昭和史における文部行政への政策評価

2008年3月25日

文部省による思想管理の実態<4>
〜昭和5(1930)年から16(41)年の拓殖大学史から〜

池田 憲彦
元・拓殖大学日本文化研究所教授
同研究所附属近現代研究センター長
高等教育情報センター(KKJ)客員



四部 加速する内向き情動を取り込む

6章 国体明徴と天皇機関説批判/昭和10(35)年

 1節 前兆としての陸軍省編『国防の本義と其の強化の提唱』

(1) 時代認識で陸軍に遅れをとっていた文部省
 前章で解説した文部省の時代認識では,昭和9年10月1日に陸軍省新聞班が出した『国防の本義と其の強化の提唱』(以下『提唱』)の意図したものを察知し得ないのは当然であった。陸軍省が所掌以外の分野に容喙する気配は,すでに昭和8年12月20日の海軍省との合同による声明にあった。軍部批判の台頭を,軍民離間だと居直ったのである。
 昭和5年前半の海軍ロンドン軍縮条約調印が統帥権干犯になると騒いだのに始まり,翌年9月の満洲事変と昭和7年3月の満洲建国に及んで,陸軍の海外における権益は着実に拡大していた。前掲のパンフレット『提唱』とて,その真意はどこにあるかは明らかである。
 昭和6年7月に文部省が学生思想問題調査会を作った頃の事態認識では,主に陸軍が主導する権力の再編成の進んでいる動静を掌握していなかったように見える。委員の1人に任命された東京大学経済学部教授河合栄治郎は,陸軍を含めて台頭しつつある動きを公然と『日本ファシズム批判』として公表した。12月20日であった。
 だが,河合に見られた時勢の行く末を懸念するこうしたアンテナ能力は,文部省内の政策立案キャリアに共有されていたのかどうか疑わしい。感覚が希薄であれば,事態に後追いで流れていくしかない。陸軍省新聞班の提示した『提唱』の内容に対峙するだけの状況判断と構成能力を持ち得なかったとしか言えない。または,当時の省中枢は積極的に同調していたとも思えない。
 なるほど,『提唱』の冒頭にある有名になった「たたかいは創造の父,文化の母である」に始まる同小冊子の論旨は一貫している。この冒頭節の裏づけは,第1次大戦後に言われ始めた「いわゆる武力戦を基調とする国家総動員なる思想」であると言うのだ(『提唱』5頁)。
 本稿に関わるのは「国防と思想」(同上34〜37頁)の部分であろう。そこに展開されている政策的な意図に,以後の文部省そのものが徐々に組み込まれてしまったという視点を無視できない。結果的に,下請けにされてしまったのは徐々に明らかにされる。

(2) 法理ではない思想戦としての「天皇機関説」論争
 当初は治安維持法の観点からの「左傾」思想問題に対処する管理であったのが,取り締まりが功を奏するに従い徐々に焦点は思わぬ方向に転移していった。別の言い方をすれば,海軍軍縮を契機に世上に流れて紛糾した統帥権干犯問題がちょっと見は収斂していった挙句に,その延長線上に別の思想問題が台頭してきたのである。
 ぼんやりしていた文部省も時勢をそれなりに凝視していたのか。1月17日に,橋田邦彦,和辻哲郎ら7名を思想視学委員に任命し,学校視察をさせた。思想局の知恵であろう。それも,前年の「家庭教育指導者講習会」企画と同様に,現在から見れば,その都度の対応で泥縄そのものと言われても仕方がない。人選から覗えるのは,昭和6年夏から翌年5月までの学生思想問題調査会の頃の事態認識と大枠では違いは無かったようである。
 泥縄であることが誰の目にも公然と明らかになったのは,2月18日に貴族院で菊池武夫議員が,憲法学者で勅撰議員である東京帝国大学法学部教授・美濃部達吉の学説「天皇機関説」批判の口火を切ったことから始まった騒動の,事後処理にあるのは後述する。機関説批判と前年の陸軍省による『提唱』は,無縁なのかあるいは抜きがたく結びついているのか。どちらを取るかで,この時代を動かしていた闇の部分の認識が変わってくる。
 思想問題としてその文脈を追えば,連動していると見ても見当はずれではない。少なくとも『提唱』の視座からすれば,問題は「思想戦」(前掲『提唱』35頁)の文脈に入っていた。そして菊池は将官の退役軍人であった。菊池は大きな構図の中で使われただけかも知れない。
 政治問題として受け止めると,その背景にある様々な集団による様々な思惑の錯綜を解きほぐすだけの資料的な裏付けが求められる。実際に取り組めば,山積する資料を前にして百家争鳴になるだろう。そして,そこから定説を引き出すのは不可能であろう。表面だけを追っても見えてこないからである(注1)。
 美濃部議員は同月25日に貴族院で菊池議員の所見に反駁演説を行った。仕掛けた側の意図しているものと受け止めた側の理解が違うときに生じる現象は何か。美濃部の反駁は事態を紛糾させる結果しか招かなかった。
 これは一定の意図をもった確信犯により仕掛けられた一種の政争であって,美濃部が信条とする法理解釈の問題ではなかったからである。新渡戸稲造のオフレコ舌禍(?)に端を発した松山事件の展開と同質のものを感じる。


