昭和史における文部行政への政策評価

2008年1月30日

文部省による思想管理の実態<2>
〜昭和5(1930)年から16(41)年の拓殖大学史から〜

池田 憲彦
元・拓殖大学日本文化研究所教授
同研究所附属近現代研究センター長
高等教育情報センター(KKJ)客員



二部 思想管理への制度的な整備

序章 通牒・学生部報告例に関する件/昭和5(30)年

 1節 通牒(発学二〇号)の内容/4月

(1) 従来の学生思想調査
 4月1日付で高等学校、専門学校以上の国公私を問わない学校長宛に次官名によりタイプ刷りで出されたのが、表題の発学二〇号の通牒である(SW一五五)。その内容から、本稿の表題である思想面での「管理」意識と方法の原型を看取することが出来る。後に徐々に強化されてくる前兆として理解できるので、冒頭に概略を紹介しておきたい。
 詳細は後にして、大枠の順を追っていくと、最初にこの通牒によって廃止される従来の関係通牒の一覧。次いで本文になる「学生部報告例」。その内容の最初の項は「報告事項」。項には、随時報告事項。八細目がある。次いで、定時報告事項。
 「報告の方法」は二つに分かれている。最後は、「報告文作製上の注意」。
 廃止される従来の関係通牒の一覧は、昭和3(28)年11月から昭和4年9月までの期間に出された6通牒がある。当該期間に、当該分野が行政上で急激に求められていたことを覗うことができる。
 その1は、11月30日付の「照専二六号」、学生生徒主事及び主事補に関する件。対象は、帝国大学、官公立大学、高等師範、官立専門及び官立高等学校宛となっている。私学が除かれているのは、次の、学生生徒の訓育に関する事務に従事する職員に関する件があるからである。その対象は、公私立高等学校、私立大学及び私立専門学校宛。
 その2は、昭和4年1月11日付の「照専一号」、学生生徒放校除名無期停学処分及び退学の都度報告の件。官公私立を問わない高等学校と専門学校が対象。
 その3は、同年3月22日付「照専一号」、思想的理由に依る生徒放校、除名、退学、停学等の処分の都度報告の件。新たに、高等師範、女子高等師範、官公私立実業専門学校が加わっている。
 その4は、同月11日付「発専六七号」、学生生徒の弁論会開催の都度状況報告の件。帝国大学、官公私立高等学校宛。
 その5は、7月17日付「照学三号」、学生生徒の読書傾向調査に関する件(直轄学校宛)。最後は、9月9日付「照学六号」、刊行物報告に関する件。本通牒対象全ての学校。学生の個々の内面的な動きから集団的な動きの全てにすでに網がかかっていた。

(2) より精緻な報告を求めた「報告事項」発学二〇号
 「報告事項」の(一)は、「学生生徒又は学校関係者に関する警察及び刑事事件」。細目は4項あり、例を挙げると、その1は、「検束、拘留及びその結果、起訴、予審、公判、判決等の事実」。
 (二)は、「同盟休校、扇動、宣伝、示威等学生生徒の不穏行動に関する件」。細目は4項あり、その3は、「主なる関係者の思想、経歴その他身上に関する調査」。その4は、(一)と同じく、「処分その他学校の処置」である。
 (三)は、学生生徒の関係せる研究会、弁論会、読書会、文芸会等各種の集会及び新聞紙、雑誌、パンフレット等各種の刊行物に関する件。細目は4項ある。1項は、「集会については思想上注意を要するものと認めらるる場合これを報告すること」。
 (四)は、「被処分学生生徒に関する件」。細目4項。
 (五)は、「学生生徒の思想問題に関し学校、寄宿舎、校友会等において新たに施設したる事項」。細目2項。
 (六)は、「学生生徒の団体調査票に関する事項」。
 (七)は、「学生生徒主事、学生生徒主事補及び相当する職員に関する件」。細目2項。
 (八)は、「随時照会を受けたる事項その他報告の必要ありと認めたる事項」。
 「定時報告事項」は2項あり、2項目の細目は3項ある。
 「学生生徒の読み物に関する事項」の1は、「学校図書館における学生生徒の思想に関する図書閲覧の傾向を調査しこれを報告すること」。2は、「学校図書館以外の手段によりて学生生徒の読み物の傾向を調査したる場合はその概要につき報告すること」。
 「報告の方法」は、1、形式、細目2項。2、報告の時期。細目4項。3、宛名。細目2項。1項には、「報告文書は原則として文部大臣宛とし簡単なる部分的報告、電信、電話等は学生部長宛とすること」。「報告文作製上の注意」は、4項目あり、書式上の細かい指示が記されている。


 2節 拓殖大学の回答/11月

(1) 最初は問い合わせに返信せず
 「報告の時期」の末にある「記」には、その都度報告は別にして、1項には、前年度の材料で毎年9月末日までに報告。2項には、新入学生については毎年9月末日までとし、3項には、予見について、報告の時期を1項にある記載と同様に、前年度における材料に基づいて5月末日まで報告、となっている。
 大学は、いかなる配慮か、それとも瑣末な部分まで報告事項と書式でがんじがらめにしているのにうんざりして横着だったのか、単にずぼらであったかは不明だが、回答を出していない(注1)。
 行政側は、そうした対応を放置しておくわけにはいかない。報告を受ける実際の担当者である学生部長名で、学長宛に問い質している。同年11月4日付で 「定時報告事項報告の件」(発学一八八号)を発している(SW一五六)。文中末尾には、「なお当該事項これ無い場合はその旨ご報告相成りたし」とある。一方通行による音信不通を責めている。
 「記」にある定時報告事項は、第1項が、「学校、寄宿舎、校友会等における一般情況の報告」。第2項は、「学生、生徒の身上調査表に関する事項」。第3項は、「学生、生徒の読み物に関すること」である。

