昭和史における文部行政への政策評価

2008年5月7日

文部省による思想管理の実態<5>
〜昭和5(1930)年から16(41)年の拓殖大学史から〜

池田 憲彦
元・拓殖大学日本文化研究所教授
同研究所附属近現代研究センター長
高等教育情報センター(KKJ)客員



五部 法制による戦時体制化

9章 国家総動員法の公布/昭和13(38)年

 1節 提供情報を受領する主事の調査/1〜4月

(1) 首都南京の陥落による情勢の変化
 1月11日付発企34号で教学局長官は学長宛に,これから「内外における思想問題に関し秘密の取り扱いを要する各種の情報」について,「随時謄写につき情報として送付致す」ので,「記」にある3項の注意事項を遵守するように求めた。
 1,情報は他省や府県よりの通報もあるので,「本局限りの取り計らいをもって内示するの趣旨にして厳に極秘の取り扱いをなすこと」
 1,そこで,情報はまちまちなので,「各学校において何ら調査することなく学校としての処置をなすが如きなきよう注意すること」
 1,情報に基づいて学校が独自の判断で調査をするおりは,慎重に考慮して,「関係方面の活動を阻害するが如きなきよう注意すること」。
 最初の項は,情報は局限りと,提供する情報の責任範囲を明らかにしているのは,局に提供する他省の関係機関への仁義である。2番目は,情報は整理されて提供されていないので,それに基づき軽挙するなと示唆して,本局に聞けと自主による動きを戒めている。
 3項は,2項と同様に,学校が独自の判断による措置を構ずることを危険視している。素人が下手に動くなと言っているのだ。内容から推察されるのは,「情報」の取り扱いについて,外部の専門機関から注意を喚起された模様である。
 こうした縛りを掛けていて,1月22日付発庶八号で,長官名により学長宛に学生主事による学生生徒指導に関する協議を2月2日に行う連絡をしている。その冒頭は,「現下の状勢に鑑み」となっている。学長は,1月25日付で教授学生主事山口虎雄を出席させる回答をしている。
 現下の状勢とは何を指しているのであろうか。そこで何が協議されたか記録はない。前後関係から推察して,12月13日の中華民国首都であった南京が日本軍の攻撃によって陥落したことによる,方針の混乱しかないように思われる。南京攻略は派遣軍の独走であった。事態収拾で軍と政府の意見が収斂しなかったからである。方針が不確定なところで,文部省は主事と一体何を協議したのか。

(2) 学生主事(学生監)の人事調査を徹底
 そうした状況では2つの分野に関心は集まる。その1は,とにかく調査への関心である。調査さえしていれば仕事をしているように思える。
 4月19日付発庶四五号で,長官名により学長宛,「学生主事(学生監)に係る左記事項ご調査の上」回答せよと通牒した。報告事項は,「記」によると,「一,職氏名,二,生年月日,一,略歴(最終学歴,その他主なる事項),一,担任事務(可なり詳細に)。(註)先任者,兼任者を明瞭にせらるること。略歴は年月日をも記載せらるること。備考 予科,専門部の担任者をもご報告あい煩わしたく」とある。「煩わしく」と自認しているように実に煩わしい。
 同月27日付で大学は長官宛に報告した。教授兼予科教授山口虎雄,予科教授兼専門部教授江頭正治,予科教授兼専門部教授宇治武夫,書記谷川七之助,平山勇の5名である。これまでの流れから見て,思想管理という課題に対する上意下達の情報流通システムの整備を着実に図っていることが看取できる。


 2節 「国家総動員法」の公布に付帯した行政指導/4月〜

(1) 国民精神総動員についての問い合わせと回答
 しかし,政府中枢は,こうした文部省の意気込みをどこまで受容していたのかはわからない。その後の文部行政は当然のこと,行政のすべてを掌握した非常時大権法とも言える『国家総動員法』(注1)が4月1日付で公布されたからだ(SW一九一)。
 その法の効果は徐々に明らかになって来るのだが,教学局を設置したことに見られる文部省の意図した失地回復の可能性に対しては,どのような影響をもたらしたのか。戦時色が濃厚になるに従い,可能性は結局のところ霧散してしまった。
 そこに結論を急ぐ前に,文部省はどのように取り組んだのかを追ってみよう。同法は,第一条で「戦時(戦争に準ずべき事変の場合を含む以下これに同じ)に際して国防目的達成のため国の全力を最も有効に発揮せしむるよう人的及び物的資源を統制運用するをいう」。
 人的資源という表現は,現在でも用いられる場合もある。高度成長時代に言われたマン・パワーの原義がここにある。同法における人的資源とは,戦争に勝利するために国民を手段化することを公然と謳ったのであった。当時流行した高度国防国家論と表裏一体になっていることは明白である。そうした非常事態を,文部省のキャリアはどこまで理解していたかは,ここでは触れない。
 4月21日付発専五六号で,学務局長は学長宛に,「国民精神総動員実施に関する件」を通牒し,学校として標記に関して何を行っているか回答を求めた(同上一九二)(注2)。拓大は,5月13日付で回答した(同上一九三)。懇切丁寧に多岐にわたっている回答内容である。
 しかし,書き手はうんざりして記述している様が覗える。3項にある,「公私生活における刷新自粛の件」に関しては,学生服は羊毛を用いずスフ(化繊)を用いていると回答している。6項,「資源の愛護の件」では,「冬期暖房用石炭の使用について能う限り節約をなし(中略)資源愛護の実現を計りおりし」とある。

(2) 「銃後後援の強化」は勤労動員
 やがて,人的資源は資源活用としての学生の勤労動員になっていく。6月9日付発普八五号で,次官名により学長宛に,「集団的勤労作業運動実施に関する件」の通牒となって現出した(同上一九四)。建前でしかなくなった理屈では,別紙の1節に,同運動は「実践的精神教育実施の一方法として現時の教育刷新上大なる示唆と意義とを有する」,と記されている。
 拓大は7月8日にその経過を報告している(同上一九五)。現場は2つあった。その1つは,どういうわけか芝浦自転車競技場建設に駆り出されたらしい。東京市の指導者の指示に従うと記述されている。他方は,自前の久留米運動場の草取りと清掃である。
 こうした作業が,意図する「現時の教育刷新」とどのような因果関係にあるかを知ろうとすると,かなりの想像力を必要とする。ともあれ,これは拓大における国家総動員法の公布に伴う初期の実践であった。戦時色が出てきてはいても,後年と比べるとまだ牧歌的であったことを感じる。
 11月1日付発社三三九号において,次官名により学長宛に「国民精神総動員実践機関設置に関する件」が通牒された(同上二〇六)。学内に常設の機関を作れという指示であった。その新設の機関は,「国民精神総動員文部省実行委員会と連絡を密にすること」というのが末尾の3項にある。
 別紙には,7月5日に大臣決済を得た同上「委員会規程」がある。さらに,参考事例として千葉医科大学における実行委員会規程と京都府立女子専門学校報国実践会会則を送付している。
 拓大は,翌年の15年1月15日付で報告した(同上二〇七)。学生隊なるものを設けて,「その内容は軍隊の編組要領に準拠し大隊,中隊,小隊,分隊等に区分す」と説明してある。こうした組織編制は,「昭和一四年一二月一六日より学級組織をかなり保持しつつ」設けたとしている。