 2節 国体明徴という「空気」の影響力/3月〜7月

(1) 熱病のように蔓延する国体明徴という抽象言語
 3月4日,岡田啓介首相は機関説を批判した。燎原の火のように,機関説批判は常識になっていった。次いで同月23日,衆議院は国体明徴決議を満場一致で可決した。4月6日には,陸軍教育総監は国体明徴の訓示を全軍に通達した。同月9日,美濃部は機関説のために不敬罪で告発され,主な3著が発禁処分になった。同月23日には,在郷軍人会が機関説批判のパンフレットを全国の支部に配布した。
 官界とくに文部省での止(とど)めは,4月10日であった。「国体明徴に関する文部省訓令」(訓令第四号)が発令され,官報に発表された(SW一七五)。官僚の世界では5月3日が分水嶺であった。高等文官試験から,機関説派は排除されることになったからである。
 これまで行政と司法の領域で公認されていた学説は,此処に至って擦り切れた弊履のように捨てられたのである。確かに原理的に問題となるような分野があったのなら,そうした措置はそれなりに理由になる。
 だが,公的機関の諸決定がここに至った前提として,後世に残るような法理上の論争が展開されたのか。その結果による是非の決定であったのか。貴族院で批判した菊池議員が憲法学の権威であったわけではない。
 ただ,「機関説」という語感から,闇雲にけしからんという情緒的な排撃である。それが,やがて国民運動になっていったというのが真相のようである。従来の帝国憲法解釈の有力な一角が公然と否定された。これは一種の「革命」に入る現象かもしれなかった(注2)。
 美濃部の学説の法理解釈にここでは入らない。この間の経緯ではあまり意味はないからだ。ただ,世上で天皇を機関とするとは何事かと半解議論が姦しい中で,昭和天皇はどういう所懐をもっていたのか,気になるところである。
 機関説排撃と国体明徴騒ぎを宮中から見ていて,あれだけの学者を貶めてどうするつもりかとの「独り言」を漏らされたと言われている。この時代の政争における,天皇と天皇を意図して掲げる側の乖離の有力な事例の1つが,ここにもある。昔風の言い方をすれば「大御心」と君側に乖離が生じている。機関説を排撃した方が,政略的に機関説を実践しているといえるか。

(2) 文部省の機関説批判と国体明徴問題についての対応
 思想局は,奇しくも機関説批判や国体明徴決議が成立した最中に,当該分野の啓蒙拡大を意図して,『日本精神叢書』を刊行し始めていた。最初は4冊刊行した。第1冊は「歴代の詔勅」,2は「古事記と建国の精神」であった。
 3月11日付発学一九号で,「思想問題に関し教育関係者をして健全なる知識を修得し適正なる判断力を養わしむるため 昭和八年六月二十九日付発学一三三号通牒をもって『思想問題小輯』を編輯配布し来たりしが」,(中略)「日本精神の心解と体得とに資せしむるため『日本精神叢書』 を編纂し」た,とある。
 次いで文部省は,7月4日付発思八二号で学長宛に,「憲法講習会」を7月15日から5日間にわたり本省大会議室で開催するので,主事1名を出席されたいと通牒した。この案内に盛られた講師と演題に,当時の文部省の機関説批判と国体明徴問題についての対応を覗える。
 西晋一郎「日本国体の本義」,京都大学教授牧健二「帝国憲法の歴史的基礎」,枢密顧問官 伯爵金子堅太郎「帝国憲法制定の由来」,大串兎代夫「最近における国家学説」,東京大学名誉教授筧克彦「帝国憲法の根本義」。西と大串は,国民精神文化研究所員でもある。時流に寄り添う文部省にとっての,この研究所の役割というか戦略的な意味が浮かんでくる。
 金子堅太郎と筧克彦を前面に押し出せば,誰も文句をいわないだろうという中枢の本音が聞こえて来る。これまで美濃部学説を公認してきた経緯は,そこに筧を持ち出すことによって省略されている。ありていにはアリバイ作りがされている。

(3) 抽象言語の横行する世間とは異質な世界情勢の認識へ
 国体明徴に始まる文部省による精神論過多の思想問題への取り組みの一方で,拓大では学生国防研究会連盟(全大学国防研究連盟)の幹事会を6月18日に開いている。配属将校会と講演会をも同日に開いている。
 挨拶は,研究会会長満川龜太郎で,講演は陸軍砲兵少佐清水盛明による欧州情勢,憲法論は拓大講師澤田五郎。教授満川の講演は実証性に満ちたものだったと思われる(注3)。参加大学は,拓大以外は,現在の一橋大学,慶大,早大,日大,専修大,立大(注4)。
 政府は,8月3日に国体明徴の声明を発表した。同月27日,在郷軍人会は機関説排撃を宣言。四面楚歌で立場がぼろぼろになった美濃部は,9月18日に貴族院議員の辞表を提出した。10月15日,政府は第2次の国体明徴声明を発表し,駄目押しをした。
 9月7日付発思一一七号で,学長宛に金子堅太郎の前掲憲法講習会での講演記録と思われるが,「帝国憲法制定の精神 欧米各国の学者政治家の評論」を送付している。最初に金子をもってきているのは,先達への敬意以上の何か意味があるのか。12月11日付同一五七号では,法学博士牧健二述「帝国憲法の歴史体基礎」が送付された。
 文部省と政府の観念化への傾斜に比して拓大関係者の国防問題への取り組みを比べると,国難心理では共通していても,抽象と具体の対称性を見ることができる。


 3節 国家主義運動情報への対処の変遷/2月〜11月

(1) 左傾情報の『彙報』に右傾(国家主義)情報も収録
 昭和6年11月に初号が出た『彙報』は,昭和10年2月にはすでに36号になっていた。2月14日付発学一六号で思想局長は,『彙報』の内容に変化の起きたことを明記した。時勢が『彙報』を発刊した頃から基本的に変質していることを,治安の観点に傾斜している文部行政が確認している。
 前文には,「従来彙報は概ね共産主義運動に関する参考資料に限り輯録し来たりしところ 本輯よりは国家主義運動に関する資料も併せて輯録することとなしたるについては 国家主義運動は必ずしも非合法にあらずと雖も 現下の社会情勢にかんがみ その取り扱いに関しては十分ご留意相成りたく」とある。
 国家主義運動は非合法ではないといえどもと,及び腰の言い方である。どうして腰が引けているのか。それは,毎年恒例になった「思想問題講演会」の演題を見ればいい。一方で国家と日本文化を重視する指導をしておりながら,思想的な文脈ではその軌跡で同質の運動を,法治上では「右傾」あるいは右翼として監視することになるからである。
 ここで,右傾としての国家主義運動への管理には,取り扱い留意という表現を用いている。それは,右傾運動が合法と非合法の2重性にあるのを明瞭に示唆しているのである。
 『彙報』35輯は昭和9年8月1日から10月31日までの情報を11月に編集したものである。そこで,資料として「二 国家主義運動」が46〜60頁まで簡潔に紹介されている。関連図表まで巻末に添付されている。拓大関係は,魂の会(48頁),救国埼玉挺身隊事件を意味している川越事件(56頁),愛国学生連盟(57頁)が取り上げられている(注5)。

