三部 事例/拓殖大学の適応過程
1章 拓殖大学の存在理由を否定した諸法令
1節 近代日本の海外活動と校是
(1) 近代での海外に向けた活力は一切排除された
ポツダム宣言は,日本の主権の及ぶ範囲つまり領土は,「本州,北海道,九州,四国及び我らの決定する諸小島に局限せらるべし」(八項)とした。つまり,近代日本が戦争や,あるいは国際条約で委任された領土や影響地は,一切が剥奪された。
次いで,「日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の擧に出ずるの錯誤」(六項)をさせた諸力は,「永久に除去せられ」(同項)ることになった。これが連合軍の日本を占領する名分であった。
すると近代日本における海外に向けた活力は,この新たに与えられた禁忌に何らかのかたちで抵触することになる。拓殖大学は海外発展なり雄飛を目的としていたはずであろう。それを端的に象徴化しているのは校歌の歌詞である。それは校是と称しても許される。それは言葉だけでなく,多くの関係者と卒業生により着手されていた。また,未完成ではあっても,実現に孜々として取り組まれてもいた。
だが,以下に判明するように,そうした校是とそれに基づく行為の多くは,GHQによる占領下の日本政府により法令化されたり通達されたりする諸内容から見れば,ほとんど抵触していた。いや,それだけでなく,明確に追放を指定された場合もあった。
「二部1章/2節(1)」で触れているように,この指令は,敗戦後の翌年1946年1月4日に"SCAPIN 550"として出た。一方で,教職員分野は,敗戦の年の10月22日に,「管理政策」指令が出ている。海外進出が軍国主義と裏腹にあると断定されているポツダム宣言からすると,「管理政策」にある「1 A 教育内容は左の政策に基き批判的に検討,改定,管理せらるべきこと」の(1)は,最初の厳しい命令を意味していた。
「(1) 軍国主義的及び極端なる国家主義的イデオロギーの普及を禁止すること,軍事教育の学科及び教練は凡て廃止すること」とある。文部行政の方針はこの規定から無縁ではなかった。
(2) 海外への展開は軍国主義的で国家主義的と断定
「管理政策」を受けて,さらにその方針の施行に向けた具体的な諸条件を盛り込んだのは,同月30日の指令「除外の件」であった。そこで除去の理由をさらに明らかにしている。その名分は,「一,日本の教育機構中より日本民族の敗北,戦争犯罪,苦痛,窮乏,現在の悲惨なる状態を招来せしむるに至りたる軍国主義的,極端なる国家主義的諸影響を払拭するために」であった。
「イ,」には,「軍国主義的思想,過激なる国家主義的思想を持つ者として明らかに知られている者」は,解職と明記している。
「勅令/除去,就職禁止の件」と「省令/除去,施行の件」は,その指令を受けてGHQの指揮下にある日本政府が,教職員追放に具体的に着手した法令であった。前者には,第1条で「著名なる軍国主義者若しくは極端なる国家主義者又は連合国軍の日本占領の目的及び政策に対する著名なる反対者(以下教職不適格者と称す)に該当する者(略)は教職より去らしめられ」る。3条では,戦前戦時に反軍国主義として離職させられた者の復職も命じられている。
要するに戦勝国に刃向かった者は軍国主義者だと,大枠で判定している。日本が宣戦布告した相手を攻撃したり承服しなかったりした者は,駄目の烙印を押すわけである。
その原則は,4つの島である日本列島から海を越えようとする考えに基づいた諸活動の否定である。多少とも武張った側面があれば,軍国主義に根ざした「世界征服への擧に出ずる」行為だと断定している。では,戦勝国である連合国側の植民地帝国は,平和裡に勢力圏を広げたのか。それには中国もソ連も含まれる。
近代世界で国家と無縁な諸国民の活動が国家の外で成立する余地は,それほど大きいものではなかったのは,近代史を素直に見ればわかるものだ。教育面でも同様である。だが,そうした意欲とそれに基づく諸行為は,日本人が思って文章にし,行った場合は,世界征服の挙に出た,と断罪されたのであった。
2節 評議員で公職追放をされた人々
評議員によって構成される評議員会は,大学における最高議決機関であった。敗戦直後に生きていた寄附行為の条文には,「評議員会ハ評議員ヲ以テ組織シ本大学ノ重要ナル事項ヲ決定ス」(第一四条)とある。
日本がポツダム宣言を受諾して,9月2日に降伏の調印を行ったおりの,拓殖大学評議員は,41名。その内で公職を追放になった人々は13名に及んでいる。その名前をABC順に,かつ追放の形式上の理由も人名の後に括弧内で紹介する(注22)。なぜABC順かは,アルファベット順位で名簿を作成し報告するように,GHQから指示されたからであろう。
安倍十二造(金鶏学院理事),狩野敏(神武会委員長,中央執行委員),児玉秀雄(大政翼賛会顧問,大日本政治会総務,文相,内相),松尾晴見(華北葉煙草股イ分有限公司社長),松岡均平(興亜滅共連盟副会長),水野錬太郎(大日本興亜同盟副総裁),永雄策郎(財団法人満洲移住協会理事),大蔵公望(満鉄顧問,理事),小野義一(推薦議員),大川周明,田中寛介(在郷軍人会),東郷實(大政翼賛会結成準備会委員),安岡正篤(金鶏学院学監,東洋思想研究所長)。
追放のうちで,大川周明は別格である。A級戦犯に指定されて巣鴨プリズンに留置されていた。同じく水野錬太郎もA級戦犯にされたが痔疾による体調不良で収監されなかった。自己申告と診断書の控えが残されている。
この方々の社会的な位置をどのように評価するかは,様々な見地がありうる。学友は2人いる。田中寛介は学部6期であった。追放理由の在郷軍人会支部役員は,地域の名誉職であった。
狩野敏(学部21期)の追放理由である神武会は,とっくに解散していたはずである。大川周明を中心にして庶政一新を求めて昭和維新運動を推進していた組織であった。狩野は,再独立後に,昭和40(1965)年4月から同42(1967)年3月まで理事長に就任して復活している。
児玉秀雄は,日露戦争時の参謀次長で後に台湾総督になった児玉源太郎の子息である。朝鮮総督府に在職した時代には京城分校やその後身への関わりや,関東庁長官時代は東洋協会経営の大連商業からも,大学には縁が深かった。大学にとっては親子2代にわたり縁が深い。
元文部大臣水野錬太郎は東洋協会会長に就任していた。追放理由の団体は半官半民のようなもので,地位は一種の名誉職であったと思われる。それは東郷實の場合も同様である。学究の徒でありながら,請われて就任したものの,団体の性質から東郷自身に実際の動きはなかったものと思われる。
小野義一は,昭和2年以来,教授で金融論,銀行論等を教えていた。推薦議員は翼賛選挙での議員であろうか。水野と同様に,とばっちりのようなものであろう。
永雄策郎の場合はどうであろうか。満洲移民については積極的であったことが超国家主義者になるのなら,現在の国際協力事業団の1つの前身であった海外移住事業団はどうなるのか。
安倍十二造と安岡正篤は,共に金鶏学院という学校だけに収まらない塾風の修養団体が追放団体に指定されたところから,関係者として追放されることになった(注23)。
大かたは,GHQから命令された追放指令の文書に記された内容に基づいて,機械的に処理されたのである。該当者は,実際上は問答無用と言ってもよい扱いにされたのであった。
その端的な事例は,「外交史」担当の剛直で論旨明快な元外交官・三枝茂智教授である。どの著作が該当したかは不明だが,それを理由に公職追放されて,自動的に拓殖大学から離職させられた。永雄策郎教授と同じく,言わば,生け贄にされたものと思われる。
3節 占領とは鎖国を強制されたこと
(1) 海外への関心は侵略主義でナチ的かファシスト的全体主義
「省令/除去,施行の件」には別表がついており,その「第一」には,「教職不適格者として」6項が挙げられており,一項はさらに細分化されている。
「1.侵略主義あるひは好戦的国家主義を鼓吹し, 又はその宣伝に積極的に協力した者及び学説を以て大亜細亜政策,東亜新秩序その他これに類似した政策や,満州事変,支那事変又は今次の戦争に,理念的基礎を与へた者。
2.独裁主義又はナチ的あるひはファシスト的全体主義を鼓吹した者。
