昭和史における文部行政への政策評価

2007年12月5日

占領下における教職“追放” (教職員適格審査)<4>
〜文部省の自己総括と大学の適応過程の検証〜

池田 憲彦
元・拓殖大学日本文化研究所教授
同研究所附属近現代研究センター長
高等教育情報センター(KKJ)客員



四部(中間総括) 他力(外圧)による教職員適格審査への倒錯した理解

1章 ダブル・スタンダードとフェア・プレイの錯綜から

 1節 価値の逆転への適応

 GHQの意図を実現する方法や戦術は,明確なダブル・スタンダードに基づいて構成されていた。あめとむち,陰と陽の両面がある。今年(2007)はペリー太平洋艦隊の日本来航154年になる。江戸湾での艦隊による示威を思い起こせばよい。大東亜戦争における日本降伏の,1945年9月2日に調印式がなされた東京湾に停泊していた戦艦ミズーリ号の星条旗は,マ元帥の要望で,わざわざペリー艦隊の旗艦に掲揚されていたものを取り寄せたと言われる。もって,その意図が容易に想像される(注34)。
 3年有余の死闘を繰り広げての勝利である。負けた日本を煮て食おうが,どうしようが勝手である。戦争中は,剥き出しの敵意が双方にあった。米軍が日本を占領した途端に,日本人に向けて公明正大になると信じ込んだ,日本側の認識と態度は異文化交流の事例として興味深い。ここでの日本側とは,例えば教職員適格審査を東京裁判の教育版だと言い切った相良主事やその上司である田中耕太郎文部大臣である。
 思想的にも政策的にもすぐに戦勝国側と「共棲」できる上記の選良は,100年単位の歴史の流れから見ると,特殊な人々である。大方の日本人には昭和20年8月15日まで,敵は鬼畜米英と称して人間扱いしていなかったではないか。それが一転して,GHQやその関係部署のお達しにより,その全面的な「協力」により平和と文化国家の建設に邁進することになる。すこし知的な平衡感覚があれば,こうした理解は倒錯であり自己錯覚もいいところである。
 ほんの少し前には,兵隊さんよ,ありがとう,であった。それが,脱脂粉乳を給食で配給されて,アメリカさんよ,ありがとう,となっている。ニッポンの兵隊さんは軍国主義の戦犯に成り下がってしまった。
 筆者は,三重県の山奥にある小都市の名張で小学校2年生のときだったと思うが,標準語が話せるところから学芸会で米国将校の役を振り当てられた。日本人学童から感謝される役回りであった。おそらく文部省からの通達でそうした演出をした真面目な教師は,ほんの数年前には,やはり文部省の通達で「兵隊さん,ありがとう」の劇を作っていたのかも知れない。

 2節 占領認識の転倒と錯誤

(1) 天皇の命令を必謹
 GHQに代表される米国の占領軍の統治に対する,素朴なこうした認識の転倒や錯誤はなぜ生まれたのか。占領が終わり半世紀も経ている今日,そうした認識をいまだに引きずっているのはなぜか。当時の教育過程から,エリート(選良)と庶民の2つの分野での受け止め方を見る必要がある。
 確かに,占領中に日本社会のカッコ付きであれ民主化に取り組んだ米国人に,権威主義的でなくオープンでフェア・プレイに富んだ人材も多くいたところから,好印象を与えた場合もあると思われる。それに日本人の好奇心と向上心が相乗的にプラスに働いたかも知れない。実際,日本人の多くは,米国の占領を顕著な抵抗もなく受け入れた。それは統帥権者であった天皇の命令であったからだ。
 この見事なまでの降伏後の平静さは,それまでの特攻や玉砕の凄まじい戦闘性に比して,国際的に見ると珍現象ではあった(注35)。こうした日本での現象は,他国の現象と較べると奇異そのものである。奇異を奇異ともしないところから生じる錯誤のもたらす弊害は計り知れない面もある。
 この異例の事態に米国は過信という錯覚をもったのは,最近の事例でのイラク戦後での米英軍の統治に対する反発を見ればいい。自爆テロが続発していて,戦闘終結後の米軍死者が,戦争中より増えている。それが世界の常識とした方が妥当である。
 国家としての日本は敵国に対して敗北を認めて戦闘を終了した。降伏条件の理解で,双方の錯誤が後述のようにあったものの,ともかく,双方の合意は成立した。ただし,無条件降伏とも言われた。日本側は国体を存続させるという条件を提示して,明確な答えを得ないまま受け入れている。