 3節 「学生生徒の文化,思想調査に関する件」/4月

 こうした大局の新しい展開を他所に,文部省は所掌下の教育機関への管理基盤の整備をした上で,学生生徒そのものへの調査に取り組んでいる。4月25日付発企六一号で,教学局企画部長名による小見出しの「学生生徒の文化,思想調査に関する件」を,学長宛に通牒した(同上一九六)。前文は重要なので全文を引用したい。
 「貴学学生に関する生計調査,福利施設調査,読物調査,思想傾向調査等学生の文化的又は思想的方面に関し学校において調査相成りたるものについては従来ご報告これありたるところ今般右調査にして昨年四月以降実施したるものの全般にわたり詳細承知致したきについては左記項目により至急ご回報相成りたく
 なお調査の結果を取りまとめたるものあらば参考のため一部宛併せてご送付あいなりたし」。
 「記」にある調査項目は,9項ある。1,調査名称,2,調査年月日,3,調査者氏名,4,調査の目的,5,調査学生生徒の範囲,6,調査実施の方法,7,調査事項,8,調査の結果,9,その他参考事項。
 次いで,(備考)がある。各々の項目についての注意事項である。例えば,7項では,「調査せる事項,項目を列記すること」。8項では,「調査の結果より得たる結論を記載すること」である。
 いわば,虱潰しに個々の学生生徒の動静を把握しておこうとする調査であった。もし大学が通牒に応じようとするならば,所属している在学生への私学としての自主管理権を根底から放棄することになる,という観点を見落としてはならない。しかし『国家総動員法』を前提にすれば,こうした調査は不自然ではなくなる。
 では拓大は,こうした実際は要請とも言えない指示に対して,どのように対応したのか。5月3日付で学長名により回答している(同上一九七)。以下,回答全文を引用する。「去る四月二五日発企六一号にて首題の件調査回報方ご照会これあり候ありとも 当学にては昨年四月以降何ら調査事項これ無く候えば左様ご了承下されたく」。
 この回答は簡にして要を得ている。調査していないので答えようが無いと短く記している。この回答文書に接したおりは,企画部は取り付く島がなかったであろう。


 4節 「国体の本義解説叢書」から日本文化講義の確認へ/1〜3月

(1) 「国体の本義」と自然科学の本義の関係
 現下の状勢の帰趨が不明であればあるだけ,調査に次ぐ調査を重ねることになる。一方で,これまでの傾向を一層に深化させるしかない。それは,長官名による1月26日付発指五号,「『国体の本義解説叢書』配布に関する件」の前文冒頭に象徴的に示されている。
 「ここに文部省においては現下の時局に鑑みますます国体を明徴にするため『国体の本義』を編纂頒布せるが」,それをさらに啓蒙するために解説叢書を頒布することにした。「なお図書館備付として特に配布」するので,「学生(生徒)をして十分これを利用せしむるように特にご配意」されたいと要請した。2冊あり,吉田熊次『明治以後詔勅謹解』,他方は飯島忠夫『日本の儒教』である。通牒には,左下の空白に幹事が書いたと思われるが,「2月1日配布す」とある。
 2月19日付発指四号で長官は学長宛に,「日本文化研究講習会自然科学科第二回講習開催に関する件」を通牒した。前文は冒頭から同講習会は「教学刷新振興に関する一事業として国体,日本精神の本義に基づき我が国独自の学問,文化の精神,内容及び方法に関し十分なる理解,体認を得せしめ以て各学科教授の刷新を図るを以て趣旨とし本年度は人文科学講習を行いたるところ第二回を自然科学科とし左記要領により開催」とある。
 「本年度は人文科学講習を行い」とあるも,それについて大学には関係文書は保存されていない。歴史部門の走りは,7章3節で触れた12年7月に行われた日本文化教官研究講習会歴史科第一回講習会になると思われる。
 自然科学科の今回の目的は,「自然科学の本義を明にしてその根底をなす人生観,世界観に検討を加えよく国体,日本精神との関連を考究し以て自然科学系統の各学科教授の使命と任務を明にせんとす」,と激しい。当時の世相を知る者は,この目的に記されている「人生観,世界観」という表現から類推されるものがあるはずである。
 講師は,橋田邦彦,気象庁技師・藤原咲平,理化学研究所・仁科芳雄であった。仁科の名前は日本の原子力研究では欠かせない。3月8日には,指導部長名により講習会の最終案が通達された。田邊元が加わり,『徳性としての科学』,藤原は,『日本の気象と国民性に関する二三の考察』,仁科は,『原子核と宇宙線』 となった。
 大学は,当初は土屋申一しかメモ書きされていなかったが,3月8日付の回答書では,自然科学数学担任の高木亀三郎を加えた2人を参加させるとしている。中国語の土屋にとっては藤原の所見は参考になったのであろうか。

(2) 神道の啓蒙と時局への取り組みの関係
 3月8日付発指一七号で,指導部長名により学長宛に,前年4月に要請した「日本文化講義」の実施状況を問い合わせた(SW一八七)。大学は,3月23日付で回答している(同上一八八)。ペン書きによる回答案とタイプ刷りの2つが残されている。講師は,文学博士田中義能,演題は神道概論,講義日時と時間数,総計18時間,聴衆学生数,予科119名,専門部143名。
 講義要旨,「日本精神に由来する日本国民特有の神道の本質を闡明し敬神崇祖の重要なる所以を認識せしめ国体神道論の目において我が国体の尊厳を説き神社神道論の目において神社の特質を示し神社に対する世人の謬見を正し倫理神道論の目において教育勅語の聖旨を講述し皇祖皇宗即ち神明の偉大なる道徳を説き日本国民として健全なる人生観を体有せしむることを務めたり」。
 原案が誰の起案になるものかは不明だが,以上は全文である。神道に対して謬見が横行していたらしい。
 3月22日付官文九八号で官房文書課長は学長宛に,「時局に関し執りたる措置に関する件」を発した(同上一八九)。大学は同月30日付で回答した(同上一九〇)。文書課長名による回答要請文書であるところがミソである。
 大学の回答は,1,前年8月8日に全学生によって組織された「国防学生隊」。2,神道講座。3,時局講演会。1月16日に仙台公会堂で行われたもので,講師は,次の昭和14年に文部省からその憲法論を批判され注意される学監中村進午,教授宮原民平と東郷實を紹介している。
 教学局は,奥付によれば3月31日に,『思想指導に関する良書推奨』を刊行し,4月25日付発指一三号で,指導部長名により学長と予科長宛に送付された。刊行が3月末日になっているのは予算執行の関係であろう。予科長も対象にされているところから見ると,送付先は広範囲であったと思われる。記されている「配布範囲」は,学生(生徒)課用と附属図書館の2部である。受けた大学は,幹事と主任による押印がある(注3)。


