昭和史における文部行政への政策評価

2008年2月15日

文部省による思想管理の実態<3>
〜昭和5(1930)年から16(41)年の拓殖大学史から〜

池田 憲彦
元・拓殖大学日本文化研究所教授
同研究所附属近現代研究センター長
高等教育情報センター(KKJ)客員



三部 満洲事変以後から思想局の創設へ

3章 満洲建国以後/昭和7(32)年

 1節 文部省の平衡感覚か? 右傾学生への調査/3月

(1) 国民の行き詰まり心理を吹き飛ばした満洲事変
 金融恐慌以来,政党政治への違和感が社会的に蓄積されてきていた。経済不況による農村の疲弊や都市における失業者の増大に,政府が有効な手段を打てないことに国民は苛立ちを覚えていた。議会政治への不信である。既存の制度への不信を解消する既存の回路がないとの感情は着実に蓄積されていった。
 そうした苛立ちに乗じるように,左傾ではない側からの直接行動を取る勢力が台頭してきていた。満洲事変の起こる半年前に,東京にいる陸軍佐官将校の集団櫻会のメンバーと民間が連携してのクーデタ未遂の三月事件が起きた。後年,5・15事件に参加した橘孝三郎が,水戸近郊に愛郷塾を設立したのは4月である。3月事件の参加者が主力になって,10月には同様に未遂に終わった十月事件が起きたのは満洲事変の1ヵ月後のことであった。民間側の有力者は,拓大で教授をしていたこともある大川周明。
 計画の実現は満洲事変であった。ここでの行動は,統帥権を無視した兵力の行使である。ことの深刻さは,それを世論が支持したところにあった。秩序無視を肯定した世論の台頭は,いかに既存の議会や政府への不信感が浸透していたかを示している。
 満洲事変の勃発は日本の世相をガラリと変えた。一言で言えば左傾なり極左の運動が転換期を迎えたということであろう。国論が,事変を支持するか,反対するかのせめぎ合いになって,新聞も含めて世論の大多数が支持に気運が流れた。それだけ国難心理が台頭した背景は,「一部・前提一」で,農村など経済社会の側面から触れた。
 その一つの事例として,事変の2ヵ月後の11月22日に,現体制批判の一方の旗頭であった社会大衆党は事変支持の立場を公表している。それは同時に,これまでは想像も出来なかった革新の担い手としての軍への期待が高まったからでもあった。軍人勅諭にあった一節,「軍人は政治に関与すべからず」の禁忌が崩れだしていた。国民による軍への過剰期待を背景にして,軍の政治化が進んだ。軍閥と形容されている。

(2) 左傾学生運動に対抗する右傾学生運動台頭の背景
 軍自身による統帥権干犯も含めて,直接には昭和7(32)年2月の上海事変に関して,拓殖大学元学監の新渡戸稲造がオフレコで軍閥を批判したのは,法理的にも道義的にも正しい。その発言は翌日の2月5日に地方紙「海南新報」に掲載され,全国紙にも転載されて騒ぎになった。世に言う松山事件である。
 言葉尻を捕らえて,軍批判はけしからん,英霊への冒?だと,発言の本意はすり替えられた。現在でもよく見られる筋書きである。オフレコの約束を破った記者の帰属する同紙は,2月25日には,その不義は棚上げして,社説で新渡戸に自決勧告を記す異常さであった。新渡戸は3月4日に在郷軍人会本部に赴き,集会で壇上より陳謝した。当時の世相や「空気」の異様さが覗える。
 左傾学生に対抗して右傾学生が台頭してきたのは,至極当然の現象であった。左翼学生運動が革命を自明として,既存の体制打倒と国家の否定を主張し運動を展開すれば,違和感を有する勢力が出て来るのは自然の力学である。
 だが,ここでの右傾を,現体制保持を意味すると錯覚してはならない。体制変革を意図する点では左右は同じであった。外国からの指令で動く左傾か,日本に立脚している右傾かの違いであった。別の言い方をすると,革命か維新か,でもあった。前掲「一部」の冒頭で取り上げた三つの前提が輻輳して,日本の教育も経済も政治社会も,統合性を失い収拾がつかない状態に入りだしていたのである。その象徴的な突出が満洲事変であった。

(3) 右傾学生団体の調査
 既存の体制不信が極まったと判断されるのは,2月から起きた俗称,血盟団事件であろう。国内では現体制を支えていると思われる要人を粛清すれば,事態は変わると信じた直接行動が起きていた。財閥の有力者がテロの対象になった。そうした最中の3月1日に満洲建国宣言がされた。その2ヵ月半後には,5・15事件が起きている。
 現在から見れば,こうした直接行動は,政策科学とは異質な次元の倫理的な境地に発するものであった。一応,左傾学生の信じる革命は,倫理的な境地に立ってのものであれ,装いは政策科学に立脚していると信じられていた。「空想から科学へ」と信じていても,90年のソ連の崩壊に見る歴史の検証を経ると,内実は空想でしかなかったのだが。
 3月18日付照学一三号で,文部省学生部長は学長宛に,件名のない照会をしている(SW一六八)。その照会は,これまでのように左傾学生による思想問題ではなく,右傾調査であった。おそらく,文部省にとっても初めての試みと思われるので,同照会文の全てを紹介する。
 「近時学生生徒中社会風潮並びに時局の影響を受け国家的立場を標榜したる各種の団体を組織し若しくはこれに参加するものこれある趣のところ 貴学学生の関係する右該当団体にしてすでに組織せられ若しくは計画中のものこれあらば左記により詳細三月末日までにご回報あい煩わしたく
 なお貴学における既存の団体にして同様の傾向のものも併せてご報告あいなりたし
      記
 一,団体名
 一,創立年月日
 一,事務所
 一,目的,綱領,方針
   (宣言,決議,檄等も出来得る限り詳細に報告のこと)
 一,思想傾向
   (思想の傾向思想の程度,収用的,実行的の別等その他出来得る限り具体的に詳細に報告のこと)
 一,組織
 一,会員の種類,会員数(学校外にある団体の場合は自校学生生徒の参加人数をも報告のこと)
 一,学校との関係,指導者
 一,従来の行動
 一,その他参考となるべき事項
 以上」

(4) 報告されなかった? 『魂の会』
 残されている資料から見ると,拓大当局は2つの団体を報告しようとした模様である。しかし,実際には1つしかしなかったと思われる。報告草稿に割り印のあるのは1つだけだからだ。
 草稿にもならない文案の1つは,『魂の会』(注1)である。大学の事務用箋3枚に書かれているのは,
  「一,団体名 魂の会
  一,創立年月日 大正11年10月1日
  一,事務所 なし
  一,目的,綱領,方針
     目的  維新日本の確立
     綱領  なし
     方針  確定したるものなし
  一,思想傾向 諸種学術の研究をなし学識の向上をはかると共に自己の精神的修養に努めつつあり思想頗る穏健なり
  一,組織 会長 学生有志 先輩の有志をもって組織す
  一,会員の種類 会員数 
     会員の種類 学生有志,先輩の有志
     会員数学生約20名 先輩の数不明
  一,学校との関係,指導者
     学校との特別の関係を有せざるも本学教授大川周明,安岡正篤,宮原民平 助教授柳瀬薫の諸氏を戴き学校にて後任せるものとす(「外に指導者として長野朗」とあるも消してある。筆者注)
  一,従来の行動
     創立当時は学術研究的態度にて ジードの経済原論,プラトーの国家論,マルクス資本論等の研究せり 近時においては金鶏学院における安岡正篤氏の講義を聴くか,名士座談会座読討論会を催し又行地社座談会に出席する等のことをなせり      又昨年来帝国大学国学院大学の有志と連盟して東都各所にて講演会を開催せり」。
 内容から判断して,柳瀬助教授の示唆の下に教務課の当該分野を分掌する課員が記したものか(注2)。