(2) 「新しい範疇の占領形態」
 日本側の条件を了承したのかどうかの確認に米国は答えなかった。降伏の意思表示の後,バーンズ国務長官の返事には,例の be subject toの下りがあったところから,外交文書におけるレトリックの怖さがあった(1945年9月22日付)。なぜなら,20日前の2日の降伏調印式を迎えて,NY紙に日本の「精神的武装解除」の必要を述べているからである。
 バーンズ回答は降伏調印後の話である。日本政府はその回答を受け入れたことになってはいるが,時系列の整合性はない。入り口からして無条件降伏を前提にした「新しい範疇の占領形態」(竹前栄治)になってしまったようだ(注36)。
 ともあれ,日本は局地的に米軍等の軍政下におかれ,後に従前の日本政府を通しての間接統治になった。戦勝国の対日降伏条件であったポツダム宣言には,全面占領とは書いていないとの論点もあるが,負けた以上は相手に一切を任せたのであろう。
 そこから,米国善玉説だけが横行することになった。これは,米国の占領政策における心理戦としてのプレス操作が巧みであった面も影響している。また,追放を免れたことでGHQの意向に過度に同調したマスコミ人は多い。米国の占領統治者がフェア・プレイだけで日本側と接したり,あるいは狡猾だったりしただけなのではない。優先順位はともかくとして,混在していたと考えるのが妥当だろう。
 比較すれば,白村江での敗戦のように古代はともかくとして,近代では初体験の敗戦に自失してか,日本側が官民を問わず呆けてしまっていた,と見るとすると,呆けた状態はいまだに続いている。それは占領下でのGHQという他力による構造変革を天恵のように受け止めて,それに依存するだけでなく,同化して推進した人々がいたからである。

 3節 占領政策の一面しか視ない進歩意識

(1) 法制上から見た占領時代
 すでに二部2章(とくに3,4,5節)や三部4章(はじめに)で見てきたように,GHQの下請け機関になった旧「官」である文部省の審査作業への取り組みは,実に生真面目である。命令に忠実に従った制度が生まれたおりの初心を持して,その継続に勤勉に頑張っている。
 そうした態度は,占領時代以前の主権国家時代の思想管理への取り組みとさほどの違いはない。こうした倒錯した心理と行為は,一体どこから生まれたのであろうか。適格審査に取り組んだ態度を,卑屈,トラの威を借りる狐と罵倒して決め付けるだけでは,済まないものを感じる。どのような事態にも通じる妥当な感性や判断基準をもたらす常識とは何かを,改めて考えさせられる。
 占領中に制定された「憲法」(?)は,主権回復後に破棄することにはならなかった。なぜかは諸説があるものの,つまりは信を取るより,兵を捨てて食を優先した態度に関係しているのか。敗戦により恒産が消滅したと思ったのか。
 正統な憲法学者からは,占領下の憲法制定は無効であるとする見解は,論理的にも道理から見ても当然にあった。そうした意見は,国際常識からも自明であった。国会も,旧世代の議員にはそうした見解は多かった。あっても,大勢は憲法の存続となっていたのは,その後の経緯が示している。講和条約の発効により占領時代に区切りをつける選択をしなかったのである。
 それでは,ポツダム宣言とそれに基づいた諸指令による占領中の関連法令は,講和条約が発効しても,不文法として生きていることになる。占領時代にできた不文法遵守の意識内容は,どんなものか。

(2) 占領中の変革(精神的武装解除)を進歩と考える意識
 適格審査の方針を継続することを求めた77号は以下のように考えたところから生まれている。降伏以前の日本は,国際的にも歴史的にも,さらに文化的にも未成熟で至らない部分が多かった。そこから国策も間違った選択をして侵略戦争に狂奔し,周囲に多大な迷惑をかけた。
 講和という事態は,帝国時代に復元することを意味するものではないはずだ。日本社会は,占領下におけるGHQ指示による諸改革によって大きく変革し進歩したのである。二度と過ちを繰り返さないために,占領下の諸指令に基づいて始まった新教育の精神と仕組みは,さらに前進させて行かなくてはならない。
 これでは,同時代でも後世になっても,こうした事態を倒錯と批評したり総括したりしても,受け付ける余地は全くない。
 ここには占領側の対日ダブル・スタンダードを推理する見地はない。だからこそ,「教育民主化の徹底を一層期するためには,(中略)適格審査制度の趣旨とするところに十分思いをいたし」(77号)という文節が,素直に出てくる。77号は,占領中の諸指令にあった実定「法令」が不文として存続することを明文化したのである。
 事態を一面からしか見ない教育こそ非民主主義的ではないのか。現象を少なくとも表裏から見る,あるいは様々な角度から眺める思考を育成するとは,一方でリアリズムとは何かを教育することではないか。それこそ,民主主義とは関係なく教育の本来ではないのか。とくに高等教育では。
 こうした次官通達を違和感もなく出す態度は,面従腹背の勧めである。主権回復後の建前は棚上げにして,従前の継続を求めるところは,「あれかこれか」の強要である。そこには,複眼的な見方を訓練しようとする心掛けを,どう贔屓目に見ても感じることは難しい。かくも占領政策の目的に頑なに同調する心理と生理とは何なのか。その背景にあるのは,明治の開化優先時代に移入された進歩意識であろう。だから過去を容易に足蹴にできる。

