二部 占領下・教育改革の実態を解明する一つの視点
本稿で扱う資料について
1節 戦時と占領中における原資料の制約条件
(1) オーラル・ヒストリーの危うさ
私立大学の最終決定機関は理事会である。その理事会資料に空白がある。本稿で事例として三部で扱う拓殖大学の場合,昭和18年3月5日から昭和25年2月13日にかけて,欠落している。つまり,議事録がない。これはなぜか。
現在考えられるのは,戦時下,それも緒戦の興奮期が終わり国際感覚のある者には敗色の気配に気づき始めた頃から,占領中という不確定期,自己決定のできない焦燥状態での試行錯誤の記録の抹消を,関係者が意図して行ったのか。あるいは,新制大学への移行期のおりでの紛失か。真相は不明である。
紛失期間の終わりの時期は,現在の現代史研究ではまだ「逆コース」と言われているレッド・パージが始まった時期である。近隣では6月から北朝鮮軍が38度線を越えて南朝鮮に進攻し朝鮮戦争が始まっている。昭和20年8月15日を戦後の始点とする考えからすると,戦後史における最初の転換点でもある。議事録の紛失が偶発による事故とは考えにくい。様々な想像が可能ではある。しかし,想像は想像であって,いわば妄想でしかない。
正確な記録のないところでの,空白の期間をどうすれば埋めることができるのか。既存の年史は,それをどのように明らかにしたのであろうか。それは,オーラル・ヒストリーとしての聞き書きで埋めたと思われる。
記憶は個々人にとっては鮮明ではあっても,どこまで行っても,それは個人に属するものである。しかも,そこに他者がいれば,同じ場面ではあっても,その数だけ別の記憶と感慨があり得る。人は往々にして,後世に真実として伝えたい事実しか記憶に残さない場合もあるからだ。
さらに怖いことがある。それは,時間が経つと,そこでの感興が記憶に影響を与えて,記憶の改訂が行われる場合も有り得る部分を見落としてはならない。史実といっても,事実と真実の違いとも言い得る。あるいは,史実における伝説や神話の発生である。
たとえ上述の制約があっても,しかし,原資料のない過程については,生存者からの聞き書きを当てにするしかないではないか。本稿でも,ある部分では,聞き書きと伝聞に依存することを余儀なくされるであろう。大学新聞も当該の時期のものは残っていない。
(2) 基本資料の足りなさを補うもの
しかし,最終決定に関する第1次資料の空白がある占領期とは言っても,幸いに別の第1次資料といえるものがあった。それらから,どのような環境と状況にあったかの一端は類推することができる。
そこには,2つの分野なり領域なりがあると理解される。
その1は,僅かな口伝により伝説の世界になっていた拓殖大学の存廃に関する分野である。GHQ関連文書は,編纂室顧問の政策研究大学院・伊藤隆教授(当時)の示唆により,国立国会図書館憲政資料室で平成11年に一夏かけて発見に努めた。だが,思ったほどの成果を上げ得なかった。前掲資料室に欠落部分が相当に有ったのが分かったのは,後述の在米資料の探査を経てからであった。
在米資料と生存するGHQ関係者からのヒヤリング調査の成果の主要部分は,拓殖大学客員教授細野徳治により,『拓殖大学百年史研究』や『拓殖大学百年史編纂 拾遺T』に発表されている。必要に応じて,本稿で引用する。
この占領時期について現存する資料を集大成したのが,『拓殖大学百年史 資料編二』(2004年刊),同『四』(2006年刊)や同『五』(2007年刊)である。引用の際の略称は,『二』は(SU 番号)とする。以下,『四』は(SW),『五』は(SX)である。
2節 【教職員適格審査関係書類綴】
(1) 貴重な資料の発見と内容
その2は,資料集作成のための調査過程から,平成14年秋に茗荷谷キャンパスのB館地下倉庫で発見された【教職員適格審査関係書類綴】(以下【綴り】とする)である。本稿での三部の主題はこの【綴り】が基本資料になる。
【綴り】の表紙には,右肩に,「昭和二十一年十月起」と筆書きで記されている。表題の左下は,紅陵大学適格審査室,である。『綴り』には数百枚に及ぶ当該分野の関係資料が綴られている。大半は文部省からの送付文書で,各大学宛のものと,当時は紅陵大学と名称を変更した拓殖大学だけを対象にしたものの,2種類ある。圧倒的に,各大学や審査機関宛のものが多い。いわゆる通達なり指示や連絡文書の類である。
また,大学から文部省への報告資料の控えや学内の執務上からと思われる意味不明の簡単なメモもある。必ずしも日付順になってはいないものの,たしかに「関係書類綴」である。昭和27(1952)年9月18日付の文部省人事課長による『教職員の適格審査に関する記録』の送り状が最後に綴られている。従って,『綴り』は同年9月下旬で閉じられたのであろう。法制化されていた審査作業がなくなれば,大学内の審査委員会も閉鎖され,事務担当者も担当が無くなったからだ。
書類には重複も多い。控えなのか,案なのか,単なるメモ書きなのか,不明のものも多い。重複の書類は,別のダンボール箱からも見つかっている。そうした整理は,あまりされておらず,日常の業務で,出てきたものや思い出したものを次々に綴じていったものと推察される。
(2) 記録保存の仕方にみる制約
保存が杜撰であったのは,後出(三部,2章/3節)の『審査月報』に欠号があるところにも判明する。さらに後述するように,昭和25年1月の文部省による「『大学適格審査事務』調査の結果」(三部2章/5節(1)を参照)で明らかになったのは,保存の不備である。それまでの審査室への報告書類の一切は,控えを大学に残していなかった。そこで,当然に監査に来た事務官に注意されている。
東条首相暗殺未遂の国事犯として逮捕されて放校になった学生が,刑務所に収監されて,敗戦後に釈放されて,復学の嘆願書を学長宛に送った書簡もある。学生は適格審査の対象ではないはずだが,書簡の依頼事項は審査事務局の設置理由に関わると判断して,綴られたのであろうか。因みに元学生は経済的な理由もあってか,復学していない。
収録書類は,審査作業が始まった年代の昭和21年から22年,そして23年にかけてのものが最も多い。始まりの昭和21年は,総計すると,140枚ほどか。26年は最も少ない。葉書や領収書を含めて50枚にも満たない。占領政策は,対日講和条約問題や朝鮮戦争たけなわもあって,急速に変質していた時代である。
以上,この2つの分野の資料から,本稿の主題である,「教職“追放”(適格審査)の経緯」と,それを通じての事例として「占領下における拓殖大学の適応過程」を明らかにしていきたい。
なお,資料や文献を引用するに際しての番号や年月日に用いた数字の表し方は,原文の通りにしてあるので,不揃いになっている。そこにも時代の流れの速さが窺うことができよう。
問題の所在
1節 戦後はいつから始まるのか
(1) 8月15日か降伏調印署名の9月2日か
一般の日本人は,昭和20(1945)年8月15日に,終戦の詔勅によってポツダム宣言を受諾したことを国民に公表したところから,戦後は始まったと思っている。詳細は後述するものの,この考え方は日本人独特のもので,国際公法から見ると,妥当なものとは言えない。その区切りは9月2日の降伏文書調印である。おそらく,この分野の国内における多くの誤解は,国際常識の上で鮮明に整理されていないところから来ている。
だが,多くの日本人が8月15日をもって戦後と戦中の区切りと受け止めたのは,それなりの理由があるものと思われる。それは昭和天皇の肉声による詔勅がNHKのラジオ放送をもって15日正午に伝えられたからであろう。そうした受け止め方は,それはそれで日本人論あるいは近現代世界での日本人の戦争観を考える上で,十分に問題になり得る。
どうあれ,占領の大枠は,終戦の詔勅に明記されているように,当時は敵国であった連合諸国の有力国家が,ドイツ降伏後に占領地ポツダムに集い,戦後処理を協議してから提示したポツダム宣言の内容に基礎づけられている。受諾とは敗戦国日本の戦勝諸国に対する国際公約になった。以後,いわば超絶的な最高法規になった。連合諸国の構成についての疑念はあっても,である。例えば日ソ中立条約を無視して侵攻してきたソ連の存在はおかしい。
日本に進駐した占領軍は米国が圧倒的に主力であったが,占領初期には,象徴的に英国,オーストラリア,ニュージーランドのようなアングロ・サクソン諸国や中華民国の軍隊も駐留した場合もある。駐留が局地的であったために,一般の日本人が気づいたかどうかはともかくとして,日本官民に対して連合軍であることの意味付けを教育するための措置でもあった。
(2) 8月15日から9月2日までの間に起きたこと
だが,米国のルーズベルト大統領のスターリンへの要請もあって,満州に軍を参戦させたことで連合国として日本に臨むことになったソ連の軍あるいはモンゴル(外蒙)軍は,現在の北方領土は別にして,ポツダム宣言における日本領土の範囲となったかの日本列島への駐留を許されていない。ポツダム宣言受諾の通告をして15日に日本軍の戦闘停止を下命した後の,北方領土への武力行使を伴った占拠は,国際公法を無視しての既成事実作りの結果であった。
対日占領における勢力範囲についての取り決めが,事前に米ソ間にあったかどうかは別にして,ユーラシア東方あるいは北西太平洋での大陸と島嶼についての,地政学的な区分が明瞭に示されている。例外は朝鮮半島であった。
仮に事前の取り決めがあったとしたら,それは文書化されているものではなく,おそらくは阿吽の呼吸によるものであったかも知れない。なぜなら,スターリンの北方領土への慎重な軍の進め方に,それを見ることができる。しかし,日本がまだ知り得ない米ソ間の交渉についての文書があるかも知れない。
チャーチルと違い,スターリンにとっては組みやすい相手であったルーズベルトは死んでいた。後任のトルーマンとは親しくなる時間がスターリンにはなかった。しかも,すでに戦争は終わっていた。つまり,米ソ双方の勢力圏についての許容範囲の不明の部分の具象が,いわゆる北方領土であった。