(2) 非合法国家主義運動への踏み込んだ関心
 こうした理解が,同年の暮れが迫った頃になると,表現が一歩前進して,別の段階に入ったことを思わせる内容になった。11月12日付発思一四九号での前文には,明らかに『彙報』の編集方針が,前掲の2月の通牒よりも質的に変わったことを明言している。
 「従来彙報は共産主義運動並びに国家主義運動に関する参考資料を輯録し来りたるところ第三十八輯よりは共産主義運動並びに非合法国家主義運動に関する参考資料を限り輯録することとなしたる(下略)」。
 ここで,少なくとも文部省にとって,非合法と限ってはいるものの,左右双方の動静は危険な運動と規定され確認されたのである。だが,これまでの当該分野における文部省の対応から見て,文部省が独自に判断したとは思われない。
 この通牒と共に,昭和10年4月1日から同年5月31日までを扱った第38輯,さらに6月1日から8月31日の期間を扱った第39輯が送付された。発刊当初の方針であった月1回は守られなかったようだ。但し,38,39輯には,「非合法国家主義運動に関する参考資料」はない。
 こうした扱いの不均衡さは,一方で11月18日に省内に設置の決まった国体明徴と日本精神涵養のための「教学刷新評議会」の発足とも関係しているのかも知れない。

(3) 「革新的日本精神論」は陸軍の党派抗争にも作用
 11月に編集された40輯になって,「二,国家主義運動」の節が立てられた。思想運動と日誌の2項がある。内容は神兵隊事件についてであり,日誌には10月24日付で「元拓大教授大川周明」「禁錮5年」とある(同31頁)。
 一方で,11月29日付発学一五三号で,学長宛に,学内執務上の参考資料として,『調査資料』第29輯が送付されている。同じ頃に,「思想調査資料特輯」として『日本精神論の調査』(11月)が(秘)文書として配布された(『集成』11巻に収録)。大学に受領の記録はない。
 この(秘)文書において,拓大関係では大川と安岡が後編の各論で取り上げられている。前編の類型論では,2人は「第二編 革新的日本精神論」に入れられている(注6)。他の2つは,理論的日本精神論と実践的日本精神論である。こうした区分けが妥当かどうかは,同文献を読んだ者が判断するしかない。
 こうした解説をしている用心深い文部省が,左右の動静を同じ視座から受け止める意思表示は,一体何に起因していたのであろうか。陸軍の職業軍人間での路線問題も背景にある党派的な暗闘が,世間に目に見えるようになったのも理由に挙げられるか。
 8月12日に陸軍省の中で白昼に起きた隊付き将校であった相沢中佐による軍務局長永田鉄山刺殺事件である。後世は,それを統制派と皇道派の派閥抗争による対立としている。そうした命名が妥当かどうかは後世の命名で,当事者にあっては見当も付かなかったのが真相のようである。
 政治と言っても従来の政党政治ではなく,新しい思想の影響による従来の政治党派ではない集団による動きを治安問題から所掌する特高は,この事件を軍内部での特異な突出した出来事とは見ていなかったのは,これまでの同様の事件に明らかである。文部行政の範囲でも,思想問題と命名はしているものの,『彙報』 に収録する情報での新たな扱いに,同様の見地を覗うことが出来る。


7章 2・26事件と国粋への傾斜/昭和11(36)年

 1節 分水嶺としての2・26事件の余波

(1) 実定法を侵食し出した不文法の世界
 特高部を中軸にした内務省警保局は,政府が重ねて国体明徴を確認していることを横に睨みながら,なるが故に一層これまでの左傾からの風圧が低下したのに反して,右傾からの風圧の取り締まりの必要性を痛感していたものと思われる。宇垣が推察したような明徴運動の奥の院の内情を,どこまで知りえていたかはわからない。
 警保局や特高部に集約的に表出する国家権力が,治安問題を優先して社会の安寧秩序の確保に集中するのは当然である。ここでは党派性は問題にならない。すべて,行政機関の権限と所掌からくる力学上の問題である。法治に由る治安を優先すれば,すべからく一方に偏して対処するのは,最も好ましくない現象であった。
 行政用語で言うところの「国家主義」的な見地からの血盟団事件や5・15事件を,国外の満洲事変を背景にした国内における第一次の突出としたら,国体明徴問題を経て,第二次の突出は昭和11年の2・26事件であった。この事件で予防検束にあった在学生は多い(注7)。その記録は大学には残されていない。そこで文部省にどのような報告をしたのかもわからない。
 法治国家としての近代日本が有した法理は,国体については2つの分野の均衡の上に成立していた。それは実定法と不文法の表裏一体にあった。既存の全てを否定するところに存在理由をおく革命国家は別にして,法治である近代国家とは,そうした法構造に成立する。
 北の執筆になると言われた『統帥権干犯』に関する怪文書は,一見すると帝国憲法の有していた法理的な隘路を衝いているように見える。だが,その後の天皇機関説から国体明徴に至るまでの経緯を見ると,実定法の解釈問題ではなく,不文法の解釈で亀裂が生じている。
 それは,それぞれが背景に思惑を秘めての言動により,さらに混迷を深めたと言える。不文法が実定法の世界に,その矩を越えて浸食し始めたのである。実定法の有力解釈であった天皇機関説が排撃されて空白が生じたからだ。そのため,不文法への漠然とはいえ従来あった信頼の合意に亀裂が生じている。