3.人種的理由によって,他人を迫害し,又は排斥した者。 4.民族的優越感を鼓吹する目的で,神道思想を宣伝した者」。以下6項まである。
別表二の三項には,5.拓殖大学商学部拓殖学科,6.拓殖専門学校開拓科と司政科(旧武徳科)が挙げられている。昭和19年の学制改革で専門部が名称変更し,専門学校になっていた。
他の学校でも拓殖関係の学科を有すると,その卒業生は不適格の烙印を押された。日本大学専門部拓殖科や明治大学専門部拓殖科,東京農業大学専門部拓殖科などである。
列島以外でも,外地の影響地にあった例えば東亜同文書院や,満洲国や蒙古関係で新設された学校も同様である。昭和14年に新設されて,初代の部長が大川周明であった法政大学大陸部は,敗戦直後に早々に解散して,追放を免れた(注24)。
(2) 海外移住に関わる諸学は追放の条件
まず海外雄飛は,最高基準であるポツダム宣言の六,八項に抵触するのは明らかである。また,「省令/除去,施行の件」の別表「第一」の一項の「1」は,これまでの拓殖大学における教育の根底を否定していると言っていい。ここでは,移住研究も問題視されることになった。前節にある教授永雄策郎の事例にあるように,海外移住の事業に関わった教員は公職追放の対象になっている。
こうした文脈からは,海外雄飛の先覚者で不慮の死や非命に斃れた出身者を祭神にした拓殖招魂社や忠魂碑は,ポツダム宣言により批判攻撃された「軍国主義者」を祭っていることになった。前出の「神道指令」によって,学校で祭ることは許されなくなった(注25)。
また日常や海外での不測の事態に備える武道教科も否定されることになった。1945年11月6日に文部省が,GHQにおもねて教育課の了解を取った上で各学校に通牒(発体第八〇号)した「武道即ち剣道,柔道,薙刀及びその他の戦闘的競技は学校から放逐され,また学校の後援のもとに校内で練習することも禁止された」(SU二−一)(注26)。
マーシャル・アーツは軍国主義だという理屈である。自衛という観点はない。自衛心に基づくプラクティスも除去の対象になったのである。その弊は,教育現場だけでなく社会的にも国政上でさえも,いまだに根深く影響している。
航空教育も,同年11月18日をもって,「航空学的テーマについての教育と研究を禁止する指令を発している」(前掲『日本の教育』138頁)。このGHQの指令ほど,長期的な視野から日本弱体化の意図を露骨に示しているものはない。
その余波はいまだに続いている。日本の民間航空は,ナショナル・フラッグにおいても地球一周できない。主権回復後であっても,地域国家に限定させようとしている証左である。戦勝国で現在も日本領土内に軍事基地を有する米国が容認しないからだ。これらは外圧による鎖国の強制であったと解釈すれば,一目瞭然である。
2章 拓殖大学における占領政策への適応
はじめに 学内の対応を把握する仕方
以下,学期年度で見ていくのが自然であるかもしれない。だが,事態が占領という平時ではなく有事であり,その制度的な領域も,受け手の側にとっては激変の日々であった。またGHQの方針の現れ方が,国際環境の変化によりぶれていると錯覚される側面もあった。そこで,単純に年ごと,1月から12月を期間として整理することにした。
二部冒頭の「本稿で扱う資料について」で述べたように,保存資料は専ら審査室やそれに関連する文部省からの通達の方が多い。そこで適応の全てが解る資料的な背景はない制約がある。だが,通達文書の内容によって,受ける大学側がどのような環境にあったか,以下の時系列の解明からの方が見えやすいはずである。
1節 昭和21(1946)年
(1) 高垣寅次郎学長,中央教職員審査委員会委員に任命
創設前の模索
最初に収録されている書類は,昭和21年5月○○日付の文部大臣安倍能成からの文部省訓令で,和文タイプ刷りである。宛て先は審査委員会のできるはずの,本省,帝国大学(記載のまま),官公私立大学,学校集団,東京都,北海道庁,府県,である。「教職員の適格審査をする委員会に関する規程 次のように制定する」との規程ではあるが,日付も訓令番号もないところを見ると,案の段階である。
次は,「省令/除去,施行の件」であるが,これも日付なり令の番号が入っていない。同じく和文タイプされたもので,案の段階である。そこで鉛筆書きが挿入されているが,決定して実際に出されたものと比較すると,書き込み提起をされた事項は,決定には至らなかったようだ。
例を挙げると,別表第3の1で,末尾の「校長及び教員の職」の下に,「講師を含む」との鉛筆書きがあるものの,生かされなかった。実際の運用面はわからない。6,の「大日本教育会及び大日本育英会の役員の職」の下に,「顧問を含める」との書き込みがある。だが,これも条文には生かされなかった。
3番目は,「勅令/除去,就職禁止の件」の案である。勅令の意味するものの権威がまだ生きていた時代であったためもあって,案文そのものが活版で印刷されている。鉛筆の修正案の書き込みは,場所によっては,決定の際に生かされている。勅令の番号は書き込みである。明らかに委員会で審議されるために作られた文書で,しかもその文書は,会議で使われている。
さらに,添付されている「省令/除去,施行の件」は,ガリ版刷りの案文のためもあって書き込みが多い。書いたり消したりを見ると,これも会議で用いられ,また審議されたおりに書かれていることがわかる。
同じく,さらに添付されているのは,最初の日付と訓令番号のない大臣名による規程案である。訓令は5号,日付は昭和21年5月7日がタイプされている。最初の文書より,事務上の手続きが多少は前に進んだのであろう。
また,5月7日に提示し施行する際の大臣談話の草稿が,ガリ版刷りのものとタイプ刷りの2つある。ここから談話を作るために,周囲が慎重にも慎重に審議したのが推察される。以上の文書資料の状況から見ると,明らかに拓殖大学の大学関係者は審査作業の取り組みの中枢にいたことが窺える。
中央審査会の発足
それは,「省令/除去,施行の件」に基づいて成立した審査委員会の最上部組織である中央審査委員会の審査委員に,7代学長(組織変化で後に総長)の高垣寅次郎が就任したからである。残されていた資料から,任命があらかじめ決まっていたので,当該作業に事前から取り組んでいたとしか解釈できない。最初の着手がいつかは判明しない。諸般から見て,1月以後であろう。
ここで諸般というのは,「管理政策」と「除外の件」が指令されて粗筋が定まったこと,年末から1月上旬にかけてのGHQの指令と,天皇のいわゆる人間宣言に見られる高度な政略を実現させたこと,その地ならしをしての3月には,米国から教育調査の使節団が来日,さらに使節団のためのCIEによる背景説明文書としての前掲の文書『日本の教育』が作成されていたこと,などである。敗戦の激震に次ぐ,構造改革に向けての新たな激震である占領体制作りが始まっていた。
委員の構成
中央審査委員会の委員は全員で21名。教員代表6名,各界代表6名,教育職員代表4名,学識経験者5名の割り振りで,高垣学長は各界代表の枠である。他の各界代表は,東大教授,全国農業会常任理事,日本商工経済会理事,日本基督教団主管者,内務次官となっている。
第1回会合は,7月10日に文部次官室で午後2時15分から開催され,3時35分に終了した。委員は高垣を含めて13名参加。審査室からは,相良幹事と書記3名。秘密議事録に高垣の発言は記録されていない。高垣の備忘のためのメモ書きだと思われるが,人事の決定は,3分の2以上で成立,過半数で決定,とある。
第2回の会合は10月2日に行われている。その記録はない。ただ,初回と2回の会議における着席表はある。以後,中央審査会会議の資料は綴られていない。高垣の手元に残されたのか,あるいは記録は残さない決まりになったのかは,不明である
(2) 学内の審査委員会の発足と初期の審査
東京地区学校集団第二審査会に欠席
大学のB5用箋1枚に鉛筆書き,それも殴り書きに近いもので,「紅陵大学教員適格審査委員氏名」と表題があり,氏名は高垣寅次郎,豊田悌助,青山壽郎(正確な姓は青野。東京文理大学教授と兼任。筆者注),青山楚一,山口虎雄,鈴木憲久と挙げられている。立候補者名のようだ。