 5節 日本諸学から東洋教学の講習会へ

(1) 日本諸学振興委員会第一回歴史学会/6月〜7月
 日本諸学振興委員会の活動は加速がついていった。4月27日付発企四二号の長官名による学長宛「日本諸学振興委員会第一回歴史学会並びに同公開講演会開催に関する件」では,後者の公開講演会には学生生徒も参加を呼びかけられている。
 同通牒には,委員会の規程と4月10日現在の職員名簿が添付されていた。委員長は長官菊池豊三郎,常任委員は教育学,哲学,国語国文学,歴史学,経済学,法学,芸術の諸分野から選ばれている。昭和13年度における歴史学部専門委員会委員は,上記常任委員5名の他に,臨時委員13名が記されている。教学局の目がねに適った学者の名が並んでいる。
 歴史学会と公開講演会の趣旨は,要項によれば,「国体,日本精神の本義に基づき歴史学の内容,方法及び教授の実際を研究,討議して斯界の真の発展,振興に貢献せんとす」。
 研究発表主題は,「国体,日本精神に基づき,広く内外の史実を精査し,その研究方法・歴史観を検討批判し,以て歴史学の発展,振興を図り,のべて教育の刷新に資せんとす」。
 大学は,5月13日付で日本史担任の講師松本純郎を出席させると回答した。

(2) 同委員会第一回経済学会並びに公開講演会の開催/10月
 8月30日付発企四二号にて長官名により学長宛に,10月6日より8日までの同委員会「第一回経済学会並びに同公開講演会開催に関する件」を通牒した。同要項によれば,趣旨は前掲の歴史学会におけるそれと同じで,歴史学が経済学になっているだけである。研究発表主題も,同工異曲であるが,一応全文を引用する。
 「広く内外の経済現象及び経済学説の由来,内容,研究方法等を精査し,国体,日本精神に基づき之が検討批判をなし,それぞれの性格を明瞭ならしめ,以て我国における経済及び経済学の発展,振興に資せんとす」。
 大学は,9月19日付で出席者の回答をした。予科教授兼専門部教授で,経済原論,英語,商業学書講読担任の渡辺一郎である。なお,添付されている参加者名簿は活版である。
 参加者は,大学以外は,高等学校,師範学校から商業学校。変わり種は大連高等女学校や絵画学校など。民間の研究機関,例えば三菱経済研究所。同研究所は発表者も出している。参謀本部からは8名,陸軍大学校,海軍省など。他の省庁では,逓信省は郵便局の書記に至るまで出席させている。果たして,郵便局の書記まで執務上で必要なのか,その基準は不明である。総計574名。
 研究発表の内容は,趣旨と主題から見ると,「我が国体と経済組織」,「日本経済学の建設と日本精神」,「日本財政学の可能と任務」,「報徳経済学」,「国体と経済」,「思想問題と経済学」などを挙げることができる。文部省からは当時は督学官にあった財政学の大畑文七が「国家と経済の関係から見た純粋経済学批判」を報告した。
 公開講演会は10月8日に日比谷公会堂で行われた。講演者は,土方成美,作田荘一,木村増太郎,小泉信三である。巻頭の講師であった土方は「日本経済学への道」を講じた。その3ヵ月後の昭和14年1月に,土方は東京帝国大学経済学部教授を停職処分で追われた。世に平賀粛学と言われて有名である。

(3) 大陸への介入拡大に伴って,日本から東洋へ/7月
 東洋教学講習会の開催
 6月23日付の発指二一号で長官は学長宛に「東洋教学講習会開催に関する件」を通牒した。期間は7月25日から28日の4日間である。
 前文の冒頭4行には,「時局の進展推移に伴い東洋教学,東洋文化に対する理解並びに現下の支那に対する認識の徹底を図り以て東亜における我が国文化の立場と使命を明にすることは刻下の急務なるを以て今般左記要項により東洋教学講習会を開催いたすことと相成りたる」(下略)。出席対象は予科,専門部の教員の他は,学生主事と主事補も入れている。
 要項にある趣旨によれば,「我が国教学の本旨に基づき東洋教学,東洋文化に対する理解を増さしめ併せて現下の支那に対する認識を深からしめ以て関係教科内容の刷新に資せんとす」とある。
 講師と題目は,小柳司気太「儒道二教と支那現代の文化」,常盤大定「支那仏教史の概観及び道教中における仏教」,矢野仁一は題未定,伊東忠太「建築より見たる支那の文化」,瀧精一「支那画の大勢」,鹽谷温「支那文学の発展と国民性」,木村増太郎「財政経済より見たる支那」。何を話すかは不明だが,文部省側からは,政務次官の内ケ崎作三郎,参与官池崎忠孝。
 大学は,7月9日付で助教授土屋申一を出席させると回答した。
 前項の経済学会と同様に,29頁の要項並びに出席者名簿を教学局は活版で印刷し配布した。同要項によると,矢野仁一の題目は「東洋文化の価値と支那の復興」である。大学に残されている要項の題目細目の頁には,出席した土屋のものと思われる書き込みが一部にある。
 政務次官の特別講演の題目は,「支那における欧米文化事業及び我が対策」であった。参与官の題目は,「新支那の建設とその実質的内容」。政策的な視点には次官と参与官を当てることによって,文部省側の時勢への取り組み具合が覗える。「新支那の建設」とは何を意味していたのであろう。出席者は前項の事例と同様に広範囲な対象で340名余。

 東洋教学は時局便乗?
 なぜ急にこの時期に,東洋教学という名称の下に,専ら「支那」文化に焦点を絞った講習会を行ったのか。前年12月に南京が陥落したことはすでに指摘した。2月14日には中支那派遣軍・上海派遣軍を廃して中支那派遣軍を編成した。
 3月28日には,同派遣軍の「指導」で中華民国維新政府が南京で発足している。5月19日には徐州を占領。6月15日には,大本営が御前会議で,武漢作戦・広東作戦を決定しているという背景があった。
 講習会開催が通牒された翌日の24日には,10日に閣議で設置の決まった首相,陸海,外務,大蔵の5相会議で,支那事変の指導方針を年内中に決定することを決めている。文相は,この会議にはお呼びではない。
 日本諸学から東洋教学への展開は,この見出しだけを一見すると,積年とは言えないものの研鑽の深化と進化が覗えるようではある。だが,東洋教学を掲げる講習会の内容と,昭和9年10月と11月に開催した「家庭教育指導者講習会」(三部5章5節を参照)を比較すると,実際は急ごしらえであるように見えるのを無視できない。両者の企図は共通していないか。


6節 勤労動員「集団的勤労作業運動実施に関する件」/6月

 6月9日に,文部次官名で発普八五号「集団的勤労作業運動実施に関する件」の通牒をしていた(SW一九四)。4月1日に公布された国家総動員法と関係しているものと思われる。要するに学生・生徒を労働資源として活用するための方策であった。それを,「集団的勤労作業運動は実践的精神教育実施の一方法」(同上,「別紙」)と理屈付けている。この別紙には,報告様式まで付いており,逃げようがない。夏期休暇中の実施期間は5日が標準とされている。
 7月8日に,拓大は「集団的勤労作業運動実施に関する件 報告」をした(同上。一九五)。