(5) 大学から報告された内容/4月
 四月二六日回答と草稿の記された大学の用箋の外枠に達筆の筆書きあり,さらに割り印があるので,以下の記録は文部省に報告されたのであろう。
 団体の名称は現在の言葉感覚からすると,おどろおどろしている。
 「全日本日本魂連盟拓殖大学日本魂会。
 創立年月日は,大正十五年六月六日(全日本日本魂連盟結盟式当日),事務所は,創立当初は大学内に設けありしも,目下東京市牛込区早稲田南町一三 青天寮内にあり。
 目的とするところは連盟の趣旨に基づき各種事業の遂行を期しかつ本大学学生,校友及びその関係者をして普く皇室中心主義に帰一せしむるにあり(略)。
 方針としては連盟の目的を達成するために全大学日本魂連盟月報,本会会報の頒布,講演会,研究会,座読研究会,懇親会,活動写真等を開催す。講演会あるいは活動写真会は春秋2回,座読研究会,研究会は毎月一回開催し会報は年一回発行す。
 思想傾向
真に皇室中心主義を奉じ護国の念に燃ゆる同志の集会にして我が国体の闡明,日本魂の培養に努め以て同胞の蒙を啓き且つ自己の修養に資する程度にして反動的に左傾団体に対抗し之を実行に移すが如き思想は毫も認めず。
 組織
会長1 理事3(常任理事1 理事2)
委員7 (会計2,編集3 調査2)
会長は会員総会においてこれを推挙し理事,委員は会員総会においてこれを選挙す 而して理事,委員の任期は各一ヵ年とす会長の任期は別に定めず
 会員の種類会員数
会員は目下本大学生にしてその員数は約三十名
 学校との関係,指導者
学校とは何ら関係を有せざるも会長に本学教授宮原民平を推し外に田中逸平(注3)を指導者と仰ぎあり
 従来の行動
思想研究会,講演会,地方遊説(名古屋地方),討論会,座読会等を開催し目的の遂行に努めたるを見る

      付記
 昭和3年ごろ全日本日本魂連盟は経費その他の関係上解消せしといっても元来同連盟の趣旨と本学教養の精神と合致せるものあり その精神に培われたる本学学生の関する限り単独にてこれを維持することに決しそのまま継続しあるものなり」(SW一六九)。

(6) 報告内容の示唆するもの
 この内容を見る限り,文部省学生部の調査意向に対して,正直に対応しているとも言い切れない。それは例えば「魂の会」を報告対象から外したことに現れている。大学は,文部省の意向に対して,消極的な抵抗をしているように見えると言える。別の団体もあったであろうが,一切触れていない。
 しかも,思想傾向で「反動的に左傾団体に対抗し之を実行に移すが如き思想は毫も認めず」と言い切っているのは興味深い。文部省の無原則に中立者然として左右を相対的に扱うかのように見える管理感覚に対して,公然と無視しているところが看取できないだろうか。
 ただ,こうした団体が学内にあったことは,筆者はこれまで寡聞にして知るところがなかった(注4)。
 「思想穏健」の学生しか居ないと思い,学校紛争など無縁と思っていたら,拓大で5月に同盟休校事件が発生した。【綴り】にはこの記録は一切ない。左傾学生の扇動によるものではなく,名目は愛校心の発露によるとされている。
 大学幹事としての宮原は紛争勃発の責任を取って辞任した。不祥事を起こした過失は自分にあると責めを負ったのであった。先年と同じく『学友会報』(92号。同年6月)に『母校幹事を辞して』という短文で経過と責任の所在を明らかにしている(注5)。


 2節 満洲建国以後の思想問題講演会/7月

 前年に続く第2回と思われる標題の講演会が,7月15日から20日にかけて行われた。連絡は6月8日付発学六七号である。主事補名義で豊田悌助講師が参加した。添付されている要項によれば,聴講対象は先回と同様である。
 主題が確定している講師は肩書き不詳の藤澤親雄で,「現下各国における国民運動の状況」。主催者を代表して,文部省学生部長伊東延吉は,「学生思想問題について」。京都帝国大学教授作田荘一,同じく哲学者田邊元,内務省保安課長三橋孝一郎は演題が未定。
 時間割は,午前8時から正午,途中10分だけ休み。午後は1時から3時までという強行ぶりであった。
 前年は,対象としての共産主義運動とその指導思想であるマルキシズムに焦点を絞っていたが,今年は敵対している相手ではなく,むしろ自分たちの帰属している文化の一体性をどう認識するかに重点が移っている気配がある。
 作田は,後に満洲国新京に創設された建国大学副総長になって渡満したくらいだから,マルクスが否定している近代経済の先に来るものを問題にしていた。但し,先と言っても社会主義・共産主義という必然論による発展段階説ではない。それは,博士論文『自然経済と意志経済』に示されている。
 田邊は,その接近方法には現在から見れば異論が出るだろうが,マルクス学説をどう扱うか,独自の見地から取り組んだ。真偽の程は不明だが,敗戦後はキリスト教とマルクス学説,仏教の統合に思い悩んだとの話もある。善意の人であったようだ(注6)。
 藤澤親雄は,直後の8月23日に勅令で新設された文部省国民精神文化研究所の所員になった(注7)。主題から想像するに,国際主義のコミュニズム運動と対比して,独伊の反共ナチズム,ファシズムの動きを報告したのであろうか。ともあれ,満洲建国の余波が,こうしたところにも来ていたように思われる。
 前年も行った思想問題資料の展観会は,今回は講演会開催に即応して行っている。7月19日付発学九一号で,学生部長名によって各学長宛に出された文書の前文によれば,「本省主催思想問題講習会」になっている。行政側は,本音としては,講演会よりは講習会でありたいと思っていたので,思わずそのように記してしまったのか。
 「記」の趣旨によれば,「本省において作製したる一般左翼運動に関する図表及び学生生徒,小中学校教員等の思想運動に関する図表その他ビラ,ポスター,ニュース,新聞,雑誌,図書」を提示して,「思想上の指導訓育の参考に資する」とある。
 注意事項としてであろう,末尾に,「本展観資料はすべて極秘の取り扱いを要するものなるにつき本展観の内容等に関しては厳に外部に発表せざるよう展観者に注意方ご示達あいなりたし」となっていた。


 3節 思想問題に関する「図書推薦」/5月・8月

(1) マルキシズムに対峙する良書
 5月19日付発学四二号で,次官名により「思想問題に関する図書の推薦及び紹介に関する件」が通牒された。だが,【綴り】には収録されていないので,どのような「良書」が最初に推薦されたのかはわからない(注8)。
 8月5日付発学四二号で,今度は学生部長名によって「思想問題に関する紹介図書通知方の件」が,学長宛に通牒された。今回の通知は,7月に行われた思想問題「講習会」とは無縁ではないと思われる。
 前文には後半に但し書きがついている。学生部の意図が透けて見えるので,全文を引用することにする。「追而右紹介図書にはその内容に程度の差違あるにつき学生生徒又はその指導訓育に当たる者をして適当に利用せしめられたし
 なお内容のマルキシズムに関するものは その利用につき高等学校等においては特にご注意相成りたく」。後段の注意要請は何となく分かる体の示唆であるが,書き手の意図が読み手に伝わったのであろうか。
 5月の発学四二号における推薦図書リストが無いのが惜しい。最初のリストに対して,各方面からその良し悪しについて,広範な論議が生じたのであろう。おそらく,自薦他薦が凄まじかったものと思われる。そこで,8月5日の10冊追加のリスト通知になったのではないか。今次は,最初のそれを補完する意図が強かったと想像されるからだ。
 なぜ,そう言うのか。専門家にとっては既知の名前と著作であろうが,現在でも一応知られている学者は4名しかいない。リスト順に紹介すれば,西田直二郎『日本文化史序説』,西晋一郎『教育と道徳』,川合貞一『マルキシズムの哲学的批判』,辻善之助『日本人の博愛』。
 他の6名による図書は,題名から広義では日本論あるいは日本人論に入る内容である。順を追うと,最初は,吉田熊次『国体と倫理』,吉田静致『道徳の理論と実際』,補永茂助『日本思想の研究』,野村八良『上代文学に現れた日本精神』,笹川種郎『日本文化史』,山口察常『東洋倫理概説』。吉田静致は拓大で修身を担任していた。

(2) 特別高等警察部(特高警察)の設置
 5月と8月の間に,当該分野で画期的な転換が起きた。治安の観点から思想問題に取り組む行政機関が設置されたのである。6月29日付で警視庁に特別高等警察部(特高警察)の設置が,勅令で公布された。以後,当該分野は,特高警察が主導権を握って展開することになった。
 大学も学生も,こと思想問題の取り組みは,この新設の行政機関の動静を抜きには考えられなくなった。文部省にしても同様である。