委員選抜には学内で選挙が指示されていた模様で,2回の投票数が記されているものの,どういうメンバーでされたかは不明である。総数は21名。委員に選ばれたのは,得票数から高垣寅次郎,豊田悌助(後に13代総長。当時は商学部教授。学部23期。昭和2/1926年卒),青山楚一(同じく商学部教授。学部18期。大正9/1920年卒)の3名だったようである。
東京地区学校集団第一審査会は,予科校についての第1回の会議を7月1日から開くので,各学校の調査表を持参するようにと,委員の予科長宛に6月24日付で,委員長の宮本和吉から書簡が来ている。予科長は教授斎藤和一であった。
次いで,第二審査会の佐藤達次郎より同月28日付で,男子専門学校長宛に,7月3日に審査会を開くので,調査書を持参するように書簡が来ている。鉛筆書きで,「豊田先生連絡スミ」は,事務スタッフのものであろう。
だが,大学側は出席しなかった。7月3日付,紅陵専門学校長高垣の名前で,佐藤委員長宛に,別紙の通り取りまとめ,教員一覧表を添付して,送付している。教職員一覧表によれば,大学との兼任を含めて,教授から講師まで36名,職員は主任以上が対象とされて6名。
審査報告の遅れ
大学学部については,7月5日付で本省の審査室から督促状がきているにもかかわらず,ルーズさからか紺屋の白袴かはともかく,なぜか知らんぷりだった。同月24日付では,本省審査室長(以後,単に室長という。筆者注)から責任者である各委員長宛に,8月2日までに審査の結果を電報で報告されたい旨の通達がされている(発適十三号)。
それを受けてか,同通達文書に鉛筆で,7月29日に「豊田教授ヨリ提出スミ」と記されている。ただ,問い合わせの1項の,審査を受けた教職員の総数には,12名と書かれ,2項の,審査の結果罷免された教職員の総数,にはナシ,3項の,審査の結果,復職した教職員の総数には,ナシと書かれている。だが,このメモ書きがいつされたのかはわからない。
それは,学部予科の庶務課長心得の相澤小壽(学部26期。昭和5/1930年卒)が,夏期休暇で8月中旬まで帰郷するために,7月31日付で他のスタッフにメモを残しているからである。それによると,前出のメモ書きは,相澤メモより後ではないか。
調査表が「高垣先生,伊部先生,鈴木先生(再三督促にあり)の方々から出ない為に未だそのままになっていますが来次第」(原文カナ)処理されたい旨が書かれており,事務方の苦労が偲ばれる。8月5日に,室長宛に学長高垣の名前で送付された。ただし,送付状には,教授鈴木憲久の分は後日としている。後の8代総長鈴木の消極的な抵抗かどうかは分からない。
名簿には永雄策郎のように名前の上に線の引かれているものがある。それは公職追放されて,自動的に退職した人名と思われる。ただし,この名簿にも日付はないので,いつ書かれたのか。差し込まれている箇所から,8月5日の報告と直接に関わっていると推理したのである。
密告投書の多いことの確認
9月17日付で室長山崎匡輔が各審査会の委員長宛に送った「適格審査に関しての投書等について」(発適三〇号)を見ると,激震を利用しての「故意に他を陥入れんがための投書等も相当あるやうに聞いています」と記して,吟味に慎重さを求めている。公・教職審査だけでなく,こうした他を謗る密告投書がかなりひどかったのは,マ元帥に送られた投書を整理した調査研究からも推察できる(注27)。
調査の執拗さ,あるいは丁寧さ
11月22日付発適五五号の室長名による私立大学高専設立者と地方長官(知事のこと。筆者注)への「学校を経営する法人の役員に関する件」では,GHQからの「口頭指令」(という表現を用いている。筆者)により,顧問,参与,評議員も,公職追放令と「勅令/除去・就職禁止の件」に該当することになった,との通達である。
ここで,同文書の上部に,鉛筆で,「評議員の中に追放該当者ありときは除名す,薩摩(雄次/学部20期。大正11/1922年卒。筆者注)と狩野(敏/学部21期。大正12年卒。筆者注),その他調査すること」,と書かれている。GHQによる追い打ちがかかったようだ。
同60号(12月13日)は,同様に追い打ちである。審査委員長宛に,「省令/除去,施行の件」の「第一号別表第二の第四号に掲げてある学校又は教育施設に於て生徒の授業を担任せし経験のある者に付ては特に厳重に審査をせられたく通牒する(以下略)」とある。
この学校や教育施設とは,文部省国民精神文化研究所,国民錬成所,教学錬成所,興亜錬成所,興南錬成院及び大東亜錬成院等である。国民精神文化研究所はともかくとして,興亜や大東亜という名称に関わるこれらの学校は,この文書を見るまで筆者は聞いたことも読んだこともなかった。興亜院から大東亜省に拡大された新機構の産物である。速成の訓練機関だったためか,その始末記も寡聞にして知らない。
この年の最後に綴られている文書は,審査委員会を昭和22年3月31日まで存置せよとの室長からの指示書であった(発適五十号ノ二。12月13日)。
2節 昭和22(1947)年
(1) 審査対象の拡大による作業の恒常化
CIEの方針よりもさらに進めなかったか?
作業は一定期間で終わるかのようであったのが,暫時の延期措置が図られていたのは,審査対象が拡大されたからである。この創意はどちらの側からの発意かはわからない。どちら側とはGHQか,それとも文部省側か? だが,どうも,醸し出される雰囲気はあまり愉快なものではない。
昭和22年1月13日に室長より各種大学長,学校集団長,都道府県知事(地方長官),日本教育会,大日本育英会宛に,「公職適格審査基準の拡張に伴う教職員適格審査に関する件」(発適二号)が通達された。その文中に,昭和21年1月4日のGHQによる公職追放指令を受けた公職追放に関する勅令第一号(同年1月4日)の制定に伴い,「該当する者の範囲が拡張された」とある。
上記勅令は,同日に内務省令第一号を施行して,一体となっていた。第一号には別表があり,別表第一は8節あり,一節には5項あり,拡大された除去すべき有資格者の条件が記されている。
だが,1年を経ての制度の精緻化を意味する「審査基準及び拡張」という表現は,いかにも解せない。こうした部分は,二部「問題の所在」2節(2)(3)の対象に入るように思えてならないからである。
敗者救済の示唆
対象の拡大は当然に社会不安をもたらしたのであろう。それでか,一方で「お上には情けもあるぞ」式の通達が出されている。1月30日付で,「教職員適格審査の施行規則別表第二該当者の特免に関する件」(発適十三号)の記二,ロ項には,「該当の事情が軽微であり,該当が同情される者」は,特別に免除されるというわけである。
これでは対象者で救済された者は,良心的であればあるだけ,益々卑屈に自分の人生を振り返ることになる仕組みになっている。最近の事例では,支払いの証明がされない年金受給者選定での「第三者委員会」における人格評価と同質である。官僚の考えることは何時の時代でも近似している。
通達文書にある無意識的(?)な操作
審査対象が拡大されれば,審査作業は増えることになる。山崎に代わり新しく室長になった有光次郎は,3月3日付発適二八号で「適格者中特定の者の調査について」を,審査会委員長宛に通達した。
審査が終わり適格者になった者でも,「その者の思想,言論,行動,著書等に関し審査の際相当の論議が行われた事例について,その者の氏名及びその間の事情の詳細,議決投票の際の適否の数,その他参考となるべき事項を付し至急確実なる報告をせられたい。
右は連合国最高司令部民間教育情報部との協議に基き,至急調査の必要があるのであるが,尚今後右に該当するものがあった場合もやはり報告せられたい」とある。
協議なのか下命を受けるのかは修辞の問題であるものの,後段の文意を推理すると,早くやれと言われた,さらに,今後も追跡調査をやれと言われた,とも取れる。だが,官僚の知恵というか手管で,先回りして対応しているようにも読める。
どうあれ,CIEとの交渉における室長の態度は,前掲の引用中にあるように「協議」であったとしたら,いわば対等の気持ちにようにも思える。このように思っているとしたら,自負であり,一見すると敬服に値するが,見方を変えると空恐ろしくもなる。
適格審査と追放対象の拡大