さて,8月14日に御名御璽によって公式に文書化され,国民に翌日に伝えられた終戦の詔勅である「大東亜戦争終結に関する詔書」に引き続いて,同月17日には「陸海軍人への勅語」が出された。その以後に,上述のそうした不鮮明の部分があったのであれ,日本は占領下に置かれた。
終戦は戦争の終結ではなく,日本軍の戦闘行為が終了しただけである。顕著な例外は,北方領土でソ連軍と交戦を余儀なくされた日本軍守備隊である。日本国と連合軍諸国との間では戦争が終結したのではない。
(3) 戦争が終ったのは1952年4月28日の講和条約発効
昭和26年9月に米国のサンフランシスコで,米国の主導において対日講和条約が連合諸国との間で調印され,その翌年の4月28日に条約が発効して,日本の戦争は終わった。つまり,日本は主権を回復したのであった。
この条約に調印していないソ連との間では,法的には講和条約ではなく,後の日ソ共同宣言(1956年10月)が代行している。それもあって,事あるごとに,日ソの間での平和条約の締結が議論になった。ソ連崩壊後の継承国家ロシアとの間でも,北方領土問題が,その入り口なのか出口なのか,常に争点になっている。
そうした前提もあってか,中華人民共和国から,日本との間で戦争状態が終わっていない風の議論が出たことがある。そのようにけしかけた国籍不在の日本人もいるにはいるが。しかし,これは間違っている。昭和20年8月に日本軍が降伏した相手は,中華民国であったからだ。法の世界で遡及はあってはならないのは,法運用に関する近代以後の人類による深い知恵である。
2006年は日中平和条約調印35周年であった。昭和47(1972)年に上海で日中共同声明が出て,日中国交関係が既定の方針にされた。だが,そこに至る昭和46(1971)年頃から国内で起きたいわゆる日中国交正常化の動きの中で,奇妙な言い方が堂々と横行した。
それは,日中復交という見解である。正常化と復交が癒着することに違和感のないような始末は,外交関係の国際公法についての知識が不確かなところから来ている。こうしたあいまいさは,上述の戦後という時代区分の独特な理解にも通底し,作用している。
2節 適格審査の拡充と精緻化を推進したもの
(1) 占領政策における作為と,擬制しての日本解放
本稿の主題期間である占領中の7年という時代の解釈が,前節で提起したように「戦後」と直結することを自明とする錯誤やあいまいさは,どのような心的作用をもたらしたのか。こうしたあり様は,当時のGHQによる統治過程に関与した日本人の意識形成にも大きく作用している。彼らに,支配されている意識なり心理なりがどこまで明確に自覚されていたか,である。
占領軍側は,「自分たちは冒険的な軍国主義者に『占領されてしまった』日本国家なり政府なりにより作られている圧政や圧制下にあった日本人(ピープル)を解放するために進駐した」,との論理なりメッセージなりを提供した。ポツダム宣言はそうした論理構成になっている。
そうした占領軍の振る舞いに,どこまで自覚的に日本側が受け止めたかである。勿論,敗戦直後に国家中枢を形成していたエリートには,その程度の事の識別をする能力はあっただろう。
だが,占領軍の意図した一見はソフトなメッセージが普及していくに従い,明らかに違うと堂々と異議を唱えるところには至らなかった。なぜなら,後述するように,すでに公職追放されてしまっており,発言の場は失われていたのだ。また,確信的に占領による日本改造を是認し「共棲」した選良もいた。
だから作為されたあいまいなメッセージの伝達に対して,なし崩しにピープルは受容してしまったのではないのか。そうした風潮に違和感を抱いて異議を唱えることは,占領軍の意向に逆らうことでもあり,それに対しては指令があり,強制労働(ハード・レーバー)などの処罰も用意されていた。
あいまいさの受容過程には,当然にここでの主題である教職"追放"(適格審査)の制度化も含まれている。ポツダム宣言では,日本社会の非軍国主義化とともに,それを実現する過程は民主主義によりなされるとした。非軍国主義化と民主主義化あるいは民主化は表裏一体のものとの意思表示は,明確であった。
(2) 間接統治の担い手としての官庁
その手法としての政策の有力な一つは,日本「政府」を通しての間接的な実施であった。文部省はその手段にされた。財政は大蔵省(現財務省)がしたように。治安は警察が担った。戦犯容疑者として指名手配されると,警察に追われたのである。
問題は,こうした占領軍の手段を構成した人々は,自分たちの機能や役割をどのように認識していたのかである。それは,本稿の以下の解明で,その従事者の発言と動きや手続きの仕方から明らかにされてくるだろう。
GHQの指令に基づく文部省の取り組みは,手段的な存在である限り,どこまでいっても客体的な存在あるいは付属または従属,ありていには下請け存在でしかない。決定権は,最初から日本側に存在していないからである。そこには,細部はともかくとして,基本部分では判断権限もありえない。
そこで,自前の存在にはなりえないのである。自前と錯覚するのは勝手だが,それは現実ではなくて,妄想でしかない。妄想が現実に働くとどうなるのか。そこが本稿の有力な問題の所在になる。
(3) GHQ・CIEの下請けとしての文部省
教職員適格審査の制度化に,その下部としての実施機関にすぎなかった文部省のスタッフの意識(あるいは妄想か)は,どうだったのであろう。古今東西を問わず,下部を構成する者たちは,上部機関に対して適応する。適応という穏やかな言い方ではなく,内面的にも組織としても,同調すると見るのが自然である。さらに行き過ぎて同化してしまう場合もある。同化なり適応なりは,時に上部よりも業務の遂行に熱心になる場合もある。
だが,日本政府がポツダム宣言を受容れた以上,それに基づく改造は革命を意味する内容であっても,その推進は正しいと確信していた。こうした集団が,個々人としても集団としても,適格審査の拡充と精緻化の推進に作用していた。作用していたとしたら,そこに創意工夫が働いていなかったのか。当人は使命感に基づいていると思っていても,それは過度の適応から来る錯覚でしかないように見えるが。
もしそうとしたら,こうした錯覚は倒錯心理と言える。そうした心理過程は,前節で指摘したように,区分としての戦後の受け止め方のあいまいさ,あるいは錯誤からも来ているように思われる。
この部分の考察が必要なのは,近現代における日本人の「国際体験」の事例を知るためでもある。敗戦前の戦争中には,日本の占領した地域では日本人は支配者になっていたからだ。
敗戦により逆転し転倒した状況に対して,統治の末端という役割を果たした日本人は,どのように自己正当化を図ったのか。さらに,自己処理や自己措定していたかを知るのは,これからの日本国と日本人を考えるためにも重要な課題である。
1章 「物的な武装解除」から「精神的な武装解除」へ
1節 精神的な武装解除の初期における国際的な枠組み
(1) 「精神的な武装解除」を推進する期間としての占領中
日本の戦後は,占領中ではなく,旧敵国である連合軍諸国との講和条約が昭和27年4月に発効して,主権を回復してからである。占領中は武器を用いた戦闘を終結しただけであって,戦争は継続していたという観点を無視しては,国際公法の約束事は成立しない。物的な武器を用いた戦闘がなくなった代わりに,別の形の戦闘が日々展開していたという見地を無視してはならない。
当時の米国の国務長官バーンズは,降伏調印の記念すべき日に,これは日本の「物的な武装解除」が確認されただけであって,次の段階として「精神的な武装解除」の必要があると言った(注1)。この部分は,米国あるいは連合諸国による日本に対しての,別の形の戦闘の継続を確認したことである。さらに,この発言は本稿の主題に直接してくるのは明瞭である。
昭和20年8月に天皇の下命により戦闘を日本が止めてから,「戦争が終わり,戦後になった」と日本人が錯覚しているところから生じる問題は,何か。それは,占領中の国内でのGHQ統治の展開やその理解で多くの錯誤が生まれてきたことだ。しかも,大かたの日本人とくに知識人は,いまだにその錯誤を継続させてきていることを,本稿の主題を展開する前に確認しておきたい。
バ−ンズ長官の見解にあった「精神的な武装解除」は,彼独自のものではなく,すでに戦時中からその政策形成のための調査研究は多角的に行われていた。そこから方針が集約されてきていたのは,多くの資料に残されている(今は浅薄だと定評になっているものの,一時は有名になった人類学者R・ベネディクトの『菊と刀』も,そうした文脈での日本研究の一環から生まれた作品である)。ここでは,最低限,必要な資料から主題に関わる部分だけを提起しておくことにしたい。
(2) 精神的武装解除を国際的に公式化する文書群
こうした国務長官の声明が政策的に最初に確認されたのは,どういう経緯によるのかはともかくとして,記録に残された最終の日付では,9月22日の『降伏後における米国の初期の方針』(注2)である。同文書は降伏後に公表された対日処理方針では最初のものであった。
「第3部 政治。1 武装解除及非軍事化」の最後の段落において,「理論上及び実際上の軍国主義及び超国家主義(準軍事訓練を含む)は教育システムより除去させられる」と規定されている(注3)。
この方針は,統合3謀本部(JCS)から11月1日付でマッカーサー(以下「マ」とする)司令官宛に指示された,『日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令』の「1部 10項(a)」で,同趣旨のものが,具体的な施策あるいは手段を伴って記されている。
「好戦的国家主義及び侵略の積極的推進者であったすべての教師及び軍事占領の目的に積極的に反対し続けているすべての教師は,受容されうる有適格の後継者と取り替える」。つまり占領政策にとって都合の悪い教職員は除去すると言っている。