4章 日本共産党幹部の転向と『非常時と国民の覚悟』/昭和8(33)年

 1節 治安事犯及び処分学生の調査/2月・5月

(1) 治安維持法に抵触する学生の調査
 昭和8年2月3日付照学四号で,文部省は学生部長名により学長に,「治安維持法違反事件関係者の身上調査に関する件」を通牒した。こうした調査が前年に発足した前掲の特高部と関わりがあるかどうかはわからないが,無縁とも見えない。
 前年「一月より十二月にいたる間において治安維持法違反事件に関し起訴せられたる者の中 左記は貴学関係者なる趣に付 別記要項によりご調査の上 2月20日までにご回報あいなりたし 追って関係者の学籍には誤りあるやも計り難きにつきこの点お含みの上然るべくご調査あい煩わしたく」。内容から見るに,人名も提示しているようだが,その記載はない。
 (別記)は,(一)(二)あり,書式について記している。まず,本稿序章で紹介した学生部報告例の要項にあった身上調査表により報告を求められている。
 そこでの注意事項は2項ある。その1は,「目下学籍の有無を問わず検挙当時在籍せる者は之を在学生として取り扱うこと」。その2は,「検挙後退学せる者は退学の理由,又は処分の種類及びその年月日を明記すること」。
 (二)は中退,卒業生については別に調査票を必要とせず,本籍,生年月日,学歴の記載を求めて,退学者については,その理由,又は処分の種類を明らかにすることを求めている。
 世相を反映しているのか,報告は速やかであった。日付は翌日の4日である。該当者が1人いたからだ。昭和2年に予科2部に入学して,授業料滞納と無断欠席を理由に6年9月1日付で除名になった学生である。違反の内容がどういうものであったかの記録はない。

(2) 左傾,右傾の双方の資料を監視し収集対象に
 2月23日付発図一九号で,文部省図書局長は学長宛に,「教科書に関する件」を通牒した(SW/一七〇)。これは文部省が教科書としては不都合と判定した著書の連絡であった。日本文3冊,英独書15冊。オスカー・ワイルドのサロメ他2冊が入っている。軟弱とされたのか,それともエロスの危険を見たのか。
 4月15日付照学八号で,学生部長名により学長宛に「思想問題資料蒐集に関する件」の通牒である。すでにこの種の蒐集は3回目である。収集に基づいて例年に展観会がされているのは前に記した。前年の昭和7年は,5月102日付照学二一号であった。翌日に報告したところを見ると,蒐集作業はしていない向きが覗える。報告文は,「該当資料なし」だったのか,控えは無い。
 文部省の依頼文書の前年と今年の両方を比較すると,時勢が反映されている。蒐集品目の説明文のうち,前年では,(ホ)手記は「左傾学生生徒の日記,感想文」とあるのが,当該年では,「思想事件関係(左傾並びに右傾)」とある。
 (ト)雑誌は,「特に左傾的文章あるもの」となっていたのが,「特に左傾的,又は右傾的記事あるもの」となり,(チ)図書は,「社会科学研究会,読書会等に使用せるもの」とあるのは,「又は右傾的研究会等に於いて使用せる」が加わっている。
 ここに至って教育機関を所掌する文部省では,左右の傾向が同格になったのである。右傾が昇格したのはどのように理解したらいいのか。こうした文部省の態度変更は,語義上の「思想問題」ではなく,左傾とは別に直接行動に走る右傾活動を背後にした,法治に基づく治安上の観点を優先させたところから来ていると考えていい。
 文部省だけの事態認識ではなく,内務省は4月11日に思想対策根本策7項目,翌日は左右両翼の直接取締り8項目を決定した。治安維持法の拡大適用なども決まった。閣議も4月11日付で「思想対策協議委員会」を設置した。官が一体になっていることがわかる。

(3) 処分学生の追跡調査
 5月4日付照学九号で,学生部長から学長宛に「被処分学生生徒の身上並びに爾後状況に関する件」が通牒された。一見すると,2月の照学四号の延長線上に出てきた同趣旨の問い合わせのように思える。だが,同趣旨ではあっても,2月のそれは治安維持法違反であった。個々の大学での処分事例も掌握しておこうとする意図が明瞭で,被せる網を拡大している。
 前文には,「貴学において思想的理由により処分したる学生生徒の身上並びに処分後の状況に関し左記要領により各年度別に取りまとめ来る五月二十日までにご報告あいなりたし」とある。
 書式は,第一表の一は,在籍の部,二は,除籍の部である。調査項目は,処分の回数,処分の種類及び日付,爾後状況として,悔悛の事実,悔悛せざる事実,備考とある。第二表もある。
 書式の記入の仕方についての説明項目は10項に及ぶ。八項は総論で,残り2項は,一表と二表に関する注意である。一表については2細目,二表については4細目ある。最後の項目は,処分者が司法処分と行政処分を受けた場合の大学側の措置についての報告である。
 大学は,翌日の5月5日に「該当のものなし」と報告した模様である。報告の写しはないものの,通牒に教務課の当該分野を分掌している江頭の押印が「なし」の下にされており,「右回答五,五」に大学の割り印が押されている。


 2節 転向声明と瀧川幸辰事件そして「名誉の孤立」/6月〜7月

(1) 左傾を分裂させた転向における国際環境認識
 日本の知的社会がマルキシズムと接したおりは,ごく一部での学問的な関心以上を出ていなかった。しかし,17(大正6)年にソ連で革命が起きて以後,世界革命を追求するコミンテルンの指導によって支部である日本共産党が22(大正11)年に出来てから,事態は激変した。
 その主義は,権力をめぐる切迫した争点になった。革命を信奉する者と,法治に基づき国家顛覆をさせない政府の当事者あるいは反革命派にとって,一時は脳裏に革命前夜の情景が過ぎるまでに影響力をもった。そこから様々な直接行動の計画や実行が起きた。左傾だけでなく左右による国家改造を求める思想と行動である。
 政府側の危機感は,前述の思想対策協議委員設置である。内閣が一元的に全省庁に対し思想管理に取り組むことを制度的に意思表示した。管理の方針は,冒頭に「中正なる思想対策樹立のために」とある。
 度重なる司法の取り組みによって壊滅的な打撃を受けて,多くの党員は獄中にあった。そのうちの有力幹部であった鍋山貞親と佐野学が,獄中から連名で転向声明を発した(注9)。先行していた帝国主義の欧米諸国が,満洲事変,満洲建国など一連の日本の動きを許容しない現実とコミンテルンの対応についての認識を深めた結果である。
 転向した自己総括は『共同被告に告ぐる書』(巻末資料(3)を参照)と言われる(注10)。6月7日であった。ソ連を世界(インターナショナル)革命の担い手としてではなく,多少の留保をつけてはいるものの主権国家として認識している。それは引いては世界革命の前衛としての党ならびにその連合体ではない上部団体としてのコミンテルンへの不信表明になった。
 これを機会に,千人を超える党員が五月雨的に転向した。河上肇は獄中で,転向ではない引退声明を出した。7月6日である。鍋山と佐野の転向声明は,河上にも深刻な踏み絵になったのであろう。
 一方で,文部省の大学への行政介入がもたらした京都大学の瀧川幸辰教授の罷免問題が7月に起きた。事件が表面化すると,帝国大学を中心にして国立大学の学生が各大学構内で抗議集会を開き,文部省を批判する声明を発表した。官立大学の学生にとっては,文部省が介入するのは「自治」の干犯であった。
 いわゆる大学自治の認識が当事者である文部省,大学教授会,学生間で共有されなくなっていた。大学や文部省を国家権力の抑圧機構と見る習性は,マルキシズムの浸透から学生間で常識化していた。
 革命運動への治安上の懸念を持つ文部省側に比して,教授会の大多数や学生間には,多分,その観点は希薄だったと思われる。そうした文化的な遅滞と言えるズレた意識にあったところでの大学の管理を巡る双方の対立に,少数の革命確信派の動きは,火に油を注ぐような多大の相乗効果をもったと思われる(注11)。