(2) ユーモアのある回答内容
 大学は、同月25日付で回答した(同上一五七)。原稿が残されているが、主事をはじめ関係者3名の押印と大学認印の半印があるところを見ると、その内容で報告書は記されたのであろう。
 前文はおとぼけなのでここには紹介しない。「記」第一項は、学生が会合しようにも設備がないので会合の機会は少ない。そこで、思想問題などに触れて論談したようなことは聞いたことがない。また、本大学は、「海外発展を標榜する特種の大学なるを以て学生一般質実剛健の気風にて一見粗暴なるがごときも思想頗る穏健なり」(原文のまま)。
 「第二項 該当のものなし」(同上)。
 「第三項」は図書館の閲覧報告である。この報告は詳細を極めているところを見ると、図書館員が一覧表を作ったものと推察される。
 さらに、同月18日付の「発学一九五号」で「学生生徒の訓育方法及び福利施設に関する件」を問い合わせた(同上一五八)。「記」の一、訓育方法では、「貴学において実施せらるる思想上の訓育方法その他の特色ある訓育施設の詳細」。他は、福利施設の問い合わせである。この通牒では、「十二月十日までにご回報相成りたし」と期限をつけた。
 発学一九五号については、12月3日付で回答している(同上一五九)。
 大学のこれらの報告は、真面目なのか適当にあしらっているのか、どちらとも言えない。だが、一八八号への回答にある前掲で引用した第一項の後半の説明の文の運びを見る限り、相当なユーモアで彩られていると言えないか。あるいはエスプリとでも言えようか。そうした報告文を大学という機関名で出すところは、当局としての文部省を呑んでいると言うしかない。


1章 私立大学総長学長協議会の開催/12月

 1節 協議会後の私大実務者会議の開催へ

(1) 12月の二つの会議に至るまで
 「通牒・学生部報告例に関する件」の報告を受けて、その内容に危機感を抱いたのか、大学・高専の学生主事を対象にした思想講習会を一週間かけて行われた模様だが、関係記録が遺されていないので、その内容はわからない。
 左傾の思想が蔓延するのは、読書傾向に問題があるという認識が生まれたのであろう。9月1日、文部省は図書推薦規程を定めた。推薦書を読めば是正すると考えたのであろう。網は一層に緻密にされたのであった。規程を定めたのを受けて、11月13日には、文部省は高等学校以上を対象にして、思想問題に関わる「良書」推薦を開始した。

(2) 会議直前に拓大学長永田は天皇に拝謁
 12月11日に文部大臣官邸において表題の会議を開催した。すでに、同年4月4日に同官邸において、大臣は全国の帝国大学学長を招いて、大学における思想問題を協議している。官学と私学の呼集にある8ヵ月の時間差は何を意味しているのかの理由はわからない。
 当時、私大は全国に24校あった。文部次官中川健蔵は、拓大学長永田秀次郎宛にこの協議会への出席を請う私信を12月2日付で送っている。私信の上部白紙部分には、「学長出席旨回答十二月四日」とある。ただし、11日の協議会について、大学宛の出席依頼の公文書は無い。同文書に添付されていたのであろう、12月1日現在の私大24校のタイプ打ちされた一覧表がある。
 文部次官の私信には、11日の協議会の翌日に行われる天皇陛下への拝謁について、「取り急ぎ」知らせている。公文書としては、次官から学長宛に12月9日付、発学二一七号で、「予てご通知いたしおきたる 天皇陛下に拝謁の儀は来る十二日拝謁被仰つき旨仰出されたるにつき同日午後一時三十分までに参内せられたし」との連絡であった(SW.口絵写真7頁上部を参照)。
 拝謁は文面から文部省の意向であることが覗える。協議会についての内奏であると想定するのは間違っていないだろう。添付の学長名簿を見ると、立場が永田に相当する他の学長は、日本大学総長の平沼騏一郎しかいない。平沼が司法出身であるために、文部官僚の上層部が忌避したのかどうかはわからない。ご下問や奉答の記録もない。宮内庁に記録があるかどうかも、問い合わせていないのでわからない。

(3) 宮原民平学生監の「学生思想問題に関する意見」
 協議会でどういう内容の協議がされたかの記録はない。
 総長学長協議会を経て、15日付の次官名で学長宛に「私立大学学生監(学生主事、生徒主事)会議に関する件」(発学二三八号)の通達があった(SW一六二)。同通達の1節には、「本省会議室において私立大学学生生徒の思想問題に関し学生生徒監等平素学生生徒の思想問題の局に当たる人の会議開催いたしたきについては貴学における該当者を一人(都合にて二人にても差支えこれなく) 出席せしめらるよう」とある。12月23日〜24日に行われる。
 学生監として宮原民平、同じく補佐役として柳瀬薫が12月16日付で出席の連絡をしている。文部省は、学生部長名の別紙で同月15日に同番号で、学生監宮原に同会議での「学生思想問題に関する」審議事項について、事前提出の要請をしている。事項は、1、監督取締りに関する事項、2、指導訓育に関する事項、3、その他の事項、である。
 大学は、宮原名によって12月18日付で学生部長伊東延吉(後に次官)宛に送った(同上一六三)。手書きの草稿がある。大学の割り印が押してあるところを見ると、報告文面はほとんどそのままであったと推察される。
 題名は、「学生思想問題に関する意見」。
 その内容は、まず、思想悪化としばしば不詳なる騒擾事件が起きるのは、単純に学校と学生の問題ではない、との判断をしている。学外における共産主義的対立闘争の延長なので、学校がいかに敢然として教育指導をしても学校騒動を絶滅することは難事であると確認している(注2)。
 しかし、拓大がとっている処置は救済の1つの方法であろうかと前文を締めくくっている。以下、B5の事務用箋4枚に具体的に詳細に列記している。