(2) 抽象言語が現実に敗れた2・26事件の決起将校
 2・26事件の将校が事敗れて切腹する可能性に立たされたおりに,勅使の派遣を乞う発言が生じたのは,そこにある。彼らは,自分たちの行為が国体遵守から来る緊急避難の措置で,不文法の見地からは是認され責められるとは思い浮かばなかったようだ。永田軍務局長を刺殺した相澤中佐と近似している。
 勅使が派遣されると,実定法としての軍法に逆らった決起という行為を,切腹で責任は取るものの,その忠誠心に基づくものとして嘉みされることになる。実際はそうならなかった。昭和天皇が峻拒したからだ。何をもって錯誤と認定するかはともかくとして,そうした錯誤の生じた背景には,現実から遊離した国体明徴などに象徴される抽象言語の影響力をもった横行もある。
 竹山道雄は『昭和の精神史』(新潮社)で,5・15事件の檄文と2・26事件の決起趣意書を比較して,後者の観念的な傾斜を指摘している。檄文と決起趣意書を素直に読めば,竹山の所感は不自然ではない。
 しかし,取り締まる側の政略から事件に巻き込まれて死刑の判決が下った北一輝は,元来がそうした観念性とは無縁と言ってよかった。事件を起こした尉官将校と北の間には越えようもない距離があった。そこを指摘したのは,当時,拓大で植民政策を講義していた永雄策郎である(注8)。
 彼らが忠誠対象としていた天皇である裕仁御自身は,立憲君主制を守っていた。当然に実定法の法治から,勅使派遣についての非公式の内奏があった際に,それを許容するところとならなかった。決起将校の期待は,近代法の生きる立憲君主制に基づく統治を天皇が遵守する限り,有り得ないと考えるのが妥当であろう。
 救国埼玉挺身隊事件の参加者が,決起の後に責任の取り方として宮城前で自決と考えていた。この覚悟には勅使を期待する考えはない。国事に生きようとした草莽としての覚悟しかない。吉田らには,選良としての在帝都師団の青年将校と異なり,耶律楚材作の『アルタイ山を過ぐ』の一節にある「士は溝壑にあるを忘れず」に生きていたからであろう(注9)。

(3) 合法的国家主義運動は『資料』/4月
 左右を問わず,国家変革に実力で関与しようと覚悟して取り組んでいる青年学生がいる一方で,体制管理の一翼を思想面から取り組んでいた文部官僚の当事者意識はどの程度のものであったか。
 2・26事件が起きて2ヵ月足らずの4月14日付発思四七号での「『資料』配布に関する件」によると,「自今合法的国家主義運動に関するものは別に輯録し定期にこれを診察して『資料』として配布する」と記している。
 第1輯は同年1月から8月までの記録を収録している。刊行日は不明であるが,前掲の通牒を見ると,年を越している模様だ(注10)。
 『資料』の扉には,「本資料は国家主義運動に関するものを輯録隔月発行し学生生徒の指導訓育上の参考に資するものとす(下略)」とある。こうした編集刊行の試みは,合法・非合法の境界があいまいになっているところから来ているように見える。前掲11月の発思一四九号の通牒と比較すると,問題領域の錯綜している様を覗うことができるからだ。
 こうした錯綜はなぜ生じるのか。1つには,合法と非合法に明快に分けることができなかった面があるからだ。監視対象の振る舞いで,合法がいつ何時に非合法に転換するかは状況如何によっている。さらに,監視対象でない者が,いつ,事態に対応して直接行動に走るか,当事者当人も不明なのである(注11)。
 次に,「管理」観察する側の問題である。思想局が所掌する学校から収集した情報に基づいて判断基準を設ける経験も素養も,文部省官僚にも属僚にも有るとは思えない。政策上で独自の判断を下すだけの見識を持っていなかったのは,この稿でのこれまでの経緯に見えている。
 それは,「家庭教育指導者講習会」(三部5章/5節)企画の内容にも明らかである。実務では,特高部の判断に追従していたに過ぎないのではないか。あるいは盲従か。法治といっても政治犯の範疇は一概に裁断できないのが難しいところである。
 事態のあまりに早い急転は解釈を困難にして,すべてが後追いになっている。官とは元来後追いが習性かもしれない。実定法でもって合法・非合法を区分できると考えていたのか。右傾は実定法と不文法の結束点としての天皇存在を背景にして,実力行為を意図していたからである。
 2・26事件の背後にいると断定されて死刑にされた北一輝は,「革命とは順逆不二の法門なり」といっている。意訳すると,順として忠誠を発揮するために逆賊となる場合があることを明言しているのである。


 2節 学生消費組合から拓大は脱退/2月

 学生消費組合が左傾学生の1つの前衛機関であったのは,前掲の共産青年同盟の秘密文献にも明らかである。文部省を含めた官憲は,すでに要注意の対象にして監視下においていた。
 昭和5(30)年11月18日付発学一九五号で,学長宛に「学生生徒の訓育方法及び福利施設に関する件」で問い合わせているところに明らかである。2項の「学生生徒の生活に便する諸施設(福利施設)」うち,細目6には,「日用品,学用品等の廉価供給並びに食堂等に関する施設」がある。
 12月3日付で拓大は回答した。回答文書の該当部分には,「学生消費組合(学生全部会員)をしてこれをなさしめ」と記している。添付資料として,「拓殖大学共済会会則」,「学生消費組合加入の呼びかけ文」,「東京学生消費組合定款」が送られた模様である。
 昭和11(36)年5月13日付発学五八号で思想局長は学長宛に,「東京学生消費組合から拓大支部は今回本部より脱退したる趣なるが」と,5項目について質問してきた。1,脱退の日付,2,脱退の原因並びに経過,3,脱退後の同支部の存続の有無,4,「存続の場合その組織に変更ありたるときはその名称,役員名,会員数,主義方針等」,5,その他,である。
 5月21日付で拓大は回答した。
 脱退の日付は,昭和11年2月10日。
 脱退の理由。本部を通して商品を仕入れるより,直接に問屋や工場からの仕入れが安い。すでに4,5年前より1部の商品は直接に仕入れていた。「本部は拓大支部より見れば1種のロボットに過ぎず このロボットに過ぎざる本部に一ヵ年百二十円の本部費を納入することは無意味なりとの議起こり学生大会において満場一致の賛成を得て本年度より愈々脱退の決意を固め」た。別の修辞で言えば,本部から見れば加盟大学はロボットに過ぎないところから来た表現であったのか。
 新しい名称は,拓殖大学学生販売会。
 役員は,販売会理事に,教授青山楚一が就任している。
 監督委員は6名いて,専門部3年からは,柳川宗成の名前もある。後年になって柳川は,大東亜戦争の開戦初期にジャワに最初に上陸した。参謀部別班に所属。戦争末期に青年道場により現地ムスリム社会での指導青年を選抜して訓練し予備兵力の育成を図った。
 この回答の特色は,一切の政治的な理由を記しておらず,あくまで学生生活にとっての経済効率のある「消費組合」の存在理由だけに絞っているところであろう。


