昭和史における文部行政への政策評価

2007年12月18日

<解題> 文部省による思想管理の実態
〜昭和5(1930)年から16(41)年の拓殖大学史から〜

池田 憲彦
元・拓殖大学日本文化研究所教授
同研究所附属近現代研究センター長
高等教育情報センター(KKJ)客員



 はじめに

 第一稿として,『占領下における教職“追放”(教職員適格審査)』を四部にわたり発表した。第二稿として,表題の要旨を明らかにしたい。
 日本が軍事的な冒険に敗れたか,追い詰められての窮鼠猫を噛んでの果てかの評価はともかく,1945(昭和20)年9月2日に連合国に降伏調印をした。以後,1952(昭和27)年4月28日まで占領下におかれた。
 これまでの常識では,それ以前とそれ以後では,日本の文部行政は制度面でも従事者も,全面的・革命的に変わったことになっている。見方によればそうだろう。だが,仔細に見ると,果たしてどうか?という疑念も生じる。
 第一稿で扱った占領中の文部行政の進め方と,戦争に入る前の文部行政に,共通するものはなかったのかという問題意識である。本稿では,文部省による高等教育機関を対象にした思想管理の実態を,副題にある一私学での事例を通して実証的に明らかにする。見方によっては,本稿は占領中における教育変革の前史にもなる。


 昭和戦前の文部行政を軍国主義教育として否定したままでいいのか?

 これまでは,この小見出しのように,敗戦後から現在に至るまで,この時期の文部行政は問答無用で否定の対象になっている。それはそれで評価の仕方によるものだが,実際の思想管理はどのように進められたのか。当時出された諸通達から時系列的に追った包括的な研究を見たことがない。これは筆者の不勉強によるところから来るもので,すでにあるとすれば,ご教示ありたい。
 ここでの追求によると,文部行政の進め方は,丁度,占領中の教職追放に見られる「思想管理」と同質と看做される展開に気づくであろう。手順そのものはノウハウであってイデオロギーとは関係がないように見えるものの,やはりそうしたやり方というものは,その裏面に一定の思想性があるとみていい。だからこそ,実証的な解明に意味があるのだと思う。


 文部官僚は軍国主義者だったのか?

 一応は占領中に,一定の人数が適格審査に適合せずに,教職を追われた。それも,人数割り当てが文部省の方からあったという大学史での記述もあった(第一稿(1)。正史『東北大学史 上』(昭和三五年刊)を参照)。今風の言い方をすると,「やらせ」だ。指示するだけで,人身御供は指示された側がやらなければならない。この手口には,品性の感じられない姑息な卑劣さがある。
 後世は,こういうやり方が,非軍国主義化の名分のもとにされたことを知っておいた方がいい。では,戦前の昭和時代に文部官僚が追求したものは,軍国主義だったのか。かれらが追求したのは,「我国独自の学問文化」であった。


 「我国独自の学問文化」の必要性はどこから生まれたのか?

 これは,ロシアにおける1917年の10月革命後,大正末期から怒涛のように流入したマルクス主義,それも結社を作り革命運動として浸透してくるのに対する文部行政による懸命な対抗措置であった。その問題の背景は一部,以後の経緯は二部〜六部で触れる。この措置は,一言でいえば,慌ててうろたえた挙句の付け刃であった。


 拓殖大学は文部省の方針にどのように接したか?

 文部省の付け刃的な施策に対峙した拓殖大学における教学の思想史的な評価を,当時の教学に携わった人々の大学像や教学意識から明らかにする。学監新渡戸稲造,宮原民平,教授安岡正篤,後藤新平の後を継いだ4代学長永田秀次郎の考えを検分するのは,七部である。


 昭和という時代から現在に引きずっているもの

 以上,昭和の文部行政の文脈を思想管理の側面から追いかけ明らかにした上で,1945年を境にした戦前戦後における文部行政が現在の日本社会の思潮に引きずっているものは何かを明らかにする。それは今後の日本のサバイバルを見据えた場合の近現代における高等教育にある弱い面でもある。八部。


 21世紀を生き抜く大学像/総括

 最後に「総括」として,現在進行中のグローバリゼーションを凌駕し得る大学像をスケッチしてみる。近現代における高等教育にある負の側面を越える教育機関を構想するには,どういう基礎的な条件の具備が求められているかを明らかにする。それらを具備できない学校は淘汰されるだろう。


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