大学の回答は,3月10日付で,照会については「当委員会に於て該当者はありませぬにつき御報告申し上げます」で,慇懃ながらそっけないものであった。
3月14日付発適三四号では,審査会を年度末ではなく,1ヵ月延長して4月末日まで存置されたいとの通達である。4月28日付発適五三号で,室長より審査会の「規程の改正について」が通達された。それを受けて,5月1日に,文部大臣高橋誠一郎より同新「規程」が審査の各関係機関に交付された。
新規程には,審査会が終わる日付はない。4年後のサンフランシスコで調印された講和条約の直後に調印された日米安全保障条約と同様である。
次いで,「省令/除去,施行の件」も5月21日付で改正された。当初は文部,農林,運輸の3省であった。だが,ここでは,司法省(後の法務省),外務省,大蔵省,厚生省,逓信省(前の郵政省),内務省の7省が加わり,9省に拡大し省令第一号としている。内務省は行政改造により解体されて,総理府が後に加わった。以後,共同省令と言われる。別表第一に加筆がある。3,の冒頭に「行為あるいは義務の不履行により」が加えられて,後段の文節にさらに駄目押しをしている。
7,が加わり,別表第二も第一に接続し,別表第二の1,2,が8,9,になり,3は10になった。ここで,当初は18が挙げられていた学校と教育施設に,新たに15,興亜錬成所,16,興亜錬成院第3部,17,満蒙開拓指導員養成所が加わっている(注28)。5には,そのまま拓殖大学商学部拓殖学科,6には拓殖専門学校開拓科及び司政科がある。
5月22日付発適六一号では,再び変えた「施行規則」と審査会の「規程」を通達している。例えば,審査の調査表での「英文の記載はいらない」(8)など。それまで英文を添付していたかどうかは,『綴り』に残された報告記録からは判らない。
だが,わざわざ記してあるところを見ると,調査表を提出する側は,審査室が終着駅ではなく,その背後にあるCIEを念頭において作っていたのであろうか。すると,提出側の大学は,審査室の機能を取り次ぎなり中継ぎと考えていたことを示していないか。
従来は講師までであった審査対象は,12月18日付発適一一二号の施行規則の改正通達によって拡大され,助手も対象になった(三項)。
(2) 審査室への報告内容
報告が遅滞すると罰則が適用されると注意
審査が恒常化する展開は,前項で見たように,事務手続きが増えることになる。そこで,文部省予算から提供される必要経費を増額した。「国」費で日本人教職員の非軍国主義化と民主化を達成すると錯覚して,仕事に励めば励むだけ,実際は首を徐々に締めていた結果は,半世紀後の今日の問題続出する教育現場が示している。
2月10日付で各大学長宛に,審査会の経費支出額を報告する指示が出されている(発適五八ノ二号)。大学は13日に受領し,25日には報告している。総額680円,内訳は,印刷物費380円(審査調査表作成費300部),会議費150円(内容不明),交通費100円(職員調査出張),通信雑費50円。
この審査に基づいて同日に室長宛に,審査委員長高垣の名で「1月2月審査月次報告」を提出している。本文は,「本校関係に於て一月二月共 首題に関する該当者はありません」(原文カナ)。
2月26日に室長有光は,学長宛に「調査表提出の件」を送り,「財団役員の調査表が提出していないから至急三月十日までに二部提出されたい」,と通告した。しかも,提出されない場合は,「罰則の適用を受けるから念のため通知する」とまで言っている。法令では,1年以下の懲役か3千円以下の罰金であった。
不服従は単なるサボりか
3月18日付で,「設立財団役員調査表の件」と題して,大学は別紙を送付している。理事は,高垣,青山楚一,保田宗治郎,後藤一蔵,石橋湛山,土屋計左右,監事は,鎌田正明,野澤源次郎であった。
5月に新委員を含めた審査会の設置を報告している。前年の3名に加えて,鈴木憲久と石川潤一が加わっている。ただし,書留郵便控えの日付は6月7日である。
審査室に到着する前に,同月2日付発適六四号,審査が始まってから4月末日までの期間で,「審査を受けた者の総数(ア)委員会にて不適格の判定を受けた者の総数(イ)」の報告を,6月10日必着で求められた。大学は6月5日付で回答。(ア)21名,(イ)無し。
審査室は疑り深い。9月23日(発適一〇五号)で,「教員適格審査委員会の構成,運営について」,10月30日までに報告を求めた。10月9日付で大学は報告した。審査委員については,既に記した通り同じ名簿である。事務局の構成については,事務官2級,同3級,嘱託は無し,その他を3名で合計3名。全員兼任であった。
委員会の運営については,問い合わせが,(A)本人の出頭陳述を認めたか否か,回答(否)。(B)関係人の出頭陳述を認めたか,回答(否)。(C)投書件数(口頭によるものを含む),回答は無記載。この対応は見事に横着であった。
10月18日付発適一〇九号は,昭和22年度における審査会の支出見込み調を求めた。判定者名簿は学部6名,判定日付は4名が9月23日と2名は10月7日。経費は10月28日付で,計1,250円,内訳は会議費300円,人件費500円,印刷物費250円,雑費(備品消耗品)200円。会議費が2倍に増えている。
この年,6月8日に日教組(日本教職員組合)がCIEの指導と文部省の全面協力の下に結成され,発足した。
3節 昭和23(1948)年
(1) 審査への文部省の介入形態
監査の合理化と通しての介入拡大
1月27日付発適一〇号で,室長から学校長宛に「発適四三号の通知による報告の廃止について」を通達した。ここで,「月次報告は不要になった」。これは一見すると監理が緩和されたかに見える。あるいは,審査という作業の制度化が定着したとも言える。
だが,それは,この項の題名である文部省の人事介入の枠が拡大した反映なのである。前節で触れたように,審査対象の拡大からすれば,月例報告の不要は逆行のようにも思えるが,むしろ,GHQの方針をかさに文部省による学校運営への,介入拡大という視点を忘れてはならないと思う。
3月23日付発適二三号で,室長は学校長に対して,「3級官及び3級の吏員等の教職適格審査について」の通達を送った。ここでは,一定の条件つきではあるものの,助手だけでなく,副手まで審査対象になった(1,)。副手が軍国主義を鼓舞するのに多大の影響力を行使するような事例はあるだろうか。
さらに,3級や3級程度の事務職員は,所属する大学等の審査会の審査対象ではなく,文部省内の審査会で審査を行うように格上げになった。ここまで介入すれば,月次報告は必要ではなくなるのは当然である。
同月26日付(同号)で,室長は学校長宛に「臨時職員の教職適格審査等について」の通達を送っている。ここで,助手と副手の審査及び3級職員の文部省での審査の再確認をして(2,),さらに新制大学は旧制と同様とする,つまり審査の自治性を認めているものの,高等専門学校の教職員は文部省で審査するとしている(3,)。
審査作業のための調査表の書式は,4月19日付発適三〇号で,審査人数に応じて配布するので,人数を報告されたい,とする手回しのよさである。
6月29日付発適五三号で室長は,各大学審査委員長宛に「被審査者名簿について」の報告書書式を通達した。それには適格者と不適格者の双方がある。対して,7月31日付で大学は,適格者28名,不適格者は無し,と報告している。
特定個人の調査照会へのレジスタンス
同月同日,文部省内審査委員会幹事の石澤貞義は,ペン書きで,学長宛に「平形友吉氏に関する照会の件」を送付した。平形(学部18期。大正9/1920年卒)は元庶務課長であった。問い合わせ事項に端的に当時の文部省側による審査意識が凝縮されて提示されている。
「 記
1,庶務課長はどんな実権がありましたか。(同校の教育方針に対する責任の程度) (2,省略)
3,庶務課長は当時(昭和十七,十八,十九,二十年)どんな仕事をしていたか。
4,戦時中特記すべき行動がありましたか もしあったら主な項目を指示して下さい。」
学長名による8月12日付の回答は,ある意味では巧妙である。
「(前略)当時の本学事務規程を抜粋し御回答と致します。
1,第一五条 庶務課長の職務左の如し(中略)
2,(略)