(2) 「名誉の孤立」は『非常時と国民の覚悟』
 そうした最中の7月8日に,司法省は,思想判事を全国に配置する方針を決定した。同日,文部省は,外務,陸軍,海軍各省と共同編集して小冊子『非常時と国民の覚悟』を刊行し,学校や関係団体に配布した。旧態を遵守する大学人や学生の大半にとっては,神経を逆撫でされた思いがしたであろう。
 表紙の日付は6月とあり,刊行元は社会教育局,18頁しかない。表紙を開くと,冒頭は国際連盟脱退についての3月27日付の詔書である。脱退がいかに要路に衝撃を与えていたかを物語っている。本文の10項にある「名誉の孤立と国防」には,列強との関係での日本の国際環境の悪化が確実に認識されている。だからといって,外交上の打開についての建策は見受けられない。
 内閣も事態の認識と対策で覚悟のほどを見せなくてはならない。3ヶ月前に設置された思想対策協議委員は,7月14日に,「教育・宗教に関する具体的方策」を閣議報告した。3項目が記されている。その1は,「国民中動もすれば不穏思想に惑わされんとする者あるに鑑み日本精神を開明し之をあらゆる社会層に普及せしめ以て国民精神の作興に努むる思想善導方策なり」。見事に観念的に事態を把握している。
 文部省は,大学など高等教育機関を対象としての思想問題の取り組みだけでは不十分と考えた。『非常時と国民の覚悟』の題名にあるように,「国民の覚悟」を徹底しなくてはならない。
 10月30日に,山梨,高知の両県で,文部省の指導になる思想問題研究会を設置した。その後,続いて各県に設置していった。地方教員への啓蒙というか思想探索の側面もある。当時の表現では,「講習」,次いで「練成」へと展開していった。

(3) 三度目の思想問題講演会
 国家中枢は騒然とした中での思想問題講演会であった。昭和8年度は前年と同じく7月に5日間行われたものの,例年行事になったとは言えなかった。連絡は 6月26日付発学一四六号である。開催場所は東京帝国大学から一橋講堂に変わった。東京帝国大学構内での会場では,左傾学生に同調する学生たちによって不測の事態がありうる,と主催者側が考えたのかもしれない。
 講師は,行政関係では,内務省事務官中村敬之進,司法関係者では東京地裁検事金澤次郎が加わっている。実施に当たっては,金澤に代わり検事市原分になった。学界からは,前年8月の推薦図書の著者の1人である西晋一郎が登場した。さらに東京帝国大学におけるシナ哲学の権威である宇野哲人,国民精神文化研究所員山本勝市である。山本は理論経済学者と同一人物と思われる。もしそうなら,前年に講師を務めた高田保馬の紹介かもしれない。
 拓大は横着というか飽きたのか,この年には「出席者なし 回答七・三」と通牒の中央上部に記して,割り印を押印している。官製というお仕着せに愚直に適応することを止めたのか。


 3節 閣議報告された思想取締方策の具体案/8月〜9月

(1) 日本精神を開明して不穏思想に対処する策
 国家中枢が思想的にいかに追い詰められているかを知るには,8月15日に閣議に報告された「思想善導方策の具体案」を一覧すればいい。
 前掲の一ヶ月前の報告「教育・宗教に関する具体的方策」を下敷きにして,具体案を二つ掲げている。その1は,「(一)国家的指導原理たる日本精神を開明し之を普及徹底せしむること」。その2は,「(二)不穏思想を究明してその是正を図ること」。
 この段階では,まだ「思想善導」の側面が強い。しかし,一ヵ月後の9月15日に閣議決定された「思想取締方策具体案」は,善導という表現を生ぬるいものとして,積極策を示している。
 前文には,「思想対策の一としての思想取締方策は最近における不穏思想運動の情勢に鑑み(中略),取締りを強化して(略)予防鎮圧を完からしむるに在り」と,その意志を明確に示している。明らかに段階が次に上った観がある。
 以後の文部省の学校に通牒する諸案は,この方策を下敷きにしたところから生み出された。その成果がどの程度のものであったかは,いずれ事実で明らかにされた。

(2) (右傾)修養団体,研究団体の調査/11月
 11月16日付照学一六号で,学生部長名により学長宛に「学生生徒の修養団体,研究団体に関する件」が通牒された(SW一七一)。前掲(3章1節(2))の昭和7年3月の照学一三号で照会した「国家的立場を標榜する団体」として報告されたものは,「今回重ねて回答に及ばず」と,(注意)事項として記してある。
 その前段にある本文の冒頭は,「貴学(校)学生(生徒)にして自ら修養し研究して精神の鍛錬,人格の練磨,識見の涵養等に努めることを目的とする穏健中正なる修養団体,研究団体これあらば」,別紙書式に従って記入し報告されたい,となっている。これも時勢か,前年は「国家的立場を標榜」となっていたのが,そうした標榜は「穏健中正なる」に前進したのか。
 書式は,第一様式と第二様式がある。
 第一様式は,趣味,芸術等の目的とする団体で,調査項目は,団体の名称,創立年月日,主義目的,主なる事業,組織,会員の種類及びその数,指導監督者,学校当局の指導方針,その他参考となる事項。第二様式は,項目は同じだが,照学一三号照会以後に新たに成立したものを記すようになっている。
 拓大の回答は4日後の11月20日付であった(同上一七二)。
 2項ある。その1は,「昭和七年三月一八日付照学一三号ご照会により報告おきし全日本日本魂連盟拓殖大学日本魂会は目下解消しあり」。他方は,「昭和七年三月一八日付照学一三号ご照会に基づき報告後新たに成立したる団体その他趣味芸術等を目的とする団体なし」。木で鼻を括る応接である。
 控えと思われるが,大学のB4用箋の右側半分にタイプしてある。しかし,学生部は,そうした拓大の対応を他所に,特高情報を仕入れて,3団体が記載されている(注12)。
 同要項には,「国家主義的にある学生団体中には拓大魂の会(大正十一年十一月創立)早大潮の会(十一年十二月創立)帝大七生社(十四年二月創立)等ありて国家改造理論の研究をなし居りたるものありたることは注意すべきなり」(前掲283頁)とある。


5章 文部省学生部を改組し思想局に/昭和9(34)年

 1節 右傾調査が求められた背景

(1) 突出か? 救国埼玉青年挺身隊事件
 前節で触れた昭和8年11月16日付照学一六号は,あらかじめ準備されていたものであろう。ただ,その直前の11月13日に救国埼玉挺身隊,または救国埼玉青年挺身隊と呼称された集団が意図していた治安事犯が発覚し,検挙された。主犯と隊員には拓大出身者3名が含まれていた。しかし,報道管制がされていたところから,次の年に裁判が始まるまで世間は知らなかった。
 事件のあらましは,主犯になった出身者吉田豊隆(学部29期)を通して『拓殖大学百年・小史』(2000年初版。133〜135頁)に記されているので繰り返さない。左傾の希求した革命を意図する方式より,革正を求めて指導層の交代を意図し,その後には宮城前で自決する覚悟であった。
 発覚した日の4日前に,2年前に起きた5・15事件の被告のうちで海軍側の判決が下った。判決と発覚の関係があったのかどうかは不明である。だが,関係者の周辺には,無言の圧力になったものと推察される。
 発覚時に報道が伏せられた背景を理解しないと当時の状況は見えて来ない。また,事件参加者の気持ちも多少とはいえ追体験を試みようがない。これは,その行為の意図に対して,肯定する否定するとは関係はない。予審終了直後の9年3月31日に報道解禁されたことによって,世情は驚きの反応があったらしい。だが,驚きの内容と程度が問題である。突出とか例外とは言えない理解が,当事者にも特高にもあったと思われる。
 右傾の側から状況を見れば,前章で扱ったその年の日共党員の大量「転向」 という事態も,京大の瀧川事件に始まる官立大学における抗議活動も,おそらく体制自体が行き詰っていたにもかかわらず,いまだに強固だとの判断はなかったか。
 さらに,事態の転換には直接行動しかないと思いつめた精神状況になっていたのは検挙された者たちだけではないことを,取り締まる側も察知していたのではないか。自決を前提にした行為者は,主犯吉田や従犯の学生と同じく,在学生間に潜在していたのである。

