3 近現代日本における教育制度改変の三つの節目
(1)西欧衝撃の吸収という近代教育
近現代日本の教育制度は三度目の節目を迎えている。節目の起きた原因に即応してその都度改変されたし,今後もされるであろう。
その最初は,1868年に起きた明治維新から始まる近代教育制度である。維新は,徳川体制では西欧衝撃に対応できないとする危機感から実現した。維新政府は国是を「五箇条の御誓文」として定めた。五番目の「知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ」の大方針に従って,初等教育は義務教育にした。
この制度は,当時の世界では最先端に位置していた。危機感を抱かせた対象である欧米諸国は,実際上でまだ義務教育を発足させていなかった。この一点だけで明治政府はいかに革命的な文部行政を実現したかがわかる。教育の在り方は1890(明治23)年に発布された「教育勅語」に示した。
◆近代高等教育の主力はお雇い外国人
高等教育は,お雇い外国人として欧米の専門家を招請した。彼らは,学生に母国語で直接に講義した。2,000人を越えた彼らの俸給は大臣並みかそれ以上であった。さらに,その経費は国家予算の一割以上を占めた年もあった。「知識ヲ世界ニ求メ」,欧米に追いつき追い越せをと西欧諸学の吸収に努めた。慶応義塾やミッション系の学校を除いて,最先端の学術情報を移入する担い手になっていたのは文部省と帝国大学である。
(2)占領による近代教育の否定と再検討の現在
当時の地球状況では非欧米世界が植民地化などで制圧下に置かれていたため,昭和に入り日本国家のキャッチアップ政策は,国際関係で様々な軋轢を生じた。やがて1941年12月の真珠湾攻撃に始まる戦争に進んだ。戦局は我に利あらず,1945年8月に降伏をした。欧米連合国は,日本の軍国主義が戦争への内発理由だと断定した。占領軍の主力米国は,非軍国主義「民主化」教育の制度変革を推進した。教育基本法の制定はその法的な表現である。
◆教育三法は高等教育機関に波及する
教育基本法の改訂に基づいた「学校教育法等の一部を改正する法律案」を含む教育三法は,小中学校だけを問題視しているのではない。高等教育機関の近未来の在り方の策定にも波及している。同時に,経済のボーダーレス化によるグローバル・スタンダードの急速な進展という変化に,現在の学校教育が対応しきれていないという危機感からの制度改革の意欲もある。
その萌芽は中曽根内閣時代の「臨時教育審議会」の4次の提言にあった。提言の骨子は情報化と生涯学習に集約されていた。森内閣の「教育改革国民会議」の報告も,その文脈を継いでいる。
(3)共通要因としての外圧による制度改変
近現代史での三つの節目には共通要因がある。いずれも外圧に対応する改革である。その内容はともかく,変革の進み方は「外圧への適応過程」になる。そして,進め方は専ら行政指導であった。適応の必要性をこの四半世紀弱では,その妥当性はともかくとして,「国際化」という独特の表現で示唆してきた。
国際比較で考えていくと,日本は移入した文物だけでなく外圧に対しても,これまで稀に見る適応能力を発揮してきたといえるだろう。いや,その実態はなりふりかまわないものだったという見方もある。だからこそ,資源といえば「人」しかない中で,世界第2位の経済力を有している。
だが,教育基本法の改訂を求めた側の共有認識では,このまま推移すれば,国家存続の可否も含めて,「文化としての日本」は融解してしまうとの深い危機感なり危惧なりがある。勿論,それには始原的な意味での食を確保する経済活動も含めている。
◆人類史も未曾有な段階に突入
多くの国民は,このまま推移すると前途に難しい段階が待ち受けていることを予感している。内外から生じる多くの問題は想像以上に強大である。最大のものはIT革命から発した情報爆発とグローバリゼーションであろう。
深層には,S・ハンチントンが認識した近代世界の覇者・欧米世界(the West)に対抗し得る存在になりつつある非欧米世界(the Rest)の台頭がある。明らかに人類史は,これまで経験しなかった段階に突入しつつある。