この文節に続いて,上記のSWNCC文書より厳しい表現になっているのは,軍国主義教育の除去が,「禁止される(will be forbidden)」になっている箇所である(注4)。こうした強意は,GHQの対日教育改革の取り組みに,大きく影響を与えてくるのは当然であろう。
すでに明らかなように日本は米国だけに降伏したのではない。連合軍を構成する諸国に敗北したのであった。それは降伏の調印式に参加し署名した国々だけでも列記すればわかる。そこから最強国家になった米ソ間では,調印式の前から対日占領管理をめぐって暗闘が起きていた。
その経緯はともかくとして,1945年12月にモスクワで開催された米国,英国,ソ連の外相会議において,極東委員会の設置が発表された。構成国は11カ国であった。その対日理事会がポツダム宣言に則して,GHQを監視する位置になった。
同委員会は1947年6月19日に政策決定文書「降伏後の対日基本政策」を作成し,同年7月11日に発表した。この文書は前述の既往の文書の超国家主義の後にanti-democratic が加わっているだけで,他は同じ文言である(注5)。なぜ「反民主主義」という文言を敢えて付け加えたのか,どの政府の提起によるものかは,まだ筆者は追求していない。
ともあれ,日本占領の初期では,こうした国際的な枠組みにおいて,政策が実施される体制になっていた。その枠組みが実際上で厳密に順守されていたかは,この限りではない。専ら,米国の意向,それも東京のお濠端にある第一生命ビルに設置されたGHQが最も影響力を有していた。
それはなぜか。米ソ間の蜜月は対ドイツ戦が終了した以後から変わっていったからである。対日戦の終了後は,実際には大戦中の蜜月は終わっていた。極東委員会は有名無実になった。それが対日問題で決定的な段階に入るのは,1950年6月に起きた朝鮮戦争を待たねばならなかった。
2節 公職・教職追放とは何か
(1) ポツダム宣言にある公職・教職追放の根拠
公職と教職の二つの分野の“追放”は,ポツダム宣言に即して,同時に行われている。後世が整理して考えるならば,別々に分野化して追求していく方が分かり易いだろうか。大学というここでの主題から考えると,教職“追放”に限定した方がその影響の実態を鮮明することができると言える。
だが,後出の三部1章/2節で明らかにされるように,評議員の公職追放の事態を前提にすると,読み手にとって双方の展開は面倒でも,一緒に逐次的に追っていく方が妥当のように思う。そこで,ここでは同時進行で把握することにする。
ポツダム宣言は,1945年7月26日に発表されたものであった。ここでの主題に関わる範囲では,同宣言には,具体的に占領中に日本に対して行うであろう条件を2つ挙げている。それは,6項と10項にある。
6項では,無責任なる軍国主義により日本国民を騙して世界征服に出た錯誤を犯した権力と影響力を除去(eliminate)すること。10項では,日本国民に民主主義的な傾向を復活(revival)させて強化するための障害になる一切を除去すること。
いずれも,その環境作りのために,後に実際に実施されるおりにはパージ(purge)と表現されたのだが,まだ日本帝国は健在であり,敵国への降伏条件のためもあって,除去という穏やかな表現がされている。
降伏調印が9月2日に東京湾の米戦艦ミズーリの上でされて,占領が着実に現実のものになってくるに従い,対日占領政策は具体性を帯びてくる。前記の6項と10項の実現である。それは,上記項目の提起に関わる人々の除去である"追放"となって現れた。
(2) GHQ命令を裏書した勅令
教職追放の思想的には先行していた公職除去についての最初の指令は,1946年1月4日に,覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」(SCAPIN 550)として,日本側に渡された。いわゆる公職追放令である。上記6項には,「該当したる一切の者を公職より罷免し且官職より排除すべきことを命ず」(2項)とあった。
同日,同じく覚書で,「ある種の政党,政治結社,協会及びその他団体廃止の件」(SCAPIN 548)が出された。AからGまで7つの条件を提示し,附属書Aには該当する団体を列記している。ある種とは,ポツダム宣言に則り軍国主義あるいはそれに関わると見なされた団体である。誰があるいはどの機関が名簿つくりに協力したのであろうか。その記載は,当然ない。また,日本の主権回復後に,この領域についての実証的な調査研究もされていない。
指令としての覚書を裏付けるために,翌年の1947年1月4日に,勅令第1号で「公職に関する就職禁止,退職等に関する勅令」が出された。前年に日本側に渡された上記覚書(SCAPIN 550)に「基づく公職に関する就職禁止,退職等については,この勅令に定めるところによる」(第1条)となった。こうした手順は,占領軍による対日間接統治の法制的な構造から来ている。
それをさらに具体的に施行するために,「昭和二十二年勅令第1号 公職に関する就職禁止,退職等に関する勅令の施行に関する命令」が,内務省令第1号として出された。命令は第1条しかなく,別表1に,覚書該当者の基準が7項に分けられてある。
その1は,戦争犯罪人,2 職業陸海軍職員――陸海軍省の特別警察職員(憲兵のこと。筆者注)及び官吏,3 極端な国家主義的団体,暴力主義的団体又は秘密愛国団体の有力分子,4 大政翼賛会,翼賛政治会及び大日本政治会の活動における有力分子,5 日本の膨張に関係した金融機関及び開発機関の役員,6 占領地の行政長官等,7 その他の軍国主義者及び極端な国家主義者。
次いで,「備考」が別紙にあり,それは十項目あり,必要に応じて註がつき,該当者の条件について至れり尽くせりである。
最後にある「別表」は,SCAPIN 548の「G項該当言論報道団体」である。その一覧を見ると,少なくとも日本及び日本の影響地にあった言論機関はすべて網羅されている(注6)。
公職追放は,「日本を非軍事化する計画の1段階として考えられた。(中略)世界の平和にとって危険である場合,そのような人間を公職から追放するという計画なのである」(注7)。もちろん,この言い分は戦勝国である占領者側のものであった。
3節 教職追放の一般的な経緯
(1) GHQの主導による4つの法令
公職追放と教職追放の関係はどうなるのか。教職追放を所掌したのは,GHQのCIE(民間情報教育局)と言われた。CIEにとっては,教職追放の方が公職追放より厳しいと見ていたようである(山本。前掲書にあるCIE文書。200頁)それは未来の日本人の精神的な武装解除に影響力を持続させるため,と考えていたからであろう。
日本側に渡された教職追放に関する指令(覚書)と,それに基づく日本の法令は,併せて4つある。その1は,昭和20(1945)年10月22日に発せられた覚書「日本教育制度に対する管理政策」(SU一−二)(以下,単に「管理政策」とする。筆者注。資料(1)を参照)。その2は,同月30日の「教員及教育関係官の調査,除外,認可に関する件」(SU一−三)(以下,単に「除外の件」とする。筆者注。資料(2)を参照)である。
この指令を受けて,翌年の昭和21(1946)年5月6日に勅令第二百六十三号として,「教職員の除去,就職禁止及び復職等の件」が通達された(以下,「勅令/除去,就職禁止の件」とする。筆者注。資料(3)を参照)。その3である。
同日,文部,農林,運輸省令第一号として,「教職員の除去,就職禁止及び復職等の件の施行に関する件」(SU二−三)(以下,単に「省令/除去,施行の件」とする。10月3日には一部が改訂されて共同省令となったが,その原型である。筆者注。資料(4)を参照)が発令されて,一層に除去という追放が実施される法令的な環境が整った。その4である。
(2) 4つの法令に関わる2つの先行指令
GHQによる覚書は,それ自体が命令であった。その権威化の背後には,言葉としてはポツダム宣言があり,暴力装置としては,本土決戦用に残存していた日本軍の武装解除後の空白を埋めた日本列島に駐屯する米軍があった。
「管理政策」の1項のAには,「軍国主義的及び極端なる国家主義的イデオロギーの普及を禁止すること,軍事教育の学科及び教練は凡て廃止すること」。さらには,「議会政治,国際平和,個人の権威の思想及集会,言論の自由の如き基本的人権の思想に合致する諸概念の教授及実践の確立を奨励すること」とある。
ここには,排除と新たな方針の提示が,具体的にある。専ら排除に重点を置いたのが,「勅令/除去,就職禁止の件」であり,「省令/除去,施行の件」であった。こうした手続きの順序と担当範囲の有り様を称して,通常は間接統治と言われる。
「省令/除去,施行の件」には別表がついており,その「第一」には,「教職不適格者として」6項が挙げられており,1項はさらに細分化されている。この執拗さと詳細な区分けは,CIEからの指示だけで成立していたのか。初期占領史のいまだに解明されていない部分であろう(SU 13頁)。
別表二には,その適格性について審査委員会にかける必要もない不適格者として,一定期間内に特定の学校やその学校の学部学科を卒業した者も挙げられている(三,昭和十二年七月七日以降)(同上。13〜15頁)。この日付を思い出すことのできる者は,比較的に近現代史に通じている者であろう。北京郊外の盧溝橋で,様々な憶説をいまだに呼んでいる日本軍と中華民国軍が軍事衝突を起こした日付である(注8)。
三項には18に及ぶ教育・訓練機関が特定の学校名と学部学科,さらに学校の種類と列記されている(同上。15頁)。
これが日本軍国主義の空間拡大に従事した要員の除去としたら,時系列つまりは歴史なり文化なりの分野に入るのは神職養成学校である。伊勢にあった神宮皇学館や国学院大学専門部附属神道部や,神職養成学校が,その対象になっている。次節で取り上げる前年12月に出た「神道指令」と,指令「修身,日本歴史及び地理停止に関する件」は,その先行である。
4節 公職・教職追放を支えた法令等の環境 ――過去の断罪と未来の調教まで
(1) 「言論の自由」の背後にあった2つの制約条件