 2節 私大学生監 (学生主事、生徒主事) 会議での議了事項

(1) 当初の会議期間が延長
 会議は、当初本省会議室で行われる通知であったが、上野の帝国学士院に変わった。その理由は不明である。当初の予定は、23日と24日の両日であったが、26日にも行われたようだ。3日を掛けたことになる。合意形成に手間取ったものと推察される。
 私大にとっては、初めての広範囲な学生思想問題についての文部省学生部との意思疎通の場であった。そこでの協議というか、それとも文部省側の意向の徹底化かはわからないが、後日、会議の主催者側である学生部による「私立大学学生主事 学生監会議に於ける 議了事項」(以下、単に「議了事項」)と、同「別冊」が謄写刷りで纏められた(同上一六四)。表紙の日付は、会議の3日間が記されている。
 前者は、表紙と目次の2枚以外は本文B4の10枚で、秘の印が押されている。別冊は表紙1枚で目次なく本文B4の8枚で、極秘の印が押されている。押印は、配布者側なのか、それとも受領者側なのかはわからない。内容からすると配布側であろう。
 事態の緊迫度が高かった模様なのは、正月三日を間に挟んで半月後の昭和6年1月12日付の発学五号で、学生部長名によって学長宛に、【秘】「議了事項」と【極秘】別冊が送付されているところから覗える。
 全文を読むと、文部省の意向というよりは、内務省警保局の意向のようにも思えるものの、そこには深入りしない。なぜ、そのように感じるかと言えば、専ら治安上の見地から取り組むように思えてならないからである。それだけ問題が各校内で生じていたのであろう。予断を事前に与えるのはフェアーではないので、内容の粗筋を目次から紹介することにする。

(2) 全学連運動の原型がすでに明らか
 「議了事項」は3部に分かれている。第一は「一般的事項」。内訳は、5項目に分かれている。(一)校紀の振作、精神教育の作興に関する件、(二)組織経営の完備に関する件、(三)処置の周到厳正とその趣旨の徹底に関する件、(四)学生生徒の指導訓育機関の整備に関する件、(五)各大学間その他必要なる方面との連絡に関する件。
 第二は、「指導訓育に関する事項」、内訳は、同じく5項目に分かれ、(一)指導訓育施設の充実に関する件、(二)思想問題に関する中正穏健なる智識の涵養を図るの件、(三)思想問題に関する学問的研究を振作するの件、(四)学生生徒の生活を良好ならしむる施設に関する件、(五)学生生徒の自律自重の気風の作興に関する件。
 第三は、「監督取締りに関する事項」、内訳は、(一)学生生徒の左傾運動に関する件、(二)同盟休校その他紛擾事件に関する件。
 極秘である「別冊」は、「監督取締りに関する事項」である。2項目に分かれている。(一)学生生徒の左傾運動に関する件。細目は5項目に分かれている。学内における極左的秘密組織に関する件、校友会各部に関する件、校友会に属せざる常置または臨時の団体又は催物に関する件、ビラ、ポスター等による宣伝扇動に関する件、示威運動に関する件。
 同盟休校その他学校紛擾事件に関する件。細目は3項目に分かれて、これまでの事例を通して、紛擾を起こす側の戦略戦術の型を解明している。記されているのは、戦後に学生運動で猛威を振るった全学連が行った手法と同質である。

(3) 私学建学の由来に基づく精神教育の振興を求む
 「議了事項」 第一、一般的事項の冒頭にある「校紀の振作、精神教育の作興に関する件」は、私学を対象にするところから生まれたものと推察される。文中に「各大学設置の根本精神を発揚し之を徹底せしめ以て精神教育の根幹となし学生生徒の人格的教育を完全ならしむるを肝要となす」とあるのは、それを意味している。官学の場合は、どのように求められていたのか。
 この部分は、1節で触れた私学に事前に提出を求められていた「学生思想問題に関する」審議事項への拓大の回答と関わっているように思える。拓大の回答文案によると、第三のその他の事項の3で、「各校はその建学の精神を明確にし教職員は同一方針の下に教育に従事す 建学の精神に副はざる教職員は自ら退かしむ これがため教職員会議等においては主旨を以て協同すべきことにつとむ」とある。
 この認識は、第二の指導訓育に関して、3で、「卒業者もしくは在学者等のうちで国家社会のため犠牲的行為ありたる者を表彰す 現に本学においては学生の力によりて 本学出身者にして日露戦役の功労者脇光三氏の石碑を校庭に建立中なり」を背景にするところから来ていた。
 そのように考えると、12月12日に学長永田が陛下に拝謁して、私学の高等教育機関における学生生徒の思想問題について、内奏を文部省から求められた理由が分かってくる。
 官学の場合は、札幌農学校を前身とする北海道帝国大学のような特異な事例を除いて、私学における建学由来を学是とするような意識はなかった。それは、大学令第一条があるからだ。それにつけても、大学令と私立学校令を較べると、後者には大学令第一条に相当するものがない。官尊民卑で、私学は官学の補助手段程度にしか考えていなかったようにも覗える。


2章 実務者への思想管理を強化/昭和6(31)年

 1節 私大学生主事・学生監第2回会議での議了事項/1月

(1) 初回から間隔を置かない2回目の会議
 前年の年末の3日間にわたる学生主事・生徒主事を集めての会議の参加者は、文字通りの師走であった。その慌しさに追い討ちを掛けて、新年早々に文部省会議室で開催されたのが、1月9日と10日の2日間をかけた「関東私立大学学生監(生徒主事)打合会」である。
 1月6日付で開催通知が文部省学生部名により、拓大には宮原民平と柳瀬薫宛に出されている。2名は前年末の会議に出席している。書簡の体裁なので、文書番号はないし公印もない。
 この打ち合わせ会の記録である「議了事項」は、前述のように12日には学長宛に送られている。いかに急いでいるかが分かる。しかも、同趣旨の打ち合わせは関西でも行われていたので、関西地区の大学の実務者をも対象に急遽入れたのであろう、謄写刷りの「議了事項」表紙には関東と記してある。左側に、ゴム印で関西と押されている。
 日付は1月9日で、右上に四角い囲みで極秘とされているところを見ると、初回の「議了事項」も別冊も配布側が秘密に指定したのが分かる。さらに、関西のゴム印を見ると、会議を経ての刷りなのか、それともあらかじめ刷っていたのかの連想が起こるのを押さえることができない。
 それは、その内容が会議を必要とするものではあっても、儀式としてのもので、実質上の審議を必要としていたのかどうか疑わしいからである。そうした言い方をするのは、1章で紹介した前掲の「議了事項」と別冊の内容を、一層に強化する内容になっているところから来ている。
 普通に考えれば、僅か半月の間で、思想管理の強化が加速したとは思えない。あらかじめ、初回から2回目の会議を演出して、参加者が加速を当然視する認識を持つように仕向けたかと勘ぐりたくもなる仕掛けである。こうしたスケジュールの展開の仕方から、演出家は文部省にいたのかどうかも疑問が残る。