 7節 教学局による「図書の推薦と紹介」の指導方針/12月

 文部省による推薦図書の動きは,その当初は昭和5年9月1日の「図書推薦規程」からであった。その規程に基づいて,同年11月13日に思想問題についての良書推薦を始めた。
 そうした経緯を踏まえて,8年後の昭和13年12月13日付発指二二号になると,教学局長官名により「図書の推薦及び紹介に関する件」を通牒している。単なる推薦の連絡だけではなく,推薦する意図を有する印刷物を,対象にいかに読ませるかにまで踏み込んだ通牒である。
 冒頭から激しい。「今般国体の本義に基づき教学の刷新振興,日本文化の創造発展に寄与するものありと認めらるる図書を選び教職員並びに学生生徒の研究修養上有益にして推奨するに足るものはこれを推薦とし,参考となるべきものはこれを紹介」する。それには,教学局刊行の定期雑誌である『教学時報』『思想研究』を活用する。
 「記」は2項あり,「一,書名,内容梗概,推薦紹介の趣旨を校友会雑誌等に掲載しその他適当なる方法により教職員,学生生徒に周知せしむること 一,図書館,寄宿舎などに備えつけこれが閲読に便ならしむること」。
 教学局の本来の設立趣旨を公然と謳いあげている。思想管理の強化をこれほど剥き出して強調しているのは珍しい。これまでの経緯を踏まえて,当該分野に関わっていた文部官僚は,それだけ所掌下にある学校に対する思想管理としての教学の「指導」体制に自信を持ち出したのであろう。


10章 内なる外国人留学生への目配り/昭和14(39)年

 1節 学監中村進午著『法学通論』が注意される環境

(1) 『国体の本義』から問題視される中村進午の法学/4月
 文部省図書局長名による4月28日付学図九号により,学長に対して法学博士で教授の学監中村進午著 『法学通論』の中にある1節を注意された(SW一九九)。図書局は教科書の検閲をやっていた。注意文の末尾には,「教授に際しご注意相成りたく」と記されている。
 注意された中村は,講習会に参加を求められた気配はない。さらに,学監の立場を降りてもいない。注意を受けた箇所は,国体明徴問題が起きたことから生じた点であろう。
 注意の主節は,同書で「帝国議会を単に国家の一機関なり(148頁)と説くは不十分にして協賛の本義を我が憲法の精神に照らして明徴にするを要する」にある。図書局は,官に対して下意上達である民意を反映する側面を担うはずの議会は,「協賛」に徹していればいいと示唆しているのである。
 この短い一節には,『本義』で展開されている天皇ご親政が政体法だと言い切った史観がある(四部8章1節を参照)。機関説が葬られた後の実定法と不文法の妥当な関係認識が,声高の側に振り回されて解体しつつある様を覗うことができる(注4)。近代法の常識は欧化の外来で,国体明徴以来の新しい法解釈との間に乖離が生まれていた。
 中村が,こうした文部行政による「注意」をどのように受け止めていたかはわからない。だが,明治の御世で国際法の先駆者として,さらに国事に憂慮した警世家でもあった長老として,昭和の御世をどう透徹していたのであろう(注5)。観念論の通用しないのが国際法である。国際社会に生きる実定法とはあまり関わりのない国内での「国体論」の横行には,思うところがあったに違いない。
 その心境なり心象風景を追ってみたい気がする。ともあれ,大学はこうした文部省による時勢に即したところから来る注意を,あまり気にもしていない模様であった。それは,中村が注意を受けた昭和14年の10月に逝去した後に,すぐに発行された『拓殖大学論集十巻』に掲載された宮原と青山の追悼文にも覗うことができる(注6)。出身教員であった2人の追悼文は,文部省からの注意に一顧だにしていないからである。

(2) 日本文化講義の継続化/4月
 拓殖大学の日本文化講義
 教学局は,自分たちの主催した講習会での報告や,付属機関である国民精神文化研究所の研究成果だけでなく,関連文献も良書として推薦して,学校に頒布することに熱心であった。それだけでなく,関連講習会の新たな開催や継続開催に多忙であった。一方で,学校に対して,通牒した課題が実際に行われているのかどうかの報告を求めている。教学局の筆頭部としての指導部の役割を積極的に果たしている。
 4月5日付発指一九号にて長官名で学長宛に,「日本文化講義実施に関する件」を通牒し,「本年度も引き続き実施せしむることと相成りたるにつき」,既往の「昭和十一年七月二十二日付発思八七号及び昭和十二年九月二十日付発指二八号通牒の趣旨達成にご尽力これあり」,と要請している。
 では,講義の要旨は何なのか,「記」で繰り返す念の入れ方である。「一,本制度は学生生徒に対し広く日本文化に関する講義を課し以て国民的性格の涵養及び日本精神の発揚に資すると共に日本文化に関する十分なる理解体認を得せしむるを以て目的とす
 二,講師は国体,日本精神の真義を明にすると共に時局認識を深化せしめ日本文化の創造発展に関する指針を与え以て教学刷新の目的を達するに適当なる人を選ぶこと
 三,講義は毎学年一定時間必修科目に準じて之を行い全学生生徒をして之を聴講せしむるものとす(注7)」。
 この方針に沿って実際に行われているのかどうか,1ヵ月弱後の5月1日付発指一九号にて, 指導部長名により学長宛に「実施状況照会の件」が通牒された(同上二〇〇)。 報告項目と書式も通知されている。
 大学は2日後に回答している(同上二〇一)。講師下村宏は,「時局に直面して」と題して5月108日に2時間,学部3年,専門部3年生180名に,講義論旨は「日本国民の覚悟を説く」。講師藤山愛一郎は,「時局に関する感想」を10月5日に2時間,対象は同じく,講義論旨も同様。講師本間俊平は,「日本国民の天職」と題して11月30日に2時間,対象は同様で,講義論旨は「日本精神を説き現代青年の覚悟に及ぶ」。
 この3人の顔ぶれは天晴れと言える。誰の人選であろう。当代一流の講師を学生に提供している。講師本間は,キリスト者としてミッション意識の旺盛な社会事業家として著名であった。こうした「日本文化講義」を主催した拓大の見識は,前掲で引用した文部省側の意図している講義の要旨に,学の自由か超然としているからである。前年の演題『神道概論』とは格段の開きがある。学内の教学関係者の間で,時流をどう把握するかについて論議があったのを覗わせる変わりようである。