「自由の指令」の背景
ポツダム宣言から,この小見出しの内容にいたる中間項は,降伏調印された9月2日から1カ月余たっての10月4日に指令された,いわゆる「自由の指令」(政治的,社会的及宗教的自由に対する制限除去の件)である。その内容を見て愕然とした東久邇内閣は,実施しがたいと総辞職した。
その理由は,言論の自由を謳う1節に,「天皇国体及び日本帝国政府に関する無制限なる討議を含む」とあり,天皇国体を含んでいるところに,ポツダム宣言受諾の敗者の条件として掲げた「国体の護持」から考えて,「無制限」を記したGHQの意図にうさん臭いものを感じたからであろう。首相は宮家(皇族)であった。
この懸念は基本的には間違っていなかったのは,その後の経緯が示している。後出の丸山真男による日本軍国主義に関する諸分析や宮澤俊義の「8月15日革命説」は,溯ってGHQの対日政策を補強する学説(?)の役割を果たすことになった(1章/5節)。
「自由の指令」は,ほんの序の口であった。しかし,その影響力は図り知れない巨大なものでもあった。言論の自由という名分は,長かった戦時下の期間での言論統制から見ると,これまでの緊張を一挙にほぐしたからである。しかも,この言論の自由はカッコつきの自由でもあった。そこには2つの制約条件が制度的に用意されていた。
プレス・コードによる言論操作と抑圧
その1は,江藤淳が壮年時代にしつこく追及したように,占領下の「言論・報道の自由」は,プレス・コードによる検閲を前提にしたところに成立していた面である。従って,市井の人々に提供される情報は,自由な報道と言われたものの,占領軍に管理されて選択されており,彼らにとって無害有益のものしかなかった。
この陽と陰の双方の働きつまりダブルスタンダードを見ないと,日本の調教を目的として奨励された占領中の民主主義の在りようも見えて来ない。いまだに,占領政策に協力した「自由な報道機関」である大新聞は,占領中のGHQへの協力についての自己総括を実証的にもしていない。
イエロー・ジャーナリズムでないのなら,クォリティ・ペーパーの名前の実の提示が求められている。そうした情報公開をしてこそ,言論の自由のクオリティを高めるというものだ。
軍国主義廃絶を理由にした焚書
その2は,焚書があったことである。前述のポツダム宣言での定義により除去に相当する書物は,燃された。この史実は,現在は殆ど知られていない。侵略主義,超国家主義に関わると判断された文献は,GHQから提出命令がされて,全国的に収集されて抹消された。
ある研究者は,島根県の事例を取り上げて報告している(注9)。ここでは,県内務部長の命令で,総計87万1954冊が集められ,津和野にある製紙工場で溶かされて再生紙になったという(同220頁)(注10)。全国規模ではどれだけの量になったのであろうか。
この部長吉川覚は,戦時ではいわゆる特高(治安維持法で現在も悪名高き特別高等警察)であったという。能吏は命令に忠実に取り組んだ。ここには,M・ウェーバーの言った官僚制における価値中立的な職務遂行そのものが見えて,多少は薄気味が悪い。H・アーレントの指摘した『イスラエルのアイヒマン』での解析と通底する側面を感じるからである。
グレシャムの法則ではないが,俗世では確かに悪貨は良貨を駆逐する。言い換えれば,悪書は良書を駆逐する。だが,ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』にある大審問官と神の問答ではないが,神が与えた人間を人間として自覚させるはずの「選択の自由」は,「言論の自由」と表裏一体になって基本的な人権を構成しているはずである。
しかし,占領中の日本には原則として,それはあり得なかったのは,カッコ付の民主化という調教が諸政策に共通していたからである。この焚書という手段には,ナチスが政権を掌握した後に,トーマス・マンの小説やユダヤ人であったハイネの詩集,さらにアインシュタイン等の多くの書物を燃やしたのと,論理的には共通している視点を持つことが必要である。それを上部で推進したのはGHQである。
そこに「選択の自由」を原則として認めていないとしか見えないからだ。こうした措置は,占領軍の管理者が日本の文化や日本人そのものを,一段低く見ていないと出て来ない措置のように思える,という常識を有することが求められている。
焚書になったのは悪書だからと,GHQによる行為を問題視しなかったGHQ流の民主化を肯定する知識人の存在への評価もまだされていない。
(2) 調教の構造と力学
「新日本建設に関する詔書」にある二つの意図
ではその調教の構造は,大枠としてどのように構成されていたのか。「自由の指令」から,1947(昭和22)年3月31日に施行された教育基本法の成立を経て,1948年12月23日のA級戦犯の絞首刑執行に至る3年余は,占領の骨格が作られた期間であった。今日から見ると,この期間の骨格作りは,3つの領域に分けて考えることができる。
その1の領域は,現在も天皇の人間宣言と言われている1946年1月1日の「新日本建設に関する詔書」と,それを取り巻くGHQからの指令を含めた法令環境である。まず直前の1945年12月15日に渡された,「神道指令」(国家神道,神社神道に対する政府の保証,支援,保全,監督並びに弘布の廃止に関する件),同年12月31日の指令「修身,日本歴史及び地理停止に関する件」である。
いずれも,日本国家と社会の在り方に負の問題がある,とする見地から出された指令である。「天皇の人間宣言」といまだに言われる詔書とて自発的なものではない。叡慮としての自発性は,冒頭にある近代日本の国是とされていた「五カ条のご誓文」であった。当初の原案にはなかったのを,陛下は求めた。この挿入にも抑止が働いたが,陛下は受け付けなかったと言われている。
昭和天皇の考える民主主義は,国体と矛盾するとは思われていなかった模様である。歴史上の前提は抜きにして国際比較すれば,英国の立憲君主制が1つの先行事例としてあり,不思議ではない。
教育勅語の廃止
GHQは,信教の自由を前提にし,戦時下には信教の自由は抑圧されていたと「神道指令」を理由づける。たしかに戦時下での戦意高揚のためもあって,それまでがそれまでだからと割り引いたとしても,その内容はかなり意図的である(注11)。政策的な意図を含んだ「国家神道」という表現だけが,その後は先行して,いまだにその意図した定義は一人歩きすることになった。それは靖国神社問題にまで尾を引いている。
「修身,日本歴史及び地理停止に関する件」に至っては,「日本政府が軍国主義的及び極端な国家主義的観念をある種の教科書に執拗に織り込んで生徒に課しかかる観念を生徒の頭脳に植え込まんがために教育を利用せるに鑑み」(冒頭1の文中にある節)との認識から来ている。ここからは,彼らが占領中に主に義務教育の課程で意図した対策が,そのまま浮かんで来る。逆読みをすればいい。「植え込み」とした表現に留意したい。
こうした地ならしがあって,1946年10月8日に文部省は,教育勅語捧読の廃止を全国に通達した。さらに1948年6月19日には,衆参両院で教育勅語(軍人勅諭,戊申詔書を含む)の失効を決議し,可決された。教育基本法を制定して3カ月弱という芸の細かさである。タクトを振るっていた者は第一生命ビルに鎮座していた。
現行憲法の付与
その2の領域は,1946年11月3日に公布されて,半年の猶予期間をおいて47年5月3日に施行された,いわゆる新憲法である。帝国憲法は民主的でないと断罪された。しかも,形式上は連続性を持たせて,帝国憲法の条文に従った改正という手続きを取らせている。占領中に憲法改正があり得るとするのは,明らかな錯覚であるが,日本ではこうした倒錯がむしろ現在でも一層強固になって臆面もなく掲げて生きている勢力もある。
極東国際軍事裁判(東京裁判)というショウ
その3の領域は,大規模に公職・教職の追放をしながらの「戦犯」裁判である。その最大の大掛かりな演出として,参謀本部のあった市ケ谷に極東軍事裁判所の法廷が特設されて,46年5月3日にA級戦犯の東京裁判が始まった(注12)。48年11月12日に判決が下り,同年12月23日に死刑は執行された。この日は,皇太子つまり現在の天皇陛下のご生誕日でもあった。
裁判と銘打ったものの,裁判に名を借りた勝利者側の復讐であり,敗者への懲罰を意味していたのは,遡及法で裁いたところに露骨に示されている。そこには西欧近代法の成果であったはずの常識はない。
とくに旧占領地の蘭印(現インドネシア)やシンガポールで行われたB,C級戦犯裁判には,復讐以外の何物でもない事例が数多く見られたと言われている。A級裁判では,文官の広田弘毅までが戦犯になり,絞首刑になった。文官1名は便宜上の懲罰的な意図と思われる。
教育基本法の制定と教職追放は飴と鞭,表裏の関係
この3つの領域で展開された諸政策の目的は,日本列島に棲息する住民への壮大な調教を意味していた。民主化と見るか弱体化と見るかは,国家主権とは何かなど国際公法を含めた事態の認識や評価をする当人の見識の問題であろう。
文部大臣田中耕太郎や主事相良などにとっては,未開の地がGHQの推進する民主化によって啓蒙され,日本社会は進歩することになる。
本稿の主題から見ると,こうした未来に向けての諸作業の集大成が教育基本法の制定であったと言える。旧教育基本法は,その前文の冒頭で「われらは,さきに,日本国憲法を確定し,民主的で文化的な国家を建設して,世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は,根本において教育の力にまつべきものである」,とある。新憲法とこの法は一体にある。
現在から見れば,公職と教職の膨大な追放劇が始まり,新たに占領側のお墨付きを得て登場した役者によって構成されていた日本側の下請け機関が文部省であった。この新たに「民主的に」選抜された組織は,いかにGHQに対して唯々諾々であるばかりか,彼の「管理政策」遂行に使命感をもって積極的に取り組んでいたのかは,本稿で追い追い見えてくるはずである(注13)。