 3節 憲法学における国体明徴教育の報告要請/4月

(1) 国体明徴教育の一環になった憲法学
 4月27日付照思一二号(SW一七六)は総務課の綴りにあり,【綴り】に収録されていない。文部次官は学長に,前年4月10日に発せられた訓令四号に基づき,憲法講義で国体明徴がどのように講義をしているのかの報告を求めた。通牒には「特に憲法第一条乃至第四条については詳細にその内容を」記すように求めている。
 通牒中にある前年の 「昭和10年4月10日の訓令第四号及び同年8月5日並びに10月16日依命通牒」が保存されていないために,「通牒の趣旨徹底方」と記されているのを読んでも,その内容は推測するしかない。だが前章で扱った前年の国際連盟脱退など事態発生以来の経緯を踏まえて,4月の今次の通牒を読むと,おおよその趣旨は推測できるであろう。
 拓大は5月15日に次官三邊長治宛に報告した(SW一七七)。
 学部では1年生に対して教授する澤田五郎による詳細な報告がされている。教科書は,澤田著になる『帝国憲法講義』である。その報告内容に入る前に,現在の読者に帝国憲法の1条から4条乃至5条について概略触れるべきであろう。条文を引用してもいいが,現在の「憲法」教育を受けた者には分かりにくいと思われるので簡単にしたい。
 近代日本は,非欧米世界では実態上で唯一の立憲君主国であった。当時の一般的な解釈では,主権は天皇にあり(1条)統治権を有しているものの,実定(明文)法である憲法に従って統治することが明記されている(4条)。統治権の行使にあたって,その前提として求められる立法は「帝国議会の協賛」で行われる(5条)とした。
 「協賛」の解釈が明徴問題の中心になったことは,当時の経緯に明らかである。機関説への反発もそこを拠り所とした向きもある。この「協賛」は徐々に拡大解釈されていくことになった。議員の国政関与が協賛にされると,軍を含めて有司専制になるのは自然である。選挙を通しての民意は反映しにくくなるからだ。
 議会人が国体明徴と「協賛」という表現の内容を争点にしたのは,議会政治を結果的に抑制し自縄自縛することになった,と今日では見られている。政争の次元であったつもりが,自縄自縛になってしまい,制度の変質にも展開してしまった。行政権が統帥権に侵食された先行事例が協賛を強化したのである。
 こうした先行事実は,数年後の政党解消運動から大政翼賛会の結成による翼賛政治にまで波及してしまったからである。そうした展開は,国際連盟脱退以後のハブス(持てる)欧米諸国に対する国際的な孤立意識とも相関にあるように見える。内向きに精力が注がれている。

(2) 澤田五郎講師の帝国憲法論
 澤田は,ドイツの社会学者テンニエスの作った概念として現在でも用いられる場合もある,ゲマインシャフトとゲゼルシャフトを用いて,日本国家の本質は前者であるとする。そこで天皇機関説の中軸とも言える国家法人説は批判される。日本という国家は,人為による国家ではないとするのである。
 そこから,「国家の機関」とは構成要素ではあっても,主権者とは本質的に異なるとした。天皇機関説は,神聖不可侵の天皇(3条)主権の国体と,「統治機関の組織形態を基準として観念すべき政体」の弁別の不明なところに問題があるとした。
 そこで,君主制と民主制についての区分上の理解も,国体と政体の区分が明らかでないところでの錯誤としている。君主制,貴族制,民主制,共和制は,いずれも政体の区別でしかない,と言うのである。国体の本義は,1条にある「万世一系」にあったからだ。
 上記の澤田の憲法論の骨子は,B4の事務用箋8枚にわたり,縷々懇切に説明されている。報告作成に1ヵ月かかったのは当然であろう。
 一方,専門部の憲法論を担当していたのは助教授豊田悌助であった。豊田は,同上事務用箋1枚に,簡略に記している。教科書は,法学博士清水澄『帝国憲法大意』(清水書店発行)で,条文にある通り天皇主権説である。憲法三条に神聖不可侵と明記しているところから無答責になる。清水は台湾協会学校が創立された際は国法学を講じたので,拓大とは縁が深い。
 豊田の要旨は,天皇機関説批判から国体明徴が立法府で重ねて決議され,行政での様々な訓令,示達,通牒で駄目押しされた内容を,正直に反応して要領よくまとめてある。
 因みに,ここでの問題は過去のものではないことに留意したい。国体,政体の区分問題は,敗戦後の占領中はともかくとして,主権回復後にも継続されている。占領中に日本が受容した「現行憲法」の,最近起きている改正論議においても,最大の問題はそこに伏在している。主権が何に帰属しているかの捉え方の問題である。そこを現行憲法は象徴という英語の単語を当て嵌めて,あいまいにした。8月15日革命説の提起もそこに帰因している。