2章 次官通達七十七号作成の心理学

 1節 「戦後民主主義者の精神型態」の象徴

 文部省によるCIEの指示に忠実な様は,すでに二部2章の各節で見てきた通りである。具体的な側面では,三部2章において,拓殖大学の適格審査への適応過程からも明らかにしてきた。そこには,審査制度が拡充されることによる対象規模の拡大を見た。
 適格審査を審査室の室員が自画自賛している発言の記録は,『審査月報』から引用して紹介している(二部2章/4節)。どうやら自分たちの発言を本気で信じ込んでいる。後世の筆者には,配給であるカッコ付き民主主義というまがい物のバーボン・ウイスキーに酩酊している,としか見えない。あるいは敗戦と追放を経た急性アノミー化で,最初から正気のない者たちだけが,「類は友を呼ぶ」で集ったのか。それとも集めたのか。だが,本人たちは大真面目であった。
 こうした集団だから,主権回復によって法制的に破棄という事態になっても,なんとか実質的に継続させようとする。適格審査の当事者たちであるこの「戦後民主主義者の精神型態」を,どのように理解したらいいのか。
 通常の理解ならば,審査制度が6年に及んだところから来る慣性化あるいは惰性化となるのであろう。だが,そうではない。それは,その後の文部省の動静に見えるからである。慣性や惰性ではなく,確信犯である。だから,こうした批評は,彼らに何らの痛みも与えない。
 関係法令の廃止により,審査作業が終了する直前に出された77号は,どういう状況認識から生まれたのか。その内容は最初に立ち返って丁寧に吟味する必要がある。占領下に行われた諸改革を推進した日本側の根拠を,改めて検証する必要があるからである。

 2節 適応に二つの型/積極的に同化するか屈辱と思うか

 絶対的な権力とは,その行使に当たって,行使される側が自発的に同調し,つまりは擦り寄り,作為が支配側の許容範囲である限りにおいては,一切文句を言わないものである。その許容範囲内で泳いでいる者の態度を,本人は自発的と錯覚していても,それを言葉そのものの意味から「自主性」とは言わない(注37)。
 この自主性という表現は,注13で引用した文献の一節にある。また,東京大学の「帝国大学新聞」(986号)の1面の記事にある表現にある,GHQの「指令の意を体した」「自主性」も,本来の自主性の意とは乖離している(二部1章/5節)。
 しかし,彼ら室員は,適格審査を本来の意での「自主性」に基づく神聖な行為と信じ込んだようだ。現在から見れば,占領下のこうした現象は,1つの適応と見るべきだろう。その適応には,本稿で解明してきたように,2つの型があったと言える。
 その1つは,自主性と錯覚している積極的な同調である。1章2節「占領認識の転倒と錯誤」で前述したように,同化と見た方がいい。他方は,不承不承の消極的な同調である。ともあれ消極的な同調があった理由の1つとしては,法制上のペナルティの用意を上げることができる。大学は,審査関係の書類の未提出を催促された際に,審査室から罰則について敢えて触れられている(三部2章/2節(2))。
 【記録】や77号は,いわば,消極的な同調ではなく,積極的な同調(同化)の存在証明なのである。消極的に不承不承に適応した立場から言えば,屈辱の証明である。だが,屈辱とした見地は,この国ではまだ市民権を得ているとは思えない。2006年12月の教育基本法改訂により一応の根拠は得たが。
 同化という現象が発生したのはなぜか。おそらく,占領における他力を他者として認識することを拒んだことに違和感がなかったからであろう。同化に不本意な立場を執る側の後世からは,こうした現象は,キツネが何時の間にか虎と錯覚して,適格審査に誠実に取り組んだ面もある,と見られる。

