2007年7月20日

(前奏)昭和史における文部行政への政策評価<1>
〜見落とされている習性を検証する〜

池田 憲彦
元・拓殖大学日本文化研究所教授
同研究所附属近現代研究センター長
高等教育情報センター(KKJ)客員



 はじめに

 日本の教育面での国際競争力は落ちているという評価が,主に経済界からある。そうした判断が妥当かどうかを見極めるのはそれほど簡単ではない。見方によって評価は変わってくるからだ。さらに,国際競争力とは何を意味しているかも問題である。教育に従事している者たちにとっては,経済効率からだけで教育の成果の可否を判断されるのは,あまり愉快ではない。教育は実用を目的とする面と,実用では測り知れない面の二面があるからだ。厄介なことは,両面は無縁ではなく,表裏の関係にもある。


◆教育再生会議設置に見る文科省批判

 安倍晋三首相は教育勅語でなく教育基本法で育った初めての総理・総裁世代である。その彼により,文部科学省(以下,文科省と略称)とは関係のない官邸主導で教育再生会議が発足した。就任直後の同会議の発足は,同首相の当該分野への関心の深さと,既存の行政への信頼感のないことが一過性のものではなく,年来のものであったことを覗わせている。
 中曽根首相時代の臨時教育審議会,森首相時代の教育改革国民会議に次いで,文科省の当事者能力への懐疑が印象付けられた。
 その当面の結果は,2006年12月における教育基本法の改訂公布になった。制定以後60年経っての初めての改訂である。半世紀余の日本社会の激変を考えると,この法律が果たした功罪は計りしれない。この一点で今回の会議は,中曽根や森の試みとは一線を画しているのは確かである。


◆同会議が重視する21世紀という未来の背後

 会議は,その設置理由を「21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し,教育の再生を図っていくため,教育の基本にさかのぼった改革を推進する必要がある」と,21世紀を前面に出している。未来から現状を考えようというわけである。高等教育では国際化を前提にした大学院の強化も議論されており,青写真はきれいなものになる(第二次報告,Vを参照)。
 だが,問題がある。青写真の実現は,現在に至った経緯を明らかにしないでは現実のものにならない。問題には二つの側面がある。一つは,過去の積み重ねによる時間的な要因である。他方は現在喧伝されている問題である。後者はいわば空間的な要因とでもいえるか。


◆制度改変に当たり見落とされている「情報の隠蔽」?

 こでは時間的な要因から現在に至った経緯を考えたい。その実証的な総括はどうなっているのか。委員の顔ぶれを見ると,背景の基本的な文脈を知っている者がいるように思えない。しかし,教育現場の現在は,その経緯もあって出来上がっている。現在のところ,政策面では「ゆとり教育」が専ら批判されている。教育現場では,弱体化した日教組は遠景に下がり,代わって教育委員会が俎上に挙げられている。
 乗り越える対象を設定する手法は,問題を浮上させて争点化するのに役立つ。だが,現在に至った背景には,関係者による多くの意図した「情報の隠蔽」がある。さらに,意図しない無視ないし軽視している史実が放置され重層化されている。あるいは問題意識が希薄なために気づいていない場合もあるだろう。そのうちの二つの事例を明らかにし,大方の参考に供したい。なぜ参考になるのか。ここで取上げる過去の諸相は現在にもしっかりと生きているからだ。


 1 昭和史で充分に明らかにされていない二つの過程

 すでに経験者の大半は死んでいる。現存している元気のいい方々は,現状をもたらした法制上の根拠である教育基本法を批判してきた。その批判も反映して,今回の改訂で字句上では多少とも改善されたのであろう。仏作って魂が入るのかどうかが,当面は教育再生会議の役割になっている模様である。
 行政上の諸施策における隠蔽や無視,軽視されているものは,現在の教育行政の根底に大きい作用をもたらしていた。そこを明らかにしないでは,解決策の構築も絵に描いた餅になる。そこで,本稿では,歴史認識としてこれまで問題視されてこなかった,文科省の前身である文部省による二つの行政指導の過程に露にされた習性を,残されている資料から明らかにしたいと思う。


◆「教職員適格審査」と思想管理

 その一は,1946(昭和21)年5月から始まった「教職員適格審査」の過程である。後世には,教育民主化のための不適格者の追放と伝わっている。占領中の日本の教育変革を推進したのは連合国軍総司令部(GHQ)民間教育情報局(CIE)である。CIEが立案し文部省が実行した。
 教育基本法制定と施行の裏付けにあった鞭である。高等教育機関におけるその実態の一面を,既刊の大学史ではどのように扱われているかを明らかにする。次いで,筆者の関与した大学での事例から明らかにする。
 その二は,1930(昭和5)年4月から日本が41(昭和16)年12月に対米戦争に入る前までの期間における思想面の教育行政である。現在の俗説というか通説では,学問の自由の幅が徐々に狭まり,やがて軍国主義の時代になったとされている。文部省は「思想管理」の強化に実際にどのように取り組んだかの過程を明らかにする。


◆二つの行政指導の受け止め方

 占領中という「その一」の時代は,通説では「その二」の軍国主義の時代を根本的に是正した期間とされている。だから,「その二」の過程で自由主義者などの批判を浴びて辞職を余儀なくされた教員は復職した。占領軍という他力による変革である。そして,これをカッコつきの「革命」と見るのが通例である。
 だが,歴史の経緯とはそのように分断して考えられるのか。それは観念の操作による錯覚ではないのかという疑問が,二つの期間を追究していく過程で湧き上がった。


 2 行政の過剰介入というテクニカルな共通面

◆教育勅語から教育基本法へ 転換はしたのか?

 ことの経緯を辿っていくと,占領以前と占領以後で,文部省による施策を遂行するテクニカルな面は同質であったと看做さざるを得ない。ここで明らかにされる行政指導という過剰介入は,民主的でも何でもない。それを実証的に明らかにしたい。この企画での問題の提起とは,それに尽きる。テクニカルな面で同質でも内容は変わったではないかとの異議も生じるであろう。その法制上の根拠が,教育勅語から教育基本法への転換である。


◆行政の過剰介入に見る知の閉塞

 教育行政という観点から見ると,1930(昭和5)年から1952(昭和27)年までの23年を一つに括る史観(歴史認識)が求められている。東京裁判と通称される占領中に設置された極東国際軍事裁判所での訴因期間は,満州事変(1931年)からポツダム宣言受諾までの15年であった。この15年戦争史観ではない作業仮説としての23年史観である。
 この期間に共通して見られる文部行政の過剰介入は,知の閉塞状況を日常にした最大要因であった。その後遺症からいまだに教育界は自由になっていない。


◆占領中の改変を推進した米国側の懐疑

 軍国主義教育とそれを否定したところに成立する民主化教育の推進が,テクニカルな面で同質であることに,米国側は気づいていなかったのか。還暦以前の人々には馴染みのないマーク・ゲインの『ニッポン日記』や,どうやらゲインの見方と同傾向であったマーロン・ブランドと京マチ子が主演したハリウッド映画「八月十五夜の茶屋」(The Teahouse of the August Moon. 1956)の文脈を見ると,明哲な人々は気づいていたようである。
 それは日米の越え難い「断層線」(S・ハンチントン『文明の衝突』の基軸概念)の存在を示しているものかどうか。近現代における他力に基づく変革に息づいていた習性をどのように受け止めるか,どう評価するかは,これからの高等教育の編成の仕方に関わってくると思われる。結論を急ぐ前に,事実の経緯がどのようなものであったかを明らかにしよう。


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