昭和史における文部行政への政策評価

2007年12月20日

文部省による思想管理の実態<1>
〜昭和5(1930)年から16(41)年の拓殖大学史から〜

池田 憲彦
元・拓殖大学日本文化研究所教授
同研究所附属近現代研究センター長
高等教育情報センター(KKJ)客員



一部 文部省が高等教育機関の思想管理を始めた大状況

はじめに/問題の提起

 日本が第2次世界大戦で敗戦して以来の半世紀余において,標題の期間は,まだ一般的に日本「軍国主義」の時代と言われている。特に昭和6(31)年9月に奉天(現在の瀋陽)で始まった満洲事変以後から昭和20(45)年8月の戦闘終結までの期間は,極東国際軍事裁判(俗称,東京裁判)の訴因期間によって15年戦争とも言われている (注1)。
 事変としての戦線が満洲からシナ大陸に拡大するに応じて,蒙古(現在の内蒙古自治区)や北支(中国本土を北,中,南に分ける見方)をも対象にした学生と随行教員の体験学習が始まっている。それは文部省独自の政策ではないだろうが,当時の高等教育機関である大学や高等学校,高等専門学校を,国策へ協力させる1つの形態であった。
 国策への協力とは何だったのか。他の言い方をすれば,やがて国家総動員の一翼を担うようになっていった教育社会での思想面における政府,特に文部省による管理統制の実態はどういうものであったのか。占領下でのGHQの指示の下に行われた思想管理を,適格審査から前稿である第一稿で省察したが,戦争以前ではどういう仕組みと施策で展開されていたのか。
 ポツダム宣言が記しているように,非民主的で軍国主義であったと単純に括って済ませている研究は多い。間違っていた風の価値判断が混入している総括をする前に,事実経緯はどのようなものであったのかは,意外に知られていない。それは,占領中から始まる戦前を全く否定する歴史認識を自明にする見地からの研究が先行し過ぎたところから来る弱点である。
 ここでは,限られた資料ではあるもののそれに基づいて,高等教育機関の全体に文部省が思想面ではどのように管理・統制をしていたかを明らかにしたい。事例として,拓大がどのように対応していたかを明らかにする。
 この期間を資料的に跡付けるところに,戦前・戦時・戦後の占領中の昭和時代における文部行政の思想管理が,実態としてどういうものであったか,その仕組みの一端も明らかになってくるであろう。行政施策としての管理のし方を通して,そこに共通する側面が炙り出されてくるであろう。


本稿で扱う資料の制約

 本稿で扱う期間を副題のようにしたのは,大学に残されている当該資料の綴りがその期間であるからだ。綴りの標題は【文部省学生部関係書類】である(以下,単に【綴り】とする)。副題は「思想問題関係」。表紙の右上には,墨で「昭和五年十一月起」とあり,その左隣にはペン書きで,「昭和十六年五月まで」とある。左下は「教務課」とあるところから,所掌と保管者は拓殖大学教務課であることがわかる。
 綴じられている資料の最初は,昭和5(1930)年4月1日の文部次官による大学,高等学校,専門学校,実業専門学校の校長に対しての,「学生部報告例に関する件」と題する書式についての指導文書である(二部序章を参照。以下,参照を省略)。
 なぜ,こうした動きの綴りが,「昭和五年十一月起」になっているのかは,それだけで1つの追求すべき課題になるかもしれない。または,単純な理由かはわからない。
 【綴り】に文部省からの当時は通牒と言った通達の全てが収録されてはいない。収録されている文書の内容から遡って調べてみると,欠落している場合が少なからずある。官庁文書は番号が付ってあるから,欠如はすぐにわかる。
 本来は,文部省側の当該分野の通牒の全てを探索して,比較検討して欠けている資料の有無を確認し,その内容も調べるべきであろう。だが,その時間的な余裕は筆者に与えられていない。しかも行政機関は一定期間を過ぎると破棄する。
 しかし当該分野の資料については,思想調査資料集成刊行会編『文部省思想局思想調査資料集成』全28巻がある(以下『集成』とする)。昭和56(81)年に日本図書センターから刊行されている。そこで必要に応じて用いることにする。ただし,この資料の収録期間は昭和4年から12年までで,その後はなぜか収録されていない。
 上記の2つの資料群に,総務課蔵の残存していた資料も加えて用いることにする。当該分野が教務課と総務課に跨っている理由は不明である。文部省への回答なり報告なりでの所掌区分が明瞭でなかったのか。それとも,個々の事例への大学としての行政側への身の処し方で,管理者の態度が臨機応変であったのか。その判断は強いてここで行う必要はない。