 3節 過度の同調・同化から生じる退廃

 77号を発意し作文した文部官僚とおそらく存在した省外部にいる複数の協力者たちは,おそらく,主権回復という事態を法理的に以下のように考えたのではないか。講和条約の調印と発効という経緯はポツダム宣言の趣旨になる対日要求を,室員を含む日本政府構成員の努力によって,国際的つまりは講和条約調印国にほぼ達成されたと判断されたところに起きたと。
 だが,米国が対日講和を急いだのは,次節においてレッド・パージの背景で記すように,東アジアの国際的な環境変化に起因していた。そこを冷静に認知する思考は77号の紙背からあまり感じられない。もっぱら支配していたGHQの意向に同化した成果の達成度への執着である。そこで彼らは考えた。残念なことに,それはまだ完成されてはいないで,途上にあると。
 見方によっては,そうした呆けた状態であり続けるから,占領後の変革を日米合作とする錯覚が米国人の側からも根強く残ることになる。ジョン・ダワーの訳題『敗北を抱きしめて』がピューリツァー賞を受賞できるところに,不健康さを感じるのは筆者だけではないだろう(注38)。現在のイラクでは,「敗北を抱きしめて」占領軍の米国と合作するのは,亡命先の米国から帰国した者たちだけのようである。
 このような錯覚というか倒錯心理をダワーに抱かせたのは,占領中にGHQから与えられたマニュアルを徹底して行い,その推進を賛美するような日本人がいたからだ。過去形ではなく,現在でもいるのは,筆者や訳者のあとがきを見ればいい。
 こうした米国側に現在も残る執拗な倒錯した理解は,対日不理解を蔓延させ持続させる働きをもっている。事態をリアルに見ることを劣化させる日本人の育成という弱体化をさらに深化させるだけだ。さらに, 日本だけでなく米国による例えばイラクなどの他国への政策にも影響するので,罪が重い。「敗北を抱きしめ」合った初期の幻想が夢想であることを,社会的に曲がりなりにも最初に感じさせたのは,レッド・パージであった。

3章 レッド・パージ(逆コース)の認識

 1節 パージが180度転換した国際的な背景

(1) 占領の本質を露呈した朝鮮戦争
 カッコ付きの民主化の推進という,幼いだけでなく内向きの視野狭窄から生じる倒錯心理に安住していたら,5年も経たないうちに大陸と朝鮮半島から逆風が吹いてきた。それは,明治維新の遠因の一つであった北方の熊の南下に起因する寒風と,相似的な展開であった。
 こうした事態の起きる可能性は,日本が敗戦したおりに,先達にはつとに予想されていたことではあった。A級戦犯であった岸信介は,占領軍の取調官にそれを強調したものと思われる(注39)。地政学的な位置関係と環境は,幕末から維新,そして敗北後の占領中,さらに現在も変わっていない。
 国共内戦の結果から,1949年10月には北京で中国共産党を主力にした政権が樹立されて,それまでの中華民国の主力であった中国国民党は台湾に亡命した。その余勢を背景にして北朝鮮軍が50年6月に,境界線であった38度線を越えて南侵を開始した。
 占領を実質上で担っている米国にとって,軍事的には東アジア情勢が激変したことを意味していた。米国は,自国の反対側にある西太平洋のリムランド,台湾,沖縄,日本列島に依拠することになった。
 朝鮮戦争が始まる前から,米国は大陸情勢の激変から,日本の占領改革の負の側面に気づき始めてはいた。50年1月1日の年頭教書でマ元帥は,自分の主導で作った「新」憲法の基調であった不戦・非武装を否定し,自衛権はあると述べた。弱体化を意図していた民主化が行き過ぎていたことの認識である。日本の弱体化は米国の利益にならないことを公認した。翌年の年頭教書でも,再び主張されている。舵を戻そうと躍起になっている様が見受けられる。

(2) 民主化政策の裏面にあった日本弱体化
 ダブル・スタンダードの裏面にある本音としての日本弱体化が,米国の国家利害である太平洋政策に合致しなくなったのである。そこにはマ元帥の日本降伏調印式での牧歌的,見方によっては自己陶酔な演説の基調は失せている。彼の自己陶酔は,「東洋のスイス」(?)になれと,占領下での憲法改正?と制定までを日本に強制したのであった。因みにスイスの永世中立は国民皆兵と表裏の関係にある。
 朝鮮戦争の勃発による米軍のプレゼンスの低下という認識は,マ元帥に東アジア近代史の力学を冷静に認識させていたと思われる。51年4月に解任されて帰米し,議会に招かれて4月19日に演説した。最後の決め台詞「老兵は死なず,消え去るのみ」で有名である。
 次いで,上院軍事・外交合同委員会における非公開の聴聞会で同年5月3日から5日にかけて,議員による多くの質問に率直に所懐を述べた。初日の発言で出てきたのは,「日本は自衛(security)戦争をした」と,東京裁判の判決を否定する見解を提示したのであった。その発言に議員から反発が起きた記録はない。その認識に違和感はなかったのである。
 朝鮮半島では国連軍と呼ばれながらも,米軍の将兵は血みどろの戦いを余儀なくされていた。その戦いを,日清・日露戦争とアナロジカルな関係で眺める歴史と地政学的な認識力は,マ元帥にあった。ただ,気づくのが遅すぎた。このあたりがアメリカ人にありがちな自信過剰からくる甘さであろう。ベトナムで同じ錯誤を繰り返している。
 教職追放に真摯に取り組んだ文部官僚と属僚は,そうした米国側の認識をどこまで共有していたのか。77号の文意を見る限り,共有していない。日本帝国が連合国に降伏調印をした9月2日のバーンズ米国務長官談話である「精神的武装解除」の方針を,いまだに愚直に堅持していたのは明白である。

