍で2冊あるのを加えると,冊数は32冊である。同じ書籍とは版元不明の経済学全集第1巻である。著者は拓大の講師をしたこともある河上肇であった。
 トロツキーの『裏切られた革命』も訳本(訳者雨宮庸蔵)で在る。同本が発売されたのは昭和12年である。
 因みに,発禁処分にされた書籍で,昭和10年以後に出版された蔵書は,訳本は,ボクローフスキー著・岡田宗司訳『ロシア史』,ロソヴィスキー著・堺利彦訳『国際労働組合運動』,ヴォルガ著・経済批判会訳『大恐慌とその政治的結果』,ブハーリン著・小林良正訳『金利生活者の経済学』,アントニオ・ラブリオラ著・木蘇殻訳『唯物史観研究』,ラビドス,オストロヴィチャノフ著『資本・労賃・利潤』,ボチャロフ・ヨアニシアニ著・早川二郎訳『世界史教程』5分冊。
 日本人著者のものは,渡辺義通『日本古代史の基礎知識』。蔵原惟人『芸術論』,河上肇『近世経済思想史論』。
 昭和5年から始まった文部省による良書推薦や,内務省による左右書籍に対する検閲強化(昭和8年6月)で徐々に締め付けが強化されていても,拓大での図書購入には余り影響はなかったことを覗うことができる。

(3) 事例/通牒を受領する学校側の過剰適応
 しかし官憲による左翼図書への監視は,学校側の過敏な反応というか過剰適応を招く。その一例は,5月15日付発企二三号に現れている。「名古屋薬学専門学校より左記三図書は右通牒中(4月23日付の通牒別表目録を指す,引用者注)には掲載なきも発禁図書と同様に閲覧を禁止するを適当とするや否やの照会これありたるにより別紙に通り回答致しおきたる」(下略)。
 その3冊とは,伊豆公夫『日本社会史講話』,柏崎次郎『マルクス資本論・大思想文庫(25)』,三木清『唯物史観と現代の意識』。三木清の同本は拓大図書館の蔵書に入っていた。そこで教学局に提出した隔離した書籍の別紙目録の最後に加えられている。
 名古屋薬専の問い合わせというか意見具申に接した所掌している教学局企画部は,部長名で同校に5月15日付で,「五月三日付名薬図第一号をもって照会これありたる図書はいずれも思想上不適当と認めらるるにつきては本年四月二十三日付企二三号教学局長官通牒に基づきそれぞれ処置あいなりたく右を回答」。
 この問い合わせは名古屋薬専の図書館からである。同館司書あたりの時勢に合わせた生真面目な反応と思われる。


 5節 教学局編『臣民の道』の配布/7月

 『臣民の道』は,その後の敗戦までの日本の教育を指し示していた。その観念性への傾斜は,4年前の昭和12(1937)年3月に刊行された思想局編の『国体の本義』と比較するとわかる。教育行政機関としての文部省の政策的な意思表示であった。その意味するものの大よその見取り図について,八部2章で触れることにする。


13章 興亜報国から国民勤労報国への展開/開戦の選択も

 1節 報国隊の北支・蒙彊派遣の中止/7月

 前年と同様に実施されるはずであった派遣は,全体状況の深刻化からか中止になった。教学局長官名によって7月21日付で現地派遣の中止を通牒している(SW二九七)。前年まで受け入れていた現地側である軍当局に,参謀本部から,全く新たな重要な下命があったからと推察される。文部省は,この段階では,おそらくそうした事態の変化を知る立場になかったと思われる。
 全体の深刻化とは何を指しているのか。6月25日には,現在の南ベトナムである南部仏印への進駐を決めている。さらに7月2日,大本営と政府首脳,枢密院議長の参加する御前会議において,情勢の推移による国策として和戦両にらみのいわゆる北進と南進の2つの路線を入れた帝国国策要綱を定めた。
 独ソ戦が展開されている状況で,この決定を背景にして,満洲では関東軍による70万の兵員を集めた「特種大演習」(関特演)が8月に行われた。演習としては,近代日本では最大規模の空前絶後の計画であった。
 日本の動静にモスクワが最も神経を尖らせていた局面であった。もし日本軍が満洲からソ満国境を越えてシベリアに北上する事態になれば,ソ連は東西の両面から攻められて,2面作戦を余儀なくされる。するとスターリン体制が崩壊するのは明らかであったからだ。
 渦中の満洲は勿論のこと北支でも軍には学生を受け入れる余地はなかった。茨城にある満蒙開拓青少年義勇軍訓練所の一環である鯉渕村にある満洲鉱工青少年訓練所で,事前訓練を兼ねて待機していた隊員学生は,軍需工場に勤労動員として振り向けられた。報国という名分の下に学生を単なる労働力に還元してしまっていることへ,文部省側は違和感をなくしているようである。
 日本軍なり日本政府の出先や現地政府での実態を目の当たりに接することによる体験学習の代わりに提供されたのは,赤羽と王子にある兵器廠での2週間にわたる作業の機会であった。「銃前」と銃後の違いはあっても,その取り組みに違いはないという精神論はあり得る。兵器廠での手伝いだから「軍の作業」というのが,長官名による通知の趣旨であるようだ。
 しかし,気が引けているのか,同通知によると参加を要請されているのは「本派遣隊幹部及び有志」になっているところが,今日から見るとご愛嬌である。ここには,軍の下請けになって違和感を有していない文部官僚の小知恵が覗えないか。文部行政を担う矜持を覗うことはできない。学生にとっては,この2週間の与えられた余暇に読書でもすることの方が,よほど報国である。