資料の引用の仕方

 原資料は公文書に限らず当時はカタカナで記されているのが通例である。しかし,引用に際しては平仮名にする。これは読者の便宜に供するだけであって,それ以上の他意はない。
 また,当時の語法で句読点を入れないで,流している場合が往々にしてある。現代の読み手には,どこに区切りがあるのか読み下すのに苦痛を招く場合があろう。引用にあたっては,筆者が随時,一字開けて読みやすいようにした。それを引用に際して断ってはいない。
 残存資料の紙が老朽化して,記されている語が判読し難い場合は,□を当てている。
 なお,拓殖大学創立百年史編纂室(以下,「編纂室」と略称)編『拓殖大学百年史 資料編四』(以下,単にSWとする)が,平成16年に刊行されている。ここで引用した資料でSWに収録されているものは,読者の便宜を図り付帯番号を紹介することにした。その仕方は(SW該当表題番号)。


主題への接近の仕方

(1) 本稿は「管理」から前稿と一体で読まれるようになっている
 本稿は,先に発表した第一稿『占領下における教職“追放”(教職員適格審査)〜文部省の自己総括と大学の適応過程の検証』と表裏一体で読まれるものとして執筆された。資料だけを紹介されても,前知識のない現代の読者にとって,その文脈はあまり鮮明にならないからである。しかも,昭和初期から20年にかけての当該分野を経た者はほとんど生きていない。
 では,なぜ前稿と本稿を表裏一体で読まれる必要があると言うのか。文部省という政府の中では主力ではない行政官庁の現在では通達といわれる諸通牒という制約された範囲ではあっても,そこから見えて来る現象は,読み手に充分な知識と見識があれば,部分ではあっても全体を覗うことができるからだ。それについて,第一稿の末尾で記した。本文で追い追い明らかになってくるように,この期間の日本列島にある社会の傾向を示す動静である。
 振り返って見ると,徐々に一定の国論の収斂を図る作用に強化されていっている。その収斂に向けての力学は,国家の方向を妥当に構築するための諸判断に必要な海外情報の流入にはどのように働いていたのか,関心の湧くところである。
 現実の経緯を見ると,行政は文部省も含めて意識していたのかどうかは不明だが,むしろ負の働き,すなわち流入を操作するように働いていたように覗える。左傾という羹に懲りて膾を吹いている。
 また,別の言い方をすると,判断を下す際に必要な当事者にとって都合の悪い情報は,避ける癖があったように見える。その傾向はアジアに経済権益を保有していた欧米列強や,とくに米国と連携した中国との関係が厳しくなり,国際的な孤立感を抱くようになるに従い,徐々に強まっていったように見える。

