昭和史における文部行政への政策評価

2007年8月17日

占領下における教職“追放” (教職員適格審査)<1>
〜文部省の自己総括と大学の適応過程の検証〜

池田 憲彦
元・拓殖大学日本文化研究所教授
同研究所附属近現代研究センター長
高等教育情報センター(KKJ)客員



はじめに/高等教育機関における占領7年史の位置づけ

 1節 占領という期間の意味するもの

 大学の百年史において,1941年から1945年の第2次世界大戦中よりも,むしろ敗北して占領された7年間は,重要な期間であるとともに段階になっている。戦前の歴史と,1945(昭和20)年8月を境にした以後の大学の戦後史は,校名が同じだからといって単純に連続の下に把握して済ませることはできない。
 なぜなら,大学だけでなく,国家としての日本や日本人にとって,戦争の期間よりも敗戦とそれ以後の占領時代の方が,影響が大きいからである。それは,多方面で革命的な変化をもたらした。そして,様々な分野で現在の日本国家と社会を制約している。
 日本列島が存在しているアジア世界も,日本帝国の消滅によって革命的に変化した。内鮮一体で日本の内地でもあった朝鮮半島は38度線を境に南北二つの政権が分立した。日本の統治下であった台湾には,4年後に大陸を追われた中華民国が進駐して亡命政権を樹立した。大陸には中華人民共和国が成立した。ソ連軍の攻撃により崩壊した満洲国の跡は,ソ連軍が撤収した後に現在の中国政府が統治することになった。
 従って,戦前の時代と,8月15日以後の戦後時代の経緯をどのように評価するかは,占領中の校史7年の経緯の評価と密接な関係にある。占領中での様々な行政上の施策への適応過程を,どのように理解し評価すればいいのか。
 その評価をするには,まず,占領下における統治の主体であった占領軍当局であるGHQと,その下請け機関であった文部省による法令を含む指示により,大学がどのような変化を求められたかを明らかにする必要がある。
 大学を取り巻く環境は,財源上は超インフレで経営的に打撃はあったものの,変化を迫った他力の最大のものは,実際上は法令であった。GHQの指令を含む法令は,近代での欧米(the West)世界の外では,欧化の優等生としての日本しか法治国がなかったからこそ,効力を発揮した。
次いで,そうした制度的な「圧力」に対して,どのように大学は適応したのかを,実証的に明らかにしなくてはならない。ここで圧力と言ったのはなぜか。それは後世から以下の本稿の追跡のように実証的に見ると,変化の要請に対する受容が全て欣喜躍雀した積極的なものであった,とは思えないからだ。
 一方で,外力による「圧力」を,束縛や隷従からの解放と受け止めた人々なり勢力もあった。勅令・治安維持法で入牢していた人々,その多くは共産党員であったが,占領軍の命令で出獄できたために,解放として受け止めたのは,無理からぬものがある。また,疑わしいと看做されて,学校を追われていた人々は,晴れて占領中に復職し得た。


 2節 占領政策への適応過程としての教職員適格審査

 命令として求められた変化は様々な分野に及んだが,ここでは教職員適格審査に焦点を当てることにする。それは,戦勝国による日本支配のドクトリンとなっていたポツダム宣言のいう,非民主的な「軍国主義者の追放」作業であったからである。
 従来の強固な法制から見ると,こうした超法規的な措置は,日本社会を構成する人々にどのような印象を与えたのか。占領という未曾有な事態の受け止め方で,価値の逆転が起きたことをいやでも認識させられたわけである。そうした日々では,GHQだけでなくその下での代行側から来る指示に適応しつつも,不本意で消極的な場合もあったのであろう。
 すると,ここでの変化の圧力と適応の過程についての評価は,どの視点に立つかにより,事例によっては180度の違いが生まれてくる。そこでの評価内容は,国際公法に対する常識的な理解が前提にあるのは当然だが,その背後にある評価者の歴史観と深く結び付いている。どの立場に立つにせよ,制度面あるいは組織面での動きである適応という動態を,内発性と外発性の両面から,実証的に解明する必要があろう。
 関係者の取り組みでは,心理面での内発面と外発面のどちらの割合が多かったのか,その程度も,本来は検討されれば理想的であろう。だが,当時の大学で決定過程にいた人々は,すでに死者になっている。
 そこで,まずは日本社会の構造変革をするために,GHQが制度面でどのような指令を出していたのかを明らかにする。そのためには,指令の文言とその内容にある論理性を浮かび上がらせることである。
 個々の恣意はいざ知らず,政策的なものである限り,論理化されている目的とそれを達成するための手段なり方法について,GHQは見事なほど明快であったからだ。そうした在り方こそ,人治の反極にある。
 ここからは,占領下における日本の教育とその制度が,どのような環境の下にあったのかが明らかになってくる。