 4節 日本文化教官研究講習会/7月

 文部省では,天皇機関説批判と国体明徴の趣旨をどのように文部行政に反映させようとしていたのであろうか。6月25日付発学六〇号で,思想局長名により「憲法教育資料」と銘打って左記の著作を送付している。
 吉田熊次「我が国体と教育勅語」,藤澤親雄「帝国憲法について」,藤井甚太郎「帝国憲法制定の由来」,筧克彦 「大日本帝国憲法の根本義」の4冊である。受け取りは,調査課に送るように指示している。筧の著作は,前年の講演に基づいてのものかどうかはわからない。
 こうした啓蒙を先行しておいてか,7月11日付発学七三号で思想局長は学長宛に,「日本文化教官研究講習会歴史科第一回講習に関する件」を送った。しかし,標記については,6月30日付同号で通知していると前文に記されているものの,その文書は残されていない。
 講師と演題は,田邊元「史学の意味」,西田直二郎,題未定,山田孝雄「古典の研究と国体の本義」。特別講演として,三上参次「明治天皇の聖徳について」。拓大から誰が参加したかの記録はない。
 これまで例年夏に行われていた思想問題講演会に関する通知はない。綴り漏れとは思えない。ということは,思想問題についての文部行政の観点が大きく変わったのかも知れない。7月22日に,高等教育機関は日本文化についての講義を行うように通牒しているからである(岩波版『近代日本総合年表』309頁)。
 9月8日には,いわゆる日本学について,「日本諸学振興委員会」を設置している。いずれの通牒も【綴り】には残されていない。この2つの文書は,思想面における以後の文部行政の枠組みと看做していいかも知れない。
 思想局からは多くの資料文献が学校宛に送られているが,この年のもので興味を惹かれるのは,12月15日付発学一二六号の,「思想問題小輯十一『祭祀の展開』」である。ここに突如と祭祀に関する小冊子が編集され送付されたのは,国体明徴と何らかの関係があるのか。無縁とは思えない。


8章 思想局から教学局へ/昭和12(37)年

 1節 文部省編刊『国体の本義』/5月

(1) 機関説否定は神政国家への移行
 天皇機関説と国体明徴の紛糾を文部省がどのように受け止めたかは,5月30日に刊行された『国体の本義』(以下『本義』)に集約されて現れている。前章の末尾に紹介した『祭祀の展開』とて,当時編纂中であったこの本の刊行意図と内容に関わっていると考えても不自然ではない(『本義』「祭祀と道徳」101〜114頁)。
 『本義』は150頁程度のものだが,冒頭にある刊行要旨に全てが込められている。3項目ある。その1は,「本書は国体を明徴にし,国民精神を涵養振作すべき刻下の急務に鑑みて編纂した」。
 その2は,「我が国体は宏大深遠であって,本書の叙述がよくその真義を尽くし得ないことを懼れる」。
 その3は,「本書における古事記,日本書紀の引用文は,主として古訓古事記,日本書紀通釈の訓に従い,また神々の御名は主として日本書紀によった」。
 内容は 緒言と結語以外は2部に分かれ,「第一 大日本国体」,「第二 国史における国体の顕現」である。政体と国体の区分については,美濃部学説に対して「統治権の主体は国家であり,天皇はその機関に過ぎないという説のごときは,西洋国家学説の無批判的の踏襲という以外には何らの根拠はない」(133頁),と明快に否定している。
 そこで,「政体法の根本原則は,中世以降の如き御委任の政治ではなく,或いは又英国流の『君臨すれども統治せず』でもなく,または君民共治でもなく,三権分立主義でも法治主義でもなくして,一に天皇のご親政である」(同上)と言い切っている(注12)。
 憲法5条にある「議会の協賛」の内容も規定されることになった。そこには,憲法下の議会が公布以来営々と積み重ねてきた慣習への顧慮は見られない。
 従来の立憲君主制の解釈や世俗国家観には一線を画した。そこから,神政国家観に移行したという見解が後世で流れた。法治まで否定する徹底ぶりである。当時の文部官僚主流は開化思想を負にして退路を絶ち,深刻にか軽やかにか自らルビコンの橋を渡ってしまったのである。

(2) 軍民は文武で各々の職分を果たせ
 軍事については,「古来我が国においては,神の御魂を和魂(ルビで「にぎみたま」)・荒魂(ルビで「あらみたま」)に分かっている」(同140頁)。「我等国民は,『文武互いにその職分に恪循し衆庶各その業務に淬励し』と仰せられた聖旨を奉体し」,「臣民たるの本分を竭くさねばならぬ」(同142頁)。
 こうした職責区分の提示は,論理的に見れば国家総動員が軍主導ではないことの明示ではある。ではあるものの,事態の展開はそうした解釈を越えて行き,対米戦争が始まると軍だけ最優先になったのは,その後の推移が示している。


 2節 組織改編拡充の意図したもの/7月

(1) 海外国費留学の抑止と「国民精神総動員」
 3月27日,文部省は中等教育である中学,師範,高女の授業科目を,国体明徴という観点から改訂した。5月26日には,勅令によって内閣に文教審議会が設置された。12月10日には改編して教育審議会になり,対米戦争に突入する直前の昭和16年10月13日まで継続した。
 4月30日付発思一五号により,おそらく局長名と思われるが,学長宛に当該年度における「日本文化講義」の設置を求める通牒をし,その確認をしている。この文書と回答書は大学に保存されていない(注13)。
 内外に文部行政の方針を闡明にしたのが,5月31日に全国に配布した『本義』である。文部省の方針は独走ではない。『本義』の刊行は,掛け声として言われ始めていた「国民精神総動員」の一翼を教学面で担うという決意表明を意味していた。あるいは,これまでの後追いであった事態に,多少とも失地回復を図った措置であったのか。
 昭和10年2月から始まった国体明徴問題は,文部省にとって7月には「憲法講習会」を開催して,美濃部学説とは違う見地にあった筧克彦の学説を前面に出したことによって,一つの区切りをつけた。その再確認が『本義』の編集刊行であったのか。
 8月24日には,閣議は「国民精神総動員実施要綱」(SW一八三)を決定した。「三,指導方針」の三には,指導の細目として「思想戦,宣伝戦」という表現が用いられているところに,必ずしも自前の知恵ではないことを覗うことができる。
 9月9日には前掲の実施要綱は内閣訓令になっている。さらに10月12日には,内閣訓令を受けて国民精神総動員中央連盟が結成されている。
 現在から見ると,この訓令は,9月28日に同じく閣議決定した海外留学・派遣の抑制と無縁ではないように思われてならない。この抑制は,翌年9月に文科系の海外留学の中止になっている。見事な内向き思考である(注14)。こうした延長線上に出てくるのが,戦時における敵性語の廃止としての英語教育の停止であろう。