5節 事例/東京「帝国大学新聞」の報道に見る粛学
(1) GHQの方針と一体になっていることに違和感がない
戦犯教育者の追放
教職追放の制度化ができたのは,すでに略述したように昭和21年5月7日の「勅令/除去,就職禁止の件」の公布と「省令/除去,施行の件」の制定であった。すでに,1月4日に公職追放令によって,中枢から末端まで,大掛かりな追放がなされていた。その規定によって教職から去った者も多いのは記した通りである。
大学側はこうした追放と復職による復権の一連の動きを「粛学」として受け止める向きもあった。民主革命という表現をしたのは,進歩派である。その中心は,東京大学であった。それを裏付ける一端は,注13で引用した『戦後日本の教育改革』の文脈にも明らかである。
当時の雰囲気を最もよく伝えているのは,『東京大学百年史』での引用の最も多い「帝国大学新聞」の編集と記述の仕方である。1946(昭和21)年5月21日の同紙(後の東京大学新聞/986号)は,1面トップにある論説で主張している。その表題は,なんと「戦犯教育者の追放」である。
冒頭から「教育界の粛清は民主革命を真に確立せしめるか否かをかけた喫緊の要務である。十数年に亙る闇黒教育の結果を今日程若い世代の誰もが痛感してゐる時はない。この闇黒と強圧から真に民主的な自由な解放を齎すものこそ教育界の徹底的な廓清と民主化以外にはあり得ない。(中略)。
昨秋の最高司令部覚書(「管理政策」と「除外の件」。1章/3節(1)を参照。筆者注)の風塵のしづまるや,慌てて民主主義の仮面の下にその温存化を策し戦犯の自発的なる審査,調査すら怠る現状であった。(下略)」。
「連合国最高司令部の指令の意を体」する自負
このような論旨が延々と続く。「粛清と廓清」という表現は激しい。物理性を伴うと受け取れられる恫喝である。近代日本の選良育成の場でのこうした戦術というか手管は,誰から教えられたのか。その背景に思い巡らすと,気持ちがいいものではない。
これまでの価値観が,他力である占領軍によって崩壊し,急性アノミーの状況に興奮した乱舞の様が看て取れる。東久邇内閣総辞職の理由となった「無制限」な言論の自由が,公認されたところから来る成果とも読める,当時の思潮の先端を象徴的に示している。
左面にある記事の見出しは4段抜きで,「教職員適格審査委員会組織へ/学閥や策動を廃せ/学生の意向反映を要望」。記事と解説と意見が混在した内容だが,眼目は,以下の引用部分にあるようである。
「これを機会に連合国最高司令部の指令の意を体し教育界における軍国主義的残滓を一掃するとともに,未曾有の教育革命の意義を再確認し単に指令を遵奉する受動的な態度でなく自主的,積極的に教育界の再建を期することが望まれてゐる」。
この言い回しの独特の展開の共通しているものは,後出の審査室のニューズ・レター『月報』の内容にも見ることができる(2章/3節)。その論理はほとんど同質と言っていいだろう。すると,同じく前出の「『言論の自由』の背後にあった2つの制約条件」(前掲4節を参照)で記したGHQによるプレス・コードに,ふと思いを馳せてしまう。
なぜか。引用部分だけを見ても,論説では「最高司令部覚書」を称揚し,記事の意見部分では「連合国最高司令部の指令の意を体し」と,GHQ大政翼賛会PR紙の様相を呈しているからである。
(2) GHQ権力を背後に置いた擬似「人民裁判」
記事の左の部分には「各学部該当者を見る」と,粛清の対象者を俎上に挙げて,その可能性を示唆している。法学部,「今回の追放令によって無審査で同令に該当すると見られるのは」がリードである。法学部の締めくくりは,「なほこの審査の際法学部長の方針として,一般学生の審査委員会に対する與論など何らかの形で採り上げたいといふ意向である」とある。
こうした手口は中国での文化大革命のおりと同様である。粛学と称し廓清を言い,民主革命と謳った追放劇の実態は,この新聞の記者が正直に記しているように,「連合国最高司令部の指令の意を体」した,「自主的,積極的」な疑似革命であった。
新聞名の直下にあるのは報道記事「千葉県で模範審査」である。文部省が「大臣以下総出で理想的な審査の範を示す(略)」で,終わりは,「近く迅速公正な教育裁判を開始する」とある。審査の実態は権力を背景においた疑似「人民」裁判であったことを露骨に示している(新聞名の直下の欄は広告にすると高い)。
こうした風潮では,法学部長が学生に迎合を余儀なくされるのは仕方がないか。それは,その背後にある連合国最高司令部の権力とその使嗾である諸指令や口頭指令に脅えていたからである。居丈高に乱暴狼藉する紅衛兵の背後にいた毛沢東を,いわゆる実権派が気にしたように,である。
(3) 粛学は近代日本の軌跡を全否定するところに成立
そうした経緯を後になり正当化しなくてはならなくなったところから,憲法学者宮澤俊義が生み出した,どのように修辞を連ねても荒唐無稽な「8月15日革命説」が出てくる。宮澤は,占領が終わる前の最後の年である昭和26年4月から,主権回復後の翌年の28年3月まで法学部長だった。
宮澤が主権回復後になっても,見解を持続させたことと,後出の文部次官による七十七号通達は表裏の関係にある(2章5節)。
同じ姓の宮澤喜一は鈴木善幸内閣の官房長官時代に,占領中の日本には限定された主権があった,と述べていた。be subject to の強引というか手前勝手な和訳を守ったわけだが,明らかに虚偽がある。両者の認識は一見すると違うようだが,発想でも臭いでも近似していないか。
8月15日革命説は,いかにも牽強付会そのものだが,現行(占領)憲法制定を正当化するための苦肉の策(謀)である。すでに学問的にも破綻した宮澤憲法学は「変節」そのもので成り立っていた(注14)。
この日の帝国大学新聞は,自立したidentityに基づくまともな評価基準の大勢化する時代が来れば,検証に耐え得ないだろう。因みに発行兼印刷人は長谷川泉となっている。
唾棄すべき帝国主義日本とは別の民主主義の時代になっているはずだが,相変わらず「帝国」と称して不思議ともしない感性の持ち主らによって,新聞は作られている。こうした精神の不均衡ぶりが占領初期の「教育革命」を求め怒号する者たちの品性でもあった(注15)。
2章 教職“追放”の制度的な展開と自己総括
1節 “追放”の先行事例としての立教学院の場合
(1) 事態の性質は最初の現象に露呈される
それは,立教学院(立教大学など)の事例に見ることが出来る。1923(大正12)年の関東大震災後に,敬虔なキリスト教の宣教師として来日し,立教大学で教えたポール・ラッシュが,昭和20年9月11日に大学を訪問した。米軍関係者としては,本当の初期である。逸る心を抱いて軍用ジープで直行したのであろう。
なつかしの池袋駅西口にある学院に到着した。すると,教会は梅干しと沢庵の倉庫になっており,クリスチャンのメモリアル図書館の一部は御真影(天皇陛下の写真)奉安室になっていた。
彼は怒り狂い,御真影を溝にたたき込めと命じた。1カ月余を経て,10月24日にGHQの指令で学長をはじめ11名が罷免されたのが,最初の教職追放である(注16)。この宣教師の激怒を見ると,立教学院の教壇から未開の国日本における宣教に,深い思い入れのあったことが容易に想像される。
70年代まで,まだ多くの日本人が伝来の食生活をしていた頃,日本人の臭いを梅干しと沢庵とみそ汁の混じったものと,欧米人は言ったものだ。私たちからすると,彼らの体臭に乳製品であるチーズの臭いがするように,である。
梅干しと沢庵の臭いを嗅いで,さらに「ヒロヒトラー」の写真ときて逆上したのであろう。怒髪天を衝いて,怒り狂った様が目に浮かんでくる。今日から見ると,様々な意味でその独りよがりの怒りが失笑を誘うのも,半世紀を経て歴史になっているからである。歴史家S・ハンチントンの文明認識を援用すれば,この宣教師は,梅干と沢庵の臭いを嗅いで,改めてクリスチャニティとそれ以外との間には断層線があると思い込んでいたのであろう。
学長が溝に御真影を捨てるわけにもいかず,自分の書斎に隠したと言われているのも,現在から見れば,悲惨なブラック・ユーモアである。しかし学長本人は,当時は沈痛そのものであったと思われる。
(2) 超法規的な措置のその後
立教学院の事例に見るGHQの超法規的な処断は,「管理政策」が直前の2日前に出てはいるものの,こうした法令的な環境の整う前に,突出して行われた。つまりは,占領軍側に所属する者による個人的な感情が先行した例外的な事例であった。沢庵の臭いが触発した専断的な行為であったものの,しかし教職追放に関する前述のその後の法令的な展開を見れば,基本的には間違った行為ではなかった。
もっとも,この事例には後日談を記しておかないと不公平であろう。追放処分を受けた教員は,不服を申し立てて,その上申書に基づいて審議の結果,かなりの人数は復職している。問題化した宣教師の「恣意」は,現在から見れば感情的としか言いようがないので,敗者復活の過程では排除されている。
ここには,ポツダム宣言による当初の方針の枠内ではあれ,問答無用ではないCIEの一応はフェアな措置を見ることができるであろう。(立教学院が,この事態を正史ではどのように受け止めているかは,前掲一部2章2節を参照)。
2節 文部大臣官房適格審査室及び審査委員会の動き
(1) 適格審査作業の仕組み
前述の1946年5月6日の「勅令/除去,就職禁止の件」と,「省令/除去,施行の件」に基づいて,その円滑(?)な実施のために,文部省では大臣官房に適格審査室(以下,単に審査室とする)を設置した。事務方の推進機関である。前述のように,エースである専門教育課長相良惟一が主事に就任した。
同時に訓令に基づき,都道府県教員適格審査委員会,学校集団教員適格審査委員会,大学教員適格審査委員会,教員職員適格審査委員会,中央教職員適格審査委員会を設置した。都道府県教員適格審査委員会の設置者は都道府県知事であり,委員は5名,学校集団と大学は,前者は集団長,後者は学長である。委員数は,各々15名,5名である。