 2節 逆コースという表現に見る弱さ

 従来の占領政策を調整しようとの前兆は,1949年7月にCIE顧問イールズ(Eells)が国立新潟大学で,左傾教職員の追放が必要と講演したときからであった。50年2月には,東京都で義務教育のレッド教員への退職勧告も起きた。5月にはマ元帥が,共産党は侵略の手先と非難した。6月6日には,マ元帥は書簡で吉田首相に,共産党中央委員会委員24名の公職追放を指令した。民主主義者を二つに分けたのである。左傾と「本物」の民主主義者と。
 北朝鮮の南侵が緒戦で成果を挙げて,急遽派遣された在日米軍を主力にした国連軍が釜山周辺に追い詰められていた頃に,マ元帥は現在の自衛隊の前身である警察予備隊の創設を指令した。日本列島は,軍事的にがら空きになっていたからだ。
 8月10日には警察予備隊令が,他の諸令と同様ポツダム政令として公布された。同月23日には第1次7,000名が入隊した。11月10日には,10月30日付で,限定づきながら旧軍人の公職追放を解除して,翌年51年3月1日には,警察予備隊は解除された旧軍人を対象に募集を開始した。
 占領軍の指令は日本社会の進歩にとって推進力になっているという見地に立っていた日本の知識人社会は,レッド・パージとそれに関連する諸令が具体化し始まると,それを素直に受けなかった。つまりは,指令に基づくそれまでの改革は進歩であり,米国の政策転換は,その進歩に対し棹さす動きだと考えたのだ。反動というわけである。ここから,逆コースという表現も生まれた。
 米ソ冷戦時代の野党第一党であった日本社会党は,自衛隊を違憲と言い続けたのは論理的に妥当である。ここには主権のない占領下に制定された片肺憲法の主内容を前提にして,初めて出て来る主張がある。
 以後,94年6月に自社連立内閣が出来るまで,占領体制から主権国家に移行するための条件整備の全ては,教育基本法の是非を含めた検討も同様に,逆コースと呼称されるようになったのである。

 3節 レッド・パージを理解できない知性(?)

(1) 近代の「欧化日本」教育が生み出した正嫡
 占領初期の大規模な公職追放や教職追放は,日本社会の隅々に多大な影響をもたらしたが,レッド・パージも大きかった。民間企業約1万1,000人,政府機関1,200人,行政整理の名目で中央・地方公務員合計して約7万人,国鉄9万5,000人,民間企業は企業整備の名目で43万人が追放された,と言われている(注40)。
 逆コースという考えを受け入れた人々は,占領軍による東アジア世界の情勢変化から来る当然の対応であるレッド・パージが理解できなかった。第二稿の八部で触れる東京大学総長・南原繁などは,GHQによる政策転換の本質が終生理解できなかったと思われる。リアル・ポリティクスから生じた選択が分かる知的な幅はなく,複眼思考もできなかった。
 だから,講和論で全面講和論をぶちあげる始末になる。講和問題の米側の責任者であったダレス国務長官は日本の世論についての報告を受けた際に,全面講和論の幼稚さを,本気で言っているのか,それともソ連側のエージェントかと訝ったであろう。もし初期占領政策への同調と過度の適応から来ていることを知ったら,その少年的な初々しい素朴さに驚嘆したかも知れない。ダレスも老練ではあってもミッション意識の強い信念家であったからだ。
 南原の言い分には,あれかこれかの二者択一でしか受け止めない思考形態がよく出ている。いずれも例外はあるものの,少なくとも敗戦という貴重な体験を,学んでいない様をここでも見ることができる(注41)。

(2) 近代日本における「主義者の精神型態」
 日本知識人と言うと誤解が生じるかも知れない。そこで戦後知識人と称したらいいか。朝鮮戦争が起きる前後,もっと溯れば,その前兆は昭和22年2月1日に想定されていた例のゼネストへのGHQの中止命令から始まる,占領統治の対応への表層的な受け止め方である。「自由の指令」(二部1章/4節(1)を参照)の1節にある一定の方向において許容された自由への,自己肥大による倒錯した理解である。
 しかし,こうした性癖はいわゆる戦後に始まったとも思えない。与えた自由が占領軍の統治にとって不利に働けば,直接的に介入するとの意思表示に愕然とした進歩的な民主主義者の人々は,現実条件の無視に成り立つ軽率な皇国不滅の神話に縋った(?)若い軍人と,その思考形態は少しも変わっていない,というアナロジーは牽強附会ではない。
 「軍国主義者の精神型態」ではなく近代日本における「主義者の精神型態」と見た方がいい。ブレジンスキーの著作名ではないが,知識人に見られるあまりに素朴な「ひ弱な花 日本」は,戦後に始まったことではない。