 3節 大学史での教職員適格審査の扱われ方の意味するもの

 本稿では大学における教職員適格審査が校史でどのように取り上げられているかを明らかにする。その扱い方に,大学史の執筆を担当した者の,当該分野への問題意識が明らかになる。
 さらに,そこに登場する人々の振る舞いと動作から,大学人が近代の自分の帰属する大学と国家の関係なり高等教育をどのように理解していたかの一端も明らかになる。その総括の内容に表出するものは,いわば編纂者だけでなく刊行主体である大学を構成する者たちの自己認識をも示しているのである。
 自己認識とは,大学と自分の関係意識なりidentityを示すものでもある。そうした諸々のものが大学史の編纂の仕方に集約的に現れると理解してもおかしくない。成果品である個々の大学史は,意識すると否とに関わらず,編纂段階での関係者の歴史認識に収斂される知的な水準を示している。
 適格審査という作業が占領軍という圧倒的な他力により,実態上は強制された作業であったために,その経緯の記述に後世の歴史意識が赤裸々に提示されることになった。
 適格審査そのものに対しては,事例として拓殖大学の適応に焦点を当てることにする。本稿を読みながら,適応という変容を基本的に制約と見るか,それとも改革と見るかは,読み手の見識に微妙にかかっていることがわかってくるだろう。さらに,それが明確に自覚されている場合とぼんやりしている場合も見えてくるだろう。


一部 大学の校史記述に見る占領下の教職“追放”

はじめに

 歴史の記述内容は,編者なり執筆者なりの意向によって,いかに大きく作用されるものか。その端的な事例が,この部の主題である。主観の混在が許容される私史や野史のような外史ならともかくとして,一つの組織なり機関の正史は,一見すると客観的に記されているようである。だが,書き手の歴史観が相当に影響していることを,実際に知ることができる。
 各大学史での記述の仕方から,まだ当該分野は歴史になっていないことも判明するだろう。すでに半世紀近い前の出来事である。にもかかわらず,おおよそでも同質な視座ができていないことの示すものは何か。占領という7年間を,どのように把握すればいいのかの問題意識すら,共有されていないことを示していないか。
 それは,この半世紀での日本における近現代史認識が,かなり混乱していることを示している。大学史を一つ取ってみても,占領中の絶対的な強権による構造変革期は,現在にも大きく影響している重要な期間であることがわかる。その由って来る背景には何があるのか。これまで経験したことのなかった異国民による統治によって,その評価の前に,事態認識に不徹底が見られるようである。
 なぜそうした認識上での混乱が起きているかについて,早急な結論を出さない。まず,各大学の校史の記述の仕方から見ていくことにしよう。ただ,この期間の現象における特異性を知るためのささやかな視点は,後述の二部における「問題の所在」の「1節 戦後はいつから始まるのか」に,多少は触れている。
 既刊のすべての大学史を見たわけではない。現在,目を通したのは,官公立の8大学,私学は20大学である。そのうちで,教職適格審査に触れていない大学は,官立では九州大学(『七十五年史』),私学は大東文化大学(『七十年史』),駒澤大学(『百年史』),法政大学(『百年史』)である。
 文部省編『教職員の適格審査に関する記録』(1947年9月)によれば,不適格者は,九州大学は2名,大東文化大学は大学名も記載されておらず,駒澤大学は1名,法政大学は1名となっている。
 なお,引用文献の刊行年の記述は,敢えて統一せず,刊行元の記載のままとした。


1章 官学は校史をどのように記述しているか

◆東京帝国大学の事例

 最も詳細に記しているのは『東京大学百年史』である。「通史二」(昭和60年3月刊)1012〜1021頁で扱っている。どういうつもりか,専ら「帝国大学新聞」の記事からの引用が多い。それは,事務局に関係資料が保存されていなかったためなのかはわからない。
 当該新聞の記事の基調については,後掲の二部1章5節で実証的に明らかにする。同節で引用した帝国大学新聞(昭和21年5月21日付)は,ここでも全面的に活用されている(1016〜1018頁)。
 本人の不服申請を文部大臣が拒み,紛糾した法学部の末弘厳太郎教授については,山本礼子『占領下における教職追放』第5章5項「末弘厳太郎(東京帝国大学法学部教授)」(注1)が詳しい。ここには,公職と教職を比べると,追放(除去)の社会的な意味付けでは,教職を優位に置いていたことを見ることができる。その真相は,GHQに判断の責があったかどうかも疑わしい様子が見えてくる。つまり,日本側の事情に原因があるとしたら,あまり高邁なものではなく,うさん臭い。
 いわゆる皇国史観と名付けられて,あまりに有名な文学部国史学科教授平泉澄については,『百年史』では触れずに,オーラル・ヒストリーとして伊藤隆教授による聞き取り調査がされており,『東京大学史紀要』(13号〜)に掲載されている。『百年史』にある小見出し「GHQ指令」(1012〜1013頁)から見ると,最も非難される対象になっていたので,本史には記録に止めるわけにはいかなかったのか。こうした筆者の見方は推測の域を脱していない。
 いずれにせよ,結果は5名が不適格者として追放になった。平泉は,8月15日付で辞表を提出していたので,審査以前であった。その出所進退はさすがと言えるかも知れない。以後,公然とは世に出なかった。