(2) 思想局を廃止し教学局・局長は長官職に/7月
 文部省は7月21日に思想局を廃止して教学局へと組織改編をした(注15)。これも,そうした背景を抜きにはありえない。思想問題を扱う権能は新たに設置された指導部になった。国家総動員に向けて国民を指導することを内外に鮮明にしたのである。改編に伴い内局から外局にした。そこで局長は長官職に格上げしている。現在の官制では庁に相当する。文部官僚の並々ならぬ構えを覗うことができる。
 文部省は,特高に振り回されて自主性が感じられなかった初期の思想問題への取り組みから,試行錯誤を経て,『本義』に基づく全国民の教学という観点に立脚したものと思われる。
 10月15日付発指三三号で,教学局長官は学長宛に「『国体の本義』 利用方法調査に関する件」という通牒を発している(同上一八四)。拓大は11月4日付で報告している。その内容は修辞の一つの傑作である。
 「教科書として或いは教材として具体的にこれが利用を挙げざるも本学学生は質実剛健を主として国家観念に厚きに鑑み(中略)神道講座を新設し(下略)」た,と済ませている(同上一八五)。但し,この講座は予科と専門部の1年生に対してだけ行われたのは,拓殖大学新聞の記事に明らかである(同上一八六)。虚学よりも実学を重んじたのか。
 文部省は,国民精神総動員という表現に見られる同時代の背景を考えると,行政領域における当該分野の主導権を見据えているように見える。見えるものの,拓大の特異な修辞に満ちた反応を見ていると,そうした折角の試みも前途は多難であり,その目論見は幻想に終わった。
 先軍政治ではないだろうが,軍主導に振り回され敗戦に至ったのは,その後の史実が証明している。思想面で主導権を握ろうとした様子もあるものの,付け刃であったのかの検証は,第一稿の隠れた主題でもある。


 3節 国民精神総動員に向けた思想管理

(1) 日本精神研究への偏重
 この年の学校宛の啓蒙を主にした書籍の送付は,文科系の海外留学の抑制という政策判断と併せて眺めていくと興味深い。内向きが露骨に表示されているからである。その1つの事例は,4月30日付発学一五号によって,再び「日本文化講義」を授業科目に入れることを通牒しているところに見られる。この文書は【綴り】には残されていない。
 昭和10年3月に『日本精神叢書』の刊行配布が始まったことは6章2節で触れた。2年後にはすでに20数冊が刊行されるまでになった。5月28日付の発思三三号では,同叢書24として,「徒然草と人生観」,25は河野省三「中臣祓と民族精神」,26は「万葉集と国民性」,27は「宮本武蔵五輪書と剣道の精神」,28は「聖徳太子の十七条憲法」である。
 同日,番号としては発思三二号では,「本省において国体,日本精神を明らかならしめ,以て現下の各学科の刷新を図るを目的として実施せる日本文化教官講習会における講演中一般教育者の参考となるべきものを選び『日本文化叢書』 として編纂せる」(下略)と,その刊行方針を述べている。
 記述順序では,田邊元「史学の意味」,三上参次「明治天皇の聖徳について」,紀平正美「日本精神と自然科学」,日米開戦以前から戦争中にかけて文部大臣になっていた生理学者橋田邦彦「行としての科学」,松井元興 「自然科学の領域」,田邊元「自然科学教育の両側面」である。いずれも文部省主催の講習会等での講演記録の模様である。
 10月11日付発指一六号で,教学局長官名によって「日本精神叢書継続発行に関する件」が通知された。「標記の叢書は従来思想局において我国古来の典籍中より精神教育上適切なのを選択してその要点を解説して広く国民をしてこれ等の貴重なる古典の精神を知らしめ以て日本精神の心解と体得とに資せむることを目的として発行す」。(中略)「今般本叢書は当教学局において継続発行することと致す」(下略)。方針に変化はないと伝えているのである。
 3日後の14日には,同号にて,日本精神叢書29として高木武「戦記物語と日本精神」が送付された。1ヵ月後の11月15日付同号では,同叢書30の奥田正造「炉辺閑想」であった。奥田は仏教と茶道に造詣が深く,成蹊学園で女子教育に生かしたことで著名である。
 戦争末期まで50冊ほど刊行されたが,矢継ぎ早に刊行される著作の主題は,ひたすら文科系の日本文化とは何かだけを追求している。このひたむきさは,よく言えば健気で初々しい。
 多少,距離を置いて見ると,古典という1点だけを凝視していて,広く周囲を視野に入れていたのかどうかの懸念が残る。これまでの文部省からすれば,当該分野は閑却に過ぎていたと外部から見られていた反動か。こうした教養本がどこまで所期の目的でもある実際上の戦力強化になったかは想定外である。