4章 主権回復後に占領中の試行錯誤は総括されたか

 1節 勝利者は敗者に対し勝利の正当性を主張するという定理

(1) 自虐史観と評される側は痛痒を感じない
 本稿での主題の期間における占領という事態への,日本側の公的な世界,次に個々人による対応や適応過程を批評するのに,あえて自虐という表現を用いなかった。この数年に見られる歴史とくに近代史認識において,この半世紀の主流の有様を自虐と称するのが,先端部分でやっとのことで出てきているからである。
 問題は,当該期間での適応過程と表裏関係にある近代史認識を,自虐史観と評したり総括したりするだけでは済まないところにある。言われた方は,あまり痛痒を感じていない。このところが,まだまだ大きな残された課題ではないか。自虐史観と批評された側からの反発が,実際に提起された場合も多少はあるものの,必ずしも本格的なものとは言えない。
 自虐史観と命名されて批判されている側は,批判側をどうやら,基本的に相手にもしていない。あまり頭の良くない不学の者か転向組や脱落者による反動として,いつも繰り返される同じ現象が起きているだけだ,と思っている。逆説めいた言い方だが,彼らは歴史認識として過去を問題にしているのではなく,これからの改造される未来にしか関心を寄せていないからである。
 第二稿で扱われる昭和8(33)年に起きた共産党員の大量転向の意味するものが,敗戦後以降,現在に至るも,妥当に評価認識されていないのと軌を同じくしている。転向組は脱落者で,問題とする必要もなければ一顧だにする意味がないと確信しているのである。その確信に周辺も引きずられている始末である。

(2) 「植え込み」という「矯正」
 批判されて全く痛痒を感じない習性の由来を明らかにする必要がある。近代は第二稿で扱うとして,この稿は戦後と占領期間での問題である。すでに本稿に通底している基調でもあるが,古今東西を問わず,勝利者は敗者に対して勝利の正当性を主張する,という定理である。
 この定理を読み違えるところから,多くの悲喜劇が生まれて来ていたし,いまだに生まれて来ている。この定理は,現在のイラクにおける占領側の主張の根拠を見れば判明する。そして痛痒を骨身に感じている反対派は自爆テロを繰り返して,その主張に異議を示している。
 一方的に主張するだけなら,勝利者だから当然であろう。問題は,占領者が占領の正当性を被占領側に普及しようとするところである。もっと進んで言えば,洗脳するという表現も可能だろう。前出(二部1章/4節(2))で解析した,GHQの指令「修身,日本歴史及び地理停止に関する件」の文中にあった「植え込み」の逆読みをすればいい,との筆者の指摘で判明するはずである。
 「植え込み」という「矯正」作業が現行憲法に基づく教育基本法であったという側面からの接近が,これまであまりに少なかった背景理由は一体何だったのであろう。占領者の態度を,日本側の関係者がどのように理解していたのか,距離をおいて見ることが求められている。

 2節 占領政策の二重基準

 GHQによる日本弱体化はあったと見た方が妥当である。民主化という美辞麗句の背後にあったのは,米国の国益に根ざしたクールな政策意志の貫徹である。空間的に言えば,2度と太平洋に進出させないように,あるいは大陸に出てこないように,日本人を4つの島に閉じ込めてしまえ,である。出てくれば,連合諸国の利害とぶつかることになる。
 この判断は直截にポツダム宣言八項に,日本の領土は4つの島と関連する島嶼と記されている。だから,航空機の研究を差し止める指令までを出していたのは先に触れた。こうした政策意志と民主化の名分との整合性をどのように冷静に見ることができるのか。
 そうした二重基準の政策意志があるからと言って,GHQで従事した全ての人々が,弱肉強食の論理で武装していたわけではない。末端は蒙昧な東洋的専制の遅れた社会を開放しようとする,実に善意に満ちた人々が多かったと見てよい。先の立教学院での宣教師ポール・ラッシュは,その典型例であろう(二部2章/1節を参照)。
 今上天皇が皇太子時代に米語の家庭教師になったクエーカー教徒のバイニング夫人は,帰国後にいかにも蒙昧な日本の皇室開放の担い手になったかの発言をしていたそうである。過剰な善意から来る錯覚を起こしたのであろう。これも立教学院の礼拝堂が沢庵の倉庫になっていたのを怒った事例と同質である(注42)。
 この善意は,西部開拓時代はネイティブ・アメリカンを減らすための虐殺と表裏の関係にあった。フロリダにまで流刑されて幽閉されたアパッチ族の族長ジェロニモの行く末に,調教の原型が端的に示されている。現在のイラクにおける自爆による抵抗を繰り返している側は,いわばアパッチのような存在と調教する側は見ているのであろう。