公立学校は都道府県の管轄にする。それは対日占領政策の根幹にあった「集中排除の大方針」を生かしているようにも見える。私立は,地域的に分けた学校集団にして括り,大学は国立も私立も自立した存在として扱っている。ここには権限の分散を意図しているように思える。CIEの意図がそうだとしたら,そのままに生かされて続いたかどうかは,問題が別である。
それは,審査の仕組みの文部省による以後の運用上の展開を,どう評価するかになるからだ。後述の経緯に見られるように,徐々に審査を強化し対象を拡大して,その過程に権限の専有化あるいは中央集権化を図っていた力学が看て取れるからである。
制度的な原型はできた。後は実施するだけである。後に,優秀な法治に長けた「前」日本官僚により,制度の整備は,訓令,政令等に基づいて折々に改組されて,精緻に進んだ。
(2) ニューズ・レター『審査月報』の発行
敗戦による茫然自失と矢継ぎ早の指令による突然の仕組みに,当然に作業は思うように進まない。そこで,意思疎通を図り業務の理解を共有することを意図して,審査室は『審査月報』(以下,単に月報とする)を発行した。所掌するCIEの係官からの示唆もあって,ニューズ・レター的な機能をもたせようとした(注17)。
この月報だけを詳細に分析すれば,教職追放の実態,追放審査する側とされる側との間で繰り広げられている様が浮かんでくる。とりわけ審査室にいる文部省の担当者がどういう心境で職務に従事していたか。
実質上では現地側の参謀部なり中心なりの役割を果たした審査室は,全国にある各委員会に審査という作業を奨励し督促している様が見える。その諸発言から,督促される側は,中央と一緒になって取り組んではいないのもわかるからである(注18)。
審査室は,形式上では別組織になる委員会の存在があるのであれ,また初代主事であった相良惟一が月報発刊の辞でいみじくも言うように,上部団体あるいは背後である「司令部方面」としてのGHQが傲然と存在しているのであれ,実質上で全国数十万人の教職員の活殺与奪の権限を有していた。
1号はガリ版刷りの粗末なもので,A5の23頁。2号からは同型でタイプされている。頁数は一定していない。しかも,頁はいずれも記されていない。当初は月刊を意図していた模様だが,途中から合併号になり,不定期刊になっている。いつまで発行されていたかも不明だが,『綴り』にあるのは,「昭和二四年二月二八日」付の第14号までである。ただし,5号は欠いている。
昭和23年1月29日と表紙に記載されている「十号(十二月号)」からは,同じく表紙の右肩に「発適一二号」と記してあるところを見ると,溯って機関である審査室の公式文書にしたのであろうか,それともこの号以後からか。11号(昭和23年4月1日)は「発適二号」と記されているからである。
3節 ニューズ・レター『審査月報』の基調と知性
(1) GHQに同化し適格審査を粛正と考えたキリスト者文部大臣
文相田中耕太郎の態度
1946年9月に出た月報第一号の巻頭には,「適格審査について」と題して,当時の文部大臣田中耕太郎が寄稿している。9月段階での記述で,当該政策の方針を示唆したのである。5月から始まった適格審査は,審査済みと不適格者の査定が,「約八万中僅々三十八名などと云ふ結果は我々の常識とあまりに懸隔っている」と慨嘆している。
適格審査の結果から,問題の教員が38名は少ないとする田中大臣らの有する「常識」とは,一体どういう代物であったかは不明である。なぜ田中は慨嘆するのか。それは,以下の段落が最後に来るからである。「我々は此の粛正工作が民主的平和国家の建設の前提条件であること及びそれが全世界の注視の中に行はれつゝあることを考へ,私心なく,公正且厳格に任務を遂行しなければならぬのである。(昭和二一,九,二二)」と,締めくくっている。
ここで,審査は粛正を意図していると断言している。帝国大学新聞もこの表現を用いていた。田中がキリスト者として戦時中に抑圧されたと感じた場合があったのであろうか。そうだとしても,現在から読むと,この文脈には嘆息せざるを得ない。それは,前述のように占領軍の政治方針である「精神的な武装解除」の推進に対して,違和感を有していないからである。
審査室主事相良惟一の態度
こうした発想の根底にあるものがどういう代物かまでは,後世である筆者の所感は,この段階では礼儀上からも敢えて書かない。そのひたむきな態度には,ただただ敬服するばかりである。ここに見られる占領当局であるGHQへの積極的な同調というか同化態度は,どう評価すればいいのだろうか。
全国に声高に適格審査を言いながら,文部省自身は連合軍へ申し訳程度の追放しかしていないのではないかと批判している審査室への投書があり,相良主事が「投書に対する回答について」で答えている。
「今般の適格審査が断じて聯合軍に対する申訳的のものであってはならぬことは今更言ふ迄もないことであって,別項の大臣の言葉の如くあく迄厳正にしなければならぬのである。(中略)若しこの審査がお座なりな申訳的のものであったならば,マ司令部より再審査命ぜられ又は,マ司令部が直接適格審査の如きものをなすかも知れぬといふことを委員会関係者はよく知って頂きたい」。こうした文意を,市井では脅しという。
それを受けてか,月報二号(十月)で,審査委員会委員長会議が行われた席で,田中は,大臣挨拶でさらに強調している。主事の言い分を補っている。
「人情に捕らはれた為に為すべからざる戦争をなし,継続すべからざる戦争を継続した事についての公の意見とか,実質的,形式的の意味に於てそのような戦争の要素を除くことは正しい事であり,司令部の命令でなくとも以上の信念で臨まねばならぬ」,と意気軒高である。この挨拶の重要部分は,「司令部の命令でなくとも」と言い切っている箇所であろう。
(2) 虎の威を借りたキツネのせりふ
室長指示では,「要するにこの際正しい観点で従来日本の教育の極端に曲げられた教育を是正すると言う重大な使命があり,司令部でも日本側に全責任を負はせている」と理解している。負わせているのではなく,どういう人材かを見極められている。あるいは見透かされているのであろう。
彼らの有する「正と歪曲」の観点は明快である。しかし,彼らの有したその判断基準は,占領という事態で,外から他力によって付与されたものであったことは,ここでは付言しておこう。
それでか,「審査委員会の活動につき,日本各地の個人より従来も情報が来ているが,将来も情報が来るであろう。このやうな情報があるために軍政部は委員会の活動につき現地の視察調査を行ふであらう。この様にて各審査委員会の成功してゐるか失敗してゐるかは司令部により確かめられるであらう」と記している。
これは,題名「聯合国総司令部民間教育情報部(CIE)に於ては次の様な見解を表明している」の最終節である。こうした言い回しを右往左往して読む方は,虎の威を借りたキツネのせりふの羅列と受け止めたのではないか。形を変えた脅しと言われても仕方がない。
日本は戦争中に占領地で多くの傀儡政権や傀儡組織を作ったと,東京裁判で訴因期間が満洲事変からとなったために批判された。戦後になって,例えば中国では対日協力者は漢奸として処刑された者も多い。公職追放には,そうした組織に関わった人々も対象にされていた(注19)。
見方を変えれば事態が逆転して論理的には同じことをさせられているという認識は,これらの発言からは全く感じられないところがすごい(こうした心理的な錯誤と倒錯については四部で解明する)。
書類作成においてCIEの指導が反映されている箇所もある。それは適格審査の調査表を作成するに際して,「上司の証明については,スタンプ印を用いている所があるが,姓名は必ず署名によらなければならない」(月報十三号。「四,審査について 5」)。このスタンプというのは,印鑑ではなく受領の際に用いるゴム印を指しているのか。後に押印も求められるようになった。日本の役所における押印の慣例が,サインを重視したGHQを上回った数少ない事例である。
4節 審査の過程における質疑応答から
(1) 戦時に文部省の方針に従った教員をどうするのか?
月報二号に収録されている「質疑応答記録」では,「四,問 亜細亜人の亜細亜とか,日本が東亜の盟主としてやって行かねばならないと云ふ趣旨のもられた内容の本を文部省が編纂し,それを注釈したり,講義でその思想を敷衍したりした場合はどうか。
文部省の会合によって出来たから文部省の責任であって,教へるものの責任でないと云って居るがどうか。
答 今迄の文部省が根本的に間違っている。学者は軍人とは違ひ学者の見解がある筈である。だから文部省の方針に従ってやったとしても責任がある」。近代日本の教育は根本的に間違っていたと断定して,国家の方針に柔順であったことに責任があると言っているのである。
こうした論理だから,「八,問 地理教授が文部省の教授要綱に従って教授したものは全部不合格となるか。(中略)
答 文部省の指令通りにすることは国民学校(小学校のことを当時はそう呼んだ。筆者注),中等学校は批判力無しとしていくらか大目にみてよい。大学教授は批判力ありとして文部省の指令に盲従したのは多少審査の価値がある。積極的にそれに迎合したならば厳重に審査されたい」という,信じがたい噴飯物の応対になる。
しかも,中学校以下の教員と大学の教員には,いかにも批判力に差があり問題があるかのような,差別意識が露骨に示されている。こうした差別意識は,帝国大学と私立大学の間にもあったことが推察される。
(2) デグニティや節操の意味が都合よく用いられている
「一三,問 超国家主義者ではないが,本の書き出しに米英撃滅と一寸あるものはどうか。
答 慎重に審査した方がよい。学者としてのデグニティの問題になる。(以下略)」
その他,紹介すればするほど,審査室員の答えの背後にあったとしたらだが,そのデグニティの程度が知れることになる。
大勢は事態の激変に右往左往するから,次の質問はいかにも切ない。
「二一,問 節操を変へた者の取扱いは?