3,第一五条の職務の外に当時の情勢より学徒勤労動員の実態調査及統計,関係先への諸報告 学校防空に対する計画処置等
4,特記すべき行動はありません 以上」
平形は,おそらく別の学校関係に就職することになっての履歴審査となって,問い合わせされたのであろう。
8月2日付発適三三号で室長は,各学・校長宛に役員についての「公職不適格者の本指定を受けた者についての調査」報告を求めた。公職追放されてなくても報告をしろとのことである。石橋湛山以外の氏名は同じである。そこでも,「2,教職適格判定を受け公職不適格になった者はありません」とある。
9月10日に学長名で,新規採用の講師及び3級以上の職員16名の調査表を文部省内の審査委員会宛に,「送付致しますにつきご審査願います」としている。ここから,審査権が大学側にないのがわかる。
審査室発行の受領証が同日であるところから,持参したのであろう。宛先は非常勤委員によって編成されている委員会でも,文部官僚と職員によって編成されている事務局に相当する審査室が関門である。
(2) 個々人への審査の手法
審査室の影響力増大による大学側の屈服事例
下半期における審査の特徴は,審査室主事名の葉書による問い合わせが頻繁になったことであろう。葉書そのものは上半期から出て来ている。徐々に作業はシステマティックになってきた。小人閑居して不善をなすの事例である。
「第 号
教職員適格審査委員会の審査上必要がありますので左記の件に関し至急御回報下さい(御回報には照会番号記入のこと)
昭和二三年 月 日
文部大臣官房適格審査室主事 石澤貞義
記
右の方の
1,詳細なる軍歴(役職階級を明記されたい)
1,詳細なる履歴書(学歴職歴)
1,著書,論文,講演要旨御提出下さい(明細左記)
1,右の方の所属団体 に関する資料,地位,職務内容
1,右の方は 在職中審査済みと思はれますが
審査済みでしたら判定月日,判定委員会名御知らせ下さい」
最初は,大学事務局長宛に,第七八一号で,庶務課長塚原正について,末尾に特記事項として,「一,拓殖大学商学部卒業は何科を卒業されたか至急御返報下さい」とある。消印は十月十四日である。学部名だけの報告なので,商学部拓殖学科ではないかと疑われたのであろう。
15日に,学長名で「商科卒業であります」(学部三二期。昭和十二年卒)と回答された。10月4日には書記青野宇之助,伊集院謙の回答要請が来ている。ただし番号に記載はない。
同月20日には,11名について,問い合わせされている。
追伸がある。そこに,審査側の意図が見える。「右は貴学にて審査済のものであるが若し当方にて審査対象の場合は右の方々の地位職名及所属(専門部か予科か)御知らせ下さい」。慇懃無礼の標本のような書信である。
28日付で大学は主事宛に回答している。冒頭に,「一,全部貴教職員適格審査委員会に於て御審査を願ふべきにつきよろしく御取り計ひ下さい」。全面的に任せていると言えば聞こえはいいが,審査室への屈服の様がわかる。
煩瑣な作業の典型例
紅陵専門学校講師である千秋克己の場合,11月26日付(第八七二号)で,「昭和一七年八月横浜商業会議所に於て『南方における保健衛生について』と題して講演をされておりますがその草稿を至急御提出下さい」(原文カナ)。「12,17送る」とメモされている。
こうした調査事項は,どういう方法で入手していたのであろうか。通常は会議所の方からと思えるのだが,あるいは警察か,いずれにせよ,気味の悪い問い合わせである。
現在からすれば,保健衛生が軍国主義や世界征服の意図と関係していると見るのは,かなりの拡大解釈と思えるのだが。主題から考えて医学関係の方であろう。海外知識の啓蒙を意図した公表も,うっかりすると引っかけられる材料にされていたのが,見えてくる。
12月24日付第一〇七七号では,講師廣長敬太郎(後のOECD大使)について,「東亜同文書院予科の内容を詳細に御回答のこと」とある。翌年1月17日に回答したと記してあるが,その内容の控えは保存されていないので不明である。筆者との交わりからして,外交官としての廣長は独特の個性を有していた。
4節 昭和24(1949)年
(1) 商学部拓殖学科への追及
1月10日付発適三号で,主事石澤名により学長宛に「教職員適格審査資料に関する照会」が入った。表題の拓殖学科についてである。
「2,調査の範囲
(1)期間 自昭和二年度 至昭和二十年度末
(2)調査すべき者
左記の地位又はこれに相当する地位にあった者
(委任を含む)
1.校長,又は所長
2.部長(学部長又は専門部長)
3.科長
4.教務課長
5.学生又は生徒課長及び主事
6.その他の者で教育方針に対し責任あった者
3,調査事項
1.氏 名
2.在職期間
3.現在の動静(現住所,勤務先等判明している者は記入されたい)
4,報告様式」
1月27日に大学から様式に沿って報告がされた。
この資料をなぜ審査室が必要としたのか,形式上の理由はともかくとして,この時期になってなぜかの本当の理由は不明であった。文面上の理由は,昭和22年5月21日に改正された「勅令/除去・就職禁止の件」の別表第一の十項に関して,である。
十項の5,には当該学科が記されていた。上記勅令に明記されてから足掛けでは2年たっている。
(2) 公職追放解除されても教職は別
東京裁判の教育版を代行している自負
7月22日付発人第三二号で,文部次官から各大学の審査委員長宛に,「共同省令第1号別表第一第八項の解釈に関する件」が通達された。前述の教職審査についての文部省側の問題意識を知るのに格好な事例である。先に(二部2章/5節(2))取り上げた教職審査の総括文書『記録』にも収録されている,通達77号(同章/同節(1))についての理解である。
同章2節(1)で触れたように,共同省令とは改正された「勅令/除去,就職禁止の件」である。八項には「昭和二十一年一月四日付連合国最高司令官覚書『公務従事に適しない者の公職よりの除去に関する件付属書A号』に該当する者及びその他すべての職業軍人」とある。
「付属書A号」は「罷免及排除すべき種類」という題名で,AからG項まであった。G項が学校関係では重視された。「その他の軍国主義者及極端なる国家主義者」が問題視され,その詳細は3つに分かれている。
「3」には「日本の侵略計画に関し政府に於て活発且重要なる役割を演じたるか又は言論,著作若は行動に依り好戦的国家主義及侵略の活発なる主唱者たることを明かにしたる一切の者」とある(注29)。
次官通達/発人第三二号では,「(前略)公職非該当であるものは直ちに教職適格となる故第八項も非該当であるとは解し得ないのであるから,該当条項については特に慎重に調査し,教職審査独自の立場で厳格に第八項を解釈されたい。
右審査に際して第八項の解釈に疑義を生じた際は当方に連絡されたい(後略)」
ここに表示されている内容はあまりに明確である。公職追放が異議申し立てや訴願によって解除されたからといって,教職適格になるものではない,別のものだ,と強調しているのである。あるいは強弁という表現を用いる方が妥当であろうか。
ここまで書かれた通達を受け取ると,まだ官尊民卑の濃厚な時代では,採用側はほとんど萎縮してしまい,多少でも瑕疵があると判断すれば,個々の学校側は採用に腰が引けることになる。文部官僚によるこうした行政上の自信がどこから来ていたのか,これから最も追求すべき領域かもしれない。ここに,前述の適格審査とは東京裁判と同質とした初期の文部官僚当事者の自信が生きている。
学内での適格審査予算補助の増額
このひたむきさがあるから,審査についての経費の補助金交付は,インフレもあるだろうが,徐々に増大していくことになる。この言い回しは皮肉である。請求に対して,項目によっては,「別紙記入金額に上回る額を計上のこと」(12月7日/発適号外)とまで記してある。当初は,日付は不明だが,大学の計上では総計1,800円が,審査室の指導によって3,791円に増えている。会合費まで予算のつくサービスである。
ここには,文部省における審査作業が,審査室の予算拡大の理由に使われている背景を窺うことができる,と書くのはうがち過ぎではない。事業は常に予算を伴う。予算の増大は即ち権限の拡大に通じているのも,今昔はない。大蔵省主計官も文部省の予算担当官によるポツダム宣言を錦の御旗にしての要求に弱かったのであろう。