 2節 拓大報国会は行政指導以前から/昭和14年に発足済み?

 8月8日,文部省は報国会編制の示達とも言える訓令二十七号を,府県知事と公私立大学高等学校及び専門学校長宛に発した(SW三〇八)。その内容については次節で明らかにするが,いわば高等学校以上の学校組織を,教育の場だけでなく報国という目標の下に国家総動員を徹底しようと試みたのである。
 だが,拓大はすでに昭和14年に類似する組織の編制をしていた。国民精神総動員実践機関設置についての次官通牒(同上二〇六)に対応した文部省への報告の中に,「昭和十四年十二月十六日より」「学生隊なるものを設け」(同上二〇七)と記しているのは,前述した通りである(五部9章2節(2))。
 大学に残されている規約の記録から見ると,第1条には,「本会は拓殖大学報国会と称す」とある。第2条には,「本会は本学建学の主旨に基づき,心身一体の修練を図り報国精神に一貫する学風を振興するをもって目的とす」となっている。
 第4条は,「本会は拓殖大学学部,専門部,予科の全教職員及び全学生をもって会員とす」。第5条は,「本会に総務局,修練局,体育局,文化局,軍事訓練局及び厚生局の六局をおく」とあり,その組織のあり方と全容が明らかになっている(同上三一二)。


 3節 訓令による報国隊の結成から「国民勤労報国協力令」へ

(1) 報国隊の編成内容
 訓令二十七号には名称はない。ただ,学校報国団などの先行事例があるので,「報国団のうちに指揮系統の確立せる全校編隊の組織を樹て隊の総力を結収して(中略)各種団体訓練等の実施を効果あらしむるは方に非常時下教育の要請にして刻下の急務なり」と,訓令の主旨を謳っている。
 この訓令に従い,8月30日付で拓大は次官に対して,「学校報国団の隊組織確立並びにその活動に関する件」の報告をした(SW三一三)。別表には,報国隊組織の編制表が記されている。前文には,「別表の通り組織編成致し候」と記してはあるものの,先行していた編制をそのままに報告したものであろうか。隊長は学長で,本隊の下に3大隊があり,各大隊には4中隊あり,中隊には小隊,分隊とある。中隊長は教職員で,小隊長には学生がなっている。特技隊には,乗馬隊,自動車隊,防毒隊,消防隊,救護班もある。また,どういう任務か不明だが,特別警護隊もある。
 隊組織編成は,9月18日付発専一六六号で,次官名により学長宛「学校報国隊組織に関する件」として承認された(同上三一四)。さらに,この原議書には,「報国隊要綱を調製し至急回報相成りたし」と求められた。
 大学は,10月6日付で次官に宛てて,「学校報国隊組織に関する件」と題して報告した(同上三一五)。要綱案は,1項は,既存の拓大「報国会を強化し有事即応の体制を確立するため本報国会に報国隊を設く」とある。その他9項まであるが,組織内容を記してある。隊編成表は幹部任命表である。

(2) 勅令「国民勤労報国協力令」/11月
 11月22日付では,学校だけでなく全国民を対象にした勅令九百九十五号「国民勤労報国協力令」の公布になった(同上三〇九)。「国家総動員法第五条の規定に基づく帝国臣民の勤労報国を目的とする協力にして隊組織によるもの(以下国民勤労報国隊による協力と称す)」(下略)と,国民のうち男子は14才以上40才未満,女子は25才未満の婚姻者以外は,全て報国隊員にされて国家総力戦体制に組み込まれた。
 12月1日付では,厚生・文部省令第三号で,「国民勤労報国協力令施行規則」が定められた(同上三一〇)。第1条を見ると,国民勤労報国隊は全ての分野と領域で「協力」することが命ぜられている。制度として常時,国民準皆兵になり,日本社会そのものが有事体制になっていることを示している。
 前掲の協力令と施行規則制定の日付から考えて,日米開戦は織り込み済みのところから発令されているとも考えられる。ここには,戦時になっている有事体制の内実が赤裸々に示されている。


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