(2) 治安事件頻発の背景
 昭和4年の統帥権干犯問題以来,現体制に対する不満は浸透した。さらに日本の国際的な孤立も,全て体制運営をする勢力の優柔不断から来ているとの判断は,右傾派の共有している状況認識であった。突出の最初の組織的な事件は,昭和6年9月の満洲事変における国軍の統帥権干犯による不正規活動に始まり,翌年2月から連続した血盟団事件,次いで5月の5・15事件であった。共に拓大関係者と出身者が関係していた。
 特に拓大にあっては,満洲事変以来,多くの出身者が満洲の地で建国前後に斃れていた。それは,国難打開の人柱として受け止められていた。文部省から見れば右傾であろうが,その世界資本主義理解では表層的に左傾と共有する部分があった。当事者の世界認識の根幹には,目的意識としての興亜・復興亜細亜があった(注13)。
 こうした特異な学風が在学生や若い卒業生の行動に深甚な影響を与えていたのは,多くの記録に明らかにされている。それは例えば(5)項で後述する吉田の行動軌跡にも,実に端的に表示されている。大学はその意味するものを率直に記録している。
 こういう状況認識は,例えば瀧川事件への官立学生の抗議行動の背景にあった認識とは距離があったものと思われる。左傾の状況認識は,国外に関しては理論的であっても,アジアに在る日本人としての実感の側面では,拓大の在学生と較べると,それほど切実ではなかったと思われる。

(3) 学生部編『国家主義的立場を標榜する学生団体』/2月
 標題の文献は(秘)扱いである。学生部としては,これまでの調査と収集に基づいた初めての系統だった当該分野の資料集であった。但し,大学と高専における現存する団体名と学外団体を羅列しただけで,団体の生じた由来なり背景なりは記述されてはいない。112頁に及んでいる。
 2月11日現在での「国家主義的立場を標榜せりと認めらるるもの及び学生生徒の参加せる学外団体の主なるものを蒐録せり」と凡例にある。凡例の二項に,「学校当局者の参考資料に供するの目的をもって作製したり」と記されているように,学校当局者への情報提供を意図していた。
 4月10日付発学一三一号で,学生部長名により学長宛に,「左記印刷物一部思想上の指導訓育の参考資料として送付に及び候條ご収納相成りたく
 追ってその内容は秘の取り扱い致さるるよう致したし
      記
 国家主義的立場を標榜する団体(昭和九年二月)」。
 前掲のように,拓大は3団体が記載されている。まず,魂の会。会員数,約二十名。指導監督者は,「教授安岡正篤 教授宮原民平 助教授柳瀬薫」とある。その記載内容を3章1節(3)の草案と比べると近似している。大学は報告していたかもしれない。
 次に,国防研究会。創立日は昭和7年9月30日。会員数は約二十六名。指導監督者は,教授満川龜太郎。3番目は,亜細亜研究会。創立日は昭和9年2月1日。会員数は三三名。指導監督者は,教授永瀬ママ(雄の誤植)策郎,助教授柳瀬薫。
 2月1日に結成された亜細亜研究会が印刷されている不思議さは,どう解釈したらいいのか。しかも,会員数に「約」という表現が用いられていない(同書45〜47頁。『集成』22巻に収録)。
 拓大について記載されている内容を見ると,特高の調査が収録されているところからか,東京愛国学生連盟と救国学生連盟には拓大生も参加していると記されている(同97頁,106頁)。いずれの団体も,大学側は文部省に報告した気配はないからだ。同書の作成には内務と文部両省の行政機関同士による情報交流を覗わせている。

(4) 救国埼玉挺身隊事件に関する大学の文部省宛報告/4月
 従犯2名の報告内容
 文部省学生部長よりの上記の事件についての照会に基づき,昭和9年4月6日付で,学生主事の職名による報告がされている。ただし,文部省からの照会文書がないので,何時求められたのかは不明である。期日は報告の日付から遡って3月中だろうか。そこで,照会の事項も不明で報告文の項目から推察するしかない。
 報告の前文には,「ご照会に基づき救国埼玉挺身隊の不穏計画に関係せる元当学学生三名の身上調査別紙の通り及報告候」とある。
 裁判になり判決があり,下獄し釈放されたものの,ここでは吉田以外は姓のイニシャルだけにする。報告内容を引用するのは,学校側が学生および卒業生の動静情報を,行政側の求めに応じてどのように伝達していたのか,その目に見えない「努力」の跡を推察する機会を提供したいからである。さらに,学校側が文部省宛の情報提供が特高に流れる可能性はあることを知らないはずはないからだ。
 報告文から見ると,報告事項は,原籍,生年月日,家庭の情況,思想傾向,学歴,学業成績,行動,学校側の処分,となっている。
 Sの事例では,家庭の情況,「父母は健在にして(中略)生活程度家庭内部の詳細なる事情等は不明」。思想傾向,「主義として認むべきものなしといえども本人は元来豪放にして親分肌の気分あり何れかと言えば愛国的の思想を有せしがごとし」。学歴,「昭和九年二月二十日出席不良且つ授業料滞納にて除名」。
 行動,「昭和七年九月十五日皇国芳流会(創立当時本学学生にして現在の卒業生石山正夫の発起により大亜細亜主義を標榜建国の理想に躍進し民族自活の血路を求めんとする趣旨のものにして思想は左右両極端を排し中正を辿るもの)の創立せらるるや之が会員となり現在なお該会に関係を続けるがごとし」。
 学校側の処分,「昭和九年二月二十日除籍のものに付今回の事件に関しては何ら処分をなさず」。
 Oの事例では,家族の情況,不明。思想傾向は,「主義として認むべきなしといえども在学中の言動に徴するときは愛国的思想を有せしがごとし」。行動,「昭和七年九月十五日皇国芳流会(S行動の欄参照)の創立せらるるやその会員となり爾後同会一員として活動を続け現在なお同会の趣旨貫徹に努力しあるがごとし」。学校側の処分,「卒業生に付今回の事件に関しては何ら関係せず」。

 主犯吉田豊隆に関する報告
 主犯になった吉田の思想傾向は,「皇室中心主義を奉じ国体の擁護と救国の念に燃え右傾的思想を有せしが如し」。学業成績は,「予科修了時の成績は優秀にして四十六名中の第一位」,学部時代に落ちているのは,右傾運動へののめり込みによる学業放棄か。
 行動は,「昭和七年四月頃救国学生同盟(昭和六年夏期休暇の際満蒙旅行団を組織し満蒙視察に上りし諸大学の学生が帰来後同年十二月頃満蒙研究連盟を組織せしに始まり昭和七年四月頃同連盟を改称せしもの)の成立せるや 主なる会員として活動し 昭和七年九月十五日皇国芳流会(前掲S行動の欄参照)の創立に際しても会員となり指導的立場にあるが如し 尚聞くところによれば在学中京王電車沿線神代村に神代塾なるものを開き同地の青年子女に精神的方面の修養をなさしめつつありしと言う(注14)」。
 学校側の処分は,「卒業生に付今回の事件に関しては何ら関係せず」。
 直接行動に移る直前の検挙に関わらず,所属していた団体の拓大側による説明が,「左右両極端を排し中正を辿る」としている。こうした記述は,どのような存念から来ているのか,賢明なかなりの推理を必要とする(注15)。


 2節 『日本改造運動』上下巻/3月・7月

(1) 題名の付け方
 3月に『日本改造運動』上巻が学生部から刊行されて,下巻は拡大新設の思想局から7月に刊行されている(注16)。共に(秘)指定である。現在から見ると,時勢の慌しさを覗わせているように思える。大学にも送付されたのであろうが,受領書の控えは保存されていない。
 1節(2)で追ったように,当該分野に関して学生部として包括的な認識の必要性を痛感したところから作業に着手した成果であった。学生「部」では事態に対応しきれずと判断したのか,次節に明らかにするように思想「局」に格上げする作業の最中でもあった。
 題名に苦心のほどが見える。北一輝の『日本改造法案大綱』に留意したのか,「日本改造」と銘打っているからである。当時の総合月刊誌に『改造』というのがある。左傾革命に対峙して「改造」としたのか。扉には,囲みで「本輯は思想問題に関し学生生徒の指導監督の任にある者その他教育関係者の執務上の参考に資する目的をもって編纂したるものなり」とある。