補助金が交付されていれば,監査的な調査も入ることになる。12月22日付文人適一一三号で,文部次官名による「大学教員適格審査委員会の調査に関する件」が大学宛に通達され,翌年の1月25日に事務官が茗荷谷の事務局に調査に赴くと記されている。あらかじめの注意事項は4項にわたり書かれている。
5節 昭和25(1950)年
(1) 「『大学適格審査事務』調査」の結果
事務官の聴取に対して庶務課長が応接
事務官は予告した通り大学に来て,大学内審査委員会の事務担当者である庶務課長が調査に答えた。その記録は庶務課長によって,表紙の表題は「『大学適格審査事務』調査」として残されている。10時から3時と書かれているところを見ると,事務官は昼食の官民接待も受けたのであろうか。
本文の表記は,「『大学適格審査事務』視察注意事項集録(記録)」とある。第1の質問事項は,審査委員会の開催が定期か不定期かである。大学側を代表して庶務課長は,不定期と答える。第2は,委員会の記録書類はあるか,に対しては,「記録(名簿上の整理)程度である」と答えた。そこで,「今後 著書,論文,業歴(軍務を含む)等で議論される様な場合は記録を必要とする」と言われている。いや,指導されている。
第3が重要と思われる。「昭和21,22年度中に大学において審査を行った者の著書,論文等に就き再検討をした事があるか」に対して,庶務課長は,「再審の必要を認めていない」と答えた。ここで庶務課長は,委員会のメンバーではないし,理事者でないにもかかわらず,堂々と判断を下しているところがすごい。こうした応対というか渉外での振る舞いは,良く言えば大陸風とでも形容できるのであろうか。
審査関係の報告書類の控え無し
前出2節で触れた書類保存の件が第4の質問である。「審査を要する者の調査書は何部作成せしめて居るか(大学に控があるか)」と聞かれて,「全部(2部作成せしめ)送達しているから控は保存しない(審査済『結果報告』本書を保存しているから必要なきものとの見解に基く)」と応えている。
ここは,審査作業の始末は大学側にあるのではなく,文部省側の業務だろう,当方の関知するところではない,と応えているのと同じである。
おそらく事務官は驚いたのであろう,「三部作成せしめて一部を保存し判定結果と共に整理し置かれるが適当と思料する」。続いて八項までと特記事項もあるが,たいしたものではない。
ここでの大学側の応対から窺える審査作業経過への事務的な取り組みの実態が,大学内審査委員会自身が茶番とみなしていた見識から来るものなのか,あるいは単に横着であったのか。この(記録)からは解らないものの,大学側の「空気」はなんとなく分かる体のものである。
月例報告の復活
昭和23年1月27日付発適一〇号で大学からの審査作業についての月次報告は不要と通達していた。だが,拓殖大学での,見方によっては非協力的な実状の調査結果や,他の大学での事例も多くあったためか,逆戻りした。
石澤主事名により4月3日付文人適七十五号で,「別記様式によって毎月報告することになりましたから御了知下さい」としている。この通達は公印も押していないところから,非公式文書だったのか。添付別紙(4頁)にある備考1,には,地位は,教授から副手等とまで記されている。さらに審査対象を拡大している。「等」とは具体的にどういう職階かは,これではわからない。
年末の11月29日付文人適二七八号で,審査状況を審査の有無にかかわらず毎月報告するように催促している。末尾には,「念のため(中略)七五号を添付します」とまで記している。審査について各大学側での形骸化が進み始めている気配を窺える。
(2) 拓殖学科への再度の追及
4節(1)で扱ったように,昭和24年新年早々の10日付発適三号で,石澤主事名による表題学科の調査が求められていた。再度の調査要求が,同じく石澤主事名で,5月9日付文人適八三号によりされた。先回は適格審査の資料という理由であったが,今回も同じ理由であった。これは,間接的とはいえ,ある種の揺さぶりだったのかどうか。
今回の文章上でいう資料とは,「昭和二十二年共同省令第一号別表第一第十項の学校調査に関する件」である。ただし前年と比較すると,調査事項は詳細にわたっている。前回は,学科に関係をもった教員と職員の人名に重点が置かれていた。
今回の調査事項は,9項目に及んでいる。一見すると,拓殖学科の全体を明らかにさせようとしている。列記すると,(1)設立の時期,場所,(2)教育方針,綱領,目的等,(3)設立後の変遷,(4)入学資格,募集人員,(5)修業年限,(6)教科目,(7)研究科,別科等の付設があれば,その時期等,(8)各年度卒業生数,(8)職制(教官,職員の職務組織,系統。氏名不要),である。
5月20日付で報告しているが,簡潔にして実に無駄が無い。詳細は,昭和16年版「拓殖大学一覧」を参照されたいと,否定できない証明を提示している(注31)。
数字に開示された戦時の悲惨な犠牲
事実の列記なので,報告事項をここに記すまでもないが,思わず視線が釘付けになったのは,「(8)各年度卒業生数」である。紅陵大学用箋にペンで記された数字には,他学科と同様に戦争という事態に真正面から取り組んでいた,拓殖学科を卒業したり在籍のまま出征したりした学友の運命が,数字を通して明示されている。正視するに忍びない。
昭和十六年六月,卒業六十名。同年一二月,同一二四名。十七年九月,同四二七名。十八年十月,同一〇名。十九年九月,同一九二名。二十年九月,同一五名。二十年十月,同三四名。二十年一二月,十名。二十年一二月,同八名。計八八〇名。
ここには,学徒出陣や召集による繰り上げ卒業と,休戦による戦闘の停止からの復員により,遅れた卒業の様が表の数字に出ているからである。
(3) 審査原則を固守しようとする文部省
朝鮮戦争勃発によるGHQの政策転換に抵抗する文部省
本節(1)項の末尾で,文部省が指導する審査についての受け手である大学側での形骸化の気配に触れた。その背景については,後述のレッド・パージに基づいて触れることにする(四部1章/4節)。
要は,公職追放を解除された者が増大していた背景があった。11月,公職追放者のうち約1万名が解除になっている。そうした力学は日本を取り巻く国際環境の変化から来ていた。
6月25日に朝鮮戦争が北朝鮮の南侵によって始まった。GHQは再軍備を公然と求め,マッカーサー書簡による指示を「限定された主権」(?)を担う政権与党である自由党政府に命じた。その指示に基づき,尉官クラスの追放を解除し就職を認め,警察予備隊を発足させた(8月)。
事務次官劍木亨弘による12月28日付文人適三〇三号「公職に関する覚書該当者として指定を解除された者の教職適格審査について」を,審査関係の長に通達した。その文脈は,4節(2)で触れた前年昭和24年7月22日付の次官通達とは異質であった。微妙な転換を示唆している。その微妙とは,本質的には軌道転換を意味してくる側面を帯びてもいた。
公職追放を解除された者に対して,共同省令第一号別表一の八項後段(とは,全ての職業軍人)「及び同表の他の各に該当しないかどうかをよく審査」(一)する。審査とは,「公職該当の事由が単にその者の占めた地位によるものでなかった場合には特に留意すること」。二,解除された者の審査の結果は,大臣宛に,書式に則して報告すること。大臣宛であることに留意したい。GHQの基本的な政策転換に即応するCIEに抵抗しているようにも読める。
同通達は,さらに注意事項として,審査の場合に,解除「通知の写し及び解除申請の際に提出した反証資料等を提出せしめること」(一,)。二,には,「公職に関する覚書該当者としての指定を解除された者が教職適格審査会の審査の結果,教職不適格の判定を受けている者であれば,(中略)大臣より指示があった後,審査に付し適否を決定する」。三,にもあれこれと,ごじゃごじゃ書いている。
要するに,公職追放を解除されても,それが直ちに教職適格者になるものではないと言っている。つまり,あれこれ制約を設けて,公職追放解除と一線を画している原則に固執しようともしている。
文部省がCIEに抵抗する理由は何なのか?