 紀元二千六百年懸賞論文
 8月8日付発指二一号で指導部長は学長宛に,「日本文化研究講習会人文科学科第2回講習日時割決定の件」を通牒した。最初の二一号文書は保存されていない。後追いのこの文書には,講師名は姓だけで名前がない。筧は筧克彦であろう,大串は,兎代夫と思われる。長沼は賢海であろうか。特別講演の,武部,鈴木,清水,木内は不明。憲法と国家学が主題であったとしたら,清水は後年に枢密院副議長になった清水澄か。もしそうなら,清水については四部7章3節で触れた。
 大学から誰が参加したかは不明。通牒にメモ書きで,「山口教授に連絡す」とだけある。こうした講習会は,講師の顔ぶれから国体明徴による天皇機関説批判のさらなる徹底であろう。
 『本義』に基づく日本文化講義や,日本諸学の振興事業の集大成とも言えるか,9月12日付発指一六号で,長官は学長宛に「紀元二千六百年記念論文懸賞募集に関する件」を通牒した。
 添付されている要項によれば,対象は教職員と学生の2部に分かれている。前文冒頭には,「聖戦下皇紀二千六百年を迎えんとするに際し,皇国民たるの自覚を強化し興亜精神の確立を期し以て皇国の世界史的使命の達成に資せんがため」と謳っている。
 論文題目は,イ,皇国日本の進むべき道(応募資格 教職員その他一般) ロ,皇国の使命と青年学徒(応募資格 学生生徒)。審査員は,紀平正美,務台理作,吉田熊次,佐々木喜市,久松潜一,小尾範治。大学から応募があったかどうか。関係文書の保存はない。

(3) 日本諸学振興委員会第一回法学会/11月
 8月29日付発企一六号にて,長官名で学長宛に同委員会「第一回芸術学会並びに同公開講演会及び第一回法学会並びに同公開講演会開催に関する件」を通牒した。大学は,9月15日付で回答した。芸術学会は出席者なし。法学会には,法学通論と商法担任の教授豊田悌助が出席となっている。
 10月11日付で,長官小林光政名により大学宛に,芸術学会公開講演会についての案内状10枚,ポスター3枚が送られてきた。同月25日付では,同じく長官小林名で学長宛に,法学会公開講演会についての同様のものが送られてきている。同じポスターでも芸術学会は大学宛で,法学会は学長宛の違いの理由は明らかではない。
 11月付で長官と同委員会委員長小林名による学長宛の法学会開催についての案内状である。受付は10月31日になっている。幹事青山と主任塚原の押印がある。
 活版17頁の日程と次第の発行元は,表紙に同委員会名が印刷されている。従来のような出席者名簿はない。委員会の規程と職員名は最初にある。常任委員の名前は大きく変わっているようにも思われない。14年度の法学部臨時委員は新しいメンバーが多い。
 11月9日の第1日は総論であろう。題目は,冒頭は「国体の本義について」,次いで「国体・憲法・法学」,「日本精神と学問の方法」,「最近日本憲法学の2つの課題」。以上は午前の部である。午後は,「日本政治学の基礎理念」,「日本政治の性格」,「肇国精神と我が憲政の成立」,「李章閣・外部文書より見たる日露戦争の発端」。11日まで3日間である。
 公開講演会は11月11日に日比谷公会堂で行われた。神川彦松「三民主義の批判」,筧克彦「皇国体について」,穂積重遠「今までの法律とこれからの法律」,大審院長・泉二新熊「日本固有刑法と近代刑法の理想」。日本法学なるものへの移行というか模索が顕著である。

(4) 日本文化研究講習会自然科学第四回講習会/12月
 11月28日付発指二一号で表題についての通牒があった。12月20日から23日まで3日間である。添付された要項によれば,趣旨は,「自然科学の本義を明にし国体,日本精神との関連を考究すると共に時局に対する認識を深からしめ以て自然科学系統の各学科目教授内容の刷新に資せんとす」。
 講義と講演に分かれている。講義は3題あり,その1は「新東亜の建設と科学教育」,「明治以前における自然科学思想の発達」,「国史を一貫する肇国精神」。
 講演は4題あり,興亜院技術部長が「興亜の大業と科学の任務」,外務省欧亜局長が「最近の国際情勢」,陸軍大佐による「軍事科学技術の現在と将来」,文部省専門学務局長が「我が国自然科学の既往今昔とその行方」。
 大学は12月7日付で,先回と同様に予科教授高木龜三郎を出席させた。


 2節 「国民精神総動員」体制での教練と教育「振作」/3月

(1) 陸軍による教練強化の意向
 敗戦後に武力の放棄を占領側から強制されて半世紀も経た現在の日本では想像も付かないが,学生には「教練」と名づけられた軍事訓練があった。米国の大学には,本人の意志に基づくものの,同様の訓練制度がある。訓練を受けて所定の成績を収めていると,召集された際に将校への道がある。
 日本では,大正時代に軍備強化のための軍縮で職業軍人の人員整理をした宇垣一成陸相(5代学長)が,膨大な余剰将校の活用を意図した面もあって制度化した。同14年に中学校以上の学校に配属将校を送り,教練要員にしたのが始まりである(SW二三二。二三三)。
 教練は,前年の国家総動員法の公布を受けて重視されるようになった。その背景には,2月9日に政府により「国民精神総動員強化方策」があり,同委員会官制の決定があった。この2つの法制の下での「振作」であった。
 その通牒は,次官名により学長宛に発せられた3月30日付の「大学教練振作に関する件」である(同上二四三)。冒頭から,「現下内外の情勢に鑑み学校教練の振作を図るは極めて緊急なること(中略)学部教練に関し陸軍省と協議中のところ今般別紙要綱に基づき(下略)」と,敢えて加えた「振作」が陸軍の意志であることを明記している。

(2) 予科と専門部の回答内容が違う
 教練振作に伴い,便乗ではないだろうが教育振作についても文部省は旗振りを行った。同様に振作という表現を用いて,次官名により予科長宛に,5月17日付で照専二九号において,「貴校における教育振作の具体的方策」は,と回答を求めた(同上二四四)。
 予科長斉藤和一は,6月8日付で回答した(同上二四五)。その内容は,各論はともかくとして,原則は昭和5年12月18日付で学生監宮原民平の名において送った意見書と変わりはない(同上一六三。1章1節を参照)。
 留意したいのは,問い合わせにあった「四,教員の気風を振起して挙校一致の実を挙ぐるため特に講ぜる方途如何」に対しての回答内容である。「特に講ぜる方途なし」。簡にして明瞭である。そして,こうした通牒に超然としている様が見えないか。
 専門部は,部長永雄策郎名により独自の見識に基づく回答をしている(同上二四六)。前掲の当該四項には,「各科長を中心として教員全部との連絡を図り,気風を振起し,一致建学の目的を追進しつつあり」と。
 この両者の回答には責任者としての斉藤教授と永雄教授の個性が生きている。そして,大学として回答を一致させようとの意思疎通は一切感じられないところが見事である。「管理」しようとしないで,それぞれの職責での見識を生かしているからである。