(2) 上巻の内容
 上巻は,131頁あり,2編に分かれ,第一編は「日本改造運動の沿革」,第二編は「現存主要日本改造団体」の列記である。由来と現状の概況を読者に示そうとしている。しかし,おそらく情報の出所の大部分は内務省であろう。それは,事態認識を記した「はしがき」の内容に仄見えるからだ。
 同文に言う。「今日の日本改造運動は,これを沿革的に見れば,世界大戦後,主としてデモクラシー思想の横溢並びに社会主義運動の台頭に刺激されて起こり,昭和五年のロンドン海軍条約の締結及び昭和六年三月の全日本愛国者共同闘争(略称日協)の成立に及んで,その運動目標を一変して国内改造の要求を明らかにし以て現在に至っている。
 故に本調査においては,大正七,八年の頃より日協の成立までを第一編とし,その間に活動した国家主義団体の成立経過,主義綱領,活動の一斑を叙述し以て運動全般の推移の跡を示すこととした。
 次に,第二編として現存の主要日本改造団体に就きその成立経過,創立年月日,機関紙(誌),本部所在地,主要人物,宣言綱領等を列記し以て各団体の概要を知るの便とした。(以上,原文は改行なし。引用者)
 なお,日本改造運動のもつ思想的根拠については別冊に収める積りである」。

(3) 下巻は「その思想的根拠」を解明
 下巻は189頁あり,副題は「その思想的根拠」となっている。3篇に分かれ,「第一編 日本主義」,「第二編 国家社会主義」,「第三編 農本自治主義」 である。同じく「はしがき」に内容の骨子が簡潔に記されているので,全文を紹介する。
 「本書は日本改造運動のもつ思想的根拠について検討叙説したものであって,曩に編纂したる『日本改造運動上』に対するものである。
 今日の日本改造運動の思想的立場は複雑多岐であるが,大体その主義主張の特異性にしたがってこれを分かつならば,日本主義を標榜し,それに準拠して政治・経済・文化百般の現状を批判・改造せんとするものと,国家社会主義を標榜して,国家主義に立脚し国家的権力の統制の下に一国社会主義を実行せんとするものと,農本自治主義を標榜して,農は国家存立の大本であり,自治は人間本然の姿なるが故に日本国家の改造はここに指標を求めるべきであるとするもの,との三系統に分類することができる。
 勿論一々の国家改造団体の主張を詳細に検討すれば,日本主義を標榜するものにも国家社会主義的乃至は農本主義的主張を含み,国家社会主義を唱導するものにも日本主義の主張と相通ずるものが見られるのであって,三者の間には主張の内容において相互交錯し裁然と分かち難きものあるは勿論である。(原文,改行なし。引用者)
 従って本書においてはこれら三つの改造運動の思想的根拠を夫々検討叙説することとした」。
 こうした概括書の内容の総括は,それだけで一つの独立した論稿が求められるが,その余裕はない。上巻で言うなら,冒頭の第一章が「反デモクラシー運動」として,大正デモクラシーの蔓延に対抗する運動として現れたとする。黒龍会と浪人会を挙げる。浪人会の命名は東大新人会への対抗であったとの説もある。
 第二章は,「反社会主義運動」としている。第一は,「国粋的国家主義団体」,第二は,「国内改造的国家主義団体」。二つの傾向に分けている。
 第三章は,「国内改造運動への転換」である。そこで,「はしがき」に紹介した日協を挙げている。大同団結による改造運動への展開を重視している。従来の左傾への「反」だけの動きとしか評価しなかったのに比して,新しい動きになったとしている。日協の指導者は大川周明である。
 上巻に出て来る拓大関係者は,教職員では大川周明,満川龜太郎,安岡正篤,長野朗,片岡気介(京大猶興学会),出身者では平野力三(学部18期。後に衆議院議員),狩野敏(学21期。元理事長),雪竹栄(学27期。満鉄東亜経済調査局で中国共産党研究),西郷隆秀(学27期。元理事長),川俣孔義(学28期),吉元俊熊(同上),平田九郎(同上)など。平野,西郷を除くと,魂の会の面々である。

(4) 日本改造の思想的な根拠を明らかにする方法
 下巻の第一編の日本主義では,同じく大川周明の著作からの引用が多い。第二編にはいない。第三編の農本自治主義では,長野朗の著作からの引用が散見する(注17)。安岡の著作は,なぜか一つも出てこない(注18)。
 この資料の編集の仕方や接近方法及び執筆者についての記録は無い。本書に見られる主題の事態や現象に一歩距離をおいたいわゆる科学的な接近は,その後も継続したのか。継続したら,それなりに一応は科学的な方法を持していたといえるのであろう。それとも刊行元にはいないで,他省の例えば特高部にいたのか。
 ともあれ,書き手の態度には,日本改造は革命という動への反動現象であるかを示唆しているようにも読める。欧化・開化教育を素直に受けた者が,日本やアジアに立脚した新潮流に対して思想的に虚心に取り組まないで執筆したのであろうか。
 こうした解釈が思想史的に鳥瞰すればすでに偏向している。本来は,官権としての明治藩閥政府への民権による対峙として台頭した遠因を尋ねなければならないはずである。欧化官僚の知性による問題接近の限界がある。
 しかも,欧化の延長線上にマルキシズムが登場したと見ていたのが,大正維新を言い出した日本改造派の主張でもあった。そこを正確に見るよりは,革命への反動という側面への傾斜は問題を孕んでいた(注19)。なぜなら,そうした見方そのものが,次章で触れる翌年に起きた国体明徴問題によって,一挙に吹き飛んでしまったからである。
 こうした見方では状況に即応できなくなってしまった。文部行政が一定の観点から距離をおいて見ていた現象そのものに,今度は慌ててかしっかりと飛び込んでいくことになった。それが時勢に流されてのものか,それとも意志的なものか,当事者からの明らかな弁明や自己総括はない。
 こうした調査研究の半面で,1月から5月にかけての期間における発禁図書を見ると,圧倒的に左傾が多い。
 一方で大川が会頭をしていた神武会法務部『司法権と国民の疑惑』(4月刊),狩野敏『神武会第2回代表者会議報告書』(5月刊)も発禁指定されている(注20)。官憲からは,日協や中核としての神武会は,国家改造への直接行動を取ろうとしている要注意の団体と判断されている。左傾と右傾は,ここで治安上では同格になったのが明らかになっている。


 3節 文部省学生部から思想局への昇格改組/6月

(1) 行政機構に思想を名称に用いた機関が発足
 勅令で組織が拡大昇格するのは,近代日本における行政の常套手段でもあった。局への昇格は,内務省が先行した特高部よりも格上げという解釈もできる。学生「部」では内務省の風下に立つのを余儀なくされる。これで,教育行政での「思想管理」体制は整ったのであろうか。
 行政上の態勢として一応は整ったようである。それは,同日に鹿児島県に国民精神講習所を設置して,続いて各県に設置していったからだ。前年の10月に前哨として山梨と高知県に設置した思想問題研究会が原型となって,それが講習所にまで昇格強化されたからだ。
 その通牒は収録されていない。6月4日付発思二号,思想局長名による学長宛の印刷物送付状がある。受け取りを思想局思想課宛に送るように指示している。ついに教育行政機関である文部省に思想局ができ,その下部機関には思想課と名づけられた機関までできたのである。
 思想を課として取り扱うあるいは管理しようとする文部官僚の感性が問題であろう。彼らは,そういう名称を局や課に付すことに違和感は無かったのであろうか。こうした行政行為は緊急避難としての前進であるか,それとも治安を所掌している内務省の警察官僚の取り締まりを優先する見地に,不本意ながら巻き込まれてしまったのか。それとも対峙しようというつもりもあったのか。
 ただ,そうした名付けを知性の劣化による衰弱現象と見るか,居直りと見るか,あるいは切羽詰まっての余裕の無さに発しているのか,どう受け止めたらいいのであろう。すでに宮原の「思想善導」(九部資料(1)に全文収録)は,そうした動きのもつ軽薄さをすでに大正時代に予見していた。後世の一人である筆者の評価や問題点の指摘は後出の八部で触れることにしたい。