この当初の教職追放の原則を異様なまでに固守するところに見られる硬直性は,一体どこから来ているのであろうか。これが法治における並の官僚の最も好むところの権限と所掌への固執なのか。表面上から見ると,そうした理解が通じ易いものの,それだけでは説明がつかない(四部3章/1節を参照)。
この年12月段階での大学における審査委員会は,委員長は高垣学長,以下,委員は教授青山楚一,鈴木憲久,豊田悌助,伊部政一で構成され,幹事は塚原正庶務課長,書記は庶務主任の上野文雄であった。
同月6日に審査室に報告された年度内の審査経費支出見込みによれば,物品費(消耗品費)360円,役務費(印刷製本費)1,081円,通信運搬費2,794円,食料費1,680円。計5,915円と,増大している。会議費から会合費,さらに食糧費の徐々なる増額に注目されたい
6節 昭和26(1951)年
(1) 評議員を不適格にされた石坂泰三の事例
煩瑣な作業の典型例
7月6日付雑人 第一四号で審査室の石澤主事より,同月9日に問い合わせを受け取った。後に経団連会長になり,その立場で斯界に大きい影響力をもった「石坂泰三について」という標題である。
「標記の者は貴学評議員として就任しているかどうか。就任しておるならば下記について至急御回答下さい。記 一。評議員就任の経緯 二。評議員会に出席し,議事に関与したか,どうか」。
大学は学長名による回答(案)に,
「一,昭和二十五年十一月か十二月であったと記憶いたしますが(略)評議員に就任せられることを依頼しその承認をえました。当時同氏は日本学術振興会の監事でもあり,公職追放も解除されておりましたので,全く不注意によるものでありますが,教職追放になっていることを考へませんでした。
二,(略)。
三,昭和二十六年六月上旬の頃でありましたか,或る新聞紙に同氏の教職追放がまだ解除になっていない旨の記事が出ていたのを見てびっくり致し,同氏の評議員退職の処置をとりました。従ってその時以来評議員ではございません」。書体から見て,学長自身が記したものと思われる。
審査室に提出するものではない,大学側の備忘としてのメモが残されていた。
「(経過)
(一) 二六,一,二〇 三時 経済倶楽部 第一回評議員会
○ 総長,理事,監事,選任の件
高垣に委任状提出,本人出席なし
(二) 二六,五,二六 二時 日本倶楽部 第二回評議員会
○ 二六年予算の件
委任状提出………本人出席なし
(三) 二六,六,上旬頃其方面より教職パージの問題を聞き
学長に伺ひたるところ既に本人退職の由
評議員名簿抹消処理す」
7月14日付で,右記の回答文書は,審査室の小倉事務官宛に渡すように,学長自筆の指示メモが残されている。審査委員会の幹事である塚原庶務課長か上野主任が持参したのであろう。事柄の性質上から庶務課長であった可能性が高い。
法令を手にした審査室の横柄な態度が窺える「問い合わせ」である。天皇の臣からパブリック・サーバントになっているはずだが,それは表面上だけで,官尊民卑の意識がそのまま生きている。
(2) 省外の圧力で徐々に緩和する審査条件
適格審査の基準に固執した三二号の廃止
法令に基づいているのであれ,いくら権限があったにしても,それが時勢に合わなくなれば,世間はうさん臭く見るようになる。悪法も法なりとは言っても,限度がある。文部省本流が確信犯的に抵抗を試みてはいても,一歩一歩と引かざるを得なくなるのも,世の習いである。
公職追放の解除は急速に進んだ。GHQによる精神的な武装解除という革命そのもののこれまでの措置が,日本の戦後復興あるいは再建にとってもためにならないという見地が,遅まきながら見えて来たのである。それはGHQを構成する人々の意識変化でもあるが,彼らも日本列島を取り巻く周囲の情勢変化により,多少は学習し始めたのであろうか。
だが,文部省の方はどうだったのであろう。そうした時勢に逆行して,小見出しのように,年の初めから権限に基づく操作をしている。2月27日に石澤主事名による「施行規則別表第一第八項前段該当者で公職非該当である者の教職適格審査について」が,審査委員長宛に出されている。
因みに,この通達には文書番号はない。問題は,三〇三号の運用であるからだ(この文書の内容については前5節(3)を参照)。同文書(6)項にある,「昭和二四年七月二十二日付発人第三二号は廃止する」とあるが,『綴り』に綴られていないので,内容は不明である。
文部省の意欲に反する世相
同じく,次官劔木亨弘名で出された3月2日の「公職に関する覚書該当者としての指定を解除された者の教職適格審査について」も,その文脈に連なる文書である。三〇三号文書の適用対象を拡大している。意図するところが読めない。彼ら自身も時勢の変化にパニック状態であったのか。
石澤主事は,4月19日付文人適一〇三号で,「大学教員適格審査会の状況報告について(通知)」を出しているのは,大学側の報告が停滞気味である風潮が変わらないことに反発したものである。文中に,「司令部報告其の他に支障を来しているので,下記期限を厳守されたく,重ねて注意します」の下りがあるものの,さてCIEがそうした懸念を言ったとは思えない。
拓殖大学は,3,4月分として,審査結果を商学部2名,政経学部1名,不適格者0,と指定の書式に則して記録している。商学部は後に11代の総長になった教授安東義良,講師として中西寅雄(後に参議院議員,農林族で自民党対外経済協力特別委員会でも活躍した),政経学部は講師の園部寛之。審査室への報告は,前2者は3月28日,後者はいつ報告したのかの控えはない。
その調子なので,8月18日には,5月から7月分の状況報告がないと催促されている(文人適七五号)。大学は督促に応じて,早速,3ヵ月分,適格も不適格も0の報告をしている。
経費の支出見込み額の申請は,計2,880円と10月18日に提出したところ,12月10日付(号外)で石澤主事より,消耗品費の訂正を求められ,要請通り増額して,2,931円で要求している。使用金額の昨年比での低減は,学内の関心の薄さから来るのか。お座なりの様を窺える。
すでに9月にサンフランシスコにおいて対日講和条約が調印されて,条約の発効つまり主権回復は翌年4月28日になっていた。講和の交渉が始まったのを受けて,6月にはGHQより公職追放令の取り扱いの権限が,大幅に日本政府側に委譲されていた。事態なり大環境の変質は,文部省の審査作業の根拠に揺さぶりをかけていたのである。
職業軍人への適用緩和
興味深いのは,新しく文部次官になった日高第四郎による12月26日付文人適二六四号の,「職業陸海軍職員であった者の教職適格審査について」である。条件の緩和が公然と示されている。なぜ興味深いかは,基準のあいまいさなり運用の恣意性が明瞭にされているのである。
まだ,将官はさすがに適用外としているが(記 一,),二,では,「別記に掲げる者のうちで,配属将校であった者については,特にその在職中の言動を充分調査の上判定すること」と記してある。これは共同省令別表第一から有り体に言えば,要するに配属先で不真面目にやっていた者はよいと言っているからである。
では別記には何と記してあるか。別記を取りまとめた者たちは大まじめであったろうが,その姑息さを見るために全文引用する。GHQの示唆に負うとは思えないからである。標題は,「適格と判定してさしつかえない者」とある。
(1) 昭和六年以前に勤務した兵科の将校及び下士官
(2) 昭和一六年一二月八日以降において兵科の将校又は下士官に任官した者
(3) 退役後大学専門学校等を卒業した者
(4) 傷痍により服役を免除された者
(註)以上(1)乃至(4)に掲げる者には,憲兵ならびに特務機関においてその本来の任務に服した者は,含まれない。
(5) 各部各科の将校及び下士官
(註)各部各科とは,陸軍にあっては経理,衛生,獣医等の各部,海軍にあっては軍医,薬剤,主計,技術,歯科医,法務等の各科をさすものとする。
(6) 補助憲兵であった者
(7) 終戦当時憲兵教習中であった者
(8) 憲兵隊に勤務した憲兵以外の者
(9) 幹部候補生より終戦後憲兵将校に任ぜられた者
(10) 特務機関に勤務したが,その本来の任務には服しなかった者
以上に列記された候補者の条件の行間をどのように読むかは,推理操作として読者の自由である(注32)。該当者は大学内には居なかったようで,通達に即応した報告の記録はない。
7節 昭和27(1952)年 ――茶番の終わりか崇高な作業の継続か
(1) 主権回復による審査制度の廃止
既存の仕組みの温存をしようとする文部官僚
新年早々の1月24日,次官通知,文人適一九号として,「本年度教員養成学校を修了し又は卒業する学生生徒の教職適格審査について」を出した。「本年度も昨年とおおむね同様に取り扱う」としている。ここには,審査の本来の目的からすれば,明らかに趣旨を拡大して,制度を延長させようとする意図と仕組みが示されている。
大体,新卒の新人に,GHQ諸指令に盛られた元来の思想性である軍国主義の「除去」を必要とした候補が居るはずはないからである。彼らは,占領中のカッコ付きの民主化,即ち「精神的な武装解除」をされた新教育を経ていた。