◆京都帝国大学の事例

 京都大学の追放教職数は『教職員の適格審査に関する記録』(以下,『記録』とする)(注2)では9名となっているが,公職追放を含めると,15名に上っている。「著作の超国家主義的ないし軍国主義的傾向によって追放と決まった教官は,文学部では西谷啓治教授・鈴木成高助教授・松村克己助教授の3名(以下略)」(『京都大学百年史 総説編』465頁。平成10年刊)。さらに,前掲の『該当者名簿』からすると,20名が確認されたとも記している(同465頁)。数の多さに比して,扱った頁数は,464〜466頁の3頁でしかない。
 京都大学がなぜ官学では最も多かったのかは,現在も思想史の立場から追求されている。最近のものでは,竹田篤司『物語「京都学派」』(中公叢書。2001年),大橋良介『京都学派と日本海軍』(PHP新書185)など。半世紀を経て,やっと対象化できる歴史になったのであろうか。
 助教授鈴木成高の事例は,前掲書『占領下における教職追放』で明らかにされている(203〜207頁)。ここでの解明から,審査と査定の論理的なあいまいさが看て取れる。すると,鈴木の事例だけでなく,いくらでも思想史的に解明対象になる。因みに,鈴木は矢部貞治が拓殖大学の総長に就任してから,教学強化の1人として教授に就任した。公職追放になった哲学の高山岩男も,矢部の推挙で教授に就任している。
 京都大学で該当者が増えたのは,国策協力が顕著であったからとなっている。国策ではなく,現在でも対象化できない党派思考では,まだ戦争協力と評されている。すると東京大学の方がむしろ多かったはずである,という意見は無視できない。
 京都大学では,教員追放の多さに対して,学生から「『戦争協力教授よりもむしろ無能教授を』追放すべしとの意見が強く,学生たちはこうした教官の異動を必ずしも歓迎したわけではなかったようである」(同上466頁)と,当時の大学新聞(昭和21年7月11日付)の世論調査の集計結果を記述している。
 ここでの大学新聞記事を引用する観点は,帝国大学新聞の引用に見られる内容や,それを用いた東京大学史の記述と一味違う,知的な余裕というか諧謔があるように思える。こうした記述の仕方を京風と言えるかどうかは,文学に疎い筆者は残念ながら不敏である。


◆北海道帝国大学の事例

 北海道大学では,『北大百年史 通説』(1982年刊)で,「該当者は1人もなかったといわれている」と伝聞風な記述の仕方である。だが,『記録』では不適格に該当する者1名となっている。小見出しは「軍国主義的教育の排除」だが,記述の分量は1頁半にも満たない(300〜301頁)。伝聞に基づくこうした流儀は,どのように理解したらいいのか。いずれにせよ,『記録』の統計表にある数字が,集計機関なので比較的に正確であろう。