(2) 思想局発足後の最初の思想問題講演会開催/7月
 同月27日付照思四号で次官名による学長宛の,恒例になった「思想問題講演会開催の件」が通牒された。出席者は思想局長宛に通知されたいとの但し書きである。会期は7月14日から19日,会場は本省会議室であった。この文書では,まだ聴講対象は例年と同じである。
 講師名は,学生部長から自動的に昇格した思想局長伊東延吉。文部事務官兼督学官岡田恒輔。東京区検事局検事木内曽益。東京大学名誉教授吉田熊次。京都大学教授和辻哲郎。ただし,時間割と演題は未定であった。
 拓大は7月2日付で局長宛に学生主事 教授 山口虎雄の出席を回答した。
 7月9日付で,上記講演会についての決定事項を大学等に連絡した。この追加通牒によって,件名から聴講対象の拡大がわかる。「学生主事,生徒主事及び教授に対する思想問題講演会開催に関する件」となっている。参加対象が学内の「思想管理」関係者に特定している。
 演題が決まった。列記順によると,岡田は「教育関係における思想運動最近の状況 附思想問題発生の原因及び思想指導の対策」。新たに,海軍省から大佐武富邦茂が「帝国海軍の伝統精神と太平洋諸勢力の動向」。検事木内は「最近の右翼運動について」。吉田は「教育勅語煥発以前における修身教授の変遷」。和辻は「絶対他者の倫理学」。思想局長は,単に「思想問題について」。
 軍事と右翼情報については,時勢を反映して直截である。右傾が右翼に変わっている。思想問題が国際政治と関連し,右傾という微温的な扱いを越えていることを示唆している。
 文部省名による24頁の活版印刷の小冊子「思想問題講演会要項並びに出席者氏名」が配布された。講演を記録するための空白の取り方から当日に配布されたようだ。新設の思想局の意気込みというか示威を覗える。


 4節 社会風紀の管理開始/6月〜9月

(1) 警察が学生の生活にまで介入
 時勢は住みにくい環境に移行しつつあった。小人閑居して不善を成すと言われているからではないが,そうした認識に基づく通牒が発せられている。社会教育局長が学長宛に,6月12日付照社一八号で,「学生生徒娯楽に関する件」を求めている。別紙調査事項によれば,5項目に分かれ,総細目数は13に及んでいる。
 こうした瑣末調査に対しての拓大の報告は興味深い。いかにも素っ気ないからだ。約2週間後の6月30日付で,「(前略)娯楽団隊ママ当学にはこれ無く候(後略)」。
 しかし,こうした調査は,2ヵ月にもならないうちに,次への段階に移行していく。警視総監名により,8月22日付保第二一七七号で,文部省の頭越しに直接に学校に,「学生生徒の風紀取締りに関する件」が通牒された。
 この通牒は冒頭から恫喝している。「近時都下風紀取締りの実情に徴すれば学生生徒にして特殊飲食店(カフェーバー喫茶店の類にして女給が客席に待して接待をなすもの)或いは舞踏場等に出入りするもの極めて多く その結果動もすれば学生の本分を閑却し不良徒輩と交遊を結ぶに至り 或いは放縦淫逸に流れ頽廃無節操の弊風に感染し(中略)」
 「本件に関しては第一義的には学校当局において指導監督あいなるべき事業と認められ候」。そこで学校が取締りを徹底して指導の実を挙げれば,「当庁において積極的取締りを為すの必要これ無きよう思料せられ候」(下略)。警察官の仕事が減ると言っている。
 翌日の23日付第二一七七号で,警視総監名によって文部省専門学務局長宛に,同じ主題名で通牒した。「管下(東京)各専門学校校長(学長)宛照会致しおき候については本件実施上貴局におけるご意見拝承致したく候」。括弧して至急返事を寄越せと強要している。
 勘ぐれば,警視庁と文部省が談合して,各学校に送ったと考えられる。学校を囲い込むためにしたのでは,とも思える。しかし,この可能性は薄いようである。上記の文面から見て警視庁の先行のようだ。
 学生生徒の特殊飲食店出入りが「極めて多く」 などという形容は,特高による思想上を建前とした治安の取り締まりの半面からすれば,どちらが現実を映し妥当なのか,どのように理解しているのかと,聞き質したくなる。硬軟いずれも現にあった現象なのであろう。

(2) 警視総監への回答を文部次官名で行う
 革命を希求して禁欲的に運動に挺身している学生生徒が多いのか,前衛は少なくても影響下にある学生生徒が多いのか,それとも「放縦淫逸に流れ頽廃無節操の弊風に感染し」ている学生生徒の方が多いのか。これまで特高警察として思想問題に取り組んできた行政上の視座を前提において考えると,明らかに論旨が支離滅裂である。それとも分極化が進んでいたのか。
 文部次官は9月21日付官専二六八号(甲号)で,警視総監に 「学生生徒の風紀取締りに関する件」で回答した。至急の回答要請からすると,1ヵ月弱かかっている。掛かった時間と回答が局長ではなく次官によるので,省議を経たことが判明する。回答文書の作成には,省内で紛糾があったと想像される。
 回答の内容は警察への全面的な屈服であった。しかも,責任回避して弁解している始末である。学内はともかく 学外での学生生徒の動静は,「家庭及び一般の協力を必要とする」ので,文部省の所掌では限界がある,と読める。そこで,警視庁の「ご協力を得ることについては素より異存無く」と,丸投げをしてしまい責任の分散を図っている。
 次官名により学校長宛に乙号で,甲号を添付して送った。乙号でも,「校外における生活に亘りてこれを徹底せしむるは家庭及び社会の協力に俟つものすくなからざる儀にあり」と,間接的に所掌以外の領域にあることを確認している始末である。では新たに設置された社会教育局は,一体これまで何のために存在していたのか。


 5節 社会の基盤である家庭を対象にする講習会/10月〜11月

 社会教育局長名によって,9月21日付発社一〇九号で,「家庭教育指導者講習会」を開催することになった。同文書は,講習員として適当な者を受講させるようにと,各学校に照会してきた。経緯を追っていくと,警視庁から専門学務局が脅されて,次官名による屈服回答をしたためにアリバイ作りとして急遽計画されたと看做しても,あながち間違ってはいないだろう。
 照会文に対して拓大は,「別に講習生を派遣せず」と筆書きで書き残している。添付されている要項としての案内状を読むと,大局的な方針を覗うことはできない。いかに泥縄であるかがわかる体のものである。開設地は,長崎は10月と奈良が11月で,各々5日間である。参加をそそるために,観光地を選んでいる。
 主催者である文部省の提出した研究課題は,「国民教育の壇場たる家庭における情操教育を徹底せしむる具体的方法如何」。受講者は社会教育関係者に始まり幼稚園託児所保母,大学高校長の選定した者と広範囲である。
 文部大臣の告示が最初で,個々の演題は,長崎の場合,例を挙げると,鹿子木員信が「家庭と日本精神」。特別講座には,曹洞宗住職による「家庭栄養料理実習」がある。おそらく禅宗の懐石料理を意図したのであろう。奈良の場合,大谷大学の元教授が,「家庭と信仰」。特別講座には,「大和を中心とする美術」 がある。
 従来,この種の講習会の通知書は謄写刷りであったが,前掲の思想問題講演会と同じく活版印刷である。局昇格による予算が豊かなのか,それとも主題に力点を置いていると省内外への示威のつもりなのか。
 すべての演題を列記したいが,そうした作業はあまり意味が無い。個々の演題には多少はおもしろいものもある。だが,多くの演題を結びつける枠組みというか発想が明らかになっていない。思いつくままにセット作りをしたこと,つまり舞台裏がすぐにわかる体のものである。こうした振る舞いは「思想管理」の実際と無縁ではない。
 講習会に参加した受講生は,文相名による講習員の資格を付与されたのであろうか。文部ではない文教行政上の見地に立つと,警視庁が文部省に追い込みを仕掛けてきた真意が,文部省の回路を経ると,およそ次元の違う反応として現出化したところに,むしろ問題の深刻さが露呈している。同時にそれは,思想局設置の背景の底の浅さも露呈したことになったと見える。拓大が無視したのは一つの見識であろう。
 社会教育局が学生生徒の帰属先である家庭を問題にしたのは当然だが,一方の思想局は思想上の理由で放校処分にした学生の追跡調査に関心を寄せていた。局長名で10月22日付照思一九号において,前掲の件について再度問い合わせている(SW一七三)。9月28日付同号では,照会しても反応がないので再度の問い合わせとなった。再照会の文書は保有されていない。大学は10月23日付で局長宛に該当者は1名もいないと,平然と報告している(同上一七四)。