(2) 海外から来た管理を優先する要因
 なぜ,そのように思われる節があるかを客観的に示唆するために,以下,主題である「文部省による思想管理」が始まった際に,同省の置かれた大環境を,「前提」という項を立てて3つの側面から明らかにしようと試みる。管理の始まる要因と受け止めてもらいたい。
 欧州という場所的に限定されたものではあれ,最初の世界戦争であった第1次世界大戦は,その影響から見ると,これまでの人類が経験しなかった出来事であった。戦争終結は平和をもたらしたのではなく,戦後処理に失敗したことによって,同じく人類の経験したことのなかった世界恐慌を現出させた。人々は経験したことのない事態に直面すると,その期間は別にして,方向感覚を喪失する。何処に自分が居るのか,どのような方向に進んでいくのかが見えないところから来る遅滞現象である。
 2004年10月に行われた米国の大統領選の直前までは話題になったマイケル・ムーア監督作品である映画『華氏911』では,米大統領ブッシュが,2001年9月11日のニューヨークにおける連続テロの情報に接したおりに,7分間にわたり呆然としていた場面が出てくる。画面から大統領の適格性を映して問題視しているわけだ。こうした事態は個人だけでなく集団にも起こりえるのは歴史の示すところである。
 世界が経済恐慌という事態に直面して自失状態になったのを,「前提一」で取り上げる。そして,この現象は日本側から見ると海の外から襲来した。
 そうした状況を自分たちの掲げるイデオロギーの予言が当たったのだと確信した党派があった。それはマルクス学説を掲げた共産主義者であり,彼らは勇躍して台頭した。その国際的な連携組織であったロシア共産党が中心になったコミンテルン(コミンターンともいう)の活動は,日本国内でも展開した。革命という体制変革を理論的にも活動としても展開したために,政府は自衛としての対抗措置を講じたのを指摘したのが「前提二」である。この現象の発端も海の外から襲来した。
 最後に,第1次世界大戦の戦勝国側による軍縮についての日本外交の決定が,国内でどのような反動を招いたかを問題視する。軍縮という現象は当事者である日本の問題である半面で,受け止め方では,上記の前提と同じく海の外からの圧力で生じたと受け止められてもいた。「前提三」である。そこで生じた政策上の選択をめぐる内紛が政策論よりも精神論に傾斜していき,日本の政情と志向に徐々に深刻な影響をもたらし,国策をも歪める事態になっている。

(3) 思想を管理できるとする「見識」(?)
 一つの政策なり行政施策は,ひとたび実施されると次のものを求める結果になる。それは連鎖して展開することになる。施策されたところから生じた反応が次の施策を求める場合もあるからである。施策を立案する側に一定の意図が構成されてくれば,その範囲は別にして,その施策は戦略性を帯びてくる場合もある。
 本稿では,事態をどのように読むかは評価に直接するので,急がないことにする。その前に,後述の「前提」を踏まえて,残された資料から主題はどのように展開したかを追ってみよう。満洲事変,満洲建国,そして国家総動員法の公布を折々の山場にして,諸施策はどのような内容で通牒されていったのか。
 本稿では,革命信仰が浸透する高等教育機関の教員と学生に対する政府それも文部省という行政側の危機感がどういう対処をもたらしたかを,資料的に跡付けたい。左傾としての革命派に対峙した右傾の維新派にも触れないと,片手落ちになるだろう。対処は,ここでの表現では「思想管理」になる。
 そして,その展開に対して私学の1つであった拓殖大学は,どのように応えていたのかを明らかに出来る範囲で紹介していこう。「明らかに出来る範囲」とは,資料や資料にもならないメモ書きの断片として残されているものを用いる場合もあるので,筆者による限界の確認である。
 通牒を出した側との応答の過程に,大学が有した姿勢の一端が証明されて来る。この姿勢は歴史の一端を伝えている。歴史の一端とは,大学を擬人化して観れば,その大学の持っていた見識を浮かび上がらせることも可能ではないか,と言った程度の意味である。しかし,思想史として眺めれば,この程度の意味するものは軽くない。