 3節 「興亜青年勤労報国隊北支及蒙疆派遣に関する件」/5月〜

(1) 占領地等への体験学習派遣
 5月31日付発企一五号で,次官と教学局長名によって学長宛に,「興亜青年勤労報国隊北支及蒙疆派遣に関する件」が通牒された(同上二六二)。同通牒には別紙に「実施要綱」が添付されている。拓大への割り当ては,教官1名に学生10名である。
 同日付発企一八号で学長宛に,報国隊「満洲派遣に関する件」が通牒された(同上二六三)。添付別紙にある「満洲派遣実施要項」によれば,「東亜新秩序の建設は青年の大陸認識とその実践的奉公とにまつこと大なるものあり」となっている。そこには「一般青年並びに学生生徒」という順位で,同世代を包括的に巻き込むつもりであることが覗える(注8)。
 日本の立国にとって列島以外の海外の影響地がいかに不可欠になっているかを若い世代に現場を見せることによって認識させようとした試みであった。

(2) 報国隊派遣学生隊における拓大の立場/5月〜8月
 全国に報国隊派遣の通牒を発する前の5月29日に,教学局企画部長・社会教育局長は連名で,拓大宛に「報国隊先遣隊派遣に関する件」を照会した(同上二六〇)。「青年」が先行しているところから社会教育局も関係してきたのであろう。この照会に応じての協議後に,6月5日付で「先遣隊訓練要綱」ができた(同上二六一)。
 6月2日に学長から教学局と社会教育局宛,報国隊先遣隊の105名の名簿提出がされている(同上二六四)。
 6月13日付発企一五号で次官名で学長宛に,報国隊北支,蒙古派遣「実施要項に関する件」を通牒した(同上二六六)。そこでは,注意書き2項において「本年始めて実施するものにあらず沿革的に恒例事業となりおるものなること」とある。
 前掲の注で明らかにした至誠会による派遣体験学習の先行事例を指しているものと思われる。事前訓練は内原にある満蒙開拓青少年義勇軍訓練所で行われた。指導教官や後出の本部員は2週間,学生生徒は1週間である。教官と学生の訓練期間の違いに留意したい。
 社会教育局長による学長宛の6月29日付発企一八号 「満洲派遣隊本部員に関する件」は,茨城県内原にあった訓練所における事前訓練の本部要員として,9名の拓大生の派遣依頼であった(同上二七一)。これは,1つには訓練所が満洲移住協会に属する機関だったからであろう。
 大学はそれに応えて,7月3日付で文部省教学局企画課宛に参加願いを提出している(同上二七二)。拓大生は満洲という場所についての土地勘と,内原にある訓練所での経験を有していると看做されていたのである。
 8月4日付庶秘一五〇号にて,教学局庶務課長名によって通知が学長宛に送られてきた(同上二七五)。報国隊「満洲派遣隊学生隊指導教官移植及び出張の件左記の者に対し六月二十八日付発令ありたるにつきこの段通知す
      記
 予科教員  天野一夫
 専門部教員 川原林孟夫」。
 同日付同号の通知で,教員豊田悌助を,同隊の「北支那及び蒙疆派遣隊指導教官委嘱及び出張の件左記の者に対し六月二十八日付発令ありたるに付この段通知す」(同上二七四)。
 帰国した派遣隊の学生は感想文の提出を求められた(同上二八七)(前掲拙稿6章1節「(4)体験学習を帰国後に再確認させる」を参照)。また,企画部長名により,10月4日付発企一五号により,現地で体験し見聞したことをみだりに話さないように注意が喚起された(同上二八〇)。注意される一方では,20数名の随行教員と学生が賞状をもらっている(同上二八一。二八二)。


 4節 「半島人,台湾本島人」など列島外学生の調査/9月

(1) 防諜意識の喚起と施策化/6月
 6月13日付発企一九号にて企画部長名により学長宛に,「学校における出版物の作製並びに頒布上の取り扱いに関する件」が通牒された。ここで言う取り扱いとは,防諜を意識するところから来ていた。「最近二,三の学校において発表せられたる学生生徒の生活調査に関し支那新聞紙において巧みにこれを宣伝の具に供したる事例これあり」と説明している。
 冒頭は,「事変下において特に防諜の重要なるは言をまたざるところにして貴学においてもこの点に関し鋭意ご配慮相成り居ることと存ず」と,すでに学校側は対応済みであるかの先回りをした運びである。
 後半からは,「今後出版物の作製,頒布に関しては一層ご注意あいなり軍機に関するものは勿論のこといやしくも悪用せらるるおそれありと認めらるる事項については」注意ありたいと締めくくっている。軍機とは軍事機密を意味している。「おそれあり」の内容項目についての示唆なり指針はない。明文化することは不可能に近いからだ。別の言い方をすれば,いくらでも拡大解釈され得る分野である。
 では,どういう方法でこうした調査内容が情報として中国側に伝わったのか。それは留学生からではないのか。関連省庁の防諜関係者が問題視したのであろう。そこから,文部省に監督責任ありと注意がされたのではないか。

(2) 「半島人,台湾本島人」など学生生徒に関する調査
 それもあってと想像されるが,9月7日付発企二四号で〔秘〕により,企画部長名にて学長宛に「半島人,台湾本島人その他の外国人学生生徒に関する件」が通牒された(同上二〇四)。
 前文は,「貴学(校)における半島人,台湾本島人並びに満洲国人,支那人その他の外国人学生(生徒)に関する一般状況承知いたしたきにつき左記事項ご調査の上来る九月末日までにご報告あいなりたし」が全文である。
 「記」にある調査項目は10項目に及んでいる。序章(二部)で扱った「学生部報告例」での日本人学生への調査と同様に,あらゆる事項を網羅している。参考のために全てを引用しておきたい。
 「在学学生(生徒)数(学部,学科又は学年別にすること 男女別のある場合は明記すること)
   修学状況 (学業成績,出欠席, 学資金,中途退学者の概況)
   学外生活状況(住居,日常生活の状況)
   一般学生(生徒)との交友関係
   学内団体及び学外団体の状況(半島人学生(生徒)の組織する学内団体の状況及び半島出身者の組織する学外一般団体と学生(生徒)との関係等)
   事変発生後の思想傾向(引用者注。事変とはシナ事変のこと)
   入学の状況(本年度入学志願者並びに入学試験の方法)
   卒業後の状況
   学校当局の指導,監督方針並びに施設
   その他参考事項」。
 この調査事項は,半島人,台湾本島人並びに満洲国人,支那人その他の外国人学生(生徒)に違いを設けなかった。前掲の調査項目の最初は,「一,半島人学生(生徒)に関する状況調」である。以下,2に台湾学生を取り上げているが,「(調査内容は一,に準ず)」となっている。満洲国人や支那人学生,さらに他国の学生に対しても同様である。文部行政では人種的に日本人以外の外地出身学生は一視同仁であることが判明する。内鮮一体はない。
 警視庁に学生の生活態度が遊惰に流れていると各学校に詰問状が出されて,文部省が対応に苦慮した挙句に, 学校は学内ならともかく,学外の生活までは監督できないと応えたことがあった(三部5章4節を参照)。にもかかわらず,外国人学生の場合は,学校が管理しているとの前提での質問である。