(注)

1.当該分野では,官学では東京帝国大学日の会,京都大猶興学会,北大烽の会,私学では,慶応大学光の会,早稲田大学潮の会などが存在した。同会については,大塚健洋「拓殖大学『魂の会』について」を参照。『拓殖大学百年史研究』1,2合併号。
 当事者の同時代記録である,満川龜太郎『三国干渉以後』の当該部分を参照。263〜268頁。平凡社。昭和10年。
2.(秘)学生部編『国家主義的立場を標榜する学生団体』(昭和9年2月)によれば,拓殖大学は3団体が紹介されている。魂の会についての記載は,大学側の素案そのものである。但し,指導監督者は,安岡,宮原,柳瀬しか記載されていない。45頁。『集成』22巻に収録。
3.拓殖大学の前身である台湾協会学校一期生で,後に日本では二番目のムスリムになり,マッカに2度巡礼した。2度目の巡礼の際は,キング・ファイサルが百人以上のシェーク(族長)とともに引見した。
 編纂室は,収拾できた範囲の発表済みの諸稿を五巻にまとめて著作集を刊行した。
4.学生部編の前掲書には,日本魂会の記載はない。有名無実であるところから省略したのか。しかし,実在していたのは,『学友会報』86号に掲載されている難波生という筆名による「青天寮だより」の冒頭である。それには「拓大日本魂会の青天寮としてでなく,志を同じふする拓大生の集まりとして」と記述されている。昭和6(1931)年6月。
 この寄稿文によると,日本魂会寮の発足は,昭和3(1928)年10月19日である。編纂室編『拓殖大学寄宿舎・学寮・私塾等の回顧と資料』に再録。72〜73頁。平成16年刊。
5.前掲『6代学監 宮原民平』524〜525頁。
6.転向現象への包括的な研究として著名な,思想の科学研究会編『共同研究・転向』上中下3巻は,公式左翼全盛の頃の当時にあっては,問題意識の画期性として名高い。平凡社。改訂版。
 田邊元は,中巻6節に,後藤宏行「総力戦の哲学」で取り上げられている。しかし,大東亜戦争開始前から4年半にわたり,田辺が一切の沈黙を守ったとの下りは,彼なりの意思表示であったとみなすべきであろう。283頁。
7.同研究所の創設趣旨の1節には,「我が国体・国民精神の原理を闡明し,国民文化を称揚し,外来思想を批判し,マルクシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする」 とある。文部省編『学制八十年史』より孫引き。248頁。昭和29年。
 また,昭和9年11月に刊行された『思想局要項』の附録にある「第一 国民精神文化研究所概況」によれば,研究部について,研究精神の欄には,以下のような言説がある。「皇道の闡明」,「忠誠奉公の精神をもって研究に従うべし」,「肇国の精神に則り皇国日新の原理を究明すべし」。369頁。
 思想上で問題があり学校を放校になった学生を,本人の希望により「研究生指導科」 において1年間にわたり思想 「善導」もしていた。「成績」のいい者は復学でき,あるいは再入学できた。374〜375頁。
 個人的な関心ながら,こうした善導を受けた研究生が敗戦後にどのような軌跡を辿ったのか興味が湧くところである。それは,本稿の七部で取り上げ,九部・巻末資料(1)で全文を紹介する宮原民平の短文『思想善導』の視座から考えるからだ。
8.昭和8年3月に刊行された学生部編 『思想問題に関する良書選奨』では,冒頭に7冊の推薦書と,45冊の紹介が収録されている。おそらく,最初の推薦は,この7冊であろう。重要なので紹介する。安岡の『日本精神の研究』,『東洋倫理概論』,紀平正美『行の哲学』,『日本精神』,西晋一郎『実践哲学概論』,高田保馬『労働価値説の吟味』,小泉信三『経済原論』である。  因みに,この推薦,紹介の要約書は,昭和11年になると題名が「思想指導」に変る。「問題」から「指導」への展開の意味するものを軽視してはならないと思う。
9.この声明については,前掲『共同研究・転向』上巻で,高畠通敏が「第四節 一国社会主義――佐野学・鍋山貞親」で取り上げている。本稿は,高畠の接近内容の限界を問題にしているのではないので,それ以上は深入りしない。
 ただ,高畠の考察を読んでいて,学者というのはつまらぬ手合いもいるなと感じたことは率直に記しておきたい。佐野や鍋山の声明を「状況追従主義」というレッテル張りで分かったつもりでいるからだ。声明全文を収録してある佐野学著作集刊行会『佐野学著作集』一巻にある鍋山の序を読んで,革命に身を賭した人生の重さを多少でも通じると,レッテル張りの虚しさに気づくはずなのだが。11〜13頁。昭和32年刊。
 なお,転向を主題にしておりながら,この歴史的な文献としての声明は,『共同研究・転向』に資料として収録されていない。その見識(?)は興味深い。この声明の意味するものを,官憲への屈服とした敗戦後の日本共産党による党派的なレッテル張りや高畠程度の判断によって,その折角な真意が歪曲されてしまったのである。
10.前掲刊行会『佐野学著作集』一巻より再録。「我々はコミンターン日本支部という組織が前衛の結合形態であるという公式的仮定をやめねばならぬ」。18頁。ここに示されている内容は,本稿の「一部/前提二」での指摘を確認している。この「転向声明」はユーゴスラビアのチトーがスターリンに取った立場を説明した論理の先行事例でもある。
11.学生部は,瀧川「事件」を左傾側が意図した騒擾事件として受け止めていた。翌年11月に改組された思想局から刊行された 『思想局要項』では,「学内外の極左分子もこの機に乗じて活動をなすの状勢となるに至れり」とか,「本問題に関し極左分子の策動は京大のみならず,東大,東北大(中略)学内共青細胞はイニシアチーヴをとりて(中略),紛擾の惹起に努め」などと把握している。218〜219頁。「第四 教育関係における思想運動,一,左傾運動」のうち,「(附)瀧川事件」。必ずしもそうとだけ言い切れるものではなかったのだが,治安という見地からはそうなったのであろう。
12.前掲『思想局要項』にも,拓大関係では,魂の会,国防研究会,亜細亜研究会が記されている。286頁。『集成』1巻に収録。
13.拙稿「『拓殖文化』・学生の寄稿文に見る『アジアの保全』」上,中,『拓殖大学百年史研究』6号。12号。
14.3章1節(2)で紹介した昭和7年3月18日付の照学一三号で,文部省学生部長は学長宛に,これまで左傾調査だけをしていたのに,初めて「国家的立場を標榜したる各種の団体」調査を行った。ここで大学側は,満蒙研究会を全く対象にしていない。
15.思想局は,川越事件と命名している。前掲 『思想局要項』。『集成』1巻。335〜337頁。
16.『集成』15巻に上下とも収録。
17.教授長野朗は,陸軍士官学校出身の旧軍人ということで公職追放になった。だが主権回復後に拓大に復帰し教鞭をとった。大学関係の刊行物に発表された著作については,編纂室編『学統に関わる書誌T』158〜162頁。インターネット『アジアの声』欄にある文献目録「日本近現代史」に『長野朗関連文献』があり,広範囲な著作の目録を見ることができる。
18.2年後の昭和11年3月に「思想調査資料特輯」として刊行された『思想指導に関する良書推奨』では,4冊取り上げられている。しかし,意味が違う。監視対象と良書の違いである。
19.問題を孕んだと記したのが露になったのは,敗戦後の占領中のことである。それまでの「我国,東洋の学問文化」の重視を軍国主義と一括した教職適格審査に取り組む態度に表れた。
20.思想局『思想時報一』。昭和9年9月。42頁。『集成』24巻に収録。


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