答 節操を変へた者については文部省は厳格にやってゐる」。ここでの節操という言葉は実在するものの,一体,その意味するものは,当時の状況では何だったのであろう。質問した者も,それに答えた者も,言葉のもつ意味が倒錯していたのは間違いない。
圧巻は,CIEが出した指令「除外の件」(資料(2)を参照)への対応に際しての自信ぶりであろう。審査室の設置を含む「勅令二六三号を作成する為に文部省は多くの月日と多大の苦心を要したのである。(略)従来過去に於て被占領国に於ける教員の審査せられた例がないことが,それらは例外なく進駐軍に於て審査を行ったのである。然し日本に於ては審査の事業は日本国民自らの手に依って行はれている。依って全世界の注視するところとなってゐる」,と自画自賛している。
自分たちが間接統治の尖兵になっている自覚は欠落して,自信満々なのを見て取れる。
(3) 公職追放該当者の三親等内の親族は就職禁止の規定
だが,民主主義化と自称している実態は,現在の北朝鮮社会と同様な選別をしている。現在の北朝鮮では,出身階層による「成分」が重視されているらしいが,占領中の追放処分にもそれが働いていた。
それは,公職追放該当者の3親等内の親族の就職禁止の規定である。その規定は「教職員全般に適用されない」ものの,「官公立学校の教職員の職は公職であるから,公職審査の覚書該当者には就職禁止の規定が適用される」となっている(注20)。
こうした規定をよくも実施したものと,つくづく寒心する。もしGHQがそれを指示しているとしたらだが,その見識の内容を疑わざるを得ない。では審査室はGHQになぜ異議を申し立てなかったのか。不自然にも思わず受容れたのであるとしたら,彼らのいうデグニティや節操とは何か,生存していたら聞いてみたい。初代主事は聖心女子大学の学長にまでなっている。
近代における自由とは個人の人格を尊重するところに成立していたのではないのか。3親等という限定があるのであれ,係累をも対象に入れるとは,そうした個人主義や民主化とは全く異質な,前近代的な発想ではないのか。
(4) 追放該当者の三親等をも実質追放にする人権感覚
こうした措置を平然と行う態度は,半世紀余の今日から見ると,直視に耐えない。一体,審査に従事した面々には,どのようなデグニティとインテリジェンスを有していたのか。その内容はどんなものであったのか。それこそ,「親の顔を見たい」ものである。だが,彼らの態度が一概にCIEの諸指令に盲従するだけで卑屈であった,と速断してはならないように思う。
果たして「三親等除外」についてCIEの指示にあったのかどうか,多少の疑問も残る。いくら日本文化の軍国主義性への評価が一方的で,且つ未開,後進性と考ているのであれ,ここまで不当に指示するものか。この部分にはいずれ他の研究者によって明らかにされる必要のある課題である。
いずれにせよ,もしCIEの指示としたら,それを受け入れた文部大臣田中耕太郎を含めて文部省官僚の面々は,彼らの有していた使命感(?)に燃え過ぎて,後世の目を気にもしていなかったのは確かである。もし多少でも気にしていれば,決してこのように展開しないと思うからだ。
見方によっては,このような醜態を見せるとは思えないからである。上ずっていたのは明らかだが,手前勝手な正義感も十二分にあったのであろう。バルザックの人間喜劇ではなく,シェイクスピアの言う「悲劇としての喜劇」が,そこに演じられている。
5節 適格審査に関する文部省の自己総括
(1) 文部官僚は軍国主義の諸影響が払拭されていないと判断
昭和27(1952)年4月28日に講和条約が発効された。それに先立ち,同月9日に法律第七十九号として「教職員の除去,就職禁止等に関する政令を廃止する法律」が公布された。これによって法理的に占領中のCIEの通達や勅令を含めた関連通牒は消滅したのである。
残務整理が終わり,審査室も7月には解散することになった。当然に,全国にあった各種の審査委員会も解散になる。
しかし,ここで奇妙な事後展開があった。それは,国会での審議で,「教職追放後も教育民主化の達成のためには,この制度の趣旨は今後とも尊重すべきものである」となった,と言うのである(注21)。これは十分に考えられることである。現在では想像もつかないが,公立学校の教職員50万人を組合員とする日教組は,日本社会党を支持する総評の有力構成組合であり,選挙において組合の支援を不可欠とする議員は衆参両院に多くいたからだ。
そうした審議の内容は,次項で扱う審査室編『教職員の適格審査に関する記録』(以下,『記録』とする)では,「占領政策の終止と共に果たしてその目的とするところのであったので,国会に於てもその点が鋭く追求」(55頁)された,と記している。「国会に於ても」である。
上記の国会審議を受けて,4月26日付で文部次官通達(文人適第七十七号)が,都道府県知事,教育委員会,国公私立大学長宛に出された。その題名は,『教職員の適格審査制度の廃止に際して』(以下,単に77号とする)である。
77号は記している。前段で適格審査は「日本の教育機構中より軍国主義的,極端な国家主義的諸影響を払拭するために実施されてきた」(56頁),と制度の存在した基本理由についての認識を明らかにしている。適格審査が始まった際の文部大臣田中耕太郎の示した前出の認識が,そのまま継承されているのである。
(2) 主権回復後も適格審査の根拠を継承せよとの七十七号
後段では,「教育民主化の徹底を一層期するためには,右の適格審査制度の趣旨を今後とも没却すべきではないと考えられます。(中略)各任命権者におかれては,教職員の任命にあたり,適格審査制度の趣旨とするところに十分思いをいたし,慎重に措置されることを切に希望する次第であります」。「慎重に措置される」という表現の暗喩は明快である。
現在は不明だが,当時はまだ監督官庁の通達,それも次官によるものは,その権威からいくと,大臣の後に続くもので,ほぼ強制力があった。続いて,実際に業務を所掌する課あるいは課に準ずる機関の責任者名によって,その通達を具体化する業務の指示を行う。
指令や指示のように強くしないで,一見は依頼という体裁を取りながらの指示もある。文書のない口頭もあり,証拠が残らないので始末が悪い。それらを官民の関係を表す官尊民卑の象徴である悪名高い行政指導と言うのである。
この77号は,どの程度のものであろうか。これまで学校及びそれに類する教育関の構成員である教職員の審査を,約7年にわたり掌握していた制度である。しかも,その制度を遂行する各教育機関や上部の審査会の運営には,三部で明らかにするように予算がついていた。
当該分野は文部省の占領中の施策において,最上位に置かれていたものと考えてもいい。講和条約の調印と発効という激変によって,それが一片の法律七九号で廃止されてしまうことになった。廃止とは,言葉の意味からは,常識的には,その対象が必要とされなくなったことである。不要と廃止は表裏の関係にある。
だが,77号を出したところを見ると,文部省は不要になったとは認識しなかった。前述のように「国会に於ても」そうした審議が存在していたという認識を示している。そこから,制度の趣旨の継続を訴える通達となったのである。その名分は,前に引用した77号の前段にある。そして,その名分はポツダム宣言の6項に明記されているところである。
いずれにせよ,バーンズ国務長官が対日方針で豪語した,日本の「精神的な武装解除」は,この事務次官通達で文部行政ではさらに継続されることが確認されたのである。古語では,こうした振る舞いを走狗と言ったのだが,そこにある事態を七十九号との対比においてダブルスタンダードという。なぜなら77号の否定を敢えて通達していないからだ。
6節 審査作業の総括『教職員の適格審査に関する記録』
(1) 占領政策の基調の持続を自明視している
『記録』は,当該制度に関する文部省の自己総括の文書である。同年9月18日付で文部省大臣官房人事課長岡田孝平の名前により,国公私立大学長宛に送付された。A5判のガリ版刷りで,本文は111頁もある。
審査室発足当時は嘱託で,最後の室長になった小倉好雄は,『記録』冒頭の「まえがき」に,7月30日付で,「この制度が教育界に幾多の波紋を生じ,多くの問題を投げかけ,幾多の批判が提起されていることも見逃し得ない事実である」と,編集者として一見すると是々非々的な態度を持してはいる。
だが,実際は当事者側の一方的な言い分に基づいて整理された資料であり,そうした意味で充実した内容といってよい。審査を推進した側の論理が明瞭である。いわば前出の次官通達を裏付ける体のものだからだ。なぜなら,77号は,審査という追放作業の趣旨を継承しているからなのである。従って,『記録』を発刊した立場からは,過渡的な中間総括とでも言えるか。
だから,通達77号に対しては,前掲のように『記録』では,「占領政策の終止と共に果してその目的とするところの軍国主義的,或は極端な国家主義的諸影響が払拭されたかということは甚だ疑問であった」(第3部 教職員の適格審査制度の成果 3 次官通達の意義)との認識を示している。
それは,別の言い方をすれば,占領政策の基調の持続を自明視しているのではないか。という疑問符つきの言い方ではなく,継承そのものを主張している。主権回復をしたので,建前は七九号で占領中の関係法規は「廃止」と明記した。しかし,一方で不文法として77号で継承を「慎重に」訴えている。
このダブルスタンダードの存在を保証したのが,前文に現行憲法の精神を称揚している教育基本法であった。これでは『記録』の「まえがき」にある是々非々の言い分と一致し得ない。場合によっては背離の関係にあることにならないのか。背離を明示したのは,次項の「批判」の編集の仕方に露出している。
(2) 「教職員の適格審査制度の批判」の項を設けてはいるが
『記録』は,77号の背景説明として,国会では,一「教職追放令の全廃と共に追放解除者が再び復活して軍国主義復活の一つの要素になるのではないか」。二「再び教育界に当時の戦争指導者が台頭する懸念があるが,これに代る法律を作る考えはないか」(同書55頁)との提起があったという。
ここで取上げた国会とは,日教組の意を受けた議員の動きであろう。これを受けて,「文部省としても,これについて多少の懸念もないのではないが」とある。文部省がこうした有り様では,日教組が勇躍していたのは当然である。
丹頂鶴と言われたものの,日教組に問題があったのではなく,文部省そのものが,戦後史あるいは占領史でのGHQによる教育政策の文脈を,主権を回復後も素直に継続していたのが分かる。どうして,こういう論旨になるのであろうか。教育基本法は,先に改訂されるまで60年以上そのまま存続してきた。
同書は最終章で,一応,「教職員の適格審査制度の批判」(第5部)を設けている。こうした目次配分は,民主化の成果としてのいわゆる言論の自由が生かされている,と見えるかもしれない。だが,その論旨が問題である。書き手は,元教職員適格審査委員長であった2人,宮本和吉と矢野貫城である。いわば,身内だけを使っている。
宮本は,教職適格審査と称した追放は,「我国の文教史上極めて大なる貢献をなしたと思う」(107頁)と述べている。矢野は,「日本の教育が過去において,大きな誤りを犯していたことを反省し,将来に向って重要な方向付けをした効果はこれを認めなければならない」(109頁)。
これは批判とは言わない。批判と銘打ってはいるものの,似て非なるものである。手前みそであり,我田引水というのが正しい。一言で言えば,場合によっては教職を追放された者もいた審査された側の,怨嗟を含む本当の批判に対する自信がなかった,と後世から見られても仕方がない。
自信があれば,審査によって追放をされた側の言い分を堂々と載せるはずであろうからだ。一見は強気一方であったように見えるものの,GHQという他力によって強制として始まった制度であることへの,多少とも後ろめたさがあったように感じ取れる編集である。
だが,見方を変えれば,怨嗟なり批判なりは,時代遅れの反動であり,その一切を無視しても全く問題にもならないと,自信をもっていたとも思える。このカッコつきの「自信」に拘束されて,半世紀以上にわたり不磨の大典視され続けるところに,戦後教育の悲惨があったという見地は無視できない。
もし追放された側からの批判を収録する雅量が編者にあったとしたら,少しはその後の教育制度の展開は違ったかも知れないが,それは死んだ子供の年を数えるようのものであろう。