前提一・暗黒の木曜日から始まった世界恐慌の余波

(1) 世界恐慌の背景
 昭和史は,日本の国内だけの要因で展開したのではない。日本「軍国主義」を問題にしたときに,どの立場にあっても,この節の小見出しにあるニューヨークの株式市場で29(昭和4)年10月24日「暗黒の木曜日」から始まった大暴落を重要な事件として取り上げる。どの史観もその破局的な衝撃の強さを無視できないからである。
 世界恐慌は,突如として発生し,各国の経済を直撃したものではない。日本では,その遠因は第1次大戦後の戦後恐慌から,さらに27(昭和2)年3月には蔵相の失言から始まった金融恐慌の先行現象があった。流言が影響力をもち取り付け騒ぎになったのは,国民経済が疲弊していたからである。そして世界恐慌は,日本だけに限らず各国の国民経済を巻き込み,打撃を与えた。
 世界恐慌の起きた第1の先行条件は,14年から始まった第1次世界大戦が18年にドイツの降伏によって終戦になったものの,戦争景気を凌駕するだけの戦後復興景気は起きなかったところにある。
 その原因の一つは講和会議での賠償問題の処理の仕方にあった。懲罰的な意味で天文学的な賠償金がドイツに課せられた。その結果,インフレを亢進させただけだった。米国だけが一人勝ちして「暗黒の木曜日」まで生き残ったものの,他の地域では戦後不況が常態化した。1国だけの繁栄は長続きしなかった。この先行事実は現代にも示唆を与えている。
 欧州各国が生産を戦争に向けざるを得なかったときに,日本は戦場とならずに戦争を奇貨とした。雑貨や繊維,生糸という軽工業産品や原料が中心ではあっても,海外市場を相手に生産力を拡充し得た。そして,史上初の戦争景気は,終戦によって生産の縮小を余儀なくされ戦後不況に直面した。
 一度は拡がったパイの縮小を再度拡大しようとして,満洲を含む中国大陸への侵略によって行おうとして壁にぶつかり,戦争に入っていったとするのが,この半世紀の公式化された史観である。侵略の担い手は陸軍であり,それを総称して軍部としたので,日本「軍国主義」という表現が占領軍側から付与されたのであった。現在の中国政府は今も用いているのは,2007年5月に訪日した中国の温家宝首相が国会演説で述べているところである。

(2) マルキシズムの預言は当たったという説の蔓延
 こうした現象は,戦前から占領を経ての日本における社会科学分野の学界では,主にマルクス学説による恐慌論から,資本主義の行き詰まりによる構造的な必然と解説された。この論旨を敷衍して,資本主義経済の行き詰まりを糊塗するための悪足掻きとして,ドイツやイタリアでのファッシズムが出て来る,日本では軍国主義になった,という至れり尽くせりの論理展開であった。
 史的な必然論に当時の多くの社会科学者や,さらに人文科学者も痺れた。学生も同様である。しかも,大戦終了の1年前の17年ロシア暦10月に,労働者による革命として旧体制であるロマノフ王朝が倒された。実際は200名に満たない革命派革命派がペテルブルグの冬宮殿に乱入し占拠,こうした武力行使に臨時政府がなす術もなかっただけだった。しかし,世界最初の労農連携による共産党政権がモスクワに樹立される起点になった。
 いずれ,世界は史的必然によって資本主義体制が崩壊し,恐慌と革命によって共産党の天下になるとの幻想の実現が確信されていた。資本主義の醜悪さは現出していて目前の日々に明らかである。資本家に搾取されない労働者による社会が出現する。働きに応じて賃金を得ることができるユートピアが実現する日は近い,と信じられたのであった。
 日々刻々と展開している現実のあらゆる出来事は,革命の予兆と信じられた。昭和2年に発生した金融恐慌,2年後の暗黒の木曜日,それに続く世界恐慌,国内での失業者増大,農村の疲弊。こうした個々の現象は,すべて次の壮大なカタストロフィへの前兆と受け止められた。

(3) 政策科学より倫理的な把握に傾斜
 こうした思想と見るか「信仰」の蔓延に対して,国家の運営を担う国政選良は,所属する党派と組織に変わりなく,その大半は対応するだけの経験上の蓄積がなかった。資本主義という近代経済から来る目前に現出している出来事は未曾有の出来事であったからだ。問題山積の事態に,妥当な政策を提示できる思想的な用意はなかったのである。これは,恐慌現象が起きた諸国におしなべて共通していて,日本だけが無策だったのではない。
 全く思想上の用意はなかったのか。「空想から科学へ」ではないが,上述のように資本主義から社会主義への夢想はあった。市場に委ねる自由放任は終わり,漠然として何らかの管理なり統制が求められる感覚は,立場は別にして一般化していった。それが政策科学の範囲に入るのかどうかは別である。
 日本では,何らかの管理が必要との認識は高まったものの,事態に対して政策科学からの取り組みよりも,倫理的な見地や心情面から対処しようとする精神論が前面に出て来た模様である。なぜそうなったかは1つの大きな問題になる。その評価は,最終項の「八部」で扱うこととしたい。主力は,標題にそって資料の跡付けをして,この時代の思想管理の仕組みとその展開の文脈を見る素材にしたい。