◆東北帝国大学の事例

 東北大学は,『記録』では3名が上げられている。正史『東北大学 上』(昭和35年刊)でも同様である。他大の記述と違うところは,教職適格審査に代表されるGHQの指令に対して,「大学自体としては戦争終末期の軍国的体制を元へもどせばたりるが,国家主義者の追放はやっかいなことであった」,と不満げに記されている(第1部 通史。第6編 改編時代。第2節 教職追放令。466頁)。
 なぜやっかいだったのか。審査は,「各大学にある数の割当があったから,何人かは追放せざるを得ない。やむなく指定団体の役員にされていたというような形式上で判定するほかなく」と,東京から来る内命と言えるのか,官による昔から変わらない「やらせ」の舞台裏を,率直に記している。ここでの東京とは必ずしもGHQを意味していない。
 こうした明確な記述は,官学では東北大学だけである。さらに,引用部分の後半にある「形式上で判定するほかなく」という部分からは,「教職適格審査」作業そのものが,いかに茶番であったかとも読める見地を窺わせている。
 このくだりには,生存者への聞き取りで腹に据えかねた記憶が述べられたものと推察される。さらに,聞き手である後世の記述者に本来的な常識が備わっていたことを見せている。だが,記述の分量は,北大よりも分量が少なく,1頁余といったところか(466〜467頁)。
 しかし,『東北大学百年史』においては,さらに詳細を明らかにする試みをしている。免官された一人である新明正道教授は,追放が解除されたのを受けて,二月後の昭和26年12月に復職していることが明記されている(前掲四,「部局史一」211頁。平成15年刊)。
 さらに,学内での審査作業がどのような背景のもとに行われたかの貴重な資料が収録された。適格審査をどのようにすればいいのか,東京での動向を調査した教授の復命書である(昭和21年3月5日付)。二つの出張報告がある。その一は官立大学の筆頭である東京大学の法学部長我妻栄教授からのヒアリングである。その二は,文部省の担当局である学校教育局専門教育課長からのヒアリングである(前掲八「資料一」。206〜215頁。平成16年刊)。
 このドキュメントは,当事者である我妻や相良惟一専門教育課長が審査作業をどのように考えていたかを赤裸々に示している。因みに,相良は後に審査室の主事になって,当該作業に辣腕を振るった。いわゆる能吏であったと思われるのは,出張者とのやりとりに覗うことができる。
 出張者である石崎政一郎教授の報告は当該分野の資料として一級であろう。二つの面で興味深い。
 その一は,追放という行為は,官界政界実業界の形式的と異なり教育界は実質的であることが求められていることの強調。教育界の場合は,奏任判任官及ぶとしている。「教育関係の官公吏全部を網羅するであろう」(原文旧カナ遣いでカタカナ。前掲210頁)。二人とも同一見解であるところは,文部省と東京大学の意思疎通がすでに完了していたことを示している。それがGHQの要求なのか,占領下という新たな事態での非軍国主義化を推進する集団の意向なのかはわからない。
 その二は,文部省が大学自治を逆手にとり,審査作業を大学にさせる手管。辞職についても本省が関与する筋合いではなく,学内に設置された委員会の主導のもとに行われる仕組みである。大学自治がこのように巧妙にすり替えられて用いられることへの違和感は,復命者にはない。敗戦と占領という事態で気が動転して,そこまで神経が行き届かなかったものと思われる。
 建前は自治を尊重するようであっても,結局は本省の意向が最優先されるようになったのは,グレーゾーンの解釈問題があったからである。


◆名古屋大学・大阪大学等の事例

 名古屋大学の場合はどうだったのであろう。『名古屋大学五十年史 通史2』(1995年刊)では,不思議なことに教職適格審査については,一切触れていない。レッド・パージ(第1章/第7節 レッド・パージ問題への対応)には,16頁も用いているにもかかわらず(339〜355頁)。また,余談ながら,日米安保改定反対運動についても,大学史にもかかわらず33頁を用いている(第2章/第8節 日米安全保障条約改定反対運動。590〜623頁)。その能天気な個性ぶりが分かるだろう。論外と評さなくてはならない。
 大阪大学の場合は,『大阪大学50年史 通史』(1985年刊)で,5頁にわたり大学外の教職審査という出来事で総論的に触れている(同233〜237頁)。その記述の仕方は,「GHQの占領政策上好ましくない人物の排除がおこなわれた」 (同233頁)と冒頭に記しているように,中立的と言えないで多少の判断を入れている模様とも読める。『記録』によれば,審査対象は1,149名で,不適格者無し,となっている。
 同じ帝国大学でも,以上のように個性的な記述の仕方があり,各々の大学史に取り組んだ記述者による記述とそれを容認した当事者の見識が見えて,興味深い。だが,6年にわたり猛威を振るった制度に対しての経緯の掘り下げでは,本稿の記述で分かるように,十分なものとは言えない。
 一体に官学の大学史には,共通して言えることがある。時代区分をするとすれば,占領という時代は極めて重要なはずだが,総括意欲に乏しいように見受けられるのはなぜか。占領中に施行された教育基本法が,主権回復後も存続したことや,主権回復直前に文部省事務次官名で全国に送られた後述の七十七号通達の存在が影響しているのかどうか。こうした見方は,思い過ごしか。
 市立の公立大学としては日本初の大阪商科大学(現大阪市立大学)ではどうか。昭和20年12月の段階で,学生集会により戦時中に学校から追放されていた教員と学生の復帰と,戦争協力をした教員の追放を決議した。
「一方で,全教授が辞表を提出し,恒藤学長にその扱いの全権を一任したことによって人事刷新を図ることもなされた」という(『大阪市立大学の125年』80頁。大阪市立大学刊。2007年)。通史的な記述で,具体的に誰が居なくなり誰は残ったのかは,復職教授名以外は一切名前が出てこない。
 では,私学の場合はどうであろうか。