(3) レッド・パージは省略している恣意
もっとも,矢野は,「委員たちは定められた政令の標準内で判定したのであって其後事情の変化によって」と,引用前後から類推すると,間接的にレッド・パージについても触れてはいる。いるものの,「このことについては委員の考えるべき範囲外であった」と,なぜか我関せずなのである(レッド・パージについては,四部1章/4節を参照)。
むしろ,矢野に代表されるこうした感性が問題ではないかと思う。「今後は単に従来の判定基準の枠によるのではなく,思想上,素行上不適当な者が教職に就くことのないように十分意を用うべきである」(111頁)というが,そうした言動は本人に向けられるものはないか。現在から見れば,当人が「思想上不適当」と言えるからだ。
ポツダム宣言に即した「精神的な武装解除」というGHQの方針を善意に解釈したとしても,大勢に順応するばかりの教育を否定し,その根拠を除去しようとして始まった制度であったはずである。
しかし,他力による占領下から来た価値の逆転状況に,彼らが最も良く素直に追従しているように思えるのだが。もし,自前の見識による作業であるならば,レッド・パージについての評価をしないと片手落ちになる。
こうした都合の悪いのは省略して論旨が展開している文章に接すると,果たしてどこまで,関係者が自己総括に本気で取り組んでいたのか,という疑問が出てくる。いや,占領軍の意向を金科玉条に順守し同調する審査側のこうした態度は,その由って立つ内容は別にして,GHQが追及し除去しようとした軍国主義順守の臣民教育での態度と同質だった,と後世から言われてしまうのではないか(それについては第二稿『文部省による思想管理の実態』で明らかにする)。
だが,指令に基づき適格審査を推進した側は,こうした後世からの批判が生じたとしても,おそらくびくともしないのであろう。それが何故かは,後述の解明(四部4章/4節)に俟ちたい。
7節 【教職員の適格審査に関する記録】にある統計の示したもの
審査作業は昭和21年5月に開始して以来,123万8,526名を審査し,その内の不適格者は3,930名となった。この他に昭和21年共同省令第一号別表第二に該当する者として,審査会の審査を経ずに,都道府県知事より不適格者として指定された者が2,375名に上った(36頁)。
大学は,2万9,914名を審査し,不適格者は210名,学校集団教員審査会は1万7,728名を審査して,不適格者は76名になっている(38頁)。
審査制度が終了したおりは,すでに新制大学が発足していたために,統計には国公私立の222大学が出ている。そこでは,2万4,572名を審査し,86名が不適格になっている(39〜40頁)。新設の大学や女子大学あるいは医科,工学系の大学では,ゼロ回答の例が多い。
帝国大学は,東京大学が2,920名を審査し,5名が不適格に,京都大学は2,350名を審査し,9名が不適格,北海道大学は,不適格を1名,東北大学は3名を不適格に,一橋大学は3名,東京工業大学は4名,名古屋大学,大阪大学はゼロ回答,神戸大学は2名,広島大学は3名,九州大学は2名,と記されている。
私学では慶応義塾大学が1,310名を審査し,3名が不適格に。早稲田大学は443名を審査し,6名を不適格に,日本大学は677名を審査し,5名が不適格に,明治大学は155名を審査して,1名を不適格に,立教大学は103名を審査し,1名を不適格に,法政大学は120名で,1名。立命館大学は80名を審査し,6名を不適格にした,と記録されている。
私学で最も不適格者を出したのは龍谷大学である。102名を審査し,10名を不適格にしている。1割弱という数字で,これは意外である。西本願寺が設立した穏やかな学風であったはずではないか。学内の派閥闘争による内部告発が激しかっただろう。従軍僧に始まる戦争協力を理由にした戦時の反動が起きたものと推察される。
同じく東本願寺系の大谷大学は,82名を審査し,5名を不適格にしている。同朋会運動などに留意した視点によっては,後年の教団内紛の前兆が,すでに見られている,と言えるかもしれない。
旧制の大学で報告が記載されていないのは少ないが,その一つが紅陵大学(旧拓殖大学)である。未着とのことであるが,後述のように(三部2章/3節を参照),他大で不適格者になっていた教員を採用して,1名の報告をしているところから,真相は不明である。単に事務的に横着だっただけかも知れない。
(この統計記録の背景にあるそれぞれの大学における適格審査の経緯が,正史ではどのように記録されているかは,前出の一部で明らかにした)。
(注)
1.日本政府による降伏調印のあった日に,ワシントンで国務長官は声明を発表した。そこで,日本の物的(physical)な武装解除の「次の段階(the second phase)として「日本国民の『精神的武装解除』(the spiritual disarmament)」の必要性を訴えた。
“History of the Non-military Activities of the Occupation of Japan 1945-1951” 訳題『GHQ日本占領史 6/公職追放』一頁。解説 横田弘。日本図書センター。一九九六年。
全文は,“TEXTS OF STATEMENT”. The New York Times. (Sept. 2. 1945)
2.これらの一連の文書は,SWNCC(国務省,国防省,海軍三省調整委員会)文書と言われる。当該文書は,SWNCC-150/4/A。“UNITED STATES INITIAL POST-SURRENDER POLICY FOR JAPAN”
3.Militarism and ultra-nationalism, in doctrine and practice, including para-military training, shall be eliminated from the educational system.
4.“BASIC Initial Post-Surrender Directive to Supreme Commander for the Allied Powers for the Occupation and Control of Japan”. JCS-1380/ 15/ A.
5.FEC Policy Decision. June. 19. 1947. “BASIC POST-SURRENDER POLICY FOR JAPAN”.
6.日本国有鉄道総裁室秘書課『公職教職資格審査事務提要』一四八〜一五六頁。昭和二五年十月二四日。
7.H・ベアワルド『指導者追放――占領下日本政治史の一断面』三頁。勁草書房 一九七〇年。Hans H. Bearwald. “The Purge of Japanese Leaders under the Occupation”. Univ. CA Press.1959.
8.憶説とは,最初に鉄砲を撃ったのは誰か,日本軍か中国の政府軍かの問題である。日本軍が中国側を挑発したというのが極東国際軍事裁判での定説(?)であった。だが,日中両軍の間で,双方に撃って相搏つ状態を作り出した,ありていには謀略だったという説がある。後の国家主席になった劉少奇である。最近では,評価相半ばするソ連の情報と資料を用いたユン・チアン,ジャン・ハリディ著『マオ』(“MAO The Unknown Story”(訳書,講談社。2005年)には,明記してある。
日中両軍の現地側は事態の沈静化を図るが,中国共産党が画策して紛争が拡大してしまったと前掲書ではいう。ともあれ,日中両軍の衝突により。結果的に漁夫の利を得たのは共産党であった。
9.松浦総三「<占領とジャーナリズム>知られざる占領下の言論弾圧」。思想の科学研究会編『共同研究/日本占領』219〜227頁。徳間書店 昭和四七年。
10.因みに,ここでの焚書を実施した古川覚部長は,総理庁官房監理課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』には見当たらない。戦時中の役職から,追放に該当するはずなのだが。
日比谷政経会 昭和二十四年。以下,単に『該当者名簿』とする。
11.神社新報社編『神道指令と戦後の神道』神社新報社 昭和四十六年。ここには信教の自由に名を借りた神道へのGHQによる公然非公然の弾圧のうち,象徴的なものがかなり紹介されている。象徴的とは,弾圧した側の発想を知るのに参考になる事例である。
12.山本礼子「相良惟一(元文部大臣官房教職適格審査主事)遺稿解題」には,「誰一人いわないことであるが,これ(教職適格審査のこと。筆者注)は市谷法廷で行われた極東軍事裁判の教育版だった」と,相良主事が述べている,と記している。明星大学戦後教育史研究センター編『戦後教育史研究』第15号 九五頁。
相良は後に聖心女子大学の学長になったところや,上司の田中耕太郎の腹心であったところなどから,クリスチャンであったと推察される。GHQ・CIEの信頼も厚かったのであろう。
13.基本法の作成に関わった人々の記憶や,その記憶の記録などから,法案作成の過程で,「全体として日本側の自主性が犯されるようなことはなかった」との判断もある。山住正巳,堀尾輝久『戦後日本の教育改革/2 教育理念』「第六章 教育基本法と教育理念」三一〇〜三一一頁。監修 海後宗臣。東京大学出版会 一九七六年。
現象を鳥瞰的に見るか,「虫」瞰的に見るかで解釈は大幅に変わってくる事例がここにもある。これはデータの問題ではなく,どの角度から現象を見るかの,認識の分野あるいは生き方の姿勢の問題である。そこの違いから,先の教育基本法の改訂も行われた。
14.ここで変節という表現を用いたが,当事者にとっては他者の言であったろう。むしろ「帝国大学新聞」の論調を不思議と考えない見地から,GHQの指導あるいは指令による民主的な「戦後改革」の基調を是認し正当化するカッコ付きの実証的な研究労作は,次々と作られていった。東京大学社会科学研究所編『戦後改革』八巻はその一例である。
15.第二次安保騒動というより学園民主化を理由にした70年学生騒動の担い手であった全共闘運動では否定されてしまった丸山政治学の丸山真男にも露である。丸山は経歴には記していないが,法学部に設置された適格審査委員会の委員であったようだ。
丸山のデビュウ作品である『超国家主義の論理と心理』(一九四六年),続く『日本ファシズムの思想と運動』(一九四七年),『軍国主義者の精神型態』(一九四九年)の三部作に通底する「論理と生理」そして整理の仕方は,二部1章で紹介したGHQによる対日諸指令と平仄が合い過ぎていることは,両者を比較しつつ常識的に読めばわかるはずである。
当初のGHQ民主化が朝鮮戦争の勃発直後から「逆コース」へと展開したのを受けて,そうした事態への解釈も加えた「ある自由主義者への手紙」(一九五〇年),『日本におけるナショナリズム――その思想的背景と展望』(一九五一年)も,基本的に同じ文脈から来ている。衰退したGHQ左派の系譜に属する。
上記一連の作品は,同『現代政治の思想と行動』(未来社。一九六四年)にすべて収録されている。ざっと読めば,占領という事態が,どういう同調者を生んだかを示している。
16.山本礼子『占領下における教職追放――GHQ・SCAP文書による研究』一五頁。明星大学出版部 平成六年。
17.『審査月報』第一号(一九四六年九月)。相良は「ニュースレターを出したらどうかといふ司令部方面の勧めもあったので」と記している。News letter という表現もGHQ・CIEで初めて聞いたのであろうか。
Public relations という表現に相当する日本語がなく,仕方なしに「広報」という表現を当てたという時代である。広報も本来のPRとは異質のように感じる。
18.前掲の注12に引用した相良主事の発言を考えたい。東京裁判の教育版だと断定しているからだ。すると,相良は占領軍当局の手先あるいは傀儡であることを自認していたわけである。
19.昭和二十二年一月四日 閣令,内務省令第一号「公職に関する就職の禁止,退職等に関する勅令の施行に関する命令」の「六 占領地の行政長官等」を参照。
20.月報十四号(発適十八号 昭和二十四年二月二十八日)の「六,三親等内の禁止について」の項を参照。
21.前掲(注2)『教職員の適格審査に関する記録』一八頁。