 3節 ダブル・スタンダードが見抜けない知力

 人の振り見て我が身を直せと言う。多少の認識力さえあれば,自由と民主主義の旗手米国社会の裏側が露骨に見え始めたのは,ベトナム内戦への介入の度合いが深まるのに応じてであった。米国内での反戦運動とアフリカ系市民の公民権獲得運動の連携からである。民主主義国家を自称していた米国社会における白人と非白人の関係での建前と現実の落差が見えたのである。
 こうした文脈からすると,与えられた新憲法なり旧教育基本法なりの前文の論旨は,色あせるのは当然であろう(注43)。すると,教育基本法の存在は,改正云々の問題なのであろうか。元来は,放棄すべき存在であることが明らかになる。大枠は夢物語で,しかも占領側のダブル・スタンダードの産物なのだから。
 民主主義化と一体になった基本的人権が日本人に初めて与えられたかのように酔うとは,リアリズムの欠如である(第二稿八部7章を参照)。そうした幻想に一部でも同感すると,それは自己の一体性の劣化や弱体化に通じる。敗戦と占領という過程にあって,本物のインテリジェンスを有している選良はどの程度いたのであろうか。
 リアリズム認識の不十分な低い知力はどこに由来しているのか。それはGHQの意図する日本改造のビジョンという未来を共有して,共同で実現に向かっていると信じた幼さに由来している。この錯覚による仕事は,文化大革命時代の紅衛兵と同じで,造反有理と信じて破壊に狂奔する無間地獄に陥る羽目になる。
 国会の憲法調査会の要職に改憲派としてありながら,変節したのか,それとも進歩したのかの判断はともかくとして,日米合作憲法論に変わった人がいた。「敗北を抱きしめて」いるうちに,そうなったのであろう。数年前から盛んに言われ始めた教育基本法の改正という表現は,こうした発想と同様で,日米合作の産物と思われかねない。破棄が論理的に正しい。なぜ破棄が必要なのかを,ここで改めてその由来を真摯に問うことが大事である。
 それは,占領の7年間における改変がいまだに日本の国家機構や行政論理やその形態に様々な意味で影響をもたらしているからだ。その検証がされていないことは,占領下における諸般の歪曲の実態を,どのように評価したらいいのかの検討も,されていないことを意味している。

中間総括 教職適格審査は日本社会の進歩にとり不可避?

 1節 米国の利害と直接に結びついていた適格審査

 教職追放(適格審査)を東京裁判(極東国際軍事裁判)の教育版だと信じていた文部省の審査室初代主事であった相良惟一や,相良を全面的に支持していた学校教育局長から文部大臣になった田中耕太郎の有した原理や判断基準は,GHQの持ち込んだものと同質であった。彼らは日本に帰属していないで戦勝国の見地に立っている。GHQと「一体になって」(?)作る未来にだけ帰属していたのである。
 その同調者や支持者は彼らの周辺でいくらでも居た。帝国大学新聞に掲載された,GHQの方針による教職追放(適格審査)の記述に見られる論理構造(二部1章/5節)は,新しく登場した絶対的といえる権力GHQに変わり身早くすぐに適応して出てきたものとは思われない。背景は,彼らが思考空間を作っていった占領以前にあると見るのが妥当である。
 ポツダム宣言に基づくGHQの日本改造に全面的に同調しただけでなく,有力なイデオローグになった丸山真男や宮澤俊義らの見解は,どのように評価したらいいのか。相良らと同じように占領中の「民主化」を反動的な日本を捨てる欧化による近代化の延長線上で捉えていたのである。
 その自信は個人の生き方では問題はない。思想は自由であるからだ。だが,日本という歴史社会の在り方にまで拡大し政策化されると,歪みを生じさせることになる。適格審査は教育面の改革に名を借りた有無を言わせない強制による変革であった。しかも,その成果は占領者である米国の利害と直接に結びついていた。

 2節 第二稿『文部省による思想管理の実態』解明の理由

 本稿の冒頭「一部」で扱った官学私学を問わない大学史の編纂では,教職適格審査について充分な記載がないことを明らかにした。限られた容量で,しかも記述の仕方には様々な違いがある。省略もある。無視もある。
 それは書き手にも,編集内容を最終的に決定する大学中枢にも,表面化できない複雑な所懐があったことを示唆している。適格審査が単純に正しいと社会的に公認されて推進されていた時代と,編集人が時代意識を共有していない側面もある。経験者が生きていても,反省もあるだろうし,まだ迷いがあることを示している。歴史になっていないからであろう。
 占領下という異常事態での7年間の出来事と限定して整理するわけにはいかないところに厄介な側面がある。相良らは,敗戦以前の国策に協力した教職員に問題があると明快である。全否定された戦前である昭和時代の文部行政のうち,教職適格審査と共通する行政措置は,思想管理の面であろう。すると,この軌跡を明らかにしないでは,現象の全体像が明らかにならない。
 第二稿を『文部省による思想管理の実態 〜昭和5(1930)年から16(41)年の拓殖大学史から』としたのは,たとえ形式として下請けとはいえ,占領中に教職適格審査をした行政権力が,前史を意味する昭和史では思想管理面で自前の権力をどのように行使していたかを明らかにする必要があったからだ。そこを明らかにするところから,本稿の考察範囲ではあるものの,宿痾としての近現代に共通する官僚の生態学的な習性も炙り出されてくる。

(文中敬称略)



(注)

34.GHQに代表される米国側が日本をどのように理解していたかは,前掲『日本の教育/連合国占領政策資料』に,端的に現れている。
 または,前掲『GHQ日本占領史』のうち,「20巻 教育」五〜三四頁。一九九六年。古代から戦前までの教育史を解説する底本は,前掲『日本の教育』であることが注でわかる。この底本作りに協力した日本人が誰かを明らかにする問題が残されている。
35.袖井林二郎「占領したものとされたもの」思想の科学研究会編『共同研究 日本占領軍その光と影』(上巻)13〜25頁。現代史出版会 昭和53年。
 袖井の占領に関する認識は,日本人論から考えても様々なヒントを与えてくれる。革命説や解放といった奇妙で凡庸な占領認識と異なり,一読の価値がある。
36.竹前栄治『GHQ』154頁。岩波新書232。主権回復後の占領中への総括の取り組みがほとんどされていない現状から見ると,その成果は画期的であり,確かに「新しい範疇の占領形態」であったといえよう。
37.作家ア−サー・ケストラーは,スターリン時代の粛清裁判で,忠実なコミュニストの被告達が明らかに不当な粛清に対して,裁判官の意に同調して罪を認める心理的な仕組みを『真昼の暗黒』という作品によって明らかにした。論理的には同様である。
38.John W Dower.“EMBRACING DEFEAT. Japan in the Wake of World WarU”1999.
 三浦陽一郎他訳。岩波書店 上下巻。2000年。
 この膨大な著作の全編を流れている能天気ぶりは言いようが無い。とくに下巻の最終章であるエピソードは,独りよがりの錯覚の視点はどういうものになるかを知るいい例証である。
 訳者も著者の能天気を共有している。同著を「アメリカにおける日本理解の深化,ひいてはアメリカ自身の自己認識の成熟を象徴しているといってよいかもしれない」と絶賛である。これは訳者の知的な怠惰というよりは未成熟ぶりを露骨に見せている。ここまで来るとこっけいである。だから,イラクの平定と日本占領をダブらせる米国の政策マンが出てくる悲劇を生んだ。訳者にはそうした知的な展望力は全くない。
 高山正之が,『週刊新潮』の巻末コラム「変見自在」(02.12.12)で「マックなダワー」と題して一刀両断にしている。マッカーサー元帥の回顧録と比較しつつ,二人の無知ぶりを抉りつつ,それに基づく自己正当化の退廃ぶりを指摘している。
39.米国側の資料が解禁されない限り真相はわからないが,筆者の推理はそれほど狂いがないものと思っている。状況証拠はすでにあちこちで露呈してはいる。一例を挙げれば,春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』上下巻。共同通信社。
40.竹前栄治 前掲書201頁。レッド・パージの項。
41.渡辺喜蔵「わがレッド・パージ体験――地方紙と占領軍の陰」。思想の科学研究会編『共同研究 日本占領』206〜218頁。徳間書店 昭和47年。
42.欧米各国と接した近代日本の外交関係において,欧州各国と米国の対日態度は必ずしも全てが一致したものではなかった。幕末に攘夷の勅を奉じた長州藩が起した馬関戦争で,長州藩は英米仏蘭四国の艦隊に完膚なきまでに敗北した。その講和で課せられた法外な賠償金の一部を米国だけは明治政府に返還している。たとえ法外でも国際法上では返還しなくてもいいにもかかわらず,である。
 受け取った日本政府は,それを基金にして横浜港を整備することができた。『横浜税関百二十年史』。安藤真「アメリカで考えた21世紀の日本(三七)」。『自由』平成15年9月号より孫引き。128頁。
 米国が北清事変の賠償金の一部を返還して,それを基金に作ったのが清華大学である。
43.小田村四郎「日本国憲法の前文について」。同『占領後遺症の克服』84〜92頁。国文研叢書35 平成7年。


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