(3) 拓殖大学の回答
 拓大は9月30日付で回答している(同上二〇五)。回答形態は,求められた書式に沿っている。従って,最初は朝鮮半島出身学生である。以下,特徴的なものを引用する。どこの学校でも同様の内容に関する事項は敢えて引用しない。
  (一) 在籍学生数。制度別になっているものの,総計62名。
  (二) 修学状況。イ,学業成績。全般的に良好。また専務理事大蔵公望の寄贈になる奨学資金百円を授けられるもの1名あり。ニ,退学処分になる者1名なるが退学後の概況不明。
  (四) 一般学生(生徒)との交友関係。「学内にありてはよく一般学生と融和し関係の度親密円満なるも学外においてはあまり交際を結ばざるもののごとし」
  (五) 学内団体及び学外団体の状況。
 「学内団体としては拓大朝鮮留学生同窓会なるもの組織しあるも純然たる親睦団体にして精神修養乃至は学的研究等のことなし而してこれが行事としては毎年五月ごろ同窓会委員の選挙,秋季ピクニック,卒業生送別会等なり
 半島出身者の組織せる学外一般団体と学生(生徒)との関係全然なし」
  (六) 事変発生後の思想傾向
 「東亜の安定勢力は帝国を措きて他になしとの認識を益々深め聖戦の目的を正当に理解し全国民一体となりて国策遂行に向かって協心戮力すべきものとの信念をかためておるがごとし」。
  (八) 卒業後の状況。
 「卒業後は鮮,満,北支の官公署並びに実業方面に就職し相当の成績を挙げつつあり而して職を得ざるもの殆んどなきがごとし」。
  (九) 学校当局の指導,監督方針並びに施設
 「一視同仁を以て指導方針となし努めて内地学生に親灸せしめ彼らをして差別的待遇の観念を抱かしめざる如くし皇国精神に同化するごとく指導あり」。読み方によっては痛烈な批判だ。
  (十) その他参考事項
 「なし」。
 台湾人学生については,人数は異なるも,朝鮮人学生と同じとしている。(八)卒業後の状況について,不明の内容である。記載によれば,「本学における台湾学生の卒業者は昭和十三年度において始めて一名を出せるのみなるが目下中華民国臨時政府に就職しあり」とある。1名が最初という記述がどこから来ているのかが解せないものの,ここでは追わない。
 三,満洲国人学生,四,支那人学生,五,その他の外国人学生については,「当学にはなし」になっている(注9)。


 5節 学生の意識調査について3題

(1) 学生消費組合の活動に関する調査/10月
 教学局企画部長名によって学長宛に,10月27日付で同組合の「活動状況に関する件」を通牒した。組合だけでなく類似の共済組合や購買部も対象にしている。最後に,「なお学生消費組合の今後の動向に関しては相当注意を要するものこれあるよう思料せらるるについてはその指導監督に関して一段のご留意あい煩わしたく」とある。
 大学は,11月14日付で回答している。「当学にては学生を会員とする消費組合又はこれと類似のもの之無く単に共済会なるものを設け会長一名(学校職員)学生委員数名をもって夏期,冬期春期の休暇間において希望学生の就職斡旋をなす程度のものにつき特に報告すべきものなしとするも昭和十三年度における斡旋状況を示せば左の通り」。
 要するにアルバイト先を列記している。夏期では, 軽井沢菊屋商店5名,中央郵便局36名など。以下省略。冬期,東京合同運送株式会社百名,他は省略。春期なし。
 「収支状況。共済会の経費は当学麗澤会 (学友会に相当するもの)よりの補助金によるものにして十三年度の収支左のごとし。収入 五十六円九十二銭。支出 三十九円七十三銭(主として交通,通信費)。残高 十七円十九銭」。
 3年前の昭和11年5月に思想局長から学長宛に,拓大支部が学生消費組合から脱退した模様だがと,その経緯を聞いてきた。その公式回答は,四部7章2節で触れたところだが,そのおりの内容と3年後の今回ではかなり開きがある。活動は低下していたのか。

(2) 独ソ不可侵条約締結に伴う反応調査/11月
 8月23日にモスクワでナチス・ドイツとソ連は,独ソ不可侵条約を締結した。しかし,すでに36(昭和11)年11月25日に,日独両国は防共協定をベルリンで調印していた。1年後の11月にはイタリアが参加して,日独伊防共協定になった。次いで,攻守の三国同盟になるようにドイツは日本に打診していた。だが,日本側の反応があまりはかばかしくなかった。太平洋対岸の米国を日本は意識していたからである。
 痺れを切らしたドイツがソ連と不可侵条約を結んだことに対して,素朴に驚いた当時の平沼内閣は,「欧州情勢は複雑怪奇」という声明を出して総辞職した。この声明ほど近代日本の外交能力の退化を示した表現はない。理解不能と公然と表明したのだ。
 歴史として考えれば,当時の当事者能力を有していた各国の外交担当者は,翻訳されたこの声明をどう受け止めたのか。有り体には訝しく思ったのではないか。それは内向きの国際認識でないと出てこない反応と思われるからだ。
 11月11日付発企三〇号にて企画部長名によって学長宛に,同条約「締結が学生生徒に及ぼせる影響調査に関する件」を通牒した。「記」によると,「一,独・ソ不可侵条約締結が学生生徒に与えたる影響と学生,生徒が現下国際情勢に対する態度」とある。この通牒は〔秘〕であった。
 20日後の30日付で大学は回答した。
 「学内各種研究団体等の主脳者たる学部及び専門部二,三年生約二十名を学生主事において個々に招致し自由会談の形式を以てその意見を聴取せり」。
 (イ)から(リ)まで,各項に2つの意見を紹介している。要約すると,リアル・ポリティクスの観点から,ドイツの選択は仕方がないとの理解をしている。さりながら,日本は右往左往せずに自主独立で行くべし,に収斂されていくようである。
 ドイツをしてソ連に向かわせたのは, 日本の態度が煮え切らなかったところから来るとの認識は,ほぼ返答をした在学生に共有されている。いま少し情報開示をして自覚心を起こすようにできないかと秘密外交の弊を指摘している。これは現在にも当てはまるのか。
 その他,興味深い意見のすべては,現在でも通用する常識に裏付けられている。当時の学生の見識の高さというか有している平衡感覚が滲み出ているように思う。それは教育の成果か,それとも本来有せる常識から生まれて来ているのか。常識とは内向きだけでなく日本と海外の関わりから見ている。B4四枚にタイプされている。全文を紹介したいくらいである。

(3) 図書館に関する調査/12月
 昭和5年4月に発学二〇号で通牒された学生部報告例のうち,定時の報告事項に「学校図書館における学生生徒の思想に関する図書閲覧の傾向を調査しこれを報告すること」があった(二部序章1節)。
 12月4日付発指二八号で,指導部長名により学長に,「今般読書指導上の参考に資するため学校図書館の調査」をするので,左記の様式により昭和15年1月10日までに回答されたいと指示した(同上二一〇)。しかし,拓大からは回答がない。1月24日付で発指二八号により,「学校図書館に関する調査の件」を通牒し,「至急ご提出」を求めた。
 2月1日付で大学は回答した(同上二〇一)。図書館職員は,教授1名,司書3名,雇員2名。蔵書,和漢書三〇,二一一,洋書八,七九一,計三九,〇〇二。 特殊文庫,小林文庫一,三九八。佐藤文庫三,六七八。閲覧室二,広さ二八・七五坪。収容人員数六二,昭和十四年度の予算,四,四五〇円。