(2) 前回の総論了承を受けて実際面の対策を徹底
 今回の「議了事項」は、目次によれば2つの分野に分かれている。初回にあった一般的な事項はすでに了解済みとなって、実際面に集中している。初回では、総論部分の啓蒙を図って、事態の危機的な認識を実務者に共有させるようにしたのか。そして、2回目は実務の主旨の徹底化を意図したのか。
 事項は2つある。最初は、「指導訓育に関する事項」 である。4項あり、(一)指導訓育施設の充実に関する件、(二)思想問題に関する中正穏健なる智識の涵養を図るの件、(三)思想問題に関する学問的研究を振作する件、(四)学生生徒の自律自重の気風の作興に関する件。初回の当該項目の小見出しと文言は同じであるが、(四)が消えて(一)に吸収されている。
 次は「監督取締に関する事項」である。2項目ある。その(一)学生生徒の左傾運動に関する件、(二)同盟休校その他学校紛擾に関する件。(一)には細目が5項ある。初回の極秘文書である別冊を再編したものである。5項の小見出しは別冊と同じである。
 では、初回と2回目の当該文書を比較すると、どのような箇所が強化されているか、または実務者に何を具体的に求められているかを次項で明らかにしたい。

(3) 学生よりも実務者側への思想教育
 「指導訓育に関する事項」のうち、指導訓育施設の充実に関する件は、施設という言葉の定義を考えさせられる内容である。現在から読むと、学生会館の活用かと思いかねない。しかし、そうではなくて、現在通用する表現では施策といった意味のようである。初回のそれでは、学校側の学生との接点である主事側がいかに密接な関係を築くかを求めていた。
 だが、2回目の内容には、そうした悠長さは消えている。まず注文事項が箇条書きになっている。冒頭から教員の選抜方法まで容喙して、噛んで含めるように個々の判定条件を列記している。学生に対してのものを含めて12カ条もある。
 こうした内容を見る限り、文部省は従来の私学側に当事者能力はなかったと判断しているのかとも読み取れる。例えば箇条書き3番目には、「教師の進退□陟は教育者として適任なりや否やを主なる条件とすること」とある。それまでの選考条件はそうでなかったのか。
 (二)思想問題に関する中正穏健なる智識の涵養を図るの件では、初回の認識は、「現下思想界の実状はいたずらにマルキシズム偏重に預かり従って一部の学生生徒のこれを妄信するがごとき傾向ある」。そこで、「社会問題思想問題に関して法制、経済、哲学、倫理、歴史、その他一般の方面にわたり出来うるかぎり豊富なる智識を得せしむる」ようにす、といった教養主義的な解決の示唆を穏やかに語りかけている。
 しかし、(三)思想問題に関する学問的研究を振作する件では、「現下の思想問題、社会問題に関し欧米の思想に対する心酔の弊を矯め 我国の文化に対する公明なる矜持をもって我が国体国民性を明らかにし 我国独自の立場よりする有力なる学問の建設を図り 進んで時代の指導精神を樹立し もって現下の問題を指導するは学界の現状に照らして最も肝要とするところなり」と、具体的な選択肢を強調した。
 それが今回の2回目になると(二)は、どのような内容に進展しているのか。3項に分かれており、二項には表題に関わる「特別講演」を行えと指示し、三項では、「教科書の選定に注意すること」とある。では、それまでの教科書はいい加減な基準で選定されていたのか。文部官僚は、おそらくそのように思っていたのであろう。

(4) マルキシズムに「東洋と日本の学問文化」で対処
 (三)はどうであろうか。4項にわたり極めて具体的なので、全文を引用する。「一、各大学においては東洋の学問文化、特に我国独自の学問文化に関する研究を奨励しその価値を認め之が振興を図るため諸種の会合を試みる等、それぞれ運動を起こすこと。
 一、なるべくこの方面の学問に関する講座を設置すること。
 一、各大学においては、なるべくこの方面の優秀なる研究者に奨学金を与うること。
 一、学生生徒よりこの方面に関する論文を募集し之に対し適当なる賞与の方法を講ずること」。
 「我国独自の学問文化」の具体的な振興に着手されるには、「なるべく」 を連発しているのにも分かるように及び腰で、まだ時間がかかった。講座の新設指示は昭和11年からであった(四部7章4節を参照)。「東洋の学問文化」 に至っては、昭和13年になってからである(五部9章5節を参照)。


 2節 学内で惹起される騒擾への対処

(1) 警察との具体的な連携強化の「監督取締り事項」
 思想面での対処は前段で取り組むことを求めたが、革命の予行演習として意図して惹起される騒擾事件への取り組みはどうなるのか。その対策マニュアルが次の主題になる。それだけ学校で事件が頻繁に起き始めていた。
 同事項の(一)学生生徒の左傾運動に関する件、(イ)学内における極左的秘密組織に関する件、の9細目のうち2細目には、「学内のこの種の組織及び之に基づく各種の行動に関しては学校なる観念に拘泥せず従来よりも一層徹底的に警察的取締りをなすよう交渉すること」。
 3細目には、「警察との連絡を一層十分にして極左運動の一般的状況、時々の必要なる情報等を出来得る限り精密にまた早期に報知を得て取り締まりを敏活周到にすること」とある。
 (ハ)校友会に属せざる常置または臨時の団体又は催物に関する件、の弁論部についての7細目中には、原稿の事前検閲は当然のこと、5項では、「必要と認めたるときは学内の弁論会においても警察官(私服)を入場せしむること」とある。自由民権運動時代の保安条例(1887年12月)よりも厳しい。
 新聞部雑誌部については、5細目の最後には、「伏字等は用いざること」と、芸が細かい。伏字を用いることによる学生からの反発を懸念していると思われる。この手法は、占領中にはGHQによる新聞雑誌の言論操作(プレスコード)にも応用されたのは第一稿で触れたところである(注3)。
 (ホ)示威運動に関する件、では、4細目ある最後に、「これらの点に関しては警察と十分了解を遂げ協力して事に当たりまた学校なる観念に拘泥せずして警察取締りを徹底的に行うよう交渉すること」とある。活動する者にとって学校ではなく革命の戦場になっていることを、文部省は内務省の関係機関から伝えられ理解したのである。
 (ニ)同盟休校その他学校紛擾事件に関する件は、初回は3細目しかなかった。警察との連携は一言も触れられていない。それが2回目になると、12細目に増えている。そのうちの3細目では、「警察との連絡を完全にして必要なる情報を得るに努め警戒予防を十分にすること」と明記している。