前提二・コミンテルン日本支部(日本共産党)の活躍

(1) 日本共産党は日本の政党ではなかった
 日本政府は,日本共産党及びその周辺をアカと俗称し,彼らの掲げる思想を亡国的な思想であると決め付けるしかなかった。そこだけを把えて治安維持法と連携させて考察し,「思想弾圧したのは天皇制国家である」とするのが,この半世紀の近代史認識であった。そう断定する前に,当時の「アカ」という存在の国際関係における初歩的な理解を進めていこう。
 なぜアカは亡国思想であると官憲も世相も受け止めたのか。理由は単純なのだが,明らかにこの半世紀の日本における知的世界と媒体には,意図しない誤情報と操作された偽情報が複合して,いまだに流布されている。
 日本共産党という名づけは日本という場所に拠点があったからに過ぎない。世界革命をマルクス・レーニン主義によって達成しようとする世界革命機関であったコミンテルン(コミンターンとも表する)の日本支部であった。ソ連共産党も支部の1つであった。中国共産党の創設期では,毛沢東がコミンテルンから給料をもらい,貧困から脱してほっとしている記録がある。
 日本共産党の本籍は日本にはなかった。現住所が日本であったに過ぎない。従って,あらゆる政治行動は,その指令が19年にペテルブルグで結成されたコミンテルンから来ていた。20年7月から8月にかけて開かれた同第2回大会で採択された規約で規定されている。この超国家的な組織は,43年の偽装? 解散まで継続した。思想の自由と政治行動は異なる以上,当時の日本の官憲が,「アカは亡国」と信じるのは当然であった。
 革命を信奉する学生生徒の若い世代は,国家への忠誠よりも革命に引き寄せられ,先鋭分子は前衛としての党への忠誠を誓った。その革命を推進する共産党の本体は日本にはなかった。コミンテルン本部はモスクワにあった。レーニンが生きていた時代は,それが自明であった。
 しかし,25年12月のソ連共産党大会でスターリンの「一国社会主義論」が採択された前後からは,世界革命の主体としてのコミンテルンが徐々に建前化して行った。それが決定的な段階に入ったのは,スターリンによる大規模な粛清が始まってからである。

(2) コミュニストの革命活動を危険視するのは当然
 コミンテルンによる世界革命の戦略戦術の全体が,各国政府や非コミュニストに見えてくるのは後のことである。しかし,多少でも判明するに従い,その国際性に基づく結社と政治活動は,主権国家にとって極めて危険な存在になった。日本において甚だしかったのは,ソ連という国家が日本に隣接していたところにある。さらに,その存在が日本の安全保障上で多大な影響力を有していたからである。
 そして,世界革命の美名の下に,次代の国家を担う層を養成する高等教育機関に共産党の影響は着々と浸透してきていた。革命運動の事前演習として学校紛争を頻繁に起こしている。文部省よりも国内の治安を掌握する内務省が愕然としたのは容易に推断できる。
 問題は主義としての思想ではなかった。実際の政治活動が,文部省の所掌範囲にある大学など高等教育機関内に限定されているものの,他国にある国際機関からの指令によって着実に展開しているところに問題があった。学生だけで結社はできない。大学教員や多くの左傾知識人も参加していた。
 勿論,不況もあって労働条件の悪化に対応しての工場労働者による組合活動の強化による革命気運の台頭を促進するのが本命であった。学生運動は二の次に過ぎなったものの,その社会的な弊害は深刻であった。