 別表其の1。
 最近読まれたる図書一覧(昭和14年9月至12月)。以下,10名以上の学生が閲覧した書物は31冊ある。随意に列記してみよう。
 総記 島崎藤村の2冊。歴史地理 南洋群島写真帖がダントツで60名が閲覧している。エル・エ・ユック「韃靼・西蔵・支那旅行記」上下。米内山庸夫「支那風土記」。吉田静致「倫理学原論」。大島正徳「思索の人生」。永田秀次郎 「日本の前進」。
 川瀬偲郎「満蒙の風俗習慣」,清水盛光「支那社会の研究」,高田保馬「東亜民族論」,筧克彦「皇国精神講話」,武藤貞一,エ・エム・サハイ「印度」,中華民国維新政府行政院宣伝局「維新政府の現況」,大川周明「復興亜細亜の諸問題」,大塩亀雄「各国植民史及び植民地の研究」,植田捷雄「在支列国権益概説」,土方成美「経済学」,河田嗣郎「時局下の思想と経済」,永雄策郎「植民地鉄道の世界経済的及び世界政策的研究」など。
 変わり種は,Thatcher, G. W. “Arabic Grammar of the Written Language”。
 松田甚次郎「愛郷愛土 土に叫ぶ」22名。学友石原巌徹の著作「満洲に因む支那劇物語」16名。新居格訳のパール・バック「大地」も36名が借り出している。

 閲覧禁示図書一覧
 別表其の2。閲覧禁示図書一覧は,B4一枚で終わりのようだ。17冊が列記されている。内訳6冊は美濃部達吉の憲法関係書物である。矢内原忠雄「民族と平和」,河合栄治郎「第2学生生活」,「ファシズム批判」も入っている。
 特殊文献としては,外務省情報部編「中国共産党1933年史」,満鉄庶務部調査課「露国共産党研究資料」,同上海事務所「上海における排日運動と直接間接の関係を有する各種民衆団体の解」,同経済調査会「朝鮮人労働者一般事情」,三江省公署民政庁行政科「三江省移民政策要綱」,偕行社「独逸国民航空須知」。
 満鉄上海事務所編「上海における排日運動と直接間接の関係を有する各種民衆団体の解」は,同事務所調査室に在籍していた学友の熊谷康(学部29期)も作成に参加していたものと思われる。
 ここで挙げた特殊な文献は,なぜ閲覧禁止されたのか理解に苦しむ。満鉄関係や,満洲国三江省の調査資料などは,渡航を当然としている学生にとってむしろ事前情報として必要であった。また偕行社の刊行物も啓蒙を目的としているものと思われる。それは題名の「須知」に現れている。
 にもかかわらず禁止したのは大学内の知恵とは思えない。明らかに特高が図書館にある蔵書の閲覧可否にも管理,有り体には介入しているか,あるいは特高から講義を受けた文部省図書局や教学局指導部あたりの一知半解のノン・キャリア係官が派遣されてきて,指図している情景が浮かんでこないか。
 その係官の程度が問題である。こうした地味な仕事をキャリアがやるとは思えないからだ。不学の者たちが権限を振りかざして跋扈している様が,この別表其の2には如実に露呈している。思想管理の現場は,得てしてその程度に戯画化されていた様が浮かんでくる。



(注)

1.読売新聞社編『昭和史の天皇』16巻に収録されている同法成立過程の聞き書き記録は,制定関係機関の関係者それぞれの思惑を知るのに十分に参考になる。
2.4月28日に,閣議は「昭和十三年度における国民精神総動員実施の基本方針」を決定した。要旨には,前年12月の南京陥落を受けて,「支那事変の推移が新段階に入りたること及び之にともなう内外の情勢に対する一般国民の認識を深め(中略),八紘一宇の大理想の下に帝国所期の目的達成に邁進せしむること」のくだりがある。
3.同書は,学生部から思想局を経て教学局に至った「思想指導」面における文部行政のそれまでの集大成である。当時の文部省側の思想理解を端的に示している。
4.中村はこの年の10月に逝去した。日露戦争の開戦を主張した七博士の1人で,開戦の前年である明治36(1903)年6月10日に桂首相に意見書を提出した剛直な法律学者であった。同意見書というか建議書を同月26日に東京朝日新聞に発表した。
 講和条約にも反対したために,文部省はその1人である東京帝国大学教授戸水寛人を休職処分にした。大学側は自治を侵すと反発して,文相の辞任になった。その内容は別にして,この出来事だけを見れば,30年弱を経た後年の京都帝国大学での滝川事件の事例と比べると,政学関係の在り方で隔世の感がある。
 こうした対応措置に見られる事態認識にも,国際的な孤立から来る内向き指向が表出していないだろうか。図書局の検閲係官に国際法上から見た憲法学の意味するものを顧慮する学識は感じられない。
5.大平善梧『中村進午先生の学問と人格』「海外事情」16巻10号。とくに「3, 中村先生の学風」「4,日露戦争と7博士」を参照。
6.同論集には,青山楚一による墓誌とも言える『故中村進午先生と拓殖大学』,宮原民平の追悼文『中村先生を悼む』と,「故中村進午先生著書及論文目次」が収録されている。昭和14年刊。宮原のそれは前掲『6代学監 宮原民平』568〜569頁。
 また宮原は,『学友会報』127号(昭和14年12月)にも,同じ題で別文を寄せている。ここでは宮原と中村の私事の交わりについて記されており,両人の深い交遊から,中村の人格の高潔さを一層に偲ぶことができる。同書570〜571頁。
7.日本文化への帰属意識を涵養するための一環かは不明だが,帰属意識の象徴でもある校旗についての由来調査が行われている。7月29日付発企二三号で,教学局名により通牒された(SW二〇二)。5百字詰原稿用紙1枚の指定に対して,大学は由来を9月16日付で「校旗由緒」と題して回答している(同上二〇三)。
8.体験学習は突如として始まったものではない。その先行には,昭和8(1933)年から始まった財団法人至誠会による「満洲産業建設学徒研究団」派遣がある。第一回は全国の大学・専門学校の学生が千人参加した。以後,昭和13年まで6回,毎年行われている。昭和10年の3回目には南洋が加えられた。11年の4回目に北支が新たに派遣対象地になった。
 この間の経緯については,拙稿「満洲移住協会と拓殖大学」のうち,「序章 大学・高専学生の体験学習,一節 至誠会(理事長・永田秀次郎)による研究団派遣」,を参照。『拓殖大学百年史研究』15号。88〜100頁。
9.なぜ留学生が1人も在籍していなかったのかは,前掲拙稿「満洲移住協会と拓殖大学」の4章2節を参照。


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