(2) 早稲田大学の反応/文書「早稲田大学の提出案」
 1月9日の打ち合わせ会で早稲田大学はある案を提出した。秘の印が押された文書「早稲田大学の提出案」である。B5の用箋で表紙を除いて6枚の分量である。
 最初の2枚は、小見出しが「司法検察官への希望」で、「極左系の新聞、雑誌、ビラ、ポスター等の取り締まりを一層厳重にせられんことを文部省より司法内務の両省に具申して司法検察官を督励鞭撻すること」が本文である。
 付随して、既存法による取締りがされてはいるものの、「ややもすると緩に失するの感あり」と不満を漏らし、取り締まり強化に向けて官憲を叱咤している。
 この前段により、次項は、「司法警察権の運用に関する建議」と題して、3項が記されている。その1は、「警察特高課内に学生係を新設すること。
 二、文部省学生部長に警察官指揮の権能を与うること。
 三、学校学生主事に学生に関する限りにおいて警察権を与うること」。
 最後は、「教化立法を建議すること」と題し、その内容は5項目ある。
 一は、公益に関する報道記事に一定の意図した偏向の見られることに対する法的な対抗措置について。
 二は、宗教家、教育者、経営者に対する人格攻撃に対する名誉毀損の科刑強化。
 三は、集団の示威による威力妨害に対する制裁規定の新設要望。
 四は、公営事業団体の紛擾に介入できるのは主務官庁の承認を得た者しかできないことの明確化と、第三者の介入があった場合の制裁措置。
 五、上記紛擾に幇助や助勢する者に対しての制裁措置。
 この提案はすさまじい内容である。当時の環境を抜きにして読むと、まるで国家権力の走狗そのものであるからだ。多少でも当時の大学や高等教育機関や媒体報道での実状を知っていなくても、素直に読むとこの提案から透けて見えて来るものがないか。
 常識的に見れば、こうした提案が堂々と提起されているのは、学内が物情騒然とし無秩序化した異常状況であったからであろう。早稲田大学だけに限らず、いかに共産党による紛擾行為が瀰漫していたかの証明である。革命前夜とばかり騒いでいたのであろう。
 文面の背後からは、ことあれかしの極左教員と学生の多かった同大学の管理する側の当事者による、ほとほと困り果てていた様子が浮かんでくる(注4)。これだけ果断な提案が出てくるのは、早稲田の建学の精神から言うならば、「学の自由」が危機に瀕している認識の切実な提示であった。


 3節 第2回会議以後の整備状況/2月〜5月

(1) 第2回私大総長・学長協議会での最重要課題
 1月19日に第2回私大総長、学長協議会が開催された。出席者は、代理の学監3名や事務取扱2名以外、すべての総長と学長が出席したのは出席者名簿に明らかである。
 永田学長の筆跡と思われる3つの要点がメモ書きとして残されている。
 「一、一般の教員にこの主旨を知らしむること
  一、学生監等の地位に関して
  一、早大建議は大いに研究を要す、そして実行せず」。
 こうした事態で学生監や学生主事の立場が学内で相対的に高まることを確認している。文部省が求めているのは、いわば「学内特高課長」 であるからだ。
 メモ書きの3項目は意味深長である。この建議は即効力のある提案である。だが、大学という立場から、司法なり警察なりが剥き出しで大学内に介入することと、大学の実務者が警察力を有するという事態を想像して、協議会で抵抗があったものと思われる。永田の人品から考えて、消極的であったことは容易に察知される(七部3章5節)(注5)。
 ともあれ、思想的な問題についての一連の会議を経て、最後に第2回総長、学長協議会が行われたことにより、大学側と文部省の合意が形成された。双方の連携態勢が整った。この合意形成の内容は、両者によって完了するのではなく、学内の騒擾に司法機関の介入を前提にしたものであった。69年8月に5年の時限立法で公布されたいわゆる大学管理法(大学の運営に関する臨時措置法)を想起する。

(2) 「思想的行動の監督取締り」と「思想上の指導訓育」の通牒
 2月19日付の謄写刷りで学長宛に文部次官名によって、発学三二号「学生生徒の思想的行動の監督取締り関する件」が通牒された(SW一六五)。公印が押されている。冒頭の「同盟休校に関する策動の取締り」、2項の「弁論部の取締り」など7項目が列記されている。前文には、「それぞれ周到なる取締りを実施せらるることと存す」と謳っている。弁論部が左傾学生に占拠されていたことが分かる。
 学内の騒擾を「思想的行動」と認識している。問題の根が深いことを示唆しているのである。
 さらに、同番号で同日、タイプ刷りの「学生生徒の思想上の指導訓育及び監督取締りに関する件」 が学長宛に通牒されている。添付されているのは、『学生生徒の思想上の指導訓育及び監督取締りに関する事項』である(以下『事項』とする。全文は「SW一六五」を参照)。表題についての準拠枠として扱われることを求められている。内容は、これまでの打ち合わせ会議での「議了事項」 を集大成したものであった。
 前年12月段階の大学からの報告に基づいて、学生部は3月に『思想関係より見たる訓育方法』を刊行している(『集成』22巻に収録)。