2章 官学と比較すると比較的に余裕のあったはずの私学は

 1節 一般私学の場合

◆日本大学の事例

 俗に言われている私学の雄から触れていこう。まず日本大学である。その扱いは,分量としては3頁余である(『日本大学百年史 第3巻』59〜62頁。平成14年刊)。審査作業を「詳細に語る資料が残されていないので,はっきりしない点も多々ある」(同60頁)。
これを明記している一方で,「教職追放に該当する人物が少なかったというのではなく」(61頁),「『教育者として同じ職場に,数十年に及ぶ先輩と同僚である。しかも民族衰亡の危急に際会して,お互いに協力して国体護持を希求したのであって,そこに何の罪があるのか,委員となって師を裁くごときは主を売るユダのそしりを免れ得ないであろう』〔日本大学90年史〕という声もあった」(61頁)と,その視点は明快である。大学名に恥じていない。
 その結果,5名が外部機関の判定を受けた。大学自身からの告発ではないと明記しているのである。ここには予科教授であった山名寧雄の名はない。


◆早稲田大学の事例

 早稲田大学は,『早稲田大学百年史 第4巻』(平成4(1992)年刊)で僅かに触れている(第8編 決戦態勢・終戦・戦後復興。第7章 学苑の再出発。3 教育の民主化と学苑。304〜306頁。第十8章 点鬼簿の中から(下)。2 終戦,復興,新制大学移行前夜。790頁)。とくに焦点を当てているのは,305〜306頁で,各学部での不適格者の人名を挙げている。
 小見出しの,「3 教育の民主化と学苑」が,編纂側の意図したところか。『記録』によれば,早稲田大学の不適格者は6名であった。


◆慶応大学の事例

 慶応大学は6頁の分量なので,他大と比較してもまあまあと言えよう。その視点を冒頭から明確にしている(『慶応義塾百年史 中巻(後)』昭和39年(1964)刊。第5章 戦時体制と戦後の処置。小見出し「教職員適格審査」1030〜1036頁)。
 「昭和20年8月,終戦を迎えて,わが国は連合国軍により占領され,連合国軍最高司令部の命令に絶対服従しなければならなくなった」(同1030(2710)頁)。この書き始めに見られるのは,事態認識でいささかのあいまいさがないところである。審査の結果を持たずに3名,審査の結果から3名が辞表を提出した,と名前を挙げて記している(1032〜1033頁)。『記録』には3名とされている。
 審査対象の拡大により評議員も網にかかることになった。60名の評議員のうちで,29名が不適格者となって辞任した(1035頁)。この数字は,拓殖大学の場合と比較するとなかなかのものである。半分が追放されたからである。その理由は業界団体の名誉職的な役員であった。(本稿三部1章 2節 評議員で公職追放された人々」を参照)。


◆明治大学の事例

 興味深い記述は,明治大学の事例である。明治大学では不適格者の烙印を押されて大学を去った人々の名前を苗字だけで名前は省略し,一様に某としている。
 一歩下がった記述の仕方は,「学内審査による不適格者は1名もいない」(『明治大学百年史 第4巻 通史編』422頁),だが「文部省から指定された不適格者が数名いる」(同)と記して,当該制度から大学は被害を被った立場であることを暗示したのであろうか。
 記述は実質3頁足らずである(420〜423頁。第1章 戦後改革の出発。2 適格審査と教員層)。『記録』では1名であった。こうした誤差がどういう経緯から来ているかは明らかではない。


◆中央大学の事例

 中央大学の場合も,後世に対してその記述は決して親切ではない。総論としての教職追放については触れている。だが編者独自の中央大学における当該分野の実態についての調査は一切していない。学内で審査に携わった関係者の回顧録を引用することでお茶を濁しているからである。
 その回顧録(大淵彰3『中大とともに半世紀』)には,こわい部分も記されている。「GHQは正確な資料をもっていて,O君のごとき伝書使としてロシアへ往復したことを皆知っていたもののパスさせたが,あとで教職追放になった。この委員会は21年12月に終わった」とある(『中央大学百年史 通史編 下巻』160頁。2003年。第4編 第9章 新制中央大学の発足)。
この引用部分での,「正確な記録をもっていて」の記録は,彼らが独自で調査していたのか,あるいは日本側の調査機関が提供していたのかは,不明である。しかし,この記述は間違っていないだろう。だからこそ,そうした正確な資料の作成が,どういう諸力によってされていたのかの,後世における追跡調査が必要である。
 「公職,教職追放と解除」の小見出しで2頁しかなく,そのうち,1頁の半分は前掲の本の写真である。なお,この引用された回顧録の信憑性には問題がある。学内の審査委員会が21年12月に終わっていないのは,文部省についての本文での経緯でわかるはずである。『記録』では,追放数は空欄となっており,記載はない。


◆成蹊大学の事例

 1949年に大学を創立する前は七年制の旧制高校であった成蹊学園は,1906年の開校であるから2005年に創立百年を迎えたわけである。百年史編纂のための資料集を学園資料館が発刊している。高等学校庶務課日誌によると,実に克明に適格審査の作業と文部省への詳細な報告がされていることがわかる。
 教員でありながら召集令状がきて応召入営し,敗戦により復員して復職しようにも,「『教員及』教育的地位に採用することは見合わすべしと指令せらる」(原文カタカナ。『資料集A 学園各学校の日誌・日記等』2006年。277頁。昭和21年1月12日付)と,文部省による無情な行政措置を明記している。軍に所属したから軍国主義者だとしたのであろう。