(3) いまだに実際が観えていない日本の知的(?)社会
 革命運動への誤認の最近の一例を挙げると,ゾルゲ事件の理解である。ソ連軍情報部GRUの一員であったリヒヤルト・ゾルゲに同調して日本の国策情報をソ連に流し,さらに日本の国策転換を図るために諜報工作を行った近衛内閣参与であった尾崎秀実は,平和を愛する愛国者であったとの見解がある。
 占領中から昭和30年代はともかく,最近でも篠田正浩という監督が作った映画「スパイ・ゾルゲ」の基調であり宣伝文句でもある。だが,ここには妄想か確信犯ならいざ知らず,大きな虚偽がある。尾崎は日本の死命を制する国策に関わる機密情報をソ連国家に渡した確信犯なのである。
 尾崎本人はコミンテルンと思っていたようだが,ゾルゲはGRUから送り込まれていた。彼は海の外にある機関に所属していたからともかく,彼に協力した尾崎らによって,どれだけ多くの日本人が,戦場は当然のこと,さらに銃後の市民にもかかわらず無差別爆撃によって斃れる結果になったのか。
 こうした初歩的な想像力は篠田に皆無である。普通の映画監督などはその程度の知識の持ち主なのであろう。だが,歴史を知ろうとして誤解を招く負の効果を考えると,世迷言として済ますことは難しい。ヒトラーが『マイン・カンプ』(邦訳『我が闘争』)で述べているように,「虚偽も繰り返し主張していると,そのうち真実になる」からだ。
 尾崎を愛国者と評せるのは,亡国を愛国と断定するのと同じである。戦後の半世紀の日本人の多くは,治安維持法の取り締まりの対象になった日本共産党は,日本の政党と思い込んでいる。そうした認識が最初の錯誤である。その刷り込みを前提にして偽情報は浸透し,人々は踊ることになる。
 また,治安維持法への誤解も多い。条文を見れば判明するように,法の目的は革命結社を対象としたもので,結社(共産党)に属さない個々人は法の対象になっていない。そこで日共党に所属していないコミンテルンと直接結びついている者は,野放しにされていたことになる。その同調者も同様である。数からいえば,党員よりこちら側が多かったものの,治安維持法の適用外であった。


前提三・ロンドン軍縮会議と統帥権干犯問題

(1) 必要な海軍軍縮を受容れられない過敏な国防意識
 決して豊かではない日本の財政にとって,半分ないし半分を越える軍事費は加重負担であった。国家予算のうちで軍事費の占める割合を考えると,とくに経費のかかる海軍の軍縮が英米の国際圧力もあって求められているのは,現在から見れば,政府にとって得がたい機会であった。国民経済の規模から見れば,日本が英米に対して,7対10の関係でも不相応とするのが妥当であろう。
 だが,軍民を問わず当時の日本の指導者は,欧米列強諸国に対して心情的に対等でありたいと願う気持ちが強かった。とくに第1次大戦後にあっては,英米両国と対等であるべきと自負していた。他の列強であったロシアは革命に倒れてソ連になり,ドイツは敗戦国,フランスは戦勝しても戦場として疲弊していたために,日本は三大国の一つと僭称できたからであった。
 第1次世界大戦後のヴェルサイユで開催された講和会議から設立された国際連盟の創立会議で,人種差別撤廃の条項を連盟憲章に入れようとしたのは日本外交であった。だが,それをなんと時期尚早という理由で,白人列強である英米仏に排除された外交経験を日本は得ていた。
 世界恐慌の余波が脆弱な近代日本経済の基盤を直撃する方向で,米国への輸出が大幅に低下する前兆にあった最中の昭和5(30)年1月11日に,金輸出解禁政策を日本政府は実施した。現在から見れば,この政策はどのような状況分析に基づいていようと,その結果は構造不況を加速する失政になった。そこから生じた危機感は国防意識に収斂されていく。