(3) 拓大の文部省への報告
 拓大については、報告内容が短いので全文を紹介する。
 「本学における思想訓育方法としては、予科及び専門部学生に対しては倫理教授の際なるべく実際的方面よりこれが訓致に昂め、一般的としては毎年四月二十三日恩賜記念日において挙式の上学長より一場の訓話をなし且つ当日は学長、教職員、学生一同相会して昼餐を共にし相互の意思疎通を図り思想訓育の一助となす」(同35頁)(注6)。学生総数の少ないところでの牧歌的な交流について記してある。ごく普通の内容である。大学にはこの報告の記録はない。
 大学幹事でもあった宮原民平は、この頃に「学生騒動に就いて」という短文を同窓会誌である『学友会報』(85号。同年4月)に発表している。「革命行為の予行演習」としての騒動を詳細に、そして簡潔に分析して紹介している(注7)。
 こうした情報は文部省主催の会議に実務者の代表として参加していたところから来ているものではない。それは昭和5(30)年12月18日付で文部省学生部長宛に回答した前掲の「学生思想問題に関する意見」(1章1節(2)を参照)に明らかである。問題の所在はつとに宮原には分かっていた。
 4月15日には、学生部長より学長宛に発学五七号で、「被処分学生生徒の事後情況に関する件」が通牒された。前文によると、大正15(26) 年度以降における思想的理由により処分された学生生徒の事後情況についての、各年度毎の微細を極めた所定の書式による報告の要請である。大学は、同年度分の2名を報告している。それ以前は不問に付したようだ。
 5月23日付照学三号で、文部省学生部長は学長宛に、「学生課、生徒課の組織、内容に関する件」を通牒した(同上一六六)。前掲の『事項』を所掌する部局が、通牒月20日現在でどうなっているのかを問い合わせている。6項目にわたり6月10日と期限を切って報告を求めている。
 大学は、珍しく素早く期限の大幅前の5月28日に報告している(同上一六七)。学生課はないので、教務課の一部が分掌していると記している。勤務人数は4名、勤務者は宮原民平幹事以下柳瀬薫助教授他2名の人名、事務分掌規程は無し、具体的事務内容は、5細目を列記している。


 4節 思想問題講演会の開始/8月

(1) 学生思想問題調査会を設置
 岩波書店刊の『近代日本総合年表』によれば、昭和5年度に表題の講演会は開始されていたようだが(同285頁)、当該記録は拓大にはない。官学を対象にして私学は除外されていたのかも知れない。それは前述した学・総長を呼集した会議の時間差からもあり得るといえよう(1章1節の冒頭を参照)。
 ともあれ、これまでの学内騒擾頻発という事態に基づいて、文部省は7月1日に省内に学生思想問題調査会を設置し、第一回の会合を同月7日に開催した。学生部が所掌したのか、文相直属で官房が扱ったのか。それとも文相直属で実務は学生部が所掌したのか。憲法学者穂積重遠、経済学者河合栄治郎、政治学者蝋山政道らを委員に任命した(注8)。
 この人選を見てもわかるように、当時の文部省官僚の平衡感覚がどういったものかが仄見えている。マルキシズムに「東洋と日本の学問文化」で対処しようと示唆していた(2章1節(4))。まだこの頃は昭和14年に排撃され、平賀粛学で東京帝国大学経済学部教授を辞任する自由主義者河合栄次郎も入っている。

(2) 初期の思想問題講演会
 【綴り】に最初に講演会が登場するのは、8月4日から8日にかけてのもので、東京帝国大学構内で行われた。連絡は7月3日付発学一三七号で、次官名により学長宛にされている。
 添付されている要項によれば、1、聴講対象者は、帝国大学、官立大学、公私立大学の学生主事、学生監、官公私立高等学校、同上専門学校、他省管轄の高等専門学校の教授と生徒主事、生徒監であった。
 2、講師及び演題では、「マルキシズムの哲学的批判」 慶応大学教授川合貞一、「マルキシズムの経済学的批判」京都帝国大学教授高田保馬、「最近の思想運動の傾向」 内務省警保局保安課長安井英二(注9)(交渉中)、「共産党事件より見たる学生思想問題」、「学生生徒の思想上の指導訓育問題」文部省学生部長伊東延吉(後に事務次官)。
 講演会の前段には、文部省庁舎の屋上で「学生生徒の思想運動に関する各種の資料を収集し」展示しているので一覧せられるようにと、学長宛に知らせている。期間は7月中をかけている。左傾学生運動の物的実状を視覚から啓蒙する方法である。
 文部省学生部による各高等教育機関の実務者への書籍や資料による啓蒙活動は、前年から激しくなっていた。例えば、7月17日付の発学一四七号で、1、「思想調査資料 第十編」2冊、1、「学生思想運動の沿革」1冊、を送付している(注10)。

(3) 秘密文献「革命的青年学生の任務」「学生自治会について」
 「革命的青年学生の任務」(『無産青年』第62号)
 9月9日付発学一七六号では、次官名により学長宛に「学生極左運動の組織並びに活動方針に関する件」で極左運動についての2つの論文を送っている。結社は解体しておらず、潜行して別の姿で活動しているのを実証的に明らかにしている。前文で、近年の経緯を述べて、革命運動の執拗さを示している。
 非合法文書である1931年6月21日発行の『無産青年』第62号に発表された「革命的青年学生の任務――一九二九年発表された方針の補足と訂正」である。筆者は清水秀夫。
 1929(昭和5)年に発表された方針とは、いわゆる学生テーゼと言われた『革命的青年学生の任務』であった。その内容を「弾圧が強化されている」時勢に合わせたのであろうか。当初のものを読んでいないので不明だが、冒頭の下りは「学生運動が共産青年同盟の指導下にたたねばならぬ」とあるところから、基本方針は変わってはいないと思われる。共産青年同盟とは現在の民主青年同盟である。現在の微温的な存在と違い、意識は高く戦闘的であった。
 フロント機関として、学生自治会、読書会、新聞組織、反帝同盟、赤色救援会、学生消費組合、学生新聞、自主的スポーツ団などを挙げている。
 前節で取り上げた『事項』の各論は、これに照応しているのがわかる。