 2節 ミッション系の場合

◆立教大学の事例

 立教大学は,適格審査の制度化以前にGHQが超越的に人事介入した。そこから記述されている。『立教学院百年史』(1974年刊)では,昭和20年「10月24日,GHQは日本政府に対し次のように11名の追放を命令した」(392頁。第9章 立教学院の再出発 学院の再建)。次いで引用されているGHQの指令文書「信教ノ自由侵害ノ件」は,以後に始まる適格審査の根拠を直截に記している。
 だが,立教大学史のこの部分の記述の仕方の始まりは,「思いもかけずGHQから圧力が加えられた」(391頁)と,その後の一連の出来事は不本意であったことを明かにしている(小見出し「教職追放と立教学院」391〜393頁)。不服請求が認められた結果,『記録』では最終的に不適格者は1名となっている。


◆同志社大学の事例

 同じくミッション系ではあっても,新島襄により建学された同志社大学の場合はどうだったか。立教大学に端を発したミッション系への優先調査によって,同志社も対象に入り,その結果,CIEは3名を追放処分にしていた(『同志社百年史 通史編2』1291頁。1979年刊)。
 それに先立つ自主審査では「不適格と判定されたものは皆無であった(大塚節治『回顧七十七年』)」(同頁)にもかかわらず。追放については,審査作業の始まる前の出来事のためか,以上のように6行で触れるに止まっている。『記録』では未提出で空欄になっているのは,拓殖大学と同様である。


◆明治学院大学の事例

 明治学院大学では,3名の理事と中学校教員3名が不適格の判定を受けたと,年史で記されている(『明治学院百年史』425頁。第7章 戦後の明治学院。昭和52年刊)。分量としては2頁弱でしかない。『記録』は大学だけのために,1名もいないことになっている。


 3節 仏教・神道系等の場合

◆龍谷大学の事例

 仏教系大学の場合はどうか。不適格者を最も多く10名を出した龍谷大学の事例を見みよう。「『龍谷大学三百五十年史』通史編 上巻」(平成12年刊)では,「第4章 単科大学時代」の「適格審査委員会の成立とその活動」(829〜862頁),さらに「旧制大学の再編と学内の民主化」(862〜864頁)で,大凡の経緯を記述している。
 その分量は,これまで目を通した大学史では最も多く,35頁である。それは,それだけ龍谷大学での当該分野は,深刻な傷を負っていたのが想像される。さらに,現在に至るも尾を引いている様を窺える。
 ここでの大学内の紛糾が拗れたのは,キリスト教や仏教を問わずミッション系の大学に見られるのと同様に,上部団体である教団の存在とその関係から来るギクシャクである。龍谷の場合は本山に西本願寺があり,大学の教学も経営も教団と一体になっての展開であったからであろう。それについて若干は前述した(2章,6節)。
 戦時での国策協力に対しては,「天皇制と侵略戦争とを支え,戦争協力に向けての積極的な教学,翼賛体制を敷いていた(赤松徹真『戦時下の西本願寺教団』)」の1節を,半世紀を経てもいまだにそのままに引用している。
 敗戦直後の認識を引きずっていることに全くの違和感のないのが良く分かる運びではないか。トラウマになっているのであろう。そこから,詳細に占領中での内紛の経過を,実に詳細に記述している。関係団体により配布されたそれぞれの文書名を記しているところは,出来る限り客観性を持たせようと努めているのがわかるものの,立場は前出のように自ずから明らかである。
 それは,一例を挙げれば,「『親鸞教徒としての学園建設を目的』として(中略)結成された『龍谷学園守護同志会』(略)が挙げられる。この団体は同年(昭和24年。筆者注)種々の暴力事件を惹起し解散に追い込まれた『応援団』が母胎にあるもので,レッド・パージを支持することを表明し,適格審査についての批判を展開した」(同850〜851頁)。
 このような紹介をする一方で,「逆に適格審査を支持する団体もあった。たとえば社会科学研究会は(略)支持を表明」(851頁)とある。それは関係者がまだ生きているからであろう。生きていて,立場が180度違っていることを記述者が知っているからである。


◆大谷大学の事例

 同じく真宗系ではあっても大谷大学の場合はどうか。『大谷大学百年史〈通史編〉』(2001(平成13)年刊)によれば,適格審査についての記述は,一切がない。あるのは,「連合国総司令部への報告を何度も求められたり,進駐軍文化部に学校事情聴取を受けたり」と,大学の置かれていた不快指数の高い環境をさりげなく記しているだけである(442頁)。『記録』は,前述したように5名の不適格を記しているにもかかわらず。