(2) 『思想研究』を11月に刊行
 教学局の中枢機関である企画部思想課は,11月に『思想研究』を刊行した。11月17日付発企二〇号で,教学局長官名によって「思想研究第一輯送付の件」を学長宛に送った。「本局において学校及び社会教育団体における思想上の指導監督に関し参考となるべき各種の資料を採録紹介し以て学生生徒の指導訓育に資するため自今『思想研究』を発行」(下略)した,とある。『集成』にも収録されていないので,その内容は不明である。大学にも保存されていない。
 さらに,12月3日付発庶五四号では,『教学局時報』第3号を送付している。第1号は教学局発足に併せて10月に刊行されたのであろうが,【綴り】にその記録はない。
 『思想研究』を見れば,当時の「思想管理」上から公認されている先端部分の発想形態が明らかになるのに惜しい。これまでの傾向から大よそは判明するものの。
 こうした環境にあって,官学の頂点である東京帝国大学の経済学部では,時勢への対処をめぐって内訌が生じていた。その1つの答えがクリスチャン教授矢内原忠雄の学外での発言や論評をめぐる12月1日の辞表提出であった。同月4日に受理されて退官となった(注16)。



(注)

1.宇垣一成は数年後に背景の深さに明確に気づいた。それは昭和12(37)年初頭に大命降下されていながら,陸軍という軍部の反対にあって辞退しなければならなくなった際であった。組閣参謀の一人であった大蔵公望の日記に,宇垣の述懐が記されている。二巻。307頁。『宇垣日記2』にも覗うことができる。みすず書房。1972年。
2.錯綜しているこの問題について,筆者の知る限りではあるものの,一般に入りやすい最近書で最も明快に解析しているのは,小堀桂一郎『昭和天皇』の一節「天皇機関説論争」。PHP新書85,192〜197頁。
3.彼の国際情勢についての博識ぶりは,拙稿「地域・地球事情の啓蒙家・満川亀太郎の時代認識」。『拓殖大学百年史研究』8号。平成13年。
4.思想局編『資料』第1輯。107〜110頁。『集成』23巻に収録。本『資料』については次節の末に触れる。
5.『集成』27巻に収録。
6.前掲の昭和13年3月に刊行された『思想指導に関する良書推奨』に挙げられた安岡の著作は『日本精神の研究』,『東洋倫理概論』,『王陽明研究』,『東洋政治哲学――王道の研究』。立場は,金鶏学院学監。303頁。復刻されて現在でも市販され読まれている。
 因みに2年前の9年3月に禁固5年の判決が出た大川の著作は1冊もない。二人の軌跡が革新的であることは自他共に認められるところ。一方で,合法・非合法の境界にあって,大川は非合法手段をとっても改造する選択をしたのであった。
7.学部32期長壽は,「2・26事件で寮生は全員検挙された。筆者は既に卒業試験は済んでいたが予科生は試験前で大変迷惑をかけたが,罪なくして配所の月を見たことも思い出の一つである」。同『賛天寮について』。『茗荷谷たより』260号。平成元年5月。
8.同「日本改造法案大綱と大川周明博士」昭和34(59)年。編纂室編『元教授・専門部長 永雄策郎――近代日本の拓殖(海外雄飛)政策家』に収録。平成16(2004)年。
9.安岡正篤『耶律楚材の面影』に訳詩が紹介されている。編纂室『元教授安岡正篤――慎独の一燈行』に収録。11頁。
10.『集成』23巻に収録。
11.2・26事件で予防検束されたこともある某氏は,国家主義運動に参加していた当時の青年学生の気持ちとして,「五五の春」と言っていたという。五五とは掛けると25,つまり25歳以上は生きようとは思わなかったと述べたことがある。
12.同書は,君民共治における議会とは,「君主の専横を抑制し,君民共治するための人民の代表機関である」(135頁)とし,日本の議会とは異なるとしている。これでは,血盟団事件の井上日召に影響を与えたとも言われている権藤成卿の『君民共治論』も形無しである。
 さらに,拓大教授でもあった安岡正篤は,大正14(25)年に,「旧邦と維新」(『東洋』第28年1号)で,「盲目的天皇崇拝を強いて」いる「道学先生」を批判している。だが,12年後になって,教学を担う文部省が道学先生になって退化してしまった,と言えないか。安岡前掲書157頁。
13.この通牒と7章3節で触れた昭和11年7月22日の通牒内容との関係は不明である。だが,9章3節で触れる昭和13年3月8日付発指一七号の前文に記載されている。
14.歴史にifは導入し得ないが,後藤新平がもし文部大臣でさらに国民精神総動員を是としたら,近代日本の最初の国是「五箇条の御誓文」に基づいて欧米先進国への国費留学の定員を,最低100倍に増やしたであろう。
15.教学局長官は,同年9月に同局主催の学生生徒主事会議で,同局の新設理由を述べた。その一節には以下の下りがあったという。
 「そもそも我が国の教学は,皇国の大道を具現し,以て皇運を扶翼し奉るをその本旨とする」。外来思想である「共産主義・無政府主義等のごときは,我が国体に反する」。明治以降の外来思想の所以は,個人主義である。その「弊害を除去すると共に,これを克服するために,(中略)我が国体の比類なき真義をいよいよ闡明して」行くと,高らかに謳っている。前掲『学制八十年史』384〜385頁。前掲と同様に孫引き。
 こうした見方は,『本義』にも繰り返し記されている。同緒言,同結語を参照。
16.矢内原辞任の経緯は,立花隆が『天皇と東大』(下巻)で扱っている。第53章。文芸春秋 06(平成18)年。矢内原が新渡戸稲造から継いだ『植民政策』は,永雄策郎が講師として担当した。
 矢内原を有名にした『帝国主義下の台湾』は,現在でも古典として評価が高い。日本の台湾統治を否定する最も権威ある書である。統治された側の台湾人による実証的な違和感の表明は,最近の李登輝の発言である。産経新聞。平成16年9月15日。15面。『凛として』13回。
 両者の日本の近代台湾統治に関する認識と評価の違いは,どこから来るのであろう。近代日本国家の軌跡を矢内原は観念的に疑わしく見ているのに比して,李は台湾を近代世界史で実証的に比較して省察するところから来ている。李による後藤新平の治績についての肯定的な評価は,矢内原の視点にあっては沙汰の限りであろう。
 李登輝『後藤新平と私』。第一回後藤新平賞受賞講演。2007(平成19)年6月1日。『後藤新平の会 会報』No.3. 同年6月。


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