 「学生自治会について」
 次の文献は、共産青年同盟が内部文書として刊行した「学生自治会について」の抜粋である。このパンフレットは同年5月頃に同盟学生係が作成したものと推察されている。冒頭に目次があり、1、自治学生会の性質及び任務、2、読書会との関係、3、実的学生委員会との関係、自治学生会の全国的組織結成について、と自治会を通して浸透する戦略戦術が紹介されている (「九部 関連年表と資料」のうち資料(2)を参照)。
 2つの文献は謄写刷りだが、共に極秘とされていた。読んでみると、コミュニストによる正統的な情勢認識と戦略戦術が述べられているにすぎない。当時の総長や学長は旧世代である。当該分野の最初の極秘情報に接することのできる永田や平沼のような特殊例を除いて、おそらく大半の人々は、憂慮を越えて慄然としたものと想像される。
 つまり、こうした浸透に対する前知識も情報は、個々人にも学内の教務課等の関係機関にも蓄積されてはいなかった。そこで、当該情勢認識とそれに基づく戦略戦術について免疫力があったとは思えない。連ソ容共路線と国共合作以後の中国革命を知る宮原学生監のような存在は、例外であった。
 前2節(2)で紹介した早稲田大学の、実際的な対抗措置としての反応は、こうした文献の内容からすれば、官憲への過剰同調というものではなくなる。文部省学生部の認識する「極左なり左傾分子」の活動とは一体何だったのか。彼らは自分たちの存在している社会なり大学なりを、革命のための予行演習の場としていた。この秘密文献から浮かんでくるのは、周囲を戦場と看做していたことである。


 5節 在日中国留学生による排日運動への取り組み/10月

 昭和6(1931)年9月に関東軍により奉天(現在の瀋陽)郊外から始まった満洲事変は、反日を主題にしていた中国共産党を勇躍させるだけでなく、中国国民党をも排日に巻き込む事態になった。
 日本で学んでいた中国人留学生からも反日運動を展開する者が出てきた。中国大陸の沿岸部にある主要都市の北京、天津、上海にある学校の学生生徒は反日運動の前衛であった。共産青年同盟は日本だけでなく、共産党の存在する世界各地にあり、中国も例外ではなかった。反日は、中国共産党の党勢と影響拡大にとって絶好の主題になったのである。
 こうした趨勢に外務省は危機感を抱いたのであろう、10月29日付で外相名により文相宛に、機密文書(文化一機密合第三四一一号)『在本邦中国留学生その他の排日運動取締りに関する件』を送った。
 添付されている10月16日付の「中国留学生の排日運動取締りを必要とする理由箇条書」は、おそらく外務省により作成されたものと思われる。21項目を列挙して、考えられるものを網羅してはいるものの、趣旨を徹底するための効果の程は不明である。
 しかし、外務省の関係部局の中国人理解は興味深い。例えば、7項にある「中国人は精神的調和力に乏しきをもって雷同増長するの傾向あり
 排日行動をその萌芽において排除せざるときは 極端なる排日運動に着手するに至るべし」。
 8項は、「中国人留学生の排日をなすは 必ずしも愛国心に出るにあらずして 排日行為により売名し 在留中国人の間に重きをなし 将来帰国後における自己の立場を有利に置かむとするか 又は排日運動により物質的に漁夫の利を占めむとし 卑劣なる心情に出つるもの多きにより『愛国心の発露なるをもって寛大に取り扱うべし云々』の論は その理由乏しきこと」。
 9項には、「日本において排日行動を許されたる留学生が 中国に帰りていかに激烈なる排日行為を行うも差し支え無しと思惟するに至るは自然」など、江沢民時代に反日教育を制度化した弊害の生じている現在でも、留学生だけに限らず、実に参考になる含蓄のある判断に満ちている。
 こうした判断から、申し入れ書の1節には、「今後は中国留学生の排日運動取締りに関しては貴我両省及び内務省主務者間内協議の結果に基づき左記方針により措置せらるるよう致したく」と、4項目にわたって取り締まりの方針を記している(注11)。


 6節 極秘定期情報誌『彙報』の発刊/11月

(1) 先行していた「思想調査参考資料」
 現在進行中の学生思想問題の発生背景が日本国内ではないとすると、文部省の所掌の範囲では把握できないことになる。しかも、思想問題とは言いながら、革命運動となると治安問題になる。政治運動なら政体に関わるが、それではなく国体に関わる問題である。これでは文部行政の枠内には収まることはできない現象であった。
 これまでも、調査資料は大学等に送られてはいた。定期では、昭和3年10月に専門学務局に学生課が設置されてから、「思想調査参考資料」が発刊されていた。この名称は四輯までで、五輯からは「参考」が抜けて「思想調査資料」になった(注12)(以下『調査資料』とする)。
 拓大に送付状が残されている最初のものは、昭和6年5月26日付発学八三号による「思想調査資料」第九輯(同年2月刊)についてである。それ以前の送付状は無い。散逸したのであろう。

(2) 『彙報』の取り扱い方
 11月9日発学二一三号で、学生部長は学長宛に「彙報送付に関する件」を通牒した。前文冒頭で、「自今当部において学校報、警察報等に基づき直近の学生思想事件の概要、学生思想運動の方法、その他参考となるべき事項を取りまとめ定期に之を謄写に付し彙報として配布致す」(中略)。
 「なお彙報の取り扱い方に関してはその内容上特高秘警察報その他秘密の取り扱いを要する各種通報に基づき作成したるもの少なからざるを以て左記要領によりお取り扱い相成り度し」とある。
 左記である「記」は、4項ある。
 冒頭は、彙報は「極秘の取り扱いをなすこと」。
 2項は、知事、警視総監から通報のあったものの内から、必要と認められる事項を本省限りの取り計らいをもって内示するものであるから、承知ありたい。つまり、警察から送られてきた情報でも、内示については文部省の責任において取捨選択をしているので慎重に扱え、と示唆している。ここには当事者意識が働いている。
 3項では、警察情報は、学校において調査したものとは関係が無いので参考資料として扱い、そのまま処置に用いることには注意されたい、と鵜呑みにすることに注意を喚起している。この項は、2項を前提にするところから成立している。
 4項は一層に丁寧である。全文を引用する。
 「彙報の内容たる通報に基づき学校自ら進んで調査等の手続きを執るがごときある際にも その時期、程度等に付き慎重なる考慮を払い 警察の活動を阻害するが如きことなきよう十分注意すること」。この項目での修辞は、ここに至って3項と相俟って、文部省の微妙な立場を示唆していると読めよう。