◆高野山大学の事例

 高野山大学の事例はどうか。『高野山大学百年史』(昭和61年刊)では,1人の教授だけが不適格者と認定されたが,昭和26年10月3日付で解除された,と記されている(206頁。第1編。第8章,第2節 適格審査)。その扱いは5頁で,大学の規模からすると丁寧と言える(202〜206頁)。


◆駒澤大学の事例

 駒澤大学は,「本学では,教職員適格審査委員会を発足し,全ての教職員の審査を実施した。本学は2・3人の教員が不適格者と判定されたものの,まもなく解除された(『駒澤大学百二十年史』26頁。平成15年刊)。わずか2行である。人名は,もちろん無い。


◆東洋大学の事例

 東洋大学の場合は,『記録』には3名が不適格者にされているが,学長の事例が大学史では記されているに過ぎない(『東洋大学百年史 通史編』。1993年刊。小見出し「橋本増吉の経歴」1315 1316頁)。学生の新聞への投書から追放騒ぎが始まり,追放辞任を余儀なくされた学長橋本増吉は,占領が終わる直前に解除されて,慶応義塾大学に採用されて教壇に立っている(同書1316頁)。


◆国学院大学の事例

 教職追放よりも学校そのものの存続が問われていたのは,国学院大学であった。『國學院大学八十五年史』(昭和45年刊)では,「第2章 財団法人國學院大学の設立」のうち,「2 教職員適格審査會の設置」(751〜753頁)で,9名が事前に辞職,佐々木学長は教職不適格で公職追放にもなったと記している(小見出し「教職員適格審査」752頁)。
 しかし,その分量は,前段の半頁弱の「聯合軍の圧迫」があるものの,実質1頁にも満たない。さらに,「教職員の神道・國學に関する著作にも及び,多数の書物が没収処分の厄に遭った」(旧字。同頁)と,言論弾圧の実態も記されている。
 『國學院大学百年史(下巻)』(平成6年刊)では,小見出しで,「神道学部卒業生教職追放」(1026頁)が加わり,次いで「教職員適格審査」(同〜1027頁)となっている。おおむね,八十五年史と同趣旨であるが,GHQ下請け文部省の示達に対して,「本大学に於いても已むを得ず(略)」(1027頁)と,同じ文章である。
 『記録』では,未提出で空欄となっている。


◆神宮皇學館の事例

 同類の神宮皇学館はGHQの命令で廃止されていた。文部省も全く同情していないのは,先に引用した東北大学の石橋教授が文部省相良課長と面談した際の記録にもある。同課長は,追放対象として「極端な国家主義教育を施したと目さるる学校の出身たることも該当する。例えば神宮皇學館国学院大学出身たることなど恐らく問題とされよう」(前掲211頁)。
 その母体の存続はありえなかった。にもかかわらず国学院大学が残った背景に何があったのか,真相は明らかになっていない。


 4節 国策協力型の大学の場合

 戦時下で,すべての大学が国策協力をしていたのは当然のことである。抵抗者を占領下になって自称した大学人はいたらしいが,実際にはあり得なかったのが事実と思われる。そうした中で,GHQの諸指令から見ての,国策協力の顕著であった大学と見られやすかった大学の歴史記述を検分してみる。


◆立命館大学の事例

 戦前と戦後ではその旗色を逆転させた立命館大学の場合は,その記述の仕方も,ドラマチックである。「まさに電光石火の機敏な動きによって,いち早く戦後の末川的『民主立命』への見事な転換の主役を成し遂げた,後のA級戦犯容疑者石原廣一郎」(『立命館百年史 通史一』786頁。1999年刊)という記述に露呈されている。
 石原は拓殖大学の評議員もしていたことがある,マレー半島を中心に東南アジア進出を重視し,実際に事業展開をした南進論者で,国士型の異色な事業家であった。その事業は現在も1部上場企業として健在である。公害企業としての悪名も最近晒した。
 「末川的『民主立命』」という表現に見られるように,大学史の記述も,「ところが日本政府の戦争に対する責任の自覚は極めて薄かった」(同788頁)し,「明らかに戦争責任の主体的な自覚の欠如をさらすことになった」(同上)等である。本稿の言いまわしを援用すれば,その視点はGHQ史観に躊躇なく「同化」している(7章/3節)。
 学則の変更,人事の入れ替えなどは記してあるものの,不適格者がどういう審査過程で,さらに幾名あったかについては一切触れていない(同上787〜797頁。第5節 中川総長の逝去と敗戦。3 敗戦と学園)。年史の記述から,異常事態での石原による専行に見られる行動力には目を見張るものがある。『記録』では,6名が不適格になっている。
 しかし,『通史二』(2006年刊)になると,詳細な記録が紹介されている。実名と理由を記した最初の追放該当者5名の教授,後に免職にされた3名。そこで8名になる(112〜113頁)。しかし,末川博学長が指導力を発揮した「学園ととった処置は問題なしとしない」(114頁)と,『通史一』の際の記し方に多少とも距離を置いた印象が残る。