この要因とトレンドの厄介なのは,主権国家としての自主判断ができる範囲の著しい減少である。地球環境問題はその具体例である。他力により巻き込まれていく傾向が益々強まっている。その顕著な事例は政治と経済の関係に露にされている。両者はともすると背反関係になりやすい力学を有しているところから,主権とは何かが不要領になってきている。
個人の生活では,従来の規範が拘束性を失い,規範意識が希薄になった。といって,新たなものの実感はない。規範の裏づけになる国家は,政府の年金の不祥事に見られるように,信頼性が低下する一方である。
◆課題としての「国際化」で見落とされている要因
日本列島への海外からの文明衝撃は三期に分けて考えることができる。その一は,古代の隋唐からの衝撃である。日本はその衝撃を吸収して国家の体をなすことができた。その二は,近代の西欧衝撃である。近代国家の創設に成功した。現在は,三期に相当すると見る。三期の特徴は,それ以前と違い,特定地域だけではない,様々な地域との交流が求められている。
グローバルな現象の理解や解釈は,S・ハンチントンのthe Westとthe Restで割り切れるほど単純ではない。特定勢力の一存では済まなく,重層的複合的に展開しているからである。例えば,これまで重視されてこなかったイスラーム世界やロシアそしてアフリカを無視して,世界認識は十全にならない。
◆日本のサバイバルを可能にする高等教育
最も重視することの求められている課題は何か。私見によれば,どうすれば日本が独自の見識に基づく情報発信の可能な知的社会を構築していくことができるかである。そうした政策意識から中曽根内閣時代から現在行われている三度の取り組みを見ると,物足りない。
近現代を通しての三度目になる今回の転機というか危機は,どういう構想内容で切り抜けられるのか。相互依存が益々進むグローバルな時代の21世紀において,過去二度にわたる外圧の適応過程の実態と文脈を批判的に検討して,文化としての日本の生き残りを可能にする高等教育の在り方を考えてみたい。
4 拓殖大学百年史編纂の取り組み
(1)KKJセミナーでの報告
昨(2006)年8月4日に開催されたKKJセミナー「日本の大学の再構築〜近代史認識を通して」(高等教育原点シリーズ14)は,拓殖大学百年史編纂の取り組みの報告を通して,主題を二つの側面から明らかにした。
その一は,編纂作業の仕組みである。人事面では,学識経験者の顧問を委嘱し,作業に示唆を受けることによって編纂事業の客観性,つまり学外にも通用し得る成果品の作成を意図した。
拓殖大学出身者である前理事長(当時)の他は,同大学の非常勤理事をされていた元文部次官の木田宏(故人)氏,依頼理由は文部官僚では国際派の重鎮との評からであった。他は東京大学百年史編纂の最後の委員長をされた元教育学部長の寺ア昌男氏(就任当時は立教大学教授),同じく副委員長をされた伊藤隆氏(就任当時は政策研究大学院大学教授)である。
1997年5月に発足した編纂室の室長は,最初は常務理事,次いで理事長が兼任し,筆者は設立当初から主幹に任じられ,2005年3月まで従事した。
◆拙著『近代日本の大学人に見る世界認識』から
その二は,大学の近代史半世紀弱の歩みの特徴を,経営と教学に関わった人物の経綸から浮かび上がるようにした拙著(自由社刊。平成17年)の概要報告である(当日のセミナー講義項目はこちらを参照のこと)。
西欧衝撃という外圧に対峙した後藤新平や新渡戸稲造,永田秀次郎,大蔵公望など近代大学人の諸相である。だが,これは大学自体に即してのもので,大学の置かれた行政環境の解明を主目的にしてはいない。
大学史の軌跡を明らかにするには,大学自体だけを追っても明らかにならない。同時代の教育行政はどのような内容で,それとの関わりがどうなっているかの面も追究しないと,その全体像が浮かんでこないからである。だが,自分の関わった期間では『資料集』に傾注されており,個々の主題はともかく,資料に基づく通史的な解明は全体に及ぶに至らなかった。
(2)事例研究としての昭和時代における文部省の行政指導