(3) 甲と乙2種類『彙報』に収録された情報の出所
 『彙報』には甲と乙の2種類があった。その分別の仕方の理由は不明である。前掲の発二一三号は乙輯送付の際に添付したものと思われる。
 甲第一輯は、謄写刷りで表紙に7月末日編とある。6月1日〜7月20日の間の出来事を収録しており、目次は4項、1項は大学、高専の学生思想事件、2項は中学生徒の思想事件、3項は中学、小学校教職員の思想事件、4項は青少年団体に関する思想事件である。大半が警察情報と思われる。
 乙は同年6月1日から10月20日までの動静を10月末日に編集したもので、1、一般的事項、2、中等学校生徒思想事件、3、小学校教員思想事件、4、青少年団体思想事件、と分けられている。1項目は、反帝国主義同盟など党のフロント機関の動きを紹介している(注13)。
 彙報という名称は前掲『調査資料』 第四輯(昭和4年5月刊)の巻末に最初に出てきた。当初は、左傾運動情報だけでなく、省主催の思想問題講演会の次第報告も収録していた。しかし、その欄を独立させて特化し別冊にしたのである。
 以後、『彙報』は1ヵ月に1回程度の送付を考えていると付言し、通牒を終えている。彙報に盛られた内容の基本的な情報は、文部省の所掌下にあるものではないことを率直に記している。そこを敢えて明らかにしているのは、自分たちの所掌する職責の範囲の限界も提示している。



(注)

1.ただ、「報告事項」のうちで「随時報告事項」の上部に、満蒙研究会という書き込みがある。あるものの、当該研究会を報告した様子がないのは、以後の解明で明らかである。
2.宮原民平の思想問題についての所見は、巻末九部に収録の資料(1)を参照。大正13(24)年の段階で、文部官僚だけでなく国政選良の底流にある思想を管理できるとの錯覚を戒めている。達識である。
3.拙稿「占領下における教職“追放”(教職員適格審査)」二部 占領下・教育改革の実態を解明する一つの視点。1章4節(1) 「言論の自由」の背後にあった2つの制約条件、を参照。尤も、この手法はGHQからの指示か日本側の知恵の提供かは、筆者の知らないところである。
4.早大当局が学内の左傾運動に硬化していたのは、直近の昭和5(1930)年10月16日より11月13日までの間に展開された同盟休講事件がある。その理由は、野球早慶戦の入場券収益を巡るもので、騒動を起す側にとって理由は何でもよかったのが分かる。
 文部省のこの事件への認識は、『思想調査資料』第9輯162〜166頁。(昭和6年2月刊)。
 明治大学でも雄弁大会から発した同盟休校事件が発生している。前掲資料。166〜168頁。『集成』3巻に収録。
5.永田の権力行使に対する禁欲的な姿勢は、警保局長時代の言論の自由について寺内首相から圧力がかかった際の処理に見られる。拙稿「解題に代えて 自然体の伝道者 青嵐永田秀次郎」二章一節 行政/警保局長永田の言論統制観、を参照。編纂室編『自然体の伝道者 永田秀次郎』253〜256頁。
6.恩賜記念館祝典における式辞は散発的に残されている。大正13年が最後で、後藤新平学長によるもの。編纂室編『拓殖大学百年史 資料集 告辞編』三六−一。平成17年。
7.編纂室編『6代学監 宮原民平』に収録。513〜516頁。平成13年。
8.官民学界の有識者39名を選んで委員を委嘱し、「学生生徒の左傾原因」と「左傾対策」を主題に、総会6回、小委員会17回、整理委員会8回を開き、後に大臣に答申した。『集成』1巻。68〜74頁。
 答申は、左傾原因として、教育の欠陥の冒頭に「国体観念に関する教育の不徹底」を挙げている。革命に対置する概念として国体を持ち出したのである。同69頁。
9.第一次近衛内閣で文相、第二次では内相に就任。
10.「思想調査資料」は、『集成』2〜9巻、「学生思想運動の沿革」は10巻に収録。
11.中国人留学生は、いわば外国人である。文部省は、翌年の昭和7年1月29日付発学五号の次官名による学長宛、「朝鮮出身学生生徒の思想に関する件」を通牒した。この通牒は出るべくして出された通牒ではあった。前文に「朝鮮独立運動と共産主義運動との関係概要を併せて及送つき候」とあるからである。尤も、この概要についての当該文書は不明である。大学側担当者のメモとして、1、鮮人学生生徒の思想的事件、が記されているところを見ると、その題名の2文書が送付されていた模様である。担当者の押印がある。
 コミンテルンの革命運動が東アジアに対して面として展開されていることを、文部行政側はつとに踏まえていたことが推察される。ただし、関連情報は自らの省で把握はできるはずがない。出遅れていたのは、これまで追った経緯で明らかである。そこで、内務省からの情報提供に負っていたのは容易に推察される。
12.大正15(1926)年1月15日に、治安維持法の最初の適用を受けた「京都学連事件」が発生した。京大生を大多数とする社会科学研究会員が検挙された。同事件の背景には、左傾思想の影響を与えた河上肇がありと、その著述の要旨を『調査資料』第1号は詳報している。この頃は、後年に見られる締め付けはなく、たとえ革命思想を鼓舞しても、言論の自由はまだ制度的に保障されているのが見える。『集成』25巻に収録。
13.『彙報』(甲)は40輯まで、『集成』25〜27巻。(乙)は15輯までを28巻に収録。


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