◆亜細亜大学の事例

 同傾向の学風であった亜細亜大学(興亜専門学校)と国士館の場合を同じく見てみよう。『亜細亜学園四十年史』(昭和58年刊)には,専門学校であったためとも思えないが,当該分野は一切記されていない。


◆国士舘大学の事例

 国士館大学の場合は,『国士館 80年の歩み』(平成9年刊)に,占領下での足跡を記してあるものの(第4章 国士館の復興,第1節 戦後の復興,1 校名の変更,第2節 旧制度から新制度へ,1 新学制への転換),適格審査については館長柴田徳次郎が「公職から追放された」(88頁)とあるだけである。国士館の占領中の存廃を巡る経緯については,要旨をGHQへの提出文書から後に触れる。


3章 「占領と大学史」記録は再吟味が必要

 1節 「占領と大学史」には180度違う史観が横行している

 とりあえず検分できる範囲の大学史を通覧した結果が上記である。冒頭に記したように,まだこの占領という7年は,日本の大学史編纂の記述者だけでなく編者や刊行者にとっても,未消化な分野であることが判明したであろう。
 こうした現在の歴史認識の状態は,渦中にある現代史に対して,よくも悪くも,まだ距離感の取れない状態を示している。それは謙虚さを示している,という見方も成り立つ。その半面では,適格審査を肯定する側,否定する側に関わり無く,知的な営為の限界を示している,と後世から率直な批判が生じるかもしれない。
 それは,まだ歴史になっていないからと言えるかも知れない。あるいは,認識における将来の可能性を示している,という見地も有り得る。だが,認識の可能性を暗示する謙虚さであるとしたら,第1次資料を豊富に収録すべきであるが,そうした努力は概してまだ充分に窺うことができない。繰り返すように,前掲の引用した東北大学の資料は重要な事例であろう。
 ともあれ,「占領と大学史」という分野について,180度違う視座なり史観が横行している状態は,あまり健康ではない。いくら認識に将来の可能性があると,善意から眺めても,である。
 西側の先進社会での大学には,学の自由があり,そこから来るボーダーレスが日常化している。だからと言って,そこには自ずからなる常識はある。そこで無原則な国際性が当然としたら,判断の準拠がないことになる。準拠枠が硬直していないで,許容力のかなりある,ゆるやかものであったとしても,やはりそれなりの基準はある,と考えたい。


 2節 占領という史実の受け止め方に見られる認識力の劣化

 では,敗戦後の日本における当該分野はどう理解したらいいのか。一時の占領ではなく,7年に及ぶ占領である。たとえ間接統治であっても,そこに歪曲を歪曲ともしないある種の堕落を生む。ここでのある種とは認識力の劣化という意味である。そこには一定の尺度があり,許容される範囲と許容されなかった範囲があったはずである。
 180度の視座の違いが生まれてしまったのはなぜか。許容されなかった範囲の確認を,主権回復後にあいまいにさせてきたのが有力な一因ではないか。相変わらず米日同棲と日本側は思いこんで,「敗北を抱きしめて」寝続けたのか,使命感をもって惚けたままにしてしまったところから来た錯覚であろう。占領中では,許容されなかった範囲に抵触すれば,ペナルティが課せられた。その一つが,教職追放であり除去であった。
 つまりは占領下における「学の自由」とは,バーンズ米国務長官が日本政府に通告したように,政府が一定の「制限の下」(be subject to) におかれていたのと同様であった。この常識的な確認が求められている。こうした常識が共有されていないから,占領下での大学史を記述するに際して,180度も違う見地が横行することになる。一つひとつ例証を挙げないが,この「一部」で引用した大学史文献でも,大半がそうである。官学私学を問わないで,多いような気がする。私学では日本大学,慶応大学,官学では京都大学,東北大学はそれなりに見識を示しているように感じられた。
 認識力の劣化からの知的な退廃がもたらす弊害は大きい。もっとも原資料がすでに処分されているとしたら,実証的に解明もできないことになる。その制約は,結局のところ,後々まで歴史認識で不明を余儀なくされることになる。



(注)

1.副題「――GHQ・SCAP文書による研究」明星大学出版部,平成6年
2.文部省編『教職員の適格審査に関する記録』。『記録』は,当該制度に関する文部省の自己総括の文書である。対日講和条約が発効して主権が回復した昭和27(1952)年4月28日に,占領中の業務に区切りがつけられたのを受けて,まとめられた。同年9月18日付で文部省大臣官房人事課長岡田孝平の名前により,国公私立大学長宛に送付された。A5判のガリ版刷りで,本文は111頁もある。


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