第2次大戦を挟んでの昭和時代23年間の経験は,現在に至る教育行政の大きな節目を意味している。幸いに,拓殖大学に文部省との往復文書集が残っていた。関係文書の発見を聞いた際には天恵と思ったものである。貴重な原資料が処理されずに残っていたのは,それほど例がないのではないか。あるいは,他大学では資料はあっても,内容によっては不適切なものと判断されたために,公表されていないのか。
◆当該分野の実証研究である拙稿二篇
占領中の軍国主義者追放の「教職員適格審査」については,「占領下における拓殖大学の適応過程・試論――教職“追放”(適格審査)の経緯から」上下(『拓殖大学百年史研究』13号。平成15年12月。14号。平成16年3月)。
昭和戦前期の文部省による思想管理については,「(資料と解説)文部省による思想管理の実態――昭和五年から昭和十六年にかけての拓殖大学から」上下(同上誌。16号。平成17年3月。17号。同年12月)。
両稿の主題は,共に資料に基づく文部省による行政指導としての思想管理の実態解明である。その解明を通してテクニカルな側面での同質性に見られる習性を浮上させる試みをした。
5 昭和時代における文部行政のもつ健気な胡散臭さ
歴史は身近になればなるだけ資料が豊富になる。半面では,身近であることによる制約も生じる。それは関係者が生きているか,亡くなっていても関係者が存命なところから,資料の紹介と記述に抑制が加わる場合があるからだ。本来は,それを突き破るのが資料なのである。そこで,資料をして語らせるのが最も適切な方法である。そこから,資料そのものを隠蔽して記述を操作する可能性が生じることも否定できない。
占領下というめったにない外圧要因への適応には,日本社会の法治における権限行使の特徴と生態が現れる。そこには弱点と看做される習性が浮上する。習性を明らかにするところに,国際競争力のソフト面も蓄積される。ここをあいまいにし隠蔽している限り,第二の節目から生まれた戦後民主主義の胡散臭さは明快にならない。
ここでの問題意識から見ると,文部省の正史では,その実態が明らかにされていないので,総括もされていない。こうした文部官僚の営々と築き上げた習性が今後も生き続けるのに応じて,新たな教育像を構築する可能性は減退する。
◆歴史認識の活性化を要する高等教育
事態の推移を成り行きとしてあいまいにする習性は,日本人の歴史認識の淡白さだという見方も一概に否定できない。現在の政治性を最優先して,最小資料による極大創作の歴史認識を尊ぶ近隣地域の文化とは異質である。思い込みの正統性にこだわる史観と較べれば,淡白さは必ずしも悪い意味では終らない。本来の意味での歴史学が浸透しやすい柔軟な感性を保有していると言えるか。
だからこそ,意図する意図しないに関係なく,当該分野についての「情報の隠蔽」をそのままにしておくのは好ましくない。なぜなら,このような放置は,グローバルな激動に充分に伍して行ける高等教育機関を再構築していく際の制約環境になるからだ。見方によっての利点は,次の展開にとっては不利な点にもなる。
おわりに 21世紀の日本が生き残るための高等教育
この二つの期間における国家エリートである文部官僚の姿態からは,西欧に発する産業革命以後の近代文明の受容なり適応なりの過程に生じた負の現象が浮上する。それを,あの時代だけの姿態と切り捨てられない。現在の中央から現場に向けた教育行政に見られる過剰介入と無縁ではないからである。
作業仮説として「23年史観」と名づけたこの時代に共通する思考形態を見極める必要がある。「軍国主義時代」は日本文化の絶対肯定に基づく宣揚であり,占領中の教育民主化では一転して絶対否定である。いずれの癖も思考形態としては同質である。そして無理がある。無理を無理としないで強弁するから,情報の「隠蔽や操作」をする羽目になった。いずれも,元来の日本人の柔軟な思考形態とは異質であった。
そこで,前掲の二つの期間における,行政権限を行使する側と受けざるを得ない側の双方の生態に現れる弱点を鮮明にするところから,弱点を乗り越える見識の内容も明らかにできる。その認識による制度改革に基づいて育成される人材こそ,グローバル・スタンダードと称する中に潜む理不尽な動きにも堂々と対峙できるだろう。それこそ,これからの時代に最も必要とされる高等教育の在り方である。
その輪郭の骨子は最後に要点だけでも明らかにしたい。