(2) 議会自身が統帥権への歯止めを脆くした
 大戦後も継続する軍拡に歯止めを掛けようと,同年1月21日からロンドンで海軍軍縮会議が始まり4月2日に閉会した。この結果に関する日本国内の指導者層における合意形成の齟齬が,後に禍根を残した。国家中枢の国政選良間で軍事についての役割分担が捩れたのだ。軍と行政さらに立法府の間において,国防に関わる取り組み方の認識が共有されなくなったからである。
 現在でも悪名高い統帥権干犯問題が発生したのは,ロンドン軍縮会議以来である。北一輝作になると言われる怪文書が発端と見られているが,この問題を取り上げて政争の具にしたのは立法府である衆議院であった。同年4月25日に,この問題を野党である政友会が政府攻撃の争点に用いた。犬養毅や鳩山一郎である。
 制度上から言えば,予算に係る軍政は行政権の範囲に入るのは自明である。この常識が生きないで,統帥権を拡大解釈して行政権の及ばない範囲にしたのは,立法府に帰属する政党であり前掲の議員であった。政争に熱心な余り,自己否定になっていることに気づいていなかったのか。または自信があったのか。この辺りは悪玉を軍部に押し付けてしまったために,まだ実際の政治過程は明らかではない。
 国会での統帥権問題の政争化に自信を得たのか,6月10日には海軍軍令部総長が帷幄上奏して,辞表を提出している。あからさまな内閣に対する不信の証明である。こうした上奏は,政府が所掌する外交権と行政権への軍による越権行為であった。統帥権の肥大による他の権能への干犯である。

(3) 統帥権の聖域化を助長した国体明徴問題
 以後,国体明徴問題も加速要因になって,統帥権は聖域化していった。どういう勢力が聖域の中にいたのか。軍部である。こうした推移は,戦時として国家的な危機状況にあっても,日露戦争の時代には有り得ない現象であった。後世が政争化した統帥権干犯問題を亡国の前兆と見るのを否定できない。
 現在から見れば,また国体明徴というこの不可思議な争点が,堂々と衆議院で論議されたこと自体理解に苦しむ。しかし,この問題とて先行の干犯論議と無縁ではない。時勢とはそうしたものなのだと言われれば,そうしたものなのであろう。こうした現象は山本七平の特異な著作『空気の研究』から省察するしかないのか。
 ここで扱った争点は,前項で触れた状況下で展開していた。世界恐慌の余波が重苦しく圧し掛かって来る気配を見せており,金解禁で財閥が操作で巨万の利益を上げたとなると,既成の勢力である財閥と汚職続発の既成政党への反発が国民の各層に沈澱していくのを止めることは出来なかった。
 国民経済が疲弊しているところでの,軍部はともかくとして統帥権が議場で争点となるような状況は,現在から見ればおかしい。神学論争だからだ。これでは,結果的とはいえ,その底流に軍拡志向の容認があると看做されても仕方がない。後知恵で言えば,こうした行財政現象は,政策科学に基づくはずの国家経営での平衡感覚の貧困からきていると見ることができるであろう。
 現代から見れば,観念的な統帥権干犯問題以前に,国民の過半数を占める農民の生活疲弊は軍の主力である兵の劣化を招くことを考えれば,その先には妥当な解答は出て来るはずであった。だが,漠然と抱えている世界認識をさらに深めて,経験化されるためには時間が足りなかったのであろう。時間不足のもたらしたものは何かを後世は吟味する必要があると思う。
 実際の過程は,実証的な政策科学の見地から事態を把握するよりも,次々と精神論を唱える観念化への傾斜が進んでいる。文部行政としての思想管理も国体明徴など精神論に収斂されていった。そこで,結果論ではあるが,事態への対処を後追いと糊塗でしか取り組めさせてしまったのではないか。



(注)

1.その期間が,拓殖大学と海外の関係史ではどういう時代であったか,満洲との関係に力点を置いて,資料的にその一端を明らかにしたのは,拙稿「満洲移住協会と拓殖大学」であった。『拓殖大学百年史研究』15号に収録。


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