自然にその原初を見れば,主権回復で事態が変わることによって,制度のスクラップ・アンド・ビュルドの検討を始めるのが,行政のあるべき態度であろう。しかし,2月25日付文人適四〇号において,審査室長名により各大学事務局長と都道府県審査事務主管課長宛に,「教職員適格審査関係法規集の送付について(通知)」を送る始末である。
この法規集の編集意図なりそれに基づく作成作業は,部内でいつ始まったかはわからないものの,四海(周囲)への関心不在なのか鈍感さから来るものなのか。いずれかは判断しがたいものの,彼らがどういう心境で作業に取り組んでいたのかを,端的に示している
講和発効により占領中の法制廃止の諸法令
事態は文部省審査関係の思惑とは全く関係なく,大きく変わっていく。主権回復後に正常化に進むのも自明であった。当然のことながら,占領中という異常事態での法令環境も,穏やかに言えばすべてが廃止を前提にして,検討されることになるのは,不自然ではない。
除去の基本法とも称せられる政令は,4月9日付で法律七十九号「教職員の除去,就職禁止等に関する政令を廃止する法律」として公布された。本文は「教職員の除去,就職禁止等に関する政令(昭和二十二年政令第六十二号)は,廃止する。」だけである。
附則は3項あり,その1は「この法律は,日本国との平和条約の最初の効力発生の日から施行する」。この公布に関する4月10日付文人適六六号の次官通知の三項では,「共同省令,訓令は,この法律の施行と同時に,(略),それぞれ廃止される予定である」となっている。
その確認は,主権回復の2日前に,日高次官名による「教職員の除去,就職禁止等に関する政令の施行に関する規則等の廃止について」(文人適七四号)でされた。同文書の別記に,「教職員の除去,就職禁止等に関する政令の施行に関する規則を廃止する命令」(昭和二十七年共同省令第一号)がある。
同時に,「教職員の適格審査会に関する規定を廃止する訓令(昭和二十七年文部省訓令第三号)教職員の適格審査会に関する規程(昭和二十二年文部省訓令第三号)は廃止する」とある。公職追放制度を他所にして,文部省内ではそれよりも運用上で重いとしていた教職追放の諸法令は,これにて全て除去されることになった。
6年にわたり全国の教職員の多くは,戦前から戦時中にかけて,各々の職場で国策に忠実に従事した経験があればあるだけ,この諸法令の前に脅えることを余儀なくされていた。どこで審査室や関係する審査会に密告という投書がされるかは全く不明であったからである。
(2) 制度の初心の定着を図るための努力
適格審査廃止に逆行する試み
たとえ法令が廃止を謳っても,一度制度化して所掌し権限を有した側の熱意は,周囲の環境が変わっても,変わらない場合もある。そこを見識の有無あるいは見識の内容と相関にあると前述したのである。廃止の通知をした次には,同日に「教職員の適格審査事務の残務整理について」(文人適七五号)を,これまでの審査責任者であった都道府県知事と大学長宛に,次官名で送っている。
残務整理という名の新たな作業の指示である。その1は,関係書類の三年にわたる保存である。(イ)調査表を製本して保存すること。さらに「調査表の整理に当っては,その索引を容易ならしむるように配慮すること」。(ロ)適格者名簿。(ハ)不適格者名簿。記録に当たっては,審査の経過を明瞭に,と参考例を記してある。
その2は,五年間保存である。(イ)審査記録,「審査会開催の日時,場所,出席者,議事内容を明瞭にしうるように整理すること」。書式まである。(ロ)審査関係の規程,公文書等,記録文書処理規程により措置すること。
その3は,「上記書類のうち,一の(ハ)『不適格者名簿』及び二の(イ)なお書の『審査に関する統計』は,その写を作成の上,本省適格審査室あて六月十日までに送付すること。4,(省略)。5,本省における残務整理は,「文部省組織規程の1部改正により,当分の間」人事課で行うと,「規定され,現在どおりとなる予定」と記してある。
いかにも事態は変わっていない風の記し方ではないか。いや,いずれ保存を指示した資料が必要になるかも知れない含みすら覗えないか。その集大成が,77号であった。この内容については,「二部2章/5節(1)」で扱った。
駄目押しは,4月26日付七八号である。小倉好雄審査室長名で,大学事務局長宛に「教職適格審査事務について(通知)」した。同文書によれば,諸法令の廃止は平和条約の発効の日からとなっているが,「発効の時刻までは,引き続き審査事務をとられますよう念のため通知します」とある。ここに廃止を不服とする未練たっぷりの様子を看取できないか。
大学の対応/『記録』には紅陵大学は「未着」と記されている
主権回復後の30日(文人適七五号),審査委員長宛に,『不適格者名簿』及び『審査統計』を6月10日まで必着との要請があった。だが,どのように作成されたかは,写しがない。
文部省事務官による訪問調査で,控えの保存を指摘されていながら(5節(1)を参照),大学事務局は相変わらず結局は無視していたのであろうか。そして,文部省に指示通り送ったかどうかも疑わしい。送り状の写しも見当たらないからである。そこで,『記録』には,紅陵大学は未着と記された結果となったのか。
5月8日付で室長は同じく大学事務局長宛に,「かつて教職不適格者と判定されもし「く」(実際は不記載。筆者注)は指定された者のうち教職に復帰しもしくは採用された者について(依頼)」文書(八一号)が出された。
別記様式に記載されているのは1名だけである。講師の山名寧雄(元日本大学予科教授)であった。「占領中に不適格と判定したのは文部省審査会」による。「再審査により適格と判定した者,文部大臣」と,要請事項に応えている。5月20日に書類を作って,送ったようだ(注33)。
上記問い合わせの同日付八二号で,人事課長岡田孝平の名により,「適格審査会経費決算書の提出方について」が送られて来た。その末尾には,「なお,決算書の報告日付は昭和27年4月26日とされたく念のため」(算用数字)とある。5月14日付の決算書によれば,計420円,内訳食糧費200円で,その年の費目としては最も多い。
(注)
22.前掲『該当者名簿』。
23.安岡と拓殖大学の関係については,拓殖大学創立一〇〇年シリーズ『安岡正篤――慎独の一燈行』の拙稿「編集後記に代えて」を参照。
とくに安岡が実質で主宰していた日本農士学校の関係者に向けた敗戦直前の昭和二十年八月十日の『休戦ニ際スル告辞』は重要である。安岡が推敲(刪修)したといわれている「終戦の詔勅」と,いわば私文である告辞は,一緒に読むと,安岡の真意が伝わってくる。
第二稿七部1章2節を参照。
24.法政大学・大学史資料委員会編『法政大学史資料集』第九集。一頁。
25.詳細は拓殖大学百年史編纂室編『拓殖大学招魂社等資料集』を参照。平成十六年刊。
26.GHQ・CIE. “Education in Japan”. Feb.,15. 1946.
児玉三夫訳『日本の教育/連合国占領政策資料』一四一〜一四三頁。明星大学出版部 昭和五八年。
27.袖井林二郎『拝啓 マッカーサー元帥様』大月書店 一九八五年。
川島高峰『敗戦――占領軍への50万通の手紙』読売新聞社 一九九八年(平成十年)。
28.ここで不思議なことがある。最初の「省令/除去,施行の件」を起案作成するに際してのガリ版刷りの審議資料に,別表第二に書き込みで,15,16,17の各教育施設の名称が鉛筆で書き込みされておりながら,実現していなかった。しかし,一年後に復活する。理由は不明である。追放対象はさらに拡大された。
29.前掲『公職教職資格審査事務提要』九三〜九七頁。
30.注12に引用した相良主事の発言を参照。
31.同年十月に刊行されている。「一覧」に記載されている学則によると,「第二条 本大学に商学部を置き之を拓殖学科及商経学科に分つ」(同三十頁。原文カナ)とある。学科の優先的な順位が明快である。
しかし,専門部の場合は,多少その趣を変えている。「第一章 総則 第一条 本大学専門部は専門学校に依り経済商業及ひ殖民に関する高等専門の学術を教授するを以て目的とす」(原文カナ)とあり,学科については触れていない。
文脈的にその意味するものは分からないが,昭和十三年に文部省に申請され翌年四月から発足した専門部改変の意図するものは,全くといってよいほど反映していないところが興味深い。改変の意図と実際については,拙著『近代日本の大学人に見る世界認識』を参照。399〜401頁。
32.山本礼子によれば,公職追放の解除が先行して,文部省側からCIEに検討を求めた。その結果が,文人適二六四号であったという。前掲書三二五〜三二六頁。見出し「旧軍人の追放解除」。
こうした動きは文部省側が積極的であったようにともすると錯覚しがちだが,事態の変化に通達などを含めた法令間の整合性を必要とするところからのものであるに過ぎないのは,ここで明らかにしてきた経緯を見ればわかるものだ。
33.山名は『綴り』にある記録とは別に,採用は政経学部教授である。担当教科は専門課程では商品学,一般教養科目では化学と